一つのことにのめり込む事は愚かである。
そんなことを学生に諭す大人もいる。勿論それも一理あるだろう。若者には無限の選択肢があり、将来がある。学生生活とはその数多ある将来の中から己の可能性を探る時間なのだ。義務教育で九年間。そして高校、大学で七年間。焦らず多くのチャレンジをするべきだという意見は至極正しい。
しかし、それは飽くまで先を見据えて話ができる者の意見。当事者は少し違う。勿論将来も大事だが、それ以上に今が求められる。青春を生きる若者たちにとっては、この一瞬が全てなのだ。
それは益子推とて例外ではない。彼ほど聡明な頭脳を持っていても。広い視野を持ち、沈着冷静な判断ができる者でも、一度地獄に叩き落とされれば、もう前しか見えない。ただ貫き通すことしか考えられない。
眠りの森高校。ごく一般的な公立校だ。バドミントン部も強豪などではなく、地元でそこそこ程度。そんな分不相応な高校で益子推は今日もただラケットを握っていた。
「───っ、ハァっ」
日もとっくに暮れ、誰もいなくなった体育館で、金色の長髪を後ろに束ねた少年は汗だくになっていた。
「…………美也子先生?」
いつのまにか人が立っていたことにようやく気づいた。手にはスポーツドリンクとタオルが握られている。黙って様子を伺っていたクラス担任は黙って彼の元へと歩き、その二つを渡した。
「益子君。インターハイ優勝おめでとう」
「…………ありがとうございます」
ここ数ヶ月でうんざりするほど聞かされた賞賛の言葉に苛立ちが募る。悪意はないのだろうが、その言葉を聞かされるたびにあの後味の悪すぎた決勝戦が嫌でも脳裏に蘇る。『バカにしているのか』と怒鳴りたくなる。衝動を押さえつけるのに少し演技が必要だった。
「…………あのね、益子くん。君、本当に学校辞めちゃうの?」
「…………はい」
さらに苛立ちが大きくなる。ここ最近、教師達からは同じことしか言われない。
「留学の話ってまだ余裕あるんでしょ?ならご両親ともっと話し合ってからでも──」
頰が引き攣る。目の色が変わってしまったことが自分でわかる。一度頭を振ってタオルで顔を拭いたが、もう遅い。顔を上げた時、怯えの色が強く混ざった表情を浮かべる美也子先生がいた。
「…………すみません。大丈夫です。親にはちゃんと話して許可ももらってますから」
これは本当だった。俺は直接喋ってないが、連絡自体はヴィゴがやってくれたらしいし、実際サインと判子もある。もう俺が何をしようとあの人達は興味ないのだろう。こちらも同じだから特に不満はない。好意の反対は無関心だという言葉の意味が少しわかった。
「でっ、でもさ!やっぱり直接会おうよ。私バドミントンは素人だけど、益子君が一生懸命頑張ってたのは知ってるよ。ご両親だって会えば、きっと……」
「───栄枝に行ってない俺なんて、あの人達は必要としてないよ」
あまりに無機質な声で紡がれた冷たい言葉に美也子は絶句する。これが自身のクラス担任と最後に交わした会話だった。
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──なんでこんなトコに来ちゃったかなぁ、俺
今自分が彼女の前に立っていることを若干後悔する。元々年齢以上に幼く見える少女だが、俺を見てキョトンとした表情を浮かべている綾乃はさらに幼く見えた。
ヴィゴに誘われて、というか半分誘拐され、約一年。有千夏と再会し、世界各地を旅した。今日もその一部。日本で行われたトーナメントに出場するため、一年ぶりに推はこの国に帰っていた。
予選を通過した選手は数日の休養が与えられる。少し前の彼なら友人と旧交を温めたり、家族に会いに行ったりしただろうが、今の推にそんな事をする気は全く起こらない。休みと言ってもバド以外何をしていいかわからなかった彼は自主トレの後、適当にホールを歩いていた。
そんな時に偶然執り行われていた全日本女子ジュニアバドミントン大会。音に誘われるがままに入ってしまったのが運の尽き。知り合いが二人出場していた。
───綾乃ちゃん
羽咲綾乃。子供の頃通っていたバドミントンスクールにいた少女。足捌きやラケットワークに非凡なものを持ち、何より羽根に愛されている音を持っていた女の子。無邪気で華奢で母親が好きで、少し残酷。それが覚えている限りの綾乃ちゃんの印象だった。
そんな彼女は今、中学生になり、あの時よりは随分と大きくなってこの大会に出場していた。苗字は神藤になっていたけど、顔はそこまで大きく変わっていない。一目であの子だとわかった。足捌きで。スタイルで。なにより、羽根の音で。
スクールの頃より大きくなったとはいえ、同年代の女子の中で比べても充分華奢な部類。そんな彼女が自分より圧倒的に体格で勝る相手にスコンクでワンセット取っている。スタイルはディフェンシブ。相手に希望すら見せずに殺す絶対防御型。スカウト評で表すなら特Aクラスのコントロールとスピード、そして反応を武器に敵の全てを封じ込める。巧みなラケットワークと繊細なテクニック、そしてセンスを必要とするそのスタイルはあまりに脳裏に刻まれた全盛期のアイツに似ていた。
───上背がない分、攻撃力で若干劣るが、そこはコントロールでカバーしてる。綾乃ちゃん……上手くなった
けど強くはなってない。バドを見るまでもなく、表情を見ればわかる。プレーに熱が、血が全く通っていない。恐らく彼女は今、自分が誰と戦ってるかわかってないだろう。たとえ負けたとしても、対戦相手のことは殆ど覚えていないはずだ。わかる。自分がそうだったから。俺もインハイ決勝の立花さん以外、誰と戦ったかなんて記憶にない。
試合が終わる。結局スコンク。全日本ジュニア準決勝の結果としてはあり得ないと言ってしまいたいくらいの大差。
試合後に大きくため息を吐く彼女を見て、多分決勝はやらないだろうと確信した。実を言うと決勝観たくて来たんだが、もうそれどころではなくなってしまった。
───有千夏……思ったより重症だぞ、コレは
綾乃ちゃんの事については有千夏からある程度聞いている。アイツが間違ってるとも正しいとも思わないが、少なくとも今の綾乃には母親が必要だと思った。
───親がなくても子は育つ……けど、育てる人間は要るんだよな
この一年、コニー相手にコーチの真似事をしたからか。自分でも昔より丸くなった自覚はある。そして昔の自分が正しくはなかったとも思い始めている。歪んでいたとも。だからだろうか、俺と同じ、有千夏に作られた天才に少しお節介をする気になってしまったのは。結局後悔しているのだから、世話はないが。
「久しぶりだな、綾乃ちゃん。俺がわかるか?」
「…………推兄ちゃん?」
表情のない顔で俺を見て小首を傾げる。あどけない所作は子供の頃と変わらない。さて、何を話そうかと思いつつラケットを握った。
「バドミントン、しようぜ」
殆ど脳を経由せず出た言葉だった。
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進学とは己の将来の選択の一つである。
若く、多様な少年少女たちはこれから努力次第で何にでもなれる。彼らの前には無限の選択肢が広がっている。その数多ある選択の中で、自分の能力にあったモノ。自分の夢を掴むために必要なモノ。そういった諸々を熟考した上で、多くの人は進学という道を選んでいく。
しかしそれも中学、高校までは割と自由だ。明らかに身の丈に合わない学校へと進む者も多くいる。能力だけで言えば、もっと上を目指せても、友達と学校生活を過ごしたいからと地元の中学高校に進学することもしばしばだ。勿論それも間違いではない。未来の選択において、失敗など人生の最後になってみるまでわからないのだから。
しかし、この選択肢の意味が一気に重くなる時がある。
大学。この進学は友達がいるからとか、そんな理由では片付けられない。学生でいられる最後の4年間。社会人となる前の最後の時間をどこでどのように過ごすかで人生は大きく変わる。故に大学受験とは高校受験などとは比較にならないほど重圧と責任が襲いかかるのだ。人生で初めての関門と言っても過言ではないだろう。
だがそれ故にその門を潜り抜けた後のリターンは大きい。
中学高校とはまるで桁が違う規模の大きな校舎。広い敷地に、充実した設備や研究施設。そして集う多様な人々。大学では同年代だけでなく、三十代四十代の人が同級生になることもある。もっと言えば宗教や人種すら違う人もいるくらいだ。
充実した施設。多様な人々との出会い。それら全てが社会に出る未来の自分を形作る場所。それが大学だ。
勿論この神奈川体育大学も例外ではない。選手を志す者。また選手をサポートする道を模索している人。この学校で学ぶことに、スポーツに関わりがないものは無い。
───まさか高校中退した俺が、大学の門をくぐる日が来るとは
もし何かが違えば、俺もこういった学校の門を叩いていたかもしれない。そう思うと少し妙な気分になった。
「推さん!」
地図に従い、体育館へと歩いていると、少女が駆け足でこちらに来る。短く切り揃えた黒髪に鍛え抜かれた細身の肢体。見る者が見ればその走り方だけでかなりのアスリートだと気付くだろう。それもそのはず。彼女は日本屈指の名門フレ女バドミントン部主将、志波姫唯華なのだから。
「出迎えありがとう、唯華ちゃん。遅くなってごめん」
「お待ちしてました。でも大丈夫ですよ。まだ皆ウォームアップ中ですので。こちらへ………ちなみにコニーは?」
「北小町がまだ来てないってわかったから別行動。練習開始までには戻ってくるって言ってた」
「…………大丈夫なんですか?」
「あいつのワガママに一々付き合ってられるか。あれだけ望んでた神奈川遠征なんだ。バドやりたくなったらそのうち来るだろ」
「そんなお腹が空いたら出てくるだろみたいな……」
「概ねそのレベルだ」
体格は卓越しているが、精神年齢は本当に10歳児。10歳の戯言に一々取り合っていられない。
「推さん」
「ああゴメン。案内頼むよ、キャプテン」
「君は練習に戻ってくれ。彼の案内は俺がするよ」
いつのまにか唯華ちゃんの後ろに人が来ていた。体格のある男性だ。袖口から見える筋肉は明らかに戦うため作られたものだとわかる。それも当然だろう。日本から長く離れていた推でも知っている、世界ランキング8位の選手なのだから。
「お久しぶりです。赤羽さん」
「今度はちゃんと覚えてたか。益子」
赤羽玲二。北小町高校バドミントン部OBにして、世界ランキング8位。推は現在全日本U19の日本代表だが、赤羽玲二はA代表。推らオリンピック代表候補達の中でも頭一つ抜けた存在。
───神奈川体育大学に来るんだから会う確率はあるかな、と予想はしてたが……ホントに会うとは
「推さん、お知り合いだったんですか?」
「ああ、何度か海外の大会で会った。戦績は確か…2勝1敗だったと」
「違うな。お前の3勝1敗だ」
「……そうでしたね」
指摘を受けた推はバツの悪そうに顔を逸らす。彼にしては珍しい表情だ。そこそこ長い付き合いの唯華すら初めて見た。
(何かあったんですか?)
(…………大した事じゃないよ。赤羽さんとはインハイの準々決勝でやったんだが、俺がそれを忘れてるってだけで)
耳打ちしてくる唯華に小声で返す。そう、この二人の初対決はインターハイの準々決勝。ベスト4を賭けた試合だったのだが、この時の推は目の前の選手など踏み台程度にしか考えていなかった。インターハイに出たのは高校1年生時の一度だけだが、そこで戦った相手について、推は立花さんしか記憶にない。
───それでも『アンタ誰』はダメだった…
初めて再会した公式戦で推は馴れ馴れしく話しかけてきた赤羽にこの台詞を言ってしまっていた。
(推さんが悪いです)
(わかっとります)
正直なところを言えば、唯華にも覚えはないわけではない。他校の選手で相手はこっちを知っててもこちらは知らないというケースは何度かあった。しかしそれも無理ないことだろう。練習試合を含めれば唯華の戦績は高校から数えても軽く百を超える。その中で印象に残る選手と残らない選手というのは確かに存在する。唯華とて今までの対戦相手全て覚えているかと言われれば微妙だ。
しかしインターハイベスト8以上となってくると話は大きく変わってくる。全国常連のメンツは嫌でも頭に入っているし、例え忘れていたとしても、相手が自分のことを知っている様子だったならば、こちらも相応に振る舞っただろう。少なくとも『アンタ誰』は言わない。年上なら特に。
「ウォッホン。悪い益子。別に責めるつもりはなかったんだ。ほら、中に入ってくれ。もう皆アップ終わる頃だから」
「ありがとうございます。というかなんで赤羽さんが此処に?男子選手のコートは別でしょう?」
「実はもう一人俺の知人が来るはずなんだがよ、まだ来てねえんだ。そいつを案内してやんなきゃいけねえの」
「そうですか」
「その後でよければワンゲームやっていくか?俺と」
「遠慮しておきますよ。決着は全日本でつけましょう」
前哨戦という意味ではこれ以上なく最適な相手だが、こんな直近に試合が迫っているというのにわざわざ手の内を明かす気にはならない。
「なあ、益子。一つだけ聞いていいか?」
「答えないかもしれませんが、どうぞ」
「…………お前はなんでフレ女でコーチなんかやってんだ」
「調整ですよ。全日本に出るための」
「お前ならNTC使えるだろ。なんでわざわざ…」
「秘密です」
指を一本立て、片目を瞑る。ウィンクは海外では日常的な所作の一つ。コニーも推の影響を大きく受けているが、推も彼女にうつされた仕草はいくつかあった。コレもその一つだ。
「…………わかった。じゃあ全日本でな」
「ええ、決勝で会いしましょう」
遠ざかる背中を少しだけ見送る。なぜか少し赤くなってる唯華を連れて体育館へと入った。
▼
「今日は皆さん、よく集まってくれました」
体育館を貸している大学バド部監督が全体に挨拶をする。ウォームアップを済ませた選手達はまずゲームをしようということで、監督及びコーチ達によって組まれたドローに従い、試合をすることになった。その対戦表はホワイトボードに大きく貼り付けられている。組み方は基本的にランダム。高校生vs高校生は勿論、大学生との対戦も満遍なく振り分けられている。
「すみませーん!遅れましたー!」
大きな声と共に締め切られていた体育館の扉が勢いよく開く。女教師らしき人を先頭に、バド部員が数名体育館へと入ってきた。
皆来ると予定していた北小町高校の部員達がやっと来たか、と認識し、特に驚きはしなかった。そしてその推察は当たっている。
しかし推は驚愕する。思いがけない人物が三人も居たからだ。
「あ!?ウソ、益子くん!?」
「益子!?」
「…………推兄ちゃん?」
選手達の前に立つ監督、コーチ陣の中でも一際若く、存在感のある推は特に目立つ。三人の知人はあっという間に燻んだ金髪の美青年が誰かを見抜き、そして青年もまたその三人が誰かわかった。
「───美也子先生、立花先輩………綾乃ちゃん」
「え?この子が……アヤノ」
遅刻してきたくせに、何も悪びれないコニーの声が体育館に響いた。
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