朝。いつものように走ろうと準備運動をしていると、ふと視界の端から見知った人物が歩いてくるのが見えた。
「やあ不知火、おはよう」
「おはようございます、憲兵さん」
とてとてと近くまでやってくると、すとんと近くに座った。
準備運動を止めることなく、視線を向ける。
「朝早いね。何かあるのかい?」
「いえ特に。しいて言うなら憲兵さんの訓練を見てみたかった、という感じでしょうか」
それはちょっと嬉しいようなむず痒いような。まぁ嬉しいとしておこう。
そうかい、とだけ返してランニングを始める。不知火なら一緒に訓練をとでも言うかと思ったが、艤装がなければただの少女だし、今までろくに訓練できなかっただろうから、暫くはストレッチとかにしておいた方がいいのかもしれない。
そして朝の静かな空気に響くのは、自分の走る音と波の音だけ。
それもそこまで時間のかかるものでもない。ある程度で済ませて、歩きながら息を整える。
「どうぞ」
「ん? ああ、ありがとう」
いつのまにか不知火がすぐそばまで来ており、自分が持ってきたドリンクボトルを差し出した。
とりあえず一口だけ飲み、閉じる。すると不知火が手を出したので、少し考えてからドリンクボトルを渡すと、それを受け取り先程座っていた位置まで戻っていった。
なんなんだこれ。
ある程度歩いてから不知火がいる場所に戻ると、目が合った。
「どうかしたかい?」
「……いえ、特に」
本当に何なんだこれ。
あまりずっと見ているのも気まずいので、不知火の隣に腰かける。いつかのように、少し静かな一瞬が訪れる。あの時隣にいたのは北上だったな。
そんなことを考えていると、不知火が息を吸う音が聞こえた。
「私は、朝のこの一瞬が嫌いです」
「ほう、それはなぜだい?」
「こんなこと言うと笑われてしまうかもしれませんが、世界に独りぼっちになってしまったみたいで」
朝の静かな一瞬。
時折訪れる、風の音も虫の声も鳥の囀りもなくなってしまう一瞬。
そのことを、不知火は言っているのだろう。
「……ああ、なるほど。それは分かる気がするなぁ」
「分かって下さりますか!」
「あ、ああ。……でも、絶対にそんなことはないから、それが分かってるから自分はこの空気が好きだなって思えるんだ」
不知火は意味が分からなかったようで、首をこてんと傾けた。頭の後ろでポニーテールが揺れる。
その様子に少し笑みが零れる。
「確かに、朝の誰もいない何も聞こえない一瞬っていうのは、酷く孤独かもしれない。でも、他の場所では当たり前のように誰かが布団の中で眠っているし、誰かが海の上で警戒しているし、それにきっと食堂では鳳翔さんが朝食の下ごしらえをしているだろう」
不知火が神妙な顔でこちらの目を見る。
「長い人生、どこかで孤独を感じることもあるだろう。でも、この瞬間は絶対に独りじゃない。孤独だと感じてしまうこの一瞬は、実は間違いなく孤独じゃない。そう考えると、悪くはないなと自分は思うんだよ」
難しいかな、と問うと、難しいです、と答える。
それでもいいかなと思う。
答えは結局自分で出すしかないし、こっちの考え方を押し付けたいわけでもない。ただ、考え方の幅が広がればいいな、と願うだけ。
それが助けになったのであれば、それは勝手に助かっただけ。こちらは助けようにも助けられないからだ。
そんなことを考えながら再び騒がしくなった世界に耳を傾けていると、また不知火から視線を感じた。
なんでもなさそうな顔をしていたが、不知火は少し考えておそるおそるといった感じで再度口を開いた。
「……実はですね、少し相談に乗っていただきたいことがありまして」
「不知火が自分にか。いいよ、どうしたんだい?」
珍しいこともあったもんだ。が、これが今日ここに来た本題なんだろう。
あの一件があってからというもの、ほどほどに交流はあったが、こういった話は初めてだった。
「私の部屋は以前までは一人だったのですが、少し前に相部屋の人が帰ってきまして」
「あ、そうなんだ。上手くやってるかい?」
「……まぁそこが相談の内容なのですが、ちょっと押しが強い人でして、私としては大変苦手な部類なんです。どうにかできないものかと」
「なるほどね、不知火は今まであんまり深い交流はしてこなかっただろうしなぁ。で、誰なんだい?」
「大井さんです」
―――……ああ、なるほど。
「自分にできることはなさそうだ」
「そんな!?」
「頑張って生きてくれ」
「ちょっとその言葉は涙が出そうになるほど嬉しいんでやめてください」
言ってほしいのかやめてほしいのか微妙なラインだなこれ。
というか、さらっと出た言葉が不用意に闇に触れるのやめてほしい。
「すまない。で、大井だったか。問題あるのか?」
「いえ、なんでしょう、私をただのコミュ症として扱っているかのようでして、あっちこっち連れまわされたり、やたらと構ってきたりするんですよね。ありがたいと言えばそうなんですが、戸惑いの方が正直大きいです」
なるほどなぁ。でもおそらく、大井が何も知らないということはないだろう。彼女もなかなか頭のまわる子だ。何も知らないように見せて、誰より一番深くまで知ってそうな感じはある。
今回がそうとは限らないが、しかし大井の基本的な行動原理は北上にある。基本的に姉妹を大切にするのはよく見る光景だが、大井の姉妹愛は他よりも強い傾向にある。
それにもかかわらず不知火とよく一緒に行動するということは、穿って見れば北上に良く見られたいという見方もできるが、……単純に不知火を気遣ってのことだろう。
いやはや、分かりづらい愛情表現をする女の子だ。
「不知火はどう思ってるんだい?」
「先ほども言いましたが戸惑いが大きいのはあります。……ですが、それ抜きで俯瞰的に考えれば、……恥ずかしい話ではありますが、とても安心感はあります」
うつむく不知火の顔に、うっすら笑みが浮かぶ。
「あの方はとても私を大事に見てくれます。あちこち連れまわされたと言いましたが、実際にはこちらが行きたくないとか、今は話したくないと思ったことが筒抜けであるかのような動きをします」
ポーカーフェイスには自信があったんですけどね、と小さな声で零す。
「だから、なんと言っていいか表現に迷いますが、……母のような、そんな雰囲気があるというか――」
ほほう。
「そうなんだね」
「――いえ、今のは取り消してください。想像でしか母の像はありませんし、なにより本人に聞かれたら恥ずかしくて気絶しそうです」
「はっはっは、顔真っ赤だね」
「……性格悪いですよ憲兵さん」
「そうかな。まぁ大井が母とはまた面白い評価を聞けたものだ。言われてみれば確かにあの世話焼きで面倒見のいい女性は、母と呼ぶにふさわしいだろうさ」
「だからやめてくださいと」
まだ笑みが漏れそうではあるが、これ以上笑えば不知火に怒られてしまいそうだ。
「そう思えるなら答えは決まったようなもんだろう。少しの間、大井に連れ回されておくといい。そこから広がる世界もあるだろう。今君に一番必要なことを大井はしてくれているよ」
不知火は少し考えて、そうですね、と小さな声で頷いた。
「ではそうしてみます。ありがとうございます、憲兵さん」
そう言って不知火は立ち上がった。
「少しくらいは役に立ったかな」
「はい、少しと言わずとても。ですが、分かったことがあります。……憲兵さんは案外意地悪なんですね」
いたずらっ子のような笑みだけ残して、不知火はそのまま歩き去って行った。
本当に相談に来ただけのようだ。どうせなら北上や大井のようにコーヒーでも飲んで行くのかと思っていた。
「……ほんと、コーヒーくらい飲んで行けばいいのに。――なぁ、そう思うだろう?」
ガサガサッ
「……いや、出てきたらどうだ大井」
「……………なによ」
頭に葉っぱをつけて、顔を真っ赤にした大井が後ろに立っていた。
「盗み聞きはよくないなぁ」
「……悪かったわよ」
珍しく素直な大井は、横に来てさきほどまで不知火がいた場所にすとんと腰を下ろした。
「良かったじゃないか」
「うっさい」
なんともつれない態度だ。いや、こうしたのは自分が原因だけれども。
「これは不知火と同意見になるけど、性格悪いでしょ憲兵さん」
「そんなことないさ。いつだって君たちの力になりたいと思っているよ」
「絶対嘘よ」
「ちょっとだけ嘘。仲良くなりたいとも思ってる」
「けっ」
「やさぐれてるなぁ」
「誰のせいだと」
「不知火か?」
「あんたのせいよあんたの!」
ぷんすこ拗ねて膝を抱える大井。なんというか、こういう時の大井はいじりたくなるんだよなぁ。
とはいえ、このままでは遺恨も残ろうというもの。機嫌を直していただかなければ。
「すまない、ちょっと悪ふざけが過ぎたようだ。許してくれないか?」
「つーん」
え、それ言葉で言うの? 可愛い過ぎない?
「……まぁ、あれだ」
未だに大井の髪の毛に付いていた葉っぱをとりつつ提案する。
「今ならブルーマウンテンを出してやろう」
「出してやろう? 出させていただきますの間違いじゃないの?」
「いらないか?」
「……もう! いるわよ!」
勢いよく立ち上がり、そのまま歩いて行く大井。どうやらこれで許してもらえそうだ。
不知火の一件は色々と大変だったが、これで落着だろう。大井という素晴らしい女性がついているのだから、不知火もこれからきっと元気を取り戻していく。
それはとても嬉しいことだ。
「ほら早く行くわよ! あんたの部屋に行くんだから、鍵がないと入れないじゃない!」
少し遠くまで行った大井が、腰に手を当ててこちらを振り返っている。
その光景に少し笑みを浮かべながら、腰を上げる。
「はいはい、すぐ行くよ母さん」
「誰が母さんか!」
横に並んだとたんガシガシと脇腹にパンチをしてくる大井をなだめながら、プラスでお菓子でも出した方がいいかなと悩む。出すとしても、一体何を出そうか。
……幸せな悩みだよなぁ、なんて考えながら、未だに脇腹をつついてくる大井の頭に手を乗せた。
これにて不知火編は終了です。
たぶん次で散らかした話の後片付けをして、その次は……もっと明るい楽しい頭空っぽにして読めるなんかを書きたい。
それとこの場を借りて。
いつも感想頂きありがとうございます。返信は多くて出来ないのですが、いろいろと賛否読ませていただいております。
それと、誤字報告、本当に助かっております。ありがとうございます。
それではまた次回。みなさまお体にはお気を付け下さいね。
ではでは。