仕事を辞めたらアイドルに迫られた   作:早見 彼方

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凛イベント2

「それで、結局何の用事なんだ?」

 凛の頭を撫でて堪能した後、俺は手を離して尋ねた。凛は顔を赤くして、何か物足りなさそうに俺を見ていた。結局十分近く撫でたわけだけど、それでも足りないの? 出会った当初のツンツン具合はどこへ行ったのだろうか。

「たまたま近くを通ったから。……良ければ、一緒に散歩でもしない?」

「散歩か」

 休日はいつも部屋でごろごろしていた。特に今日は仕事を辞めた翌日でもある。安らかな気持ちで一日を怠惰に過ごすつもりだったが、最近運動不足だからな。楓さんにも体力では全然勝てなかったし、そろそろ生活を改めようか。

「よし、ジャージ着てくる」

(あかね)と走るつもり?」

 その場で屈伸をしてから部屋に戻ろうとする俺を見て、凛は尋ねてきた。

 茜というのは、日野(ひの)(あかね)さんのことだ。まさにパッションの中のパッションとも呼べるほど元気な高校生アイドルだ。俺からすると無尽蔵に近い体力を有していて、俺は日野さんが本気で疲れている姿を見たことがない。前に休日に偶然出会い、なぜかそのまま一緒に走ることになって死ぬ思いをした。ジャージを着ていたから、運動するのだと勘違いされた可能性があった。

 その日野さんと一緒に走る? うん、絶対無理。

 私服だったら、仮に出会っても走らされることはないだろう。念のため靴も運動し辛い革靴にする。家の鍵も閉めた。よし、準備完了だ。

「このまま行こう」

「そこまで走りたくないの?」

「今日は遠慮したい」

 しっかりと運動しないとさすがにまずいと思っている。でも、それは今ではない。明日から頑張る。

「太るよ?」

「くっ……。大丈夫だ。食生活はしっかりとしているし、筋トレだって……」

「はいはい。それじゃあ行こうか」

「スルーしないで!」

 歩いて行く凛の後に俺も続く。マンションの共有廊下からエレベーターを使って一階のロビーへ。そこからマンションの外へと出た俺は、午前中の青空から注ぐ日の光を浴びて天を仰ぐ。

 いい天気だ。走りたくなってくる。全力は無理だけど。

「茜連れてこようか?」

「歩きます」

 俺を見て心情を即座に推察してきた凛を置いて、俺は歩き始める。凛は俺の横に並び、一緒に住宅地を歩く。人通りは少ないが、凛は私服姿で自然体だ。果たしてそれで大丈夫なのだろうか。

「変装とかしなくていいのか?」

「どうして?」

「いや、だって、トップアイドルだろ」

 346プロダクション所属のアイドルである凛は、凛と同じく俺の担当アイドルだった卯月と未央とユニットを組んでいる。『new(ニュー) generations(ジェネレーションズ)』という名前を知らない日本国民は少ないだろう。それほどまでに知名度があり、ファンの数も346プロダクション内ではトップクラスだ。

 その凛が何の変装もなく私服で歩いている。ファンに見つかれば大変だ。

「変装すると余計に目立ちそうだから。出掛ける度に変装するのも面倒だし」

「そういうものか?」

 アイドルの私生活にまで深く言及していなかったが、もしかすると他のアイドルもそうなのかもしれない。楓さんも特に変装をしている様子もなかったし、俺がおかしいのだろうか。

「うーん」

「バレたらバレたで、智弘さんが守ってくれるでしょ?」

「あぁ、当たり前だ。何せ俺は凛の――」

 そこまで言って、俺は言葉を止めた。

 違う。俺はもうプロデューサーではない。もう辞めたんだ。次の就職先は一般企業で、芸能界と関りはない。アイドル達との繋がりは断たれている。それなのに、こうして凛達アイドルと一緒にいてもいいのだろうか。

「なぁ、凛」

 歩きながら横の凛に話しかける。

「何?」

「俺達って、もう一緒にいないほうがいいよな?」

「そう?」

「そうだよ。だって、アイドルと一般人だぞ?」

 この場面を性格の悪いハイエナのような記者に見つかれば、写真を取られて週刊誌にあることないことを書かれてしまうだろう。346プロダクションは今のところそういった被害には遭っていないが、確か結構昔に765プロダクションという芸能事務所で被害に遭ったアイドルがいた覚えがある。

 嘘だとわかっていても、アイドルに悪い評判が流れるのは嫌だ。だけど、アイドル達に不自由な生活を送らせるのもどうなのだろうか。って、これはもう俺が考えるべきことではないか。でも少し気になるから、同僚に後で相談をしたほうがいいか?

「気にしすぎだと思うけど。って、どうして離れるの?」

 俺がアイドルである凛から少し距離を取って歩くと、凛が距離を詰めてきた。いやいや、仮に恋人同士であってもその距離は詰めすぎだろう。アイドルと一般人の距離ではない。絶対に誤解される。たまたま周りにひと気がなくて助かった。

「近いから」

「そうは思わないけど」

「客観的に見れば近いんだよ」

「智弘さんと未央が一緒に歩いていた時も、これくらいの距離感だったと思うけど」

 言われてみればそうだ。未央はよく俺の体に抱き着いてきていた。一応その度に一々指摘していたが、結局最後まで改めることはなかったな。というわけで、一番俺に対してボディタッチが多いのが未央で、その次は凛だろうか。

「それはそれ、これはこれ。いいから離れて」

「……納得できないけど」

 俺が凛の接近を手の平で制すと、凛は不満そうな表情で渋々従った。

「渋るしぶりん……」

「楓さんの駄洒落の感染力はいったいどうなってるの?」

「はっ……」

 気がつけば駄洒落が口を突いて出ていた。いけない。凛の言う通り凄まじい感染力だ。このままでは、朝起きると楓さんになっていた、なんてことになりかねない。

 くだらないことを考えながら歩く俺達。

 すると、正面の左手に公園が見えてきた。見覚えのある公園だ。そう思っていると、凛に服を引っ張られて公園に誘導される。

「こっち」

「公園になにかあるのか?」

「休憩、しようと思って……」

 凛はそのまま俺を近くのベンチに連れていく。何だろう。急に落ち着きというか余裕がなくなった様子。顔も赤いし何かあったのだろうか。

 俺達はベンチに座った。俺の横に凛が腰かけたのだが、その距離は少し開いていた。もう少し近く座ると思っていただけに意外だった。まぁ、これが本来普通の距離感なんだけど、随分と感覚が毒されてしまったようだ。

「あの、さ……」

「ん、うん……」

 凛が少し緊張しながら話しかけてきたせいで、俺も妙に緊張した受け答えになってしまう。本当に何があったというのか。アイドルとしてステージに立って大勢のファンを歌とダンスで魅了する存在が心を乱す何かが。

「前にも聞いたけど、智弘さんって、好きな人いるの?」

 その質問に、俺は息を飲む。確かに前も聞かれたことがある。だが、そのときと今は少し状況が変わった。凛の顔はここまで真剣ではなかったし、楓さんの一件もあって俺の心境も異なっている。

 どう答えるべきか。少しだけ思案してから口を開いた。

「……正直、好きな人がいるかどうか、よくわからない」

 真剣な質問に、俺は真剣な答えを返した。凛や自分に嘘をつかず、正直な現在の心境を俺は語った。

「学生時代は部活動が楽しくてそういうこと考えたこともなかった。社会人になってからは仕事が忙しくて、考えている余裕もなかった。だから、誰かを好いたり、誰かに好かれたりっていう感覚が俺の中で曖昧なんだ」

 精神が老成している、と言われてからかわれたこともあったが、別に感情が枯れているわけじゃない。異性には興味がある。かと言って、楓さんに恋心を抱いているかは曖昧だった。楓さんは魅力的な女性で、一緒にいて楽しい。でも、それは本当に恋心なのだろうか。

「……そっか」

 凛は少しほっとしたような顔をしていた。

「ってことは、まだ私にはチャンスがあるってことだよね」

 そう言うや否や凛はベンチから立ち上がり、俺の前に移動した。いったい何を、と思う間もなく凛の顔が俺の顔へと迫った。

「え……んんっ!?」

 そして、凛の唇が俺の唇に重なった。柔らかい。そして、シャンプーのいい匂いが鼻をくすぐる。凛の吐息も直接伝わってきて、今までにないほど凛を近くに感じた。

 長い。どれだけ触れ合っていたのだろうか。心臓が激しく鼓動し、頭は上手く考えをまとめてくれない。ただじっと、恥ずかしそうに目をつむって俺と口づけを交わす凛の顔を見ていることしかできなかった。

 その時間は永遠ではなく、やがて終わりを迎えた。

「んっ……」

 凛の唇が離れ、少し距離を離した凛の顔。不安と羞恥が混在し、頬を紅潮させた顔で俺の瞳を真っ直ぐ見据えた。

「……好きな人がいないなら、私のことを好きになって」

 凛のその言葉が、俺の心に強く突き刺さった。

「私を選んで後悔はさせないから」

 どうして俺の担当アイドル達は、こうも男前なのだろうか。

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