「食っておけ」
がさり、と目の前の床にビニール袋が置かれた。
見覚えのあるパンやおにぎりのパッケージが透けて見える。
膝を抱えてうずくまる美夏子が顔を上げた時には宇目木は背を向けて離れるところだった。
白衣の後ろ姿が振り返り、対面の壁の窓枠に背中からもたれかかって外を眺め遣る。
窓の向こうに見える空は既に早朝の青。
だがその横顔からは、なんの感情も伺えない。まるで青空の背景に穿たれた孔のような虚ろ。
周りを取り囲むこの無機質なコンクリートの壁の延長のようにすら思える。
「…………」
この一晩、宇目木がここからどこかへと出ていくことはしばしばあったが、その間に逃げることはできなかった。
今も美夏子のすぐ横で棒立ちしている赤銅色の異形・ブドーペルソルが、眠りもせずにずっと見張っていたからだ。
「…………」
ずれた眼鏡を直した美夏子は特に警戒もせずにビニール袋を取り上げ、中身を漁り出した。
「……センセ。わたし、たらこ食べらんないです」
「我慢しろ」
宇目木は外を眺めたまま素っ気なく応えた。
「この一食を我慢すればいい。どうせ昼までには全て終わる」
美夏子は、手にとったコンビニおにぎりを不機嫌に見下ろした。
あれから一晩。
底冷えのする高所を跳ねて長距離を運ばれたことと、このコンクリートが剥き出しの部屋に毛布一枚で転がされたこと以外は特に手荒い扱いは受けなかった。
「こんな事しなくたって、ペルソルだって分かったらわたしたちは普通にセンセのとこ行きますよ」
『どうかな。お前たちが同族を手懐けて何を企んでいるのかをオレは知らないからな。 お前たちは手懐けた同族の力で何をしようとしていた?』
「部活動です!」
『部活動?』
得意げに胸を張る美夏子の言に、半分を銀で覆われた宇目木の顔が怪訝に傾いた。
この鉄面皮の教師の表情が、ほんの僅かでも歪むのを見るのはそれなりに快感ではあったが。
「わたしたち「ミステリー研究会」なんですよ!」
『……そんな部活など、聞いたこともないが』
「こないだ作ったばっかですから。 まだ届け出も出してませんけど」
『ふん。そんな子供の遊びに同族の力を使うと言うのか』
「け ん きゅ う です遊びじゃありません!」
銀に半ば覆われた宇目木の異様にも全く頓着せず美夏子は突き出した指先で嘲笑を遮った。
「だから、知ってればセンセのところに行ったって言ってるんです。 センセこそ、何が目的なんですか? て言うか、センセはセンセですか? それともペルソルが化けてる偽物なんですか?」
『俺はオレだ』
宇目木が、銀の胸郭を指先でとんとんと叩きながら応えた。
『俺はオレに興味を抱いた。オレを知りたいと思った俺のその精神活動に同調したオレは俺と同化することで「知ること」を完遂し、そしていま利害が一致した俺はオレの使命を遂行中だ』
相変わらず語る主観のニュアンスがころころ入れ替わる宇目木の言にゲシュタルト崩壊を起こした美夏子は、痛めた頭を休める為にふてぶてしくも昨夜はそのまま眠ることにしたのだが。
「……って言うかセンセ。 へんへ自身の意識も……あるみたいれふけど、」
しかめっ面で具のたらこを避けながらおにぎりをかじる美夏子が、半眼で宇目木に問いかけた。
「ぺるほるとひての使命はろもかく、……へんへに宇宙人に協力ふる理由がないやないれふか」
「食うかしゃべるかどっちかにしろ」
「えふから」
もぐもぐと咀嚼しごっくんと咽下してから、さらにペットボトルを煽りお茶をひと飲みして息をついてから美夏子は繰り返した。
「センセの方には、ペルソルに協力する理由がないじゃないですか。 センセのペルソルが模倣した人間の動作って「知ること」なんでしょ? それがどうして、わざわざセンセと合体してるんですか? ほかのペルソルは人間を取り込んだりしてないのに」
傍らに棒立ちしているブドーペルソルを指さしながら言う美夏子を、宇目木の横目が煩わしげに見返した。
「美咲を取り込んでいるやつがいるだろう」
「それは、そうですけど」
かぐやの行動原理については、既に美夏子の中である程度の推論が成り立っていた。
だが、宇目木を取り込んでいるであろうノーレッジペルソルには、それは当てはまらないのだ。
「でもセンセは言ってましたよね? センセとペルソルの利害が一致したって。 てことはセンセ自身にもペルソルの力を利用する何か目的があるってことですよね? 「センセ」の目的は、なんなんですか?」
「黙れ」
美夏子を見る宇目木の僅かに細められた目に怒気がこもった。
「お前が知る必要はない」
「生憎と知的欲求についちゃあ一家言あるミステリー研究会なもんで」
無表情だった教師が初めて見せる眼光にも頓着せずに美夏子は強気な顔でそれを睨み返した。
「ってゆうか、宇目木センセって普段無口で無表情だから、なに考えてんのかよく分かんないんですよね。そのくせイケメンで良く似合ってるってのがまた癪に障りますよねそれで許されてるカンジで。 どうですか? この縁を機にセンセの考えてること教えてくださいよ。あとついでにミステリ研の顧問に」
『黙れと言ってる』
瞬時に懐から噴き出した銀で半身を覆い、ぺらぺらとまくし立てる美夏子に向かって大股で迫った宇目木が片腕を振り上げ。
どがっ。
「……!? 」
宇目木の銀に覆われた拳が美夏子の耳のそばを掠め背後の壁に突き刺さった。
肩にぱらぱらと散らばるコンクリートの破片で己の背後で何が起きたのかを悟り、横目で腕の行方を辿る美夏子の顔がさっと青くなった。
その美夏子の顔を、宇目木の異貌がじわりと圧力の気配をかけて覗き込む。
『……知ったふうな口を利くな。お前に何が分かる』
押し殺した声音は、数少ない宇目木との会話の中でもひときわ昏く。
逆光に陰るその顔は、苦々しげに歪んでいた。
『今さら俺を知ろうだと? 貴様よくも……』
宇目木の顔の、半分を覆う銀の異形のマスクに穿たれた孔から赤い光が浮かび上がる。
その赤い瞳が美夏子を睨み据えた。
「…………!? 」
『よくも…… ……っ!? 』
ところが、なおも言い募ろうとした宇目木が突如、壁から引き抜いた掌で自らの半面の異貌を押さえるとふらふらと後退った。
頭痛でも堪えるかのような苦しげな宇目木の様子に、美夏子としても怪訝に見守るしかない。
「…………センセ?」
その時、バイクのエンジンとも獣のうなり声ともつかない轟音が遠くから響いてくるのが、開きっぱなしの窓から聞こえてきた。
『…………?』
同様に気付いたらしき宇目木が、半面を押さえたまま窓に寄り、外の様子を見下ろしてこちらを振り向いた。
いや、美夏子の後ろに控えているブドーペルソルを。
『行ってこい』
宇目木の命令に黙ってうなずいたブドーペルソルが、素早く身を翻してこの部屋から駆け出していった。
「……センセ?」
『美咲が来たようだ。こちらの手勢を手懐けてな』
確かに聞こえてくる轟音は、あの黄色いバイク型のペルソルのものだ。
しかも、あろう事か撫子がそのペルソルを手懐けたと言う。
(ナデシコも気付いたんだ……!)
それの示す所に思い至り、美夏子の顔に喜色が浮かんだ。
『俺も行く。 お前の役目は終わりだ。もう用はない。あとは好きにしろ』
平静に戻ったらしき宇目木がいつもの淡々とした口調で言いながら、そんな美夏子を置き去りにブドーペルソルが出ていった出入り口から立ち去っていった。
「かぐや」を乗せた黄色い異形の四足獣・バイクペルソルは、やがてこの倉庫街の最奥のひとつの倉庫の前で停止した。
『ほかのみんなは、ここにいるの?』
撫子の問いに、バイクペルソルがクラクションのような咆哮で応える。
ところがその倉庫は、壁前面を覆う巨大なシャッターで閉ざされていた。
だが、いかな堅牢なシャッターと言えど、「かぐや」の腕力でこじ開けることは造作もない。かぐやと変身した自身の能力を、撫子は今やすべて完全に把握していた。
実際の所はそこまで深く考えることをせずに、当たり前にシャッターをこじ開けてやろうとバイクペルソルから降りるために片足を振り上げかけたところで突如、バイクペルソルが急発進した。
『わっ!? わわっ!? 』
『ーーーーーッ!』
慌ててハンドルにしがみついた「かぐや」にバイクペルソルがクラクションの咆哮で警告を発する。
そして急ターンしたバイクペルソルの前には、つい一瞬前まで「かぐや」がいた場所には、いつの間にか人影が屈み込む姿勢でそこにいた。
赤銅色の捻くれた巨体。
郁の武術を模倣したブドーペルソルだった。
倉庫の上から飛び降りてきたのだろう、屈めた屈強な体躯を起こし立ち上がったブドーペルソルは、やはり郁にそっくりな動作で「かぐや」に対し身構えた。
『ーーーーッ!』
ブドーペルソルに対してバイクペルソルが威嚇するように吼える。
『いいの。大丈夫だよ』
宥めるようにガソリンタンクのようなバイクペルソルの丸い背を撫でながら「かぐや」は足を振り上げて地に降り立った。
『大丈夫だから。 だから、あなたは下がってて』
言い置いて「かぐや」は前に進み出ると、ブドーペルソルと対峙した。
『あなたは、郁ちゃんの武術と、蛮殻君のケンカを覚えたんだよね』
「かぐや」の静かな問いかけに、ブドーペルソルは反応を見せず、いきなり滑るように突進してきた。
間髪入れずに繰り出された拳を、こちらを掴もうとする手を「かぐや」はすいすいと流水のような滑らかな動きで躱してゆく。
それはかつての撫子の意識が薄かった頃のはしゃぐような動作とは違う、冷静な、撫子の意志のこもった動き。
『!? 』
『違う。違うよ。 あなたの覚えたそれは、本当はそんなんじゃない』
なおも繰り出された腕をするりと小脇に絡め取り、顔面を間近に突き合わせた「かぐや」の黄色いセンサーがブドーペルソルの赤い瞳を覗き込む。
『ごめんね。 あなたが突然現れたから、きっと郁ちゃんもびっくりしちゃったんだと思う。 びっくりしてあなたにそんなことしちゃったんだと思う。だからね』
湖面を撫でる風のように静かに、優しく穏やかにそう語った「かぐや」が赤銅色の腕を跳ね飛ばし、くるくると身を翻すと改めてブドーペルソルに対して身構えた。
郁のそれと全く同じ動作で。
『教えてあげる。あなたのそれが、本当はどんなものなのか』
真っ直ぐ伸ばされた腕の先で、ピンと反らした掌がくるりと翻り、四指がくいくいと招くように動いた。
『教えてあげる。 おいで』
『ッッ!』
赤銅色の巨躯が、赤い稲妻と化して「かぐや」に襲いかかった。
「あっ!」
倉庫の陰から飛び出した郁が、その光景を目撃して声をあげた。
全力疾走してきた蛮殻ともども、激しく息をつき肩を上下させながら、そこで繰り広げられている戦いに目を奪われる。
いや、「戦い」とは違うかもしれない。
確かにそこで展開されているのは、郁の家で行われているのと同じ、鼓獅子流の組み手のようだ。
だが、そこにあるのは、技を磨き高みを目指す研ぎ澄まされた空気ではなかった。
かと言って、得体の知れない異形の暴虐とも違う。
『えいっ!』
突き出されたブドーペルソルの腕の上で倒立した「かぐや」が足で綺麗な弧を描いて背後に着地すると、続くペルソルの後ろ回し蹴りをさらに前転の要領で躱し、背を向けたままペルソルの猛攻をひょいひょいと踊るような動作で捌き、足を取ろうとする蹴りを、踏み込みの反作用をこめた体当たりを、ちょこちょことまさしく猫のように四つん這いで潜り抜ける。
それは、武道の技の応酬ではない。暴虐の戦闘ではない。「かぐや」がブドーペルソルをパートナーに踊り回っているかのようだった。
「かぐや」の動きは、確かに鼓獅子流を基礎にしつつも、もはや全く別種の体系に改変されていた。
ペルソルに人間の動きを模倣する習性があったとして、覚えた動きを応用して昇華させたのは、果たして進化したかぐやによるものなのか、それとも撫子によるものなのか。
(きっと、これが撫子さんとかぐやの、二人が力を合わせた結果……!)
呆然と見つめる郁の目線の先で、二体の銀色の異形の奇妙なダンスは勢いを増してゆく。
赤銅色の裏拳を新体操のような前後開脚で屈んで躱し、同時に前に出した足でブドーペルソルの足を弾く。
体勢を崩したペルソルを、倒立した「かぐや」の開脚した両足が回転して連続して蹴り付ける。
全体重を乗せた反撃の踏み込みは、土下座の姿勢で地面をにょろにょろと這い下がっていった「かぐや」に躱されてアスファルトに足形の穴を穿った。
『えーい!』
ぴょこんと跳ねた「かぐや」のつま先がブドーペルソルの顎を蹴り上げ、着地後瞬時に身を翻した「かぐや」が仰け反るペルソルに背を向けたまま上体を屈めた。
いや、これは。
『ライダーヒップ!』
あろう事か、中身があの撫子とは思えない可愛らしくも大胆な仕草で突き出された「かぐや」の尻が、ブドーペルソルを突き飛ばしシャッターに激しく激突させたのだ。
「……なにしちょるんや美咲は」
「あはは。 あんな動き、鼓獅子流にはないですよ」
『うなー!』
呆然とする郁と蛮殻の前で、「かぐや」が片腕を突き上げ元気な喝采をあげていた。
『ッッッ!!』
シャッターにめり込んだ体を引きずり出したブドーペルソルが、癇癪を起こしたように呻き、地面を殴り付けた。
『ダメダメ。だめだよそんなんじゃ』
くるりっ、と振り返った「かぐや」が立てた人差し指をちっちと左右に振る。
『それじゃ、上達しないよ。怒ったらダメ。頭にきて暴れるだけなら、技なんていらないよ』
聞こえていないかのように踊りかかってきたブドーペルソルの突進を、「かぐや」は屈んだ猫が伸び上がるような動作で易々と潜り抜けてしまう。
『上手に動けるように、本当は何度も何度も繰り返して練習するものなんだよ? ちゃんと動けるように、冷静になれるように自分を律するものなんだよ? 上手くできなかったら、何が悪かったのか反省して、直しながら上達させるものなんだよ?』
はっとした郁の瞳が大きく見開かれた。
『ただ相手をやっつけるためだけじゃない。 相手をやっつけて、みんなやっつけて、誰もいなくなって、それでどうするの?』
郁は、撫子に武道のなんたるかを詳しく説明した事はない。
それなのに撫子は、武道において教え諭される事を知っている。
変身したかぐやと撫子は、その答えまでも自らだけで導き出したのだろうか。
『これだけ言ってもわからないなら……仕方ないね』
まるでじゃれ合う猫のように攻撃を躱していた「かぐや」が、ブドーペルソルの脇をするりとかい潜り背後に回り込んだ。
『ごめんね。代わりにかぐやが、ちゃんと伝えてあげるから』
ブドーペルソルが体勢を立て直すより早く跳び退いて間合いを広げた「かぐや」が、身を丸めてから大きく両腕を開いて仰け反り大声をあげた。
『うなーーーーーー!』
ざうっ。
たちまち辺り一帯が吹雪のようにコズミックエナジーの奔流に満たされた。
「かぐや」はすぐさま身を翻し、辺りのコズミックエナジーの群に頭を突っ込み、両側頭部のエナジーインテークで光の粒子を掻き取ってゆく。
それを数度繰り返してから「かぐや」はベルトの円環のフレームを操作し、中央のセレスティアルドライブの輝きを一旦しぼりきってから、再び反対側より輝きを解き放ち、完全な満月を成した。
そしてバックル下端のエンターレバーを弾く。
《ふ・る・むーん♪》
認証の声と共に輝きが「かぐや」の背後に集中し、やがてそこに巨大な光の球体が形成された。
完成したセレーネモジュール「ルナティックオービット」をアンダースローの手振りで操作し、高く上空に浮かび上がらせた。
『覚えてくれて、ありがとう。 ちゃんと教えてあげられなくて、ごめんね』
真摯に告げる「かぐや」の前で、さらに襲いかかろうとしたブドーペルソルの巨体が突如宙に浮かび上がった。
地を駆けようとするその太い足が虚しく空転する。
ルナティックオービットの局所重力操作により、地上からの重力を遮断されて引き寄せられているのだ。
空中で激しくもがくが、手掛かりもない宙にあってはいかなる動作ももはや意味はない。
『うーなっ!』
かけ声とともに跳躍した「かぐや」の身体が、身を翻して片足を突き出した跳び蹴りの姿勢になると、空中でぴたりと静止した。
その足先は、上空のルナティックオービットと「かぐや」を結ぶ中間の位置に浮かんでいるブドーペルソルを指している。
その姿勢のまま、「かぐや」の片手がベルトのレバーを引き起こし、すぐにまた引き倒した。
『リミットブレイク』
撫子の声で静かに呟いた「かぐや」の身体が、やがて浮上し始めた。ルナティックオービットの方向に。
ルナティックオービットに、自らの身体を引き寄せさせているのだ。
その速度は迅速に増加し、そして跳び蹴りの姿勢の「かぐや」は砲弾の勢いで上空のブドーペルソルを貫いた。
『ッッ!』
「かぐや」の背後で苦悶に身を捩ったブドーペルソルは、次の瞬間には幾重ものスパークを迸らせ、爆発した。
「ムーンサルトライダーキック」と叫びたくなる衝動を敢えて抑えて「かぐや」は爆煙を背後に地上に着地した。
『うーなっ』
「かぐや」のかけ声と同時に倉庫のシャッターがメリメリと異音を立てて押し上げられてゆく。
想定外の加圧に、シャッターの縁が「かぐや」の手がかかる位置を頂点に「へ」の字にひしゃげてしまっている。
「かぐや」が万歳の姿勢になる所まで押し上げられたシャッターの向こう、倉庫の暗闇の中からシャッターの異音が幾重にも反響してきた。
やがて異音が鎮まったところでヘッドライトを灯したバイクペルソルが微速前進で進入してゆく。前後の脚に挟んだ二輪だけで、しかも誰も跨っていないというのに器用にバランスを保ったままだ。
続いて「かぐや」が、郁が、遅れて身を屈めた蛮殻がシャッターをくぐって倉庫の中に入る。
『ひろーい!』
ぴょこんと両手と片足を跳ね上げて「かぐや」が叫ぶ。その声もまた反響してきた。
倉庫の中は真っ暗闇であった。
バイクペルソルのライトが照らす範囲から見ると内部は非常に広く、見上げると、はるか高所に等間隔に穿たれた通気孔から差し込む光を受けて天井の所在が見て取れる。
闇に沈む奥行きはバイクペルソルのハイビームを以てしても判然としないが、学校の体育館の倍は優に越える広さだろうと思えた。
『しかも、なんにもなーい!』
なーい、とさらに声が響く。
「……いや待てまて美咲。 おみゃあさん、こない暗あて、あるモンも見えやせんやろ?」
はた、とその異常に気付いた蛮殻が手を振ってツッコんだ。
「もしかして美咲さん、見えてます? 反対側の壁とか」
『え? 郁ちゃん見えない?』
くるりっと踊るように振り返ってきた「かぐや」の台詞に、郁と蛮殻が顔を見合わせた。
「……美咲はホンマ大丈夫なんか?」
「いえ、たぶん、かぐやと変身したあのスーツのおかげでしょう」
身体能力と反射速度の増強については、美夏子の解説に加え実際の戦闘を見ることで実感していたが、どうやら変身した撫子の視覚、もしかしたら五感の全ても増強されているのかもしれない。
「暗いのも見通すかぐやの「猫の目」の能力も授かっているのかもしれません」
「ほお、そりゃあてえもねえのう」
蛮殻の表情は曖昧に傾いたままだったが、とりあえず納得することにしたらしい。
「そいで美咲。ここにセンセエがおるんきゃなも?」
「……!? 」
蛮殻の言葉にはっとした郁が、険しい顔で身構えた。
そうだ。ここは撫子がバイクペルソルに「仲間のところに連れていって」と頼んで辿り着いた場所なのだ。
このバイクペルソルと先ほどのブドーペルソルが宇目木が用意した「お膳立て」なのだとしたら、その終着点には宇目木と美夏子がいるはずだ。
「それとも、実はそのバイクのペルソルに担がれたかなも?」
「っ!? 」
続く蛮殻の言葉に郁は再び息を飲んだ。底冷えのする恐怖に震えが走る。
これは生活環境の違いだろう。喧嘩に明け暮れていたらしき蛮殻とは違い、郁にはつくづくそういう発想に縁がない。
もし、まだペルソルの仲間が他にもいるのだとしたら──!?
『心配はいらん』
「っ!? 」
突如かけられた声に蛮殻と郁が同時に背後を振り返った。
遅れて「かぐや」がくるりとそちらを向いた。
『そいつは別に担いではいないが、ここで合ってる。 ここで、終わりだ』
そこに。こじ開けられてひしゃげたシャッターの隙間から差し込む光を背に、半身を銀の泥で覆った白衣の異装の男が。
宇目木が立っていた。
ふと気付くと、目の前の宇目木の姿が消失していた。
その異常に気付いた郁が己の目の不調を疑うより早く、金属が激突する鈍い音が聞こえそちらを振り向いた。
いつの間にか背後に移動していた宇目木の、その銀に覆われた片腕がバイクペルソルの丸いガソリンタンクのような背中に突き刺さっていたのだ。
『バイクちゃん!? 』
「かぐや」が、撫子が悲鳴をあげる。
『俺は知っている。ペルソルの弱点を。こいつの弱点をオレは知っている』
平淡な口調で言って宇目木が銀の腕を引き抜き、バイクペルソルを蹴り倒した。
それはただの前蹴りにしか見えないというのに、頑丈そうな黄色の体躯が「く」の字に折れ曲がり床のコンクリートを抉り散らしながら倉庫の奥へ吹き飛んでゆく。
「……っ!? 」
郁は、つい先日宇目木が人ひとりを抱えてビルからビルへ跳躍したことを思い出した。撫子が変身した「かぐや」といい、ペルソルがもたらす力には改めて戦慄を感じざるを得ない。
ライトの光条をあちこちに振り撒きながら数度転がっていったバイクペルソルはそのまま力なく崩折れ、ライトの灯りを消失するとそれきり動かなくなった。
『知識は力だ。急所さえ突ければ、仰々しい技術体系も過剰なパワーもいらない。そして他者の視覚を、認識を欺くすべを知っていれば、いかなる防御も意味はない』
その手の捻くれた鉤爪をかざして宇目木が語るうちに、倒れたバイクペルソルの身体がその輪郭を歪め、溶けるようにして崩れ落ち銀色の泥と化して床上の闇に広がり消えてしまう。
『バイクちゃんっ!? 』
「かぐや」が悲痛に叫んだ。
『その気遣い。かつての美咲からは考えられない態度だな』
その声は、また異なる位置から聞こえてきた。
事の異常に戦慄し、再び宇目木の姿が消失した事に気付いた郁が警戒態勢で周囲を見回そうとしたその時には、そちらからくぐもった音が聞こえてきた。
『だが今は無用だ』
振り向いた郁の目に、宇目木が「かぐや」の腹に銀の爪を突き立ている光景が飛び込んできた。
「あぁ!? 」
『あ……』
『ご苦労だった。 その情報、もらい受ける』
目を剥き息をのむ郁の目の前で。
捻くれた銀色の五指が引き抜かれ、ベルトバックルのセレスティアルドライブに穴を穿たれた「かぐや」が、脱力したようにがくりと膝を落とした。
サブタイトルは「びょうそうばくじょう」と読みます。
本来の言葉は「燕巣幕上(えんそうばくじょう)」と言い、「燕が幕の上に巣を作るがごとく不安定で危ういさま」を示す諺で、囚われの美夏子は言わずもがな、一同の未だ危うい現状を示すものでした。
次回、最終回です。