『うなーーー!』
黒の霞と消えたガンペルソルを背後に、たたっとステップを踏んで「かぐや」が拳を突き上げた。
「……よかった……」
ドア枠にしがみついて大きく溜め息を吐いた美夏子は、郁に支えられながら屋上に歩み出ていった。
遠くへ駆け抜けていた蛮殻も、のしのしと戻ってくる。
「ナデシコ! 身体は、大丈夫なの?」
今だ跳ね回っている「かぐや」に美夏子が気遣いの声をかける。
その時、「かぐや」の向こうからこちらに向かって歩いていた蛮殻が突如斜め上を見上げて喫驚に固まった。
その蛮殻の反応を見て美夏子と郁は瞬時に直感した。ガンペルソルの出現で失念していた、ここに来た本来の目的を思い出したのだ。
「だいぶ、完成しているようだな」
「「っ!? 」」
同時に上からかかった声に、美夏子と郁が慌てて振り向いた。
その、今まで美夏子らが潜んでいた屋上出入り口の屋根の上に、いつの間にか白衣を纏う長身の男、怜悧な双眸で一同を見下ろす宇目木の姿があったのだ。
「せ、先生!? 」
思わず美夏子が声をあげた時には、その姿は黒いノイズのような影を閃かせて消えてしまった。
「おもしろい。そんな形で原住生物を取り込むとはな」
次の瞬間には、その声は「かぐや」の眼前に現れていた。
『う?』
小首を傾げる「かぐや」の目の前には、逆さまに覗き込む宇目木の顔があった。
驚いて振り向いた美夏子と郁が見たものは、「かぐや」の頭上の空中になんの支えもなく立ち、お辞儀するかのように身体を深く曲げて「かぐや」の顔を覗き込む宇目木の姿だった。
「……な、せっ、う、浮いて……?」
生身で化け物のごとき異常を事も無げに成す宇目木に、美夏子も郁も口をぱくぱくさせることしかできない。
「俺と同じ境地に達しつつあるようだが、そんな半端な方法では我らの使命の達成には及ぶまい。 取り込むなら」
昏い声音で平坦にぼそぼそと分からないことを呟き続ける宇目木のその逆さまの顔が、身体が突如、どこからともなく噴き出した銀色の泥に包まれた。
「いっ!?」
美夏子がひきつった悲鳴をあげる。
『こんなふうに、完全に取り込まなくては』
身体の半身を、顔の左半分を銀の幕で覆った宇目木がくぐもった声で告げた。
ところが。
『……うなっ』
がし。と「かぐや」がその逆さまの宇目木の襟首を両手で掴んだ。
『うなーーーー!』
そしてそのままぐいぐいと引っ張り始める。
けれど、どういう訳か不安定な立ち位置と姿勢であるにも関わらず宇目木は小揺るぎもしない。
『うーなー!』
『……愚かな。 人の知性までは得られなかったのか?』
なおもぐいぐいと襟を引っ張る「かぐや」に、宇目木が冷たく吐き捨てた。
「せ、先生!」
美夏子の声に、銀の幕に覆われていない片目が向く。
「せ、先生のそれは……? 先生は、ペルソルだったんですか?」
『「ペルソル」、か。 話は聞かせてもらったが、なかなか面白いネーミングだ。 我ら自身を何と言うのか、こればかりはオレにも分からないが、それも悪くない』
『うなっ?』
あれほど力一杯掴んでいたはずの襟首があっさりと「かぐや」の手からすり抜け、虚空に立つ宇目木が上体を起こした。
『お前の命名に沿うならば。 オレは「ノーレッジペルソル」か』
ふっ、と「かぐや」の背後に降り立った宇目木が、機敏に振り向いた「かぐや」が裏拳を放つよりも速く身を沈めてその腕を捌き脇腹に肘を叩きつけた。
『っ!?』
為すすべなく床に激突する「かぐや」。
だが美夏子と郁が目を剥いたのにはもうひとつ理由があった。
「また、郁ちゃんと同じ技……!?」
「どうして……」
『オレは知っている。 この技術を持った同族から学んだからな』
肘を打ち込んだ体勢をゆっくりと戻しながら宇目木が言う。
『それから……』
何事か言いかけた宇目木が口を大きく開くと、轟! と凄まじい爆音が放たれ、宇目木の足下のコンクリートにヒビを入れるほどの衝撃が、起き上がりかけた「かぐや」を吹き飛ばした。
『なぅっ!?』
「ナデシコっ!?」
美夏子が悲鳴を上げる。
『そしてこの技も学んだ』
構わずに宇目木は片手を上げると、突きつけた銀の指先から爆音を上げて何かを撃ち出し、彼方に転がる「かぐや」をなおも打ち据えた。
「ちょっと!? 先生、どうして!?」
問わずとも確信する。
宇目木は、どういう訳かブドーペルソルがコピーした武術のみならず、スクリームペルソル、ガンペルソルの能力まで備えていたのだ。
だが、だとしてなぜ変身した撫子を攻撃するのか。
「やめてください先生! それは、ナデシコなんですよ!?」
『知っている。 我らの同族に選ばれた原住生物にして、素体』
素っ気なく告げた、半身を銀の泥に包まれた宇目木の顔が美夏子を眺め遣り、やおらこちらに足先を向けて歩き出した。
『我らはこの星に、自らの成長を促す"何か"を求めてやってきた。"何か"が何かは分からん』
すたすたと、学校の廊下と同じ調子で歩いてくる宇目木に対し、圧倒されて後退った美夏子の前に、郁と蛮殻が立ち塞がる。
『出会った原住生物の、行動を反射的に模することしかできぬ我らの、それはその本能に基づく動作だった。そのほとんどは、大した収穫がなかったようだが、このオレは違う』
己の胸に手を遣り、宇目木はなおも淡々と迫る。
『知りたかった。俺は"オレ"を知りたかった。初めて見た"オレ"にひどく興味を覚えた。同時に利害の一致を学んだオレは"俺"を取り込み、他の同族を遙かに凌ぐ知性を手に入れた』
半分覆われた宇目木の顔は、授業の時と同じ感情の読めない冷淡な無表情だったが、語る言葉の主観がなぜかころころ入れ替わり、聞く者に不安を覚えさせた。
『そうだ。お前の言う通り、我らは原住生物のあらゆる動作を模倣する。模倣して取り込み、自らのものとする。そして取り入れた知識を発展、応用させる知性を手に入れたオレは他の同族の知識を取り込み今や同族の中では最大の情報所持者となった!』
「やあああ!」
とうとう、間近まで迫った宇目木の威容と圧力に耐えられなくなった郁が気勢を上げて飛びかかった。
ところが郁の凄まじい速度の攻撃は宇目木の腕脚によってことごとく防がれ、逆に腕を絡められ逸らされた郁のがら空きの胴に宇目木の掌底が叩き込まれた。
「っっ!?」
『あとは美咲と同化した同族を取り込めば、より完全に近づき使命の完遂に足るだろう。あれほどの情報量ならば、さぞやオレの大きな成長が期待できる。 だか、まだ足りない。今は』
「おおおおお!」
岩塊のごとき巨大な拳を引き絞り蛮殻が襲いかかる。
真っ向から激突した拳はだが、宇目木の胸を覆う銀色の泥の表面で事も無げに受け止められた。
宇目木は小揺るぎもしない。
「ぬ!?」
『邪魔だ』
冷たく呟いた宇目木の振るった片腕に殴られ蛮殻の巨体が派手に吹き飛び転がった。
「蛮殻くん!?」
『美咲と同化した同族の成長には、あともう一押しの余地がある。それを引き出してから取り込む必要がある。その為には』
「ひゃ!?」
心得のある二人を排除した宇目木はなおも迫り、怯えて後退る美夏子に飛びかかるとその身を乱暴に抱え上げた。
「ひゃあああ!?」
『こいつを預かる』
『なーーーー!』
ようやく起きあがった「かぐや」がそれを見てどたばたと突進してきた。
ところが、突き出した宇目木の銀の指先から放たれたされたいくつもの弾丸が「かぐや」の全身を打ち据え、体勢を崩し転倒してしまう。
「ナデシコっ!?」
『明日、すばる埠頭の奥の倉庫に来い。貴様の成長を促進する』
『うなーーー!』
めげずに迅速に「かぐや」が跳ね起きるよりも早く美夏子を抱えた宇目木は後方に飛び退った。
『慌てるな。殺しはしない。 だが、必ず来ることだ』
『うーー、なーーーー!』
「かぐや」はなおも追って駆けるが、美夏子を抱えた宇目木はそれよりも速く後方へ跳ねてゆく。
『なー! あー! みー!』
喚きながら追いすがる「かぐや」の稚拙な呻き声の中にその時、明らかにこれまでとは違った言葉が混ざった。
『みーー! あーー! みあーー!』
その叫びが、意味のなかった声が、だんだんと形をとり始める。
『あーーー! みー、みかこーーー!』
とうとう、「かぐや」が初めて意味ある単語を叫んだ。
『みかこーー! かえして! みかこーー!』
「ナデシコっ!?」
異形の腕の中でもがく美夏子の目が驚きに見開かれた。
「ナデシコー!」
美夏子が銀色の腕の中から必死に片腕を抜き出し「かぐや」に向かって手を伸ばした。
それを掴もうと、追いすがる「かぐや」もその手を伸ばす。
『あーー! みかこーー! かえしてっ! 返して! 美夏子ーっ!」
やがて狂乱のまま叫ぶ「かぐや」の姿が絶叫の途中で突如、溶け崩れるようにして仔猫の姿になって足下に降り立ち、撫子の姿に戻ってしまった。
ところが撫子は自身の変身解除に気付いていないかのようにそのまま走り続ける。
「ナデシコっ!?」
美夏子が喫驚に叫んだ。
「かぐや」の変身解除の意志の主導がどちらにあるのか未だに謎だったが、なにもいま変身を解くことはないではないか。
『ふん。融合が不完全だから、そうなる』
吐き捨てた宇目木がもがく美夏子を抱えたまま後方に跳躍し、屋上外縁を囲むフェンスの上に飛び乗った。
その宇目木の目は、必死に走ってくる撫子ではなく、その向こうで座り込んであらぬ方を見回している仔猫に向いていた。
『慌てなくとも、お膳立てはしてある。必ず、来い』
「待って!」
宇目木が屋上の外、虚空に跳躍するのと、撫子がフェンスに激突するのはほぼ同時だった。
そこでようやく撫子は、フェンスを掴む己の手が「かぐや」のそれではない生身の自身の手であることに気付いた。
「かぐや」の身体能力であれば、フェンスを越えて宇目木を追いかけることもできる。
撫子はかぐやを振り向いた。
「かぐや! お願い!」
ところが、かぐやは先ほど着地した地点で座り込み、撫子の声に反応しない。
「かぐや!? どうして!?」
言っている間にも美夏子を抱えた宇目木は向かいのビルの屋上に降り立ち、なおも跳び退ってゆく。
「待って!? 美夏子!? 美夏子ーー!」
遠く離れてゆく美夏子の顔も、撫子の名を叫んだように見えた。
だがその距離は無情に遠ざかり、美夏子を抱える異形の宇目木の姿は向かいのビルの屋上を越えてその向こうへと消えていった。
「美夏子ぉ……ぅっ……みかこぉ……」
「美咲さん!」
フェンスの根本に泣き崩れた撫子の元に、脇腹を押さえた郁が小走りに駆け寄ってきた。
「あかん! 下から誰か来よるで!」
こちらは大した痛痒もなく駆け寄ってきた蛮殻が、屋上出入り口を指した。
これだけの大騒ぎをしたのだ。衝撃の展開に失念していたが、これでも遅すぎる反応だったろう。
「とりあえず退散や! あそこから降りるぞ」
言って蛮殻が指さしたのは、外壁沿いに設置された非常階段の入り口だった。
そのドアが、ひしゃげて大きく開いている。ガンペルソルとの戦闘中に、流れ弾で引き裂かれた痕だ。
「行きましょう、美咲さん。ここで泣いていても始まりません」
「……」
聞こえてはいるのだろうが、嗚咽しうなだれた撫子には今、立ち上がる力がないようだった。
「……失礼」
見かねた郁が撫子の片腕を取り、自分の肩にまわすと無理矢理撫子を立ち上がらせた。
だが、郁が補助をしても撫子の足元はおぼつかない。
しかも、ダメージを負った今の郁ではいつものように上手く身体を動かすことが困難だった。
「貸せ。のたくらしてしょっぴかれとるヒマぁないやろ」
横に回り込んだ蛮殻が軽々と撫子を横抱きに抱え上げた。
そのまま郁と共に非常階段に飛び込み駆け降りていった。
そこはまるで、旅館の一室のようだった。
広大な畳敷きの部屋は一方を襖、一方が障子に覆われており、反対の壁の窓には見事な装飾の簾がかけられている。
障子の向こうは縁側になっており、障子の下段の窓枠からは綺麗に均された砂利と大小の岩が配置された石庭が見えた。
もっとも、悲嘆に暮れている今の撫子にとっては、目に映る以上の意味はない。
「…………」
宇目木の変貌、美夏子の拉致、そして突如変身の意志を受け付けなくなったかぐや。
宇目木が何を考えているのかはさっぱり分からない。
一番の衝撃は、美夏子が攫われた事。攫われたことで初めて自覚した撫子の中での美夏子の大きさ。そして、かぐやとの力を持ちながら大事な人を守れなかった事。
「…………」
かぐやは、部屋のすみでちんまりと座っている。
相変わらず、その意図は読めない。
「……どうして……」
うずめていた両腕から僅かに顔を上げ、その仔猫を見遣った。
あの時、変身が解けなければ、宇目木を追うことができた。
それがどうして、あの土壇場で解除してしまったのか。
当然、自身は変身の続行・解除などという思考からして及ばない状態だったし、変身中の曖昧な記憶の中にも異常に繋がる心当たりはない。
「どうして、美夏子を見捨てたの……?」
八つ当たりだとは思う。
けれど、自身に心当たりがなければ、あとはかぐやしかいない。
美夏子に抱かれることを拒まなかったかぐやの中の、警戒の基準とはいったい何だったのか。
「……かぐや。 変身しよ」
問いかけてみるも、かぐやはなぜか無視したままだった。
「……どうして……」
三度、同じ言葉を繰り返す。
こんな時、美夏子がいてくれれば、適切な考察をしてくれただろう。
真偽の確証はともかく、それでこれまでは何の問題もなく切り抜けてこれた。
その美夏子がいなくては、これからこの不思議な仔猫とどう戦っていけばいいのか。
どうやって美夏子を助けに行けばいいのか。
「入りますよ」
格子に張られた白紙に映る影がそう告げ、すらっとその障子を開いて郁が入ってきた。
その郁は淡いブルーのジャージに着替えており、ウィッグを着けずにベリーショートの頭を晒していた。
障子を閉めてうずくまる撫子の元まで歩いてくると、隣に座り抱えていた衣類の一式──色からして同じジャージを撫子の前に差し出した。
「とりあえず、これに着替えてください。ボクのなんで、ちょっとおっきいと思いますけど」
「…………」
答えるべき言葉も思い付かない。
撫子は、弱々しく頭を振った。
あの後、病院から脱出した三人は、郁の導きで郁の家にやって来た。
ショックを受けた撫子を保護すると言って、郁が自宅に招き入れたのだ。
ここは、その郁の自宅の客室のひとつだった。
自失した撫子は連れられる中もまるで知覚していなかったが、郁の自宅、鼓獅子家は広大な日本家屋のお屋敷だった。
内部に広い道場を擁し、池のある庭園を望む縁側があり、敷地の周囲を瓦敷きの塀で囲っている。
その趣は完全に和のものであり、美夏子がいれば侍か忍者の出現を期待したであろう。
──美夏子が、いれば──
「ボクの家族には、泊まり込みで勉強会をすると言ってあります。明日は休日ですしね。 美咲さんも、ご家族に連絡してください」
言って郁が差し出してくる、携帯電話が入っている撫子の鞄にも、撫子は顔を上げることができなかった。
やがて、そっと退出した郁が、別の何かを抱えて部屋に戻ってきた。
うずくまる撫子の横に座った郁が置いたのは、木製の救急箱だった。
「とりあえず、服、脱いじゃってくれますか。 屋上でのあの戦闘で、無傷で済んでいるはずがないですから、手当しときましょう」
救急箱の蓋を開き、消毒液やら湿布やらをてきぱきと取り出しながら郁が言うが、撫子は反応しなかった。
「……」
郁も手を止め、しばし無音の時間が過ぎる。
「すみませんが、場合によって命にも関わるので勝手にやらせてもらいますね」
「……っ!?」
突然掴みかかってきた郁に、撫子は反射的に抵抗する。
だが、武道の達人である郁に対し撫子の振り回す手はことごとく払い除けられ、てきぱきと制服の上着のボタンが外されてゆく。
「っっ!?」
上着の前を肩口まで開かれ、腕から袖を抜こうと引き下げる動作でバランスを崩した撫子は仰向けに転倒した。
それでも郁の追求の手は止まらない。
「……ゃ、ぁっ!?」
とうとう撫子は癇癪を起こして抗議の呻きをあげた。
「いつまで聞き分けのないことをやっているんですかっ!?」
撫子の抵抗に突如、郁が激発した。
「そうやって明日の晩まで丸まっているつもりですか! そうしたら、美夏子さんはどうなるんですっ!」
馬乗りになる姿勢で覆い被さっている郁の、厳しい目つきが撫子を見下ろしていた。
「助けに行くんです! ボクの技では歯が立たない、蛮殻さんの腕力でも太刀打ちできない! あなたが助けに行くしか方法がないんです!」
いつも穏やかにニコニコしていた郁が初めて見せる怒りの表情に、喫驚した撫子は圧倒されていた。
「その為に、できる事をするんです! 拗ねている暇なんかないのを分かっているでしょう?」
「…………だ」
驚いた所に勢いで抑えられまくし立てられていたが、撫子の中から怖気に代わって熱い怒りが湧き出してきた。
「だからって! もう変身もできない、かぐやも応えてくれない、なんか宇目木先生はいっぱい能力を持ってて、まだ仲間がいるみたいなことを言ってて、もうどうしようもないもの!」
仰向けのまま怒鳴り返す。
「美夏子がいてくれなきゃ、私、なにもできない! どうすればいいのか、わからないよぉ」
視界が滲む。いつの間にか溢れた涙で郁の厳しい顔が歪む。
「きっと私が弱いからいけないんだ! ずっと一人だったから、どうすればいいのかぜんぜん分かんなくて! そのせいで心も弱いから、かぐやにも愛想を尽かされて、きっと美夏子にも嫌われる!」
きつく閉じたまぶたの端から涙がこぼれ落ちる。
それでもなお外界を閉ざしたくて、両腕で顔を覆った。
「ぅぁ……ゃだ……嫌だぁ! もう嫌だよぉ! やだあああああ」
目が熱い。
堰を切った気持ちの奔流は止めようもなく支離滅裂な言葉になって溢れ続ける。
どうしようもない絶望感。だが、心のどこかで驚きもあった。
これまで「誰も分かってくれない」と捨て鉢になっていた日々の寂寥感など、この絶望に比べたらまるでゴミのようだった。
それほどに、このたった数日の美夏子との日々は撫子の中で大きなものになっていたのだ。
失った跡の心の穴の、なんと冷たいことだろう。それほどに美夏子がいてくれることが暖かかった。
それが、奪われたのだ。
「……やだぁ……いやだよぉ……」
どれほど泣いただろう。
これまでの人生で、こんなに泣いたことなどなかった。
だが、感情の奔流はやがてその勢いを弱め、横隔膜の僅かな痙攣を残してやがて部屋は静寂に包まれた。
「…………」
気持ちが落ち着いてくると、さすがに別の問題が浮上してくる。
出会って二日も経たない郁の前で、郁の自宅で、正体もなく泣き叫んでしまった事実にまた別種の寒気が這い上がってくる。
なんということだ。美夏子の前ですら打ち解けるが難しいのに、郁の前でこんな無様な姿を晒すなんて有り得ない。
「…………」
その上、他人の家で、いつまでもこうして寝転がっているわけにもいかない。
撫子は、恐るおそる顔を覆っていた腕をずらしてみた。
「…………」
ところが、そこには、撫子の上で馬乗りになっている郁の、優しい笑顔があった。
「…………?」
「少しは落ち着きましたか?」
しれっとした調子で郁が問うた。
「まあ、美夏子さんほど頼りにはならないかもしれませんけど、ボクとしても美夏子さんを助けたい気持ちは同じです。 その為に、できることをやりましょう? 僭越ながら、ボクも、ボクにできることをやらせてもらいます。 なのでまず傷の手当をしましょう。 起きてください」
言うと、撫子の手を取ってひょいとひっぱり起こし、向かい合わせに座り直す。
驚いた事に、あれほど心を締め付けていた焦燥感がきれいさっぱり無くなっていた。
撫子が呆気に取られている内に、郁はてきぱきと手当の支度を進めた。
「とりあえず上着は脱いでもらって……はい」
もう手首まで脱げかけていた上着から腕を抜くと、郁がさっさとたたんでしまう。
「ちょっと、腕を上げておいてください」
言って、郁は撫子の脇腹を覗き込んだ。
「……思った程じゃないですね……」
怪訝な顔をした郁が、手鏡を差し出して撫子の脇腹を指し示した。
郁が湿布を取り出している間に撫子も手鏡を利用して脇腹を見ると、そこには小さな丸いアザがあった。
「あれ? ……これ、なんで……」
「あの時、ガンペルソルに至近距離で撃たれた所なんですけど」
湿布の裏紙をはがしながら郁が言う。
「コンクリートを砕くほどの衝撃でしたから、そもそもアバラが折れてもいない時点で驚きですけれど、せめてもっと大きいアザになってると思ってました。 ちょっと手をどけてください」
郁が撫子の脇腹に湿布を貼り付ける。
「冷たっ」
「我慢してください。 かぐやが変身したあの銀色のスーツの性能は桁外れだ、って美夏子さんが言ってましたけど、すごい防御力だったんですね」
「……?」
そう言われても、戦闘中のことなど曖昧にしか覚えていない撫子には、戦闘の激しさなどよく分からない。
「ビルから落とした生卵を割らずに受け止める衝撃吸収素材が実在するんだ、って美夏子さんが話してました。 よく分からないけど、それのもっと凄いやつなんじゃないか、って」
ほか、背中や肩などに小さなアザを見つけては、その都度切り取った湿布を貼っていった。
「二日くらいしたら温湿布に変えてください。 まあこれくらいなら、跡は残らないで綺麗さっぱり治りますよ」
「詳しいんだね。お医者さんみたい」
「まあ、武道なんかやってると、怪我とかアザとかしょっちゅうですし。身体のメンテナンスの為に整体方面もかじるんですよ。 これ着て、横になってください」
郁が救急箱を片付けている間に、借り物のジャージに着替える。
確かに郁との体格差そのままに腕脚の裾が大きく余る。袖を何度も折り返してようやく手首が出る有様だ。
そして用意された布団にうつ伏せになった撫子の背中を、郁の手が所々を確認するように触れていった。
やがて、その手の動きは圧力を加え、マッサージのそれに変わる。
郁のマッサージ技術は非常に上手く、今までマッサージにかかった事がない撫子をしてあまりの気持ち良さに眠気を覚えるほどだった。
「痛いところがあったら、言ってください」
「ううん。 すごく、気持ちいい」
運動にも縁のない生活をしていたからマッサージなどとも無縁だったが、今日のことで凝り固まっていたらしき身体のあちこちが徐々にほぐされていくのが撫子にも分かった。
「なんか、すごいね。 こういうのできるって」
「いやあ。家業で覚えたものですから、すごいとかそういうんじゃないです」
郁の手が、丁寧に筋を圧してゆく。
「すごいと言ったら、美咲さんのほうがすごいですよ。 変身して、あんな化け物と戦って」
「でも、私は……」
もう、変身できない。
再び暗い思念が鉛のように重くのしかかる。
「ボクも、たまに思った通りの動きができなくなる時がありますよ」
「え?」
郁の言葉は、撫子には実に意外なものだった。
なぜなら、思った通り動く練習を道場で繰り返すのが武道というものではないのかと思っていたから。
「ヒトのやる事ですから、完全はありませんし、気持ちの浮き沈みひとつであっさり見失うものです」
気負いのない、けれど経験に裏打ちされた芯のしっかりした、だけど優しい言葉が、掌の暖かさと同じように染み込んでくる。
「でも、まったく同じく気持ちひとつで取り戻せるものでもあります」
「……かぐやとの変身も?」
「それは分かりません」
あっさりとした口調も、決して冷たいものではない。
「ですけど、美咲さんがかぐやの事を「なんとなく」で理解するのと同じように、「なんとなく」分からなくなることも、あるのではないでしょうか」
だったら、「なんとなく」また変身できるようになるかもしれない?
ふと、撫子は枕元に座るかぐやを見た。
「ヒトは、生きてきた道筋に置いてあるものを得て進むもの、道筋はひとそれぞれだから、拾えるものもまたひとそれぞれなんだ、って、兄さんが言ってました。 ボクが武道家の家に生まれて、こうして武道家の技術を得たことも、美咲さんが不思議なものを視えるようになったのも、きっと同じくすごいことなんでしょう」
郁の声は、あくまでも真摯に語る。
「そして美咲さんのもっとすごいところは、不思議なものをボク達よりも柔軟に受け止められるところでしょう。 だから、かぐやと仲良くなって、あの怪物にも対応できる」
突如、郁の手が離れた。
怪訝に振り返って見上げたところに、郁が何かを持って戻ってきた。
起き上がって座り直した撫子の前に差し出されたのは、見覚えのある機械。
美夏子が持っていた、スマートフォンとタブレットPCだった。
「これ……!?」
「あのドタバタで、美夏子さんが落としていったものです」
郁も撫子の向かいに座り直した。
「ちなみに、蛮殻さんは、クロコーの手下だか仲間だかに協力してもらって、すばる埠頭の周辺を捜索してくれています」
「え?」
突然の話の方向転換に戸惑い問い返す。
「でも、クロコーって、不良の学校で……」
「まあ、なんか自信満々に言っていたので、蛮殻さんにお任せしましょう。 そして、これは、美咲さんが戦っている間にも美夏子さんがひっきりなしにいじっていたものです。きっと、ペルソルとかの情報や、なんらかのヒントが書いてあるかもしれません。なにしろ、一番長く変身した美咲さんを見ていたでしょうから」
思わず手元の大小の端末を見下ろす。
「みんな、できる事をやっています。 ボクのはまあ、怪我の手当とかたいした事じゃないですけど」
「……うぅん、そんな事ない!」
撫子は勢い良く頭を振った。
「ここに連れてきてくれなかったら、一緒にいてもらえなかったらきっと、ずっと動けないままだった。 ああいうふうに言ってくれて、泣いちゃったけど、なんか元気になった!」
スマートフォンとタブレットをそれぞれの手に抱えて撫子は立ち上がった。
「そしたら、急いですばる埠頭に行って、それで」
「えい」
膝に抱きついた郁が、あっさりと撫子を布団に寝転がした。
「ひゃ!?」
「落ち着いてください。 まだ変身の可否の条件がはっきりしていませんし、なにより今日いちばん身体を張った美咲さんはまず休養が必要です。今日はもう寝てください」
「で、でも、急がないと美夏子が……」
慌てて起き上がった撫子の眉間に、郁の人差し指が当てられた。
それだけなのに、なぜか起き上がる方向に身体を動かせない。
「落ち着いてください。 いいですか? 宇目木先生の企みは未だ不明ですし激しく胡散臭いですが、当人が「明日来い」と言いました。「かぐや」の成長を促進するとも。 ということは、少なくとも美咲さんが変身できないと、宇目木先生も困るわけです」
微妙なバランス体勢にある撫子は、うなずくこともできないが。
「美夏子さんは無事です。そもそも美咲さんが必ず来てくれないと困るから攫ったわけで、恐らく、明日美咲さんが到着したら、そのままほったらかしにするでしょう。どうも、ペルソルの目的に人を殺すことは入ってないようです。ボクも蛮殻さんも、ブドーペルソルに反撃されたあと放置されましたし」
確かにその通りだ。
ペルソルの行動の目的は、宇目木が語ったことが真実だったとしてもいまいち不明な点が多い。
が、少なくとも今のところ人死にはない。
「以上のことから、美夏子さんは無事に扱われていて、明日までは確実に猶予があります。だから、美咲さんはもう寝るべきです。 変身できない理由に、もしかしたら体力の消耗もあるかもしれませんから。それを検証するのも美咲さんの仕事です。 分かりましたか?」
「……あ、う、うん」
相変わらずうなずけないので、口頭で同意を示す。
「結構です」
にこりといつもの精悍な笑みを浮かべて、郁はようやく指先を撫子の額から離した。
「まあでも寝る前に、少しその"すまほ"だか言う機械の中を調べてみましょう」
「あれ? ……、こういうの、使ったことないの?」
「こういう、携帯電話なら持ってるんですけど、美夏子さんの持っているようなのはさっぱり使い方分からなくて」
こういう、と言いながら郁が両手をぱたぱたさせて「折りたたみ式携帯電話」を示す。
「あとそれと、ボクのことはできれば名前で呼んで欲しいです。ボクも撫子さんって呼びますから」
「えぇ!?」
郁への呼びかけに一瞬躊躇したのを見抜かれて撫子は顔を赤らめた。
が、確かにそろそろ名前で呼べないと今後の会話もおぼつかない。
「あ、えーと、……郁?」
言われ、撫子は改めて郁の名を口にしてみた。
が、長いこと友達がおらず、人の下の名前を呼ぶのは美夏子に続き二人目だ。
いまいち口の座りが良くない事に撫子の首が微妙に傾いた。
「あはは。 よく言われるんですけど、自分で言うのもなんですけど、行くんだか来るんだか分からない、呼び捨てにするには不便な名前なので、"ちゃん"付けでお願いします」
「えええっ!?」
これまた撫子には少々ハードルの高い試練だったが。
「ええと、その、……郁ちゃん……」
「はい。 改めてよろしくお願いしますね。撫子さん」
「うん!」
うなずき、笑い合った撫子は、郁と共に美夏子の携帯端末の調査を始めた。
その夜中。
目を開いた郁はそっと布団から起き上がった。
「……」
隣の布団の、ようやく寝付けたらしき撫子の寝顔を見下ろす。
「……」
そして、その枕元でちんまりと座っているかぐやを振り向いた。
話でしか知らなかったが、かぐやは本当に睡眠を必要としないらしい。
それはともかく。
「……」
ごくりと唾を飲み、頬を少し緩ませて、四つん這いで撫子の枕元、かぐやに忍び寄り。
「…………」
そぉっと手を伸ばしてかぐやを抱き上げると、胸元に優しく抱きしめた。
かぐやは抵抗しなかった。
今回のサブタイトルは「あいきゅうおくびょう」と読みます。
本来の言葉は「愛及屋烏(あいきゅうおくう)」と言いまして、「愛憎の情は、その人だけでなくその人の関係者にも及ぶ」という意味だそうで。
「烏」の字を「猫」に変えたのは、作品の登場動物に寄るものですが。
大事にしたい友情や気持ちが、一段階広がりを見せたことを示すものでした。