「なるほど、あなたが憲兵ね」
ある日のお昼前。突然話しかけてきたのは、茶髪でロングな北上の姉妹艦。
「こんにちは、初めまして」
礼儀正しく、それでいて情熱的な彼女。
「私が、来たわ」
大井が来た。
……来ちゃったかぁ。
「初めましてだね、自分は憲兵の小林だよ」
「球磨型の四番艦大井よ。重雷装巡洋艦です。昨日北上さんが大破したって聞いて急いで演習から戻ってきました」
「そ、そうか」
「……ふぅん」
え、なんなんですかね。その意味深なため息は。
昨日ひっそりと北上を抱きしめたのバレたのか。いや、だってこっちは泣きそうなほど心配してたんだから、あれくらい許されるはず。許して。
「なるほど、提督に聞いた通りですね。容姿に頓着しない方でしたか」
「ああ、そのことか。……そういえばマスクをしていないがいいのか?」
確か、普段からマスクをしている艦娘は多いはず。ここでは最初はしている子が多かったが、最近ではあまり見ない。
不知火がマスクしているのは知っているが、他ではほぼ見なくなった。
「マスク、ねぇ」
少し大井は考えるようなそぶりを見せた。
「私、あまりマスクって好きじゃないのよね」
「おやそれはまたどうして」
「だって息し辛いじゃない」
いや、まぁ確かに。
何とも極々普通の感想だった。
「それはそうと、北上さんの様子が私が演習に行く前とかなり変わっているんだけど、何か知らない?」
「……知らないな」
「ダウト。あんた以外に考えられないでしょう常識的に考えて」
いや、まぁ確かに。
以前の、というのを自分は知らないが、それでもいろいろあったから変わりもするだろう。
「それで、そのあたりの事を聞きたいんだけど今いいかしら?」
「いや、自分は今から巡回しようかと――」
「いいかしら?」
「や、あの――」
「いいわよね?」
「……ああ」
どの世界でも、きっと大井のこの押しの強さは変わらないんだろうなぁ。
「じゃあ憲兵さんのお部屋にでも行きましょうか」
「自分のか?」
「あら、私の部屋に来たいとでも?」
「……いや、問題ない」
「では改めて行きましょうか」
もう自分の部屋の位置は知っているようで、その方向に向けて歩き出す。守衛室だったものがそのまま自分の部屋になっているのだから、自明の理ではあるのだが。
お昼前の太陽が目に痛い。
しかしながら思うのは、腕を掴んで歩くのはやめてほしい。歩幅が合わないからちょっとこけそうになるし、……というか普通に恥ずかしい。
それに、もしかしたら自分には女性としての魅力がないとでも思っているのだろうか。だから大胆になっても大丈夫ということなのだろうか。
色気と下品をはき違えている者もまれにいるが、これは前者だろうな。おそらく天然だろうし、いい香りがするし。
くっそ、なんなんだよこの世界。自分にとっては生き地獄のようなものではないか。こんなに可愛い女性がいるのに、手を出せないなんて。……いや、そもそも自分は手を出せるような陽の者ではないし、結局どうであろうと無理だったのかもしれない。
「……なんでそんなどんよりしてるのよ。そんなに部屋に入られるのが嫌?」
「ちょっと自分の性格が嫌になってね……」
「なんでそうなったのよ……」
呆れついでにようやく腕を離してくれたが、まだ感覚が残っているようで気恥ずかしい。
二人で変な空気になりながら向かうは、自分の部屋。そこにお客が訪れるのは、北上に続き二人目だ。
あの時はまだ来たばかりで部屋も綺麗だったが、今は何日か経ってしまったので少し散らかっている。来るとわかっていればあらかじめ掃除もできたんだがなぁ。
スタスタと歩く大井の背中を見ながら思うのは、華奢な体だなぁということ。どこからどう見ても普通の女の子だ。それが海へ行って怪物と戦うんだから、世も末だ。
自分がそこへ行って戦えないのがもどかしい。なんとか自分で艤装を運用できないものか。
「大井は、今日は何も予定はないのか?」
「ほかの鎮守府に行ってまで演習してたし、今日は休みよ」
「そうか」
「本来なら北上さんとまったりする予定だったのに、どうも訓練があるらしくて、訓練場に行っているわ」
「ほう、なるほどな」
「なんでも3対1を想定した訓練らしいわ。何の意味があるのか分からないけど、北上さんがわざわざ提督に直談判してたから何かしら意味があるんでしょう」
それは珍しいな。北上って、あんまり訓練とか好きじゃなさそうなのに。今回の件で錬度を上げようと思ったとか、そういう感じなのだろうか。
「でも不思議よね。霞、川内、蒼龍の三人対北上さんなんて、意味あるのかしら」
んーーー、それは訓練っていうか、たぶん処刑じゃないかなーーー。
「さぁ憲兵さん、入らせてもらうわよ」
いつの間にか自分の部屋の前についていた。もうここまでくれば腹をくくるしかない。
腰から鍵を取出し、ドアを開けた。
「……んん、なるほど」
なんだなるほどって。
「お、お邪魔します……」
「? どうぞ」
なんだか、先程までとは大違いだ。借りてきた猫のように、警戒している。
そーっと中の様子を見回し、一歩、また一歩と進める。
ものすごく猫だ。
「いや、誰もいないから早く入るといい」
「誰もいない!?」
「まあそうだな。自分の部屋だし」
「いや、そりゃそうよね……二人っきりか……」
なにやらぼそぼそと呟いているが、いまいちよく聞こえない。
そろりそろりと入っていく大井に続き、自分も中に入る。途中入口のドアを閉めた時にビクリとしていた。
「その辺に座ってくれ。何か飲み物を出そう」
「あ、ありがとう。……ございます」
「何かリクエストはあるかい?」
「……ではコーヒーで」
「了解。北上と一緒だな」
以前北上が来た際に話題に上がったサイフォンだが、あれから個人的に一度使って、使いやすい場所に直しておいた。どうせだからこれを使ってコーヒーを淹れようか。
アルコールやらコーヒーの粉やらを用意し、ビーカーの下部に水を入れて火にかける。水が沸騰してきたら上部の蓋を閉める。すると沸騰した水が上に吸い上げられ、蒸されていたコーヒーと混ざり合う。少し待って火を消すと、再びビーカーの下へ水が戻る。そうして、コーヒーが出来上がるのだ。
なんだか小学校時代の理科の実験みたいで、見ている分には面白いが、やはり片付けが面倒な代物だ。
「砂糖は?」
「いらないわ」
「大井はブラック派だったか。なら自分も今日はブラックで飲もうかな」
「う、うん」
なんだか、本当に借りてきた猫だな。先程まで威勢がよかったのに、今ではしぼんだ風船の様だ。
「……そんなに緊張しなくてもいいんじゃないか? 別に取って食おうってわけじゃないんだから」
「や、まあ緊張というか、うん、まあ、そうよね……」
テーブルの上にコーヒーの入ったコップを置く。よく考えたらアイスコーヒーの方が良かったかもしれないが、基本ホットしか飲まないので頭になかった。
椅子に座った大井はそわそわとしていたが、コーヒーを一口飲むと落ち着いたようだった。
「それで、北上のことだったかな」
「あ、そうだった。あんた、北上さんになにしたのよ」
いきなり戻った威勢に、少し笑ってしまう。
「な、なによ」
「いや、元気になったなぁと思って」
「はぁ!?」
「そんなに怒らなくても……」
言いながら一口。うむ、美味い。
「でも、本当に自分は何もしていないよ。なんなら本人に聞いてみるといい」
「聞いたわ」
「どうだった」
「顔を真っ赤にしてた」
いや、それは疑われるわ。
「そうだなぁ……初日に抱き着かれて、」
「ふん。……ん?」
「早朝訓練で会ったときは、その後ここで一緒にコーヒーを飲んだな」
「んん……?」
「で、昨日の作戦では、帰ってきた北上を入渠施設前まで送ったくらいだな」
「えっと、いくつか聞いていいかしら」
なにやら頭を押さえた大井が、こちらにストップをかけた。
「初日に抱きしめられたの?」
「ああ。何かを確かめるためだったらしいが、詳しいことは聞いていない」
くっそ羨ましいわね……、と小声で聞こえてくる。なにやら恨みがましい目でこちらを睨みつけてくるが、自分に非を求められても困る。
手元に視線を移すと、淹れたてのコーヒーから湯気が立ち上っていた。その湯気ごと掬い取るように口をつけると、華やぐ香りが鼻腔に抜け、なんとも優雅な気分になる。
「で、北上さんはここに来たの?」
「ああ。自分が早朝訓練をしていた時に偶然会ってな。自分の部屋を見てみたいようだったので案内したよ。コーヒーを飲んですぐに帰ったけどね」
なにやらひと悶着あったが、これは言わないでおこう。
「その時はほかにだれかいた?」
「いや、二人だけだったよ」
「ちょっとあんたに殺意がわいて来たわ」
「ちなみに今大井が座っている椅子に座っていたよ」
「殺すのは最後にしてあげる」
ちょっとだけ許されたようだ。
「まぁ、分からないでもないけどね……」
「ん? 何がだい?」
「北上さんが心を許したのが、よ」
おっと、自分は北上から心を許されていたのか。少し恥ずかしいが、嬉しいの方が勝るな、これは。
照れ隠しにコーヒーに口をつける。立ち上り消えていく湯気と一緒に、自分の恥ずかしさも消えてしまわないかと願いながら。
大井を見ると、同じようにコーヒーに口をつけていた。こちらは本当に優雅に、まるでお嬢様のような居住いだった。気品、とでもいうのだろうかこれは。隠し切れない優雅オーラが出ている。さっき殺意がなんだと言っていたとは到底思えない。
「まあいいわ。なんとなく分かったし。……あんたのこともなんとなく分かったし」
「おや、本当かい?」
「たぶん嘘つくのが苦手でしょ」
「……そんなことはない」
そういうと、大井は初めて笑った。
――不覚にも、少し見とれてしまったのは内緒だ。
「とりあえずこちらから聞きたいことは以上なんだけど、逆にあんたは何か聞きたいことでもある?
「自分が?」
「ええ、ギブアンドテイクよ。こっちから聞くだけじゃ不公平でしょ」
なるほどなぁ。分からないではないけれど、別に今聞きたいことはないんだよなぁ。
あ、でもこれは聞きたいかな。
「大井はどんなコーヒーが好きなんだい?」
「コーヒー?」
うむ。
「いや、一応用意しておきたいじゃないか」
「……なんで?」
「? 次来た時に出すためだよ」
ガン。と、強めの音を出して大井の頭が机に落ちた。
え、凄い音だったんだけど。頭蓋骨割れてない?
「あ、あの、大井……?」
「……なによ」
「だ、大丈夫か?」
「……大丈夫よ」
大丈夫には到底見えないが。などと言ったら、じゃあ聞くなと返されそうだ。
「……ねぇ」
「うん?」
「また来てもいいの?」
なんのことだろう。自分の部屋にってことだろうか。
「当然構わないが。歓迎するよ」
「そう……」
沈黙。
時計の秒針の音が、少し響く。
しかし、なぜか居心地の悪さは感じていなかった。
少しののち、
「酸味がある方が好きよ」
と返ってきた。
「ん?」
「コーヒーの話」
ああ、なるほど。
酸味……酸味か……。
「そしたらモカかキリマンジャロでも用意しておこうか」
「そうね、ブルマンでもいいわよ」
「……まぁ買えなくはないが」
「嘘よ」
そういってようやく上げた顔は、少し赤かった。
「ごちそうさま。今度は北上さんと寄らせてもらうわ」
「ああ、待っているよ」
「あ、それと、北上さんはどちらかと言えば苦みの方が好きよ」
「それならマンデリンがあるから、今度はそれを出そうかな」
「……ちなみに今回はなんだったの?」
「ブレンドだよ。酸味も苦みもいい塩梅だったろう?」
「……確かに」
昔から贔屓にしているおじさんのところで買ったものだ。これからもここに輸送してもらおうと思っている。
基本的に自分はこのブレンドを好んで飲んでいるので、ここへ来ても配達してもらうよう依頼はしてあるのだ。
さて、といいながら大井が立ち上がる。
「落ち着いたし、私はそろそろ戻るわ」
「え、まだ一杯飲んだだけだろう? もう少しゆっくりしていけばいいのに」
ここにきてからまだ30分くらいしかたってないだろうに。用事があるなら仕方ないが、わざわざここまで足を運んで来てあまりおもてなしもできずに帰すのは忍びない。
時計を見れば、なるほどいい時間かもしれない。
「どうだ大井。お昼はここで食べて行かないか」
「ここ……、ってあんたが作るの?」
「ああ。こうみえて料理は得意なんだ」
大井が上げかけた腰をもう一度椅子に落とし、少し考える。
沈黙。
沈黙。
……えらく長考だな。そんなに自分の料理が心配なのだろうか。
「よし」
なにがよしなんだろう。
「北上さんには悪いけど、お昼いただくわ」
なんで北上に悪いのだろう。
まあ自分だけ食堂ではなく特別なお昼御飯だから申し訳ないとかそういう感じなのだろうか。とはいえ、食堂はあの鳳翔さんが作っているのだから、すべて絶品なのは間違いない。しかし、たまにはこういうのも悪くなかろう。
「わかった、少し待っていてくれ。……ちなみに食べたいものはあるか?」
「んー、なんでもいいわよ」
「了解だ」
では、お嬢様のために何を作ろうかな。
頭の中で献立を考えながらそんなことを思っていると、ねぇ、と後ろから声を掛けられた。なんだ、と少しおざなりに返す。
「ありがとね、小林さん」
「……どういたしまして」
突然のことに、一瞬思考が停止した。
初めて名前を呼ばれたせいか、恥ずかしくて顔をまともに見れない。しかしそれは大井も同じだったのかのかもしれない。
食器ガラスに反射した大井の顔は真っ赤な林檎のようになっていて、しかしその幸せそうな笑みはなかなか忘れられそうになかった。
私には、どうもあの爆裂した大井さんは書けない。案外淑女なイメージです。
では皆々様、良いお年をお過ごしください。