仕事を辞めたらアイドルに迫られた   作:早見 彼方

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凛イベント1

『ふふーん。朝からボクの顔を見られるだなんて、皆さんはとても幸せですねぇ!』

 楓さんに作ってもらった朝食を食べ、洗い物を済ませてから小一時間。楓さんから我が家の合い鍵を奪うことは叶わなかった。もう合い鍵は諦めてソファーに座り、一緒にテレビを見ていたところ、楓さんがおもむろに腰を上げて口を開いた。

「すみません。そろそろ失礼させていただきますね」

「あ、仕事ですか?」

「はい。午後からですけど、準備もしないといけないので」

「そうですか。頑張ってくださいね。応援してます」

「はい。高垣楓、頑張ります。なんて、卯月ちゃんに怒られちゃいますね?」

「あはは」

 冗談を言う楓さんを見送ろうと俺もソファーから立ち上がる。楓さんと一緒に玄関へと向かい、靴を履く楓さんの後姿を観察する。何というか不思議な気分だ。俺の家から出立する楓さんの姿を見ることになるとは思わなかった。

「今日は楽しかったです。本当はもう少し一緒にいたかったのですけど」

 鞄を体の前で両手で持ち、俺の方へと向き直った楓さん。微笑んでいるけど、少し残念そうな感情がこめられているように感じた。本当に俺と一緒にいたかったのだという想いが伝わってきて、男として嬉しい限りだ。

「良ければ、また来てください」

 裸エプロンには驚いたけど、久しぶりに一緒に居られて楽しかった。楓さんと落ち着いて話した記憶は意外に少なくて、貴重な体験だった。居酒屋などで他の大人アイドルに絡まれるような状況が大半だったからだな。そう言えば、あの飲み会にもこれからは参加できなくなるんだよな。そう考えると、かなり寂しくなった。

「はい。そうさせていただきます」

 俺の言葉に、屈託のない笑みで返す楓さん。それを見て、たった今感じた孤独感はなくなった。また会える。別に今生の別れをしたわけではない。会おうと思えば会える距離にいる。仲の良い知り合いの大半はアイドルで、完全に一般人となった今、自発的に会うのは少しだけ躊躇われてしまうけど。アイドル達は多分、気にしないのだろうな。

「それでは、智弘さん。お邪魔しました」

「はい。いってらっしゃい、楓さん」

 お仕事に行く妻を見送るのって、どんな気分なんだろう。そう思っていたせいで、少し妙な言い方になってしまった。これでは本当に恋人の関係になってしまったようだ。玄関の扉を開こうとした楓さんも途中で動きを止めて、少し驚いた様子で俺を見ている。まずい、やっぱり失言だった。

「すみません。変なことを言って」

「いえ。……いってきます。いつか、本当の意味でここに帰って来られる人になってみせますから。それまで、私の我が儘に付き合ってくださいね?」

 楓さんはそれだけ言うと、俺の家から出て行った。最後に見た楓さんの顔からは、強く何かを決心する想いが感じ取れた。

 居間に戻って来た俺は、ソファーに座り直す。

「……急に静かになったな」

 ずっと一人暮らしでこの静けさには当然慣れていたはずなのに、今は違う。先ほどまで楓さんといた記憶が今も鮮烈に蘇ってくる。今の状況が物足りないと思えてしまう強烈さだ。朝のひと時を一緒に過ごしただけでこれならば、毎日顔を合わせるようになったらどうなるのだろうか。もう二度と、離れたくないと思えてしまうのではないか。

 わからないな。元担当アイドルだというのに、未だに楓さんが何を考えているのかもわからない。恋人になれば少しは違ってくるのだろうか。まだまだ俺の知らない楓さんの一面を目の当たりにできるかもしれない。

 裸エプロンとか。

「くっ……」

 いけない。また思い出しそうになった。頭を左右に振って邪な感情を捨てる。せめて、そう言う妄想は夜にしよう。朝からエッチなことはいけないと思う。

 テレビでも観て気分でも紛らわすとしよう。俺はリモコンを手にし、やっていたニュース番組から何気なくチャンネルを切り替えた。

『この子達、カワイイですね。まぁ勿論、ボクほどではありませんが』

 いろいろな小動物と戯れる輿水さんがテレビに映っていた。髪の一部が外ハネになったショートヘアと愛らしいドヤ顔が特徴的な彼女。目線は動物に対して向けられておらず、カメラを向いていた。動物の紹介を目的とした番組なのだろうが、そこでも自分の可愛さを主張するのが輿水さんらしかった。

「この子、よく働くなぁ」

 先輩プロデューサーの担当アイドルである輿水さんは、よくテレビに出ている。その先輩とは仲が良かったから、輿水さんとも結構話したことがある。テレビで見てもわかる通り、リアクションが面白い子。収録された映像だから過去のものだけど、きっと今も元気なのだろう。

 知り合いのアイドルが働く姿を見て和む俺。テレビで知り合いを見る機会は多く、楽しみながら緩やかなに流れる朝の時間を満喫していた。

「あれ?」

 テレビを見ていると、インターフォンが鳴った。こんな朝早い時間に誰だろうか。新聞の勧誘、ではないよな。楓さんが忘れ物でも取りに来たとか?

「はいはい。今行きますよ」

 玄関へと向かい、扉をゆっくりと開け放つ。そこには人が立っていて、外の青空よりもその人物の姿が目に入るのは当然だ。だけど、予想だにしない人物が俺の視界に入ったことで、俺は扉を内側から開いた体勢のまま体の動きを停止させた。

「……凛?」

「おはよう、プロデューサー。じゃなかった、元プロデューサーだったね」

 つい最近まで担当アイドルだった渋谷凛が、俺の家の前にいた。ズボンタイプの落ち着いた服を着て、いつも通りの冷静な態度で佇んでいる。人によっては愛想がないと思われるだろうクールな印象だけど、長く付き合っていると感情の機微を読み取るのは容易かった。

 見えない犬のような尻尾が凛の背後で揺れているような光景を幻視した。何か、嬉しそうだった。というよりかは、興奮しているといった感じだろうか。主人に出会えて喜ぶ子犬のようだった。

「えっと、おはよう。朝からどうしたんだ? 仕事で何かあったか?」

 何か問題でも発生したのだろうか、と思いながら聞くと凛は首を左右に振った。

「ううん。何も問題はないよ、智弘さん」

「え、どうして名前呼び?」

 今までプロデューサーと呼ばれ続けてきたから、やはり名前で呼ばれるのは慣れない。俺を名前で呼ぶようになったアイドルは、楓さんに続いて凛で二人目だ。まさか凛から名前で、しかもさん付けで呼ばれることになるとは、世の中本当に何が起こるかわからないものだ。

 それにしても、

「呼び鈴で呼ぶ凛、か……」

 なかなか面白いダジャレではないだろうか。

「楓さん来てた?」

「何故バレた」

「ダジャレ」

「……あ」

 どうやら楓さんのダジャレが感染していたようだ。何という影響力。凛に言われなければ気がつかなかった。

「……やっぱり。行動が早い」

 楓さんが来ていたと知り、凛はほんの少し悔しそうだった。何かあったのだろうかと思っていると、凛が俺の目を真っ直ぐ見つめた。目を細め、何か探るような眼差しだった。ジト目、とでも言うのだろうか。連日遅く帰宅して、妻に浮気を疑われた夫の気分だった。何だ、このプレッシャーは。漫画的な表現を借りれば、周囲一帯を見えない重圧が襲っていた。気を抜けば膝を屈してしまいそうだった。

「……昨日から今日の朝にかけて、何かあった?」

 凛による取り調べが始まった。朝から俺の家にやって来たかと思えば、いきなりどうしたのか。聞いてみたかったが、凛のことだから俺が答えるまでは事情を説明してはくれないだろう。嘘もすぐバレるだろう。普段は割と他のアイドル達の中でもリーダーシップのある子だけど、たまに強情な時がある子だ。他のアイドル曰く、凛は俺に対してだけ自分に素直なのだという。

 どう言おうかと迷い、誤解を招かないように昨日から今日あったことを伝えた。

「昨日は特に何も。仕事を辞めてから家に帰って、久しぶりにゆっくり休めた。ベッドが気持ち良かった」

「……朝は?」

「俺の知らない合い鍵を使って家に入って来た楓さんに起こされて、朝食を作ってもらった。朝ごはんが美味しかった」

「さっきから、何その小学生みたいな感想」

「あ、すみません」

 凛の圧力が怖くて、言葉が上手くでなかった。今も目力が強くて、膝が笑ってしまいそうだ。

 とりあえず、このままでは会話がままならない。俺は場の空気を和ませようと、凛の頭へと手を伸ばした。

「あっ……」

「よしよし」

 凛は昔から、頭を撫でると落ち着いてくれる。先ほどまで体から放たれていた強い感情は霧散し、見えない尻尾を左右に振る凛の幻が戻ってきた。顔にはほんのりと赤みが差し、切れ長の目の内側で瞳が落ち着きなく左右に揺れていた。どうしていいかわからないけど、拒むことはできないといった様子だった。

 その姿が可愛くて、俺は凛の綺麗な黒髪を乱さない程度に頭を撫で続けた。

「ちょっと、頭、そんなに撫でないでくれる……?」

「あ、ごめん」

 その後五分間ほど頭を撫でた俺は、顔を真っ赤にした凛に言われて手を止めた。自分から触っておいてあれだけど、言うの遅くない? それとも言いにくいのだろうか。やっぱり不用意に頭を撫でるのはやめたほうがいいかもしれない。凛の髪、好きなんだけどな。

「別に、撫でるなとは、言ってないからっ」

「どっちなの?」

 本当に、不器用で可愛い子だと思った。

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