二日目の目覚めは悪いものではなかった。
空はまだ薄明りの中、あれだけ騒がしかった虫たちも、今は鳴りを潜めている。
『夏は夜』とは言うけれど、昔から自分はどの季節も『つとめて』の時間が好きだった。それがなぜかと言われると何とも説明が難しいのだが、あえて言うのであればピンと張った空気感が好きだから、であろうか。
冬となればそれは鋭利な刃物を連想させるものではあるが、今の季節はもっと穏やかな感触を持って自分の肌を撫でてくれる。冬は冬で良いのだが、夏も悪くはない。
いつの間にか横に押しやられていた薄い掛け布団を横目に、ゆっくりと体を起こす。ぼんやりとした視界には、見慣れない部屋が映っていた。
少し考えて、ああそうか、と独り納得する。
ベッドから足を出して、フローリングに触れる。やはり、刺すような冷たさとは無縁のものであった。そんな当たり前のことに安堵しながら、洗面所へ向かう。さらけ出された足の裏と床によって生まれるなんとも間抜けな音が、付いてくるように追いかけてくる。
昨日のうちに置いてあったタオルの位置を横目で確認しながら、水を出して両手で掬う。顔をこれでもかと濡らした後、手探りでタオルを手繰り寄せ、水滴を拭き取った。
「ふぅ……」
これで一息。
次いで、歯ブラシを取り出す。
これらの動きは日ごろからルーチンとしている故に、全く流れが滞ることはない。
手早く歯磨きを済ませると、今度は着替えである。とはいえ、この時間から憲兵の服に着替えるわけではない。運動しやすいような、トレーニングウェアを身に着けるのだ。
肌に張り付くような感覚に満足しながら、まだ太陽の覗かない鎮守府の敷地へ足を伸ばす。
通り過ぎる空気は涼しさを感じさせ、数時間後には耐えられないほどの熱波となることが信じられないほどだ。
――さて、と独りごちながらストレッチを始める。
これも順番、ルーチンが存在する。
ルーチンというのは大切だ。心や体のスイッチを入れ替えるための、良いきっかけになる。朝起きて顔を洗い歯を磨く。そしてようやく目が冴えるという人も少なくないはずだ。
例えばサッカーのPKで何回足踏みして助走をつけてから蹴るとか、陸上競技に出る前にどんな音楽を聴くだとか、そういう『きっかけ』を自分で作るというのはとても大切で、それさえやればパフォーマンスを最大に近い値まで持って行くことも可能になってくる。
自分の場合は起きてからストレッチや運動も含めたルーチンが朝に存在するので、その順番も決まっている。
とはいえ、動的ストレッチ・筋力トレーニング・有酸素運動・静的ストレッチの順番なので、おそらくそれほど周りと変わらないのかもしれないが。
簡単にストレッチを済ませ、腕立て伏せや腹筋などを30分程で終わらせる。さて、それじゃあ走るかとスポーツ飲料を飲んだところで、建物の陰からひょっこりと顔を出す人影に気付いた。
「ん? 誰だ?」
「や、朝から頑張るねぇ」
そうして、それこそひょっこりと姿を現したのは、水兵服、つまりはセーラー服を着た黒髪の少女だった。長い髪の毛はわりとぼさぼさで、寝起きで急いで着替えて出てきたかのようだ。まあまさか女の子がそんなことをするはずないと思うのだが。だが、いつもは結んでいる一本の三つ編みも、今は解かれているようだ。
「おはよう北上、どうかしたか?」
「んや、憲兵さんが窓から見えたもんでね。ちょっと冷やかしに」
「そうか。ちょうど体が温まって来たところなんだがな。冷やすのはもう少し後にしてくれると助かる」
「布団が吹っ飛んだ」
「それはなかなか冷えそうだ」
「アルミ缶の上にあるミカン」
「凍えそうだ」
ふふっ、と北上は微笑んだ。
「ここで見ててもいい?」
「もちろん構わないよ」
そう言い残し、鎮守府前の広場を走り出す。
そもそも数が多いせいか、この広場自体もなかなかのものである。学校のグラウンドくらいはあるのではないだろうか。ここで全員揃って朝礼でもしたら、それはそれは壮観だろうと思う。
そんなことを考えながらぐるぐる回る自分を、北上は小さい段差に座りながら、両手で頬杖をついて眺めているだけだった。果たしてそれは楽しいのだろうか。聞いてみたい気もしたが、聞いてはいけない気もした。
短い息を連続して吐き出しながら走る。少しずつ明るくなる空は赤紫色をしていた。鎮守府では当たり前だが、潮の香りがする。だが、不思議と特有の粘質の空気は感じなかった。時期によるものなのか、時間によるものなのかは分からないが、運動するにはとても良いなと感じた。
「結構走るんだねぇ」
20分程走って帰ってくると、北上にそんなことを言われた。
「そうかな。あまり走っても逆効果だし、これから仕事が待ってるからな。これら全てが今日一日の前にするストレッチみたいなものさ」
そう言いながらも足を止めることはしない。ゆっくり歩きながら息を整える。そして、最後のストレッチに入る。
ゆっくり、ゆっくりと体を伸ばし、乳酸が溜まらない様に注意する。このタイミングでヨガでもすればいいのかもしれないが、そこまで時間も取ってられない。簡単にではあるが、丁寧に筋肉を伸ばす。
「いやはや、憲兵さんはこれ毎日やるつもりなの?」
「そりゃそうさ。怪我や病気にならない限りはやるさ。体が資本とはよく言うだろう?」
「まぁ、ねえ」
何やら感心しているようだ。
しかし、これでもやっていることは訓練生時代とは段違いだ。あの頃は当たり前だが訓練漬けといって過言ではなかった。
「さて、終了っと。そろそろ自分は戻るが、北上はどうするんだ?」
「んー、どうしようねぇ」
北上は座ったまま中空を見つめた。
「そういえば憲兵さんって、門のところの守衛室に住んでるの?」
「ああそうだ。今は元守衛室で、現憲兵詰所といったところか」
「そうなんだ……」
そう言って少し考え込んだ。
と、もしかしてどんな部屋なのか気になるのではないかと思った、以前の守衛さんであれば艦娘のことを嫌っていたから、気になっていても近づくことは出来なかった。しかし、今住んでいるのは自分だ。室内が気になって見てみたいと思うことは何ら不思議ではない。
なるほど。それならばこちらから言い出してあげるのが筋だろう。
「なぁ北上」
「ん、なに?」
「自分の部屋に来ないか?」
「……え? …………んん!?」
◆◇◆◇◆◇◆
憲兵さんの部屋にお呼ばれした。
これは覚悟を決めた方がいいのだろうか。
「すまない北上、先にシャワーを浴びてくる。少し待っていてくれ」
「ひゃ、あ、はい……」
え、なんでこんな事になってんの。助けて大井っち。あ、駄目だ今いないわ。
などと頭は混乱していたが、どこか冷静な部分が部屋の中を観察していた。
奥のフローリングの部屋にベッドが置かれ、その上に薄い掛け布団が掛かっている。きっとあそこで憲兵さんが寝ていたんだろうな。そう無意識に思ってしまった瞬間、顔が急に熱くなってきた。
経験はなくとも、知識はあるのだ。何の、とは言わないが。
ただ、一度意識してしまうといろんなことに目がいってしまう。寝室はそのフローリングの部屋だろうが、もう一つの扉の先には何があるんだろうとか、今自分は椅子に座っているが昨日は憲兵さんがこの椅子に座っていたんだろうかとか、そもそもこの部屋憲兵さんの匂いがするとか。
「……いや待って。憲兵さんは今シャワーを浴びているんだよね。当然裸だよね。もし、いやたとえばの話だけれど、突撃したらシャワーを浴びている憲兵さんがいるってこと?」
当たり前である。
「ちょっとまってそれはやばい」
何を待つのだろうか。
ゆるりとバスルームを見た。わずかにオレンジ色の光が漏れ、水の流れる音がする。
心臓が爆発しそうだった。こんなに自分が男に対して免疫がないとは思ってもみなかった。確かに男はごまんといるが、自分にはほとほと縁のない存在である。それは鎮守府全体に言えることであり、当然自分もその中に含まれている。
誰だって一度は妄想する王子様のような存在。艦娘である自分にはあまり想像は出来ないが、例えは眉目秀麗な男性が提督として現れ、自分を上手く使ってくれて、時に心配もしてくれて、『ありがとう、君のおかげで暁の水平線に勝利を刻むことが出来たよ』なんて言われて抱きしめられたら。
そんなことを想像しないわけではない。
「いやいや、それはないって分かってるけど……でもぉ……」
「何が分かってるって?」
「いひゃぁぁぁぁあ!!??」
勢いよく椅子から転げ落ち、尻もちをついた。
「いったぁ……」
「す、すまない。そんなに驚くとは思っていなかった。大丈夫か?」
そう言って差し出された手を掴み、立ち上がる。
「怪我はしてないか?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとー。……もー、急に話かけられたらびっくりするじゃん」
「本当にすまない、自分も気を付けるべきだったよ」
あ、と思う。
今憲兵さんと手を繋いでいないか?
先程までシャワーを浴びていたせいか少し体温が高めだった。それに、昨日も思ったがずいぶんと綺麗な手だ。
「あの、北上」
「ん? どしたの?」
「手はいつ離してくれるんだ……?」
ハッと気付き手を離す。うう……無意識だったぁ……。
「ご、ごめんね。嫌だったよね」
「嫌ではなかったが……少し照れ臭いな。気分を換えよう。コーヒーでいいか?」
「あ、うん。ありがとね」
やってしまったと思うと同時、嫌ではないという憲兵さんの言葉に頬が緩む。
昨日から夢を見ているみたいだ。自分たちの様な残念極まりない姿をしている兵器に対してこんな優しくしてくれる、しかも異性がこの世に存在するなんて、一体誰が信じられるだろう。
今現在ほかの鎮守府に演習に行っている大井っちならどういう反応をするだろうか。演習組が帰ってくるのはもう少し後になるので、その時が楽しみだ。
「インスタントですまない。砂糖はどうする?」
「あ、一本あれば十分だよー」
「分かった」
つい、と出されるコーヒー。朝からこんな穏やかな気持ちでコーヒーをゆっくり飲むなんていつぶりだろう。いや、むしろ初めての経験かもしれない。
憲兵さんは自分の対面の椅子に座りながら続けた。
「本当はサイフォン式の抽出機はあるんだが、いかんせん後処理が面倒でね。買ったはいいがめったに使わないんだ」
「へぇ、良く持ってるねぇそんなの」
「昔そういうのに憧れた時期があってね。だが、確かに美味しいコーヒーは出来る。いつか御馳走しよう」
「おお、それは嬉しいねぇ。楽しみにしておくよ」
先程までの焦燥はすっかり消え、手元の黒い液体をのほほんとすする。どこかの高速戦艦は紅茶党だが、自分はどちらかというとコーヒーの方が好きだ。
と、その時机の端からひょっこりと顔を出す存在がいた。自分たちにはなじみ深い妖精さんだ。
「あれ、妖精さんじゃん。なんでこんなとこに?」
普段妖精さんは入渠や改装、あとは艤装なんかと一緒にいる事が多く、その他鎮守府内で見かけることはそんなに多くない。執務室で見かけることもあるが、それも多い事ではない。
「おや本当だ。なにか食べるか?」
妖精さんがこくこくとかわいらしく首肯した。
憲兵さんが椅子から立ち上がり、隅に置かれた荷物へと向かう。どうやらお菓子の様なものを探しているようだ。
その間に、自分は妖精さんのほっぺたを指でつついて遊ぶ。妖精さんは猫のようで、こういうスキンシップは度を越えなければ許してくれる。自分は度を越えたことがないから分からないけど、長門さんあたりが触りすぎて怒りを買ったことがあるはずだ。どうやら主砲担当の妖精さんだったらしく、三日後にお菓子を貢いで許しを請うまで主砲が撃てなくなったらしい。
今でも思い出す。あの謝り倒す情けない長門さん……ではなく、それを後ろから極寒の目で見る陸奥さんを。絶対零度の目とはああいうものを指すんだろう。知りたくなかった。
「はいどうぞ。他の妖精さんと分け合って食べてくれ」
憲兵さんが何が渡すと、妖精さんは音が出るような敬礼をしたあとそそくさと去っていった。
「なに渡したのさ?」
「妖精と言えば金平糖だろうさ」
なるほど。確かに小さくて甘くて妖精さんにはぴったりだ。
しかし、やはり憲兵さんには妖精さんが見えるわけで、提督をしていないのがもったいなく感じてしまう。それでも憲兵をしていたからここにやって来てくれたわけで、どちらが良かったとは言えないが。
「ところで北上」
「ん、どうしたのー?」
「会った時から思ってたんだが、なぜそんなに髪がボサボサなんだ?」
あ、と思い出した。
なんとなく目が覚めて窓の外を見たら憲兵さんがいて、急いで着替えて来たんだった。そのせいでいつもは結んでいる後ろ髪の三つ編みも、今は乱雑に広がっている。
まって、それは拙い。というか恥ずかしい。
「ちょ、まって、見ないで!」
「え、ああ、すまない……?」
憲兵さんが顔を背けている間に慌てて手櫛で髪を整えるが、慌てているせいかうまくまとまらない。
普段あまり気にしていないものだから、すっかりと忘れてしまっていた。とはいえ、自分の髪はどうやらストレートが基本の髪質らしく、いつもであれは少し髪を梳くだけで直る。ストレートが嫌いというわけではなかったし、別に誰が見ているというわけでもなかったから適当に結ぶくらいで日々を過ごしていた。
だが、今日の髪の毛はなんだか手ごわい。湿気でもあるのだろうか。ということは今日は雨予報だったり?
混乱ここに極まれり。思考回路が勝手に脱線していく。
「大丈夫か?」
「う、うーん、寝ぐせかねぇ。なかなか直らないや」
「ちょっと待っててくれ」
すくっと憲兵さんは立ち上がり、洗面所へと消える。と思ったらすぐ帰って来た。
その手には謎のスプレー。
「なんなのさそれ」
「洗い流さないトリートメント兼寝ぐせ直しだ」
なんだそれは。自分たちが知らない間に外の世界ではそんなものが売られているのか。
「トリートメントにこだわりがないならこれを使うか?」
「……そうだね。貸してくれるの?」
「ああ、使うといい」
そう言うと憲兵さんは洗面所から櫛を持って来てくれた。なんでもあるんだねここ。
しかし、スプレーを自分の髪にかけた経験があまりないため、どうにもやりづらい。後ろ髪とかどうやってかけたらいいんだろう。
そうしてまごまごしていると、ついに憲兵さんが少し困った顔で口を出した。
「ある程度かければあとは櫛でなんとでもなるんじゃないか?」
「いや、なんかこうちゃんとまんべんなくかけないと、なんか嫌じゃない?」
「わかるけど……」
「にしても難しいねぇ。これ、こう、どうやって、んんん?」
はぁ、と憲兵さんは一息。
「嫌でなければ自分がしようか?」
「ん?」
うーん、その方が楽かもしれないなぁ。
「じゃあ頼んでもいーい?」
「構わないよ」
そう言うと、自分の手から櫛とスプレーを受け取り、ささっとかける。そして櫛で髪を撫でるように梳かれるが、それがなんとも慣れているようでへんにくすぐったい感じもなく、むしろ心地よいものだった。
「いいねぇ。こういうこと慣れてるの?」
「……いや、初めてかな」
そう言いながらもささっと寝ぐせが直される。本当に手早く、初めてというのが嘘のようだ。
そして、後ろ髪が三つ編みに編まれていく。
と、そこでなんとなく思う。これ、結局寝ぐせ頭を見られただけでなくその処理までさせて、ずいぶんと恥ずかしくないか、と。
「……ッ!」
急に顔が熱くなる。
それに、なんか早朝から一緒にモーニングコーヒーを飲んで、自分の寝癖を直してもらうって、ある意味自分の理想の男性像ではなかろうか。
「…………ッ!?」
しかもとどめに、この憲兵である。
性格はまだ分からないが悪くはなさそうで、顔も悪くなく、なにより自分たちに対して嫌悪感がまるで見られない。
以上のことからやはり理想に近い存在であることが分かる。
導き出される答えはなんだ。
「よし出来た。……ん? 耳が真っ赤だがどうかしたか?」
ふいに右の耳元で囁くように声がして、左耳が撫でられた。
限界。
「あ」
「えっ」
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
椅子を蹴飛ばし、自分の靴をひったくって外に飛び出す。靴なんか履いていられない。
撤退撤退撤退!!
視界の端に見えた、呆然とした憲兵さんなんて気にしていられない。とにかく今はこの溶けた鉄の様な顔を冷やさないと!
矢のように飛び出し、なりふり構わず自室へ直行する。何人かの子に見られた気はするが覚えていない。
自室から出てきた時と同じようなスピードで自室へ戻る。扉の閉まる音がやけに大きく響いた。
「はーっ、はーっ、はーっ、」
息が出来ない。体中が酸素を求めている。
まだ顔は熱い。……でも、悪い気はしなかった。
「はぁ、はぁ、ど、どうしよう……」
それよりもなによりも、ほっておけない問題がある。
扉に沿って腰を下ろし、両手で顔をおさえた。
「顔、合わせらんないよ……」
少女らしい、そしてなんとも可愛らしい悩みが、太陽よりも莫大な熱量で体を焦がしていた。