四月も半ばに差し掛かり、ポカポカと暖かい陽気が春の訪れを感じされてくれる。
そして春といえば、まず浮かぶのがちょうちょだろう。ちょうちょがパタパタと花の周りを飛んでいる姿が、なんともまた春らしい光景であると言える。
しかしその実、僕はちょうちょが大の苦手だ。あの不規則な飛び方や羽根に対して明らかに比率のおかしい胴体、そしてあの気持ち悪い蛾と同じ生物であるということ……そんな諸々の要因が、僕をちょうちょ嫌いたらしめる。
もしちょうちょを触るか全裸で逆立ちして三回回って「わん」と鳴くか選べと言われたら、僕は即決で全裸逆立ちの方を選ぶだろう。
嗚呼、ちょうちょのなんと恐ろしいことよ。
……とまあ、そんなことは置いといて。
矢澤こころが入部してから一週間が経った。
あれから一応、毎日部活に行っている。と言っても、僕はそこで宿題をして、矢澤さんはパソコンでアイドルについての調べ物をするばっかりだが。
それでも、矢澤さんは僕に「何もしなくていいですから、部活には来てください」と言った。なぜかと問うと、「そりゃ、ひとりは寂しいからに決まってるじゃないですか」だそうだ。
まあ、一応部活の後輩なわけだし、そう頼まれたら断るわけにもいかない。
そして僕は今日も、部室の机で宿題をしていた。
すると、机を挟んで向かいあって座っている矢澤さんがふと口を開いた。
「ねえ先輩」
「ん?」
彼女はパソコンの画面を見ながら話す。
「先輩は、アイドルとか全然興味ないんですか?」
そんな質問に、僕はシャーペンを置いて答える。
「うーん、全然ってことはないけど……まあ、そんなにないかな」
実際、今はμ'sのことが少し気になっているし、全然ないというわけではないのだ。
「そうですか」
「矢澤さんは——」
と、言いかけたところで矢澤さんが遮るように言った。
「あの、それやめてくださいませんか?」
「え?」
「その、矢澤さんっていうの、あんまり慣れてなくて……」
「えっと、じゃあ……こころちゃん?」
「はい、そっちの方がいいです」
「うん、分かった」
女の子を下の名前で呼ぶのはあまり慣れないことだったが、後輩だからかあまり抵抗は感じなかった。
「それで、なんですか?」
「え?」
「さっきなにか言いかけたじゃないですか」
「ああ、うん……こころちゃんは、μ'sのことが好きなの?」
そう問いかけると、こころちゃんは机に身を乗り出して、
「当たり前じゃないですか!」
と食い気味に答えた。
「μ'sは私の中の絶対的な存在なのです。いわば私の人生においての希望——そう、私はμ'sがいるからこそ生きていられるのです!」
「でも、μ'sはもう解散しちゃって……」
「それは言わないでください……」
彼女は再び椅子に座りこむと、頬を机につけてため息をついた。
そしてそのまま静かに喋りだす。
「μ'sが解散したとき、私は幼過ぎました……だから、μ'sが——お姉様たちがまたいつか復活してくれる、そんな期待を持っていたのです。そしてそんな期待を、今もまだ抱き続けている……そんなの、無理だって分かってるのに……ほんと、馬鹿なんです、私……って、なんだか感傷にひたってしまいましたね、えへへ。今のは忘れてください!」
こころちゃんは舌を出してテヘヘッ、と笑って見せると、
「さて、もう暗くなってきましたし、そろそろ帰りますか!」
と言ってパソコンを切ると、いそいそと帰る準備をし出した。
「こころちゃん……」
今は明るく振舞っていて、さっきの話はなんとも思ってないみたいな態度だが、なんだか分かってしまう。
彼女はきっと、μ'sを好きになってしまったのだ。もう解散してしまったμ'sを、追いかけることのできない人たちを、彼女は好きになってしまったのだ。
僕はそんな彼女が、なんだか妙に可哀想に思えた。
叶うことのない希望を抱き、出会うことのない夢を追い続けている。
そんな姿が、ひどく自分と重なって……。
「それでは先輩、お疲れ様で——」
「無理じゃないんじゃないかな?」
「え?」
気づくと僕は勝手に喋っていた。それが、もしかしたら無責任な言葉なのかもしれないと、頭では分かっているのに、口は閉じてくれなかった。
「叶えてみようよ、その夢。μ'sに、また踊ってもらおうよ!」
「でも、そんなのできるわけ……」
「それは、やってみなくちゃ分からないよ」
「でも……」
「なにごともチャレンジだって、よく言うじゃない?」
このとき、どうして自分がここまでしつこくなっていたのかは分からない。でも、なにかが動き始めているように感じた。それだけは確かだった。だから、それをここで止めてはならないと思った。
「先輩……なんだか、今まで先輩って、クールっていうか、暗いっていうか……そんな感じに思ってましたけど、案外熱いんですね」
「今までそんな風に思ってたんだ……」
しかし、彼女は振り向いて、小悪魔的な笑顔で言う。
「でも、熱くなってる先輩、結構いい感じですよっ」
「お、おう……そうかな?」
……褒められた、のかな? まあ、そう言われて悪い気はしない。
結局、その話はそこまでで、その日はそのまま家に帰った。
僕が家に帰ったあと、自分が言ったことを振り返って激しく赤面したのは、言うまでもないだろう。
〜〜〜
翌日の放課後、部室に行くとこころちゃんは既にパソコンと見つめ合っていた。
「おっす」
「あ、先輩。お疲れ様です」
そして僕は席に座ると、いつも通りにノートを開いて……。
「先輩、何してるんですか?」
「え? いや、いつも通り宿題を……」
「いやいや、そんなことよりやることがあるでしょう?」
「やること?」
「μ'sに関する情報集めですよ。もちろん、先輩も一緒にやってくれるんですよね?」
「情報集め? ……って、もしかして、やる気になったの!?」
「そりゃ、あれだけ熱く迫られたら……ね?」
「うっ……それは……」
「なんて、冗談ですよ。先輩には、感謝してます」
「え、なんで?」
「だって、私の背中、押してくれたじゃないですか」
「そんな大層なことじゃ……」
「いえ、私にとっては大層なことです」
「……うん、そっか」
「はい」
そのときのこころちゃんの笑顔は——なんだかとっても、眩しかった。
「それで、先輩は手伝ってくれるんですか?」
「うん、もちろんだよ!」
僕は強く頷く。
「よし、それでは早速行きましょう!」
そう言ってこころちゃんは部室から飛び出した。
「え? 行くって……どこに?」
「決まってるじゃないですか……高坂先生のところです!」
〜〜〜
「というわけで、穂乃果さんにもう一度ステージに立って欲しいんです!」
「それはちょっと無理かな」
「えぇ!?」
始まって早々、僕たちは壁にぶち当たった。
高坂先生に、穂乃果さんにまた踊ってもらうよう頼んでもらおうとしたのだが、速攻で断られてしまった。
こころちゃんはもちろん納得がいかない。
「なんでですか!? 妹の高坂先生から頼めば、きっと承諾してくれると思うのに……」
「うーん、私はそうは思わないな。きっと私が頼んでも、お姉ちゃんは断ると思うよ」
「そ、そんな……」
予想外の返答がきて驚きを隠せないこころちゃんを尻目に、僕は高坂先生に訊ねる。
「あの……どうしてそう思うんですか?」
「……お姉ちゃん——穂乃果はね、μ'sのこと、本当に大事にしてたんだ」
高坂先生は、斜め上の天井を見ながら、思いにふけるように話し始める。
「本当に……本当に宝物だったんだよ。掛け替えのない、大切な——。でも、そのμ'sを解散させた……それはきっと、お姉ちゃんたちにとって、ケジメみたいなものだったんじゃないかな。だから、今更μ'sを復活させて、また9人で踊るだなんて、そんなこと簡単にはできないと思うんだ。それに……その宝物は、ずっと心の中にしまったままでいたいものなんだよ」
先生はいったん目を瞑ると、再びこちらを向いて笑顔で言った。
「はい、この話はおしまい。それじゃ二人とも、帰った帰っ——」
「なんですか、それ……」
さっきまで話を聞いていたこころちゃんが、小さな声で高坂先生の声を遮る。
「え?」
「なんですか、それは! そんなの……そんなの、ずるいです!」
こころちゃんは高坂先生の目を見て叫んだ。
職員室が一瞬静まりかえったが、そんなことは気にしていなかった。
「ず、ずるい?」
「そうです、ずるいです! たしかに、μ'sを作ったのは穂乃果さんたちメンバーの9人です……でも、μ'sを大切に……宝物のように思ってる人は、μ'sだけじゃないんです! 私だってμ'sが大好きで……μ'sは宝物なんです! いつだって、どこにいたって、私の側にはいつもμ'sの曲が……μ'sがいたんです! 友達と喧嘩したときは『友情ノーチェンジ』を聴いて、気になる男の子にチョコを渡す前は『もぎゅっと"love "で接近中!』を聴いて、受験勉強のときは『夢なき夢は夢じゃない』を聴いて……ずっとμ'sと一緒だったんです! だから——」
「——だから、またμ'sに会いたいって?」
高坂先生の目つきが、さっきとは変わる。これは……大人が子供を叱るときの目だ。
「それはね、矢澤さん。子供のわがままと一緒だよ。屁理屈をこねておもちゃをねだる子供と同じ……でもあなたは高校生だから、本当はそれが無茶苦茶な言い分だってことも、自分で分かってるんでしょう?」
「そ、それは……」
こころちゃんは言葉を失う。正論を言われてなにも言えなくなってしまったのか、俯いてしまった。
「…………」
「…………」
この空気に耐え切れず、僕はなにかを言おうと口を開く。
「あ、あの——」
と、それと被せるように高坂先生がパンッと手を叩く。
「——はい、これで本当におしまい! ほら、矢澤さん、顔上げて? 厳しいことは言ったかもだけど、別に怒ってるわけじゃないからさ、ほらほら」
「…………」
「……こころちゃん、今日は帰ろう」
「……はい」
「では、失礼しました」
「うん……ごめんね」
「いえ……先生の言うことはどれも正しいと思いますから」
高坂先生の、本当に申し訳なさそうな笑顔に見送られながら、僕たちは職員室をあとにした。
「……本当は、私だって」
高坂先生は、机に置いてある写真を触る。
先生が呟いたその言葉は、僕たちには聞こえない。
〜〜〜
校門まで、僕たちは何も言わずに並んで歩いた。
こころちゃんはまだ落ち込んでるようで、下を向いて歩いていた。
校門を出るとお互い反対の道なので、「それじゃあ……」と僕は彼女に手を振った。
「先輩」
すると、こころちゃんは僕を呼び止める。
「高坂先生の言ってたこと、当たってる気がします」
「当たってるって?」
「私は結局、まだ本気で信じてないんです……μ'sがまた集まるって」
両手で鞄を持っているこころちゃんの髪の毛を、春風がなびかせる。
夕焼けを反射してなのか、彼女の目がキラリと光って見えた。
僕はなるべく優しく、彼女に言った。
「じゃあ、信じればいいんだよ」
「信じれば……?」
「そうだよ、信じるだけで」
「——! ぐんぐん前に進むよ……」
小さく、呟くように言うこころちゃんの顔は、再び希望を宿したように晴れやかになっていく。
「そうですね、まだまだこれからです」
笑顔になって前を向くその姿は、姉の矢澤にこと似ているのだろうか、あまり詳しくない僕には分からなかったが、きっと似ていたのだろう。
「それじゃあ先輩、また明日」
「うん、また明日」
そうして今度こそ、僕は彼女にさよならをする。
どうしてこの歌詞を覚えていたのかは分からないが、結果的に彼女を元気付けることができたので良かった。
……でも、やっぱり何かが始まっている。
そんな予感がするのは、きっと僕だけじゃないはず……そう思った。