歳をとるにつれ、大人になるにつれて現実というものが襲いかかる。誰にでも。ただ一部の出来るやつを除いて。少なくとも自分はその他の大勢であることに変わりないが、少しは反抗的な態度をとりたくなる時があった。けれど二十歳を過ぎると、現実というなの剣が何処かに刺さったままである。抜けずに、いや、最早抜こうともしなかったのかもしれない。
往々と行き交う人々を眺めていた。春だからであろう、就活に成功したのであろうバッチシとスーツを着こみ希望に満ち溢れた雰囲気を出している新社会人がやたらと目についた。
羨ましい、と思わず彼は呟いてしまう。
建設現場のバイトの昼休み。時間は二十分も残っている。何とも言い難い感情が彼を襲った。
一体いつからであろう───いつから自分自身に諦めがつくようになってしまったんだろうか、と。
夜、仕事が終わり彼は帰路につく。普段なら晩御飯を作るのだが今日だけは気分が乗らなかった。
コンビニ袋をプラプラと揺らし、河川敷に沿って歩いている。ただ何も考えずに。今漠然とした将来に対して頭を働かせることを拒絶したのだ。
中途半端というものはやはりいいものでは無い。下手な希望を持つくらいなら初めから何も抱かないほうが自分の為にもなる。諦めなければ必ず努力は実るとかいうけれど、そいつらは自分と同じような立場ならきっと、「努力は必ずしも実るものではない。ただ────」とまた出鱈目なことを言うのだ。自分の尊厳や体裁を保つ為に。
この道を歩くのは一体何度目であろうか。親元を離れここに越してきてから随分と時間が経ってしまった。辛うじてあった新鮮味も今ではすっかりと消えてしまった。家とバイト先を延々と行き来する何も面白みもないゲームをやり続けたい者はきっと何処かに異常があるのだ。きっと。
「本当にダメな奴だなぁ、俺は」
まただ。
辺りが既に暗くなっているといにも関わらず、道を往復して走っているフードの男がいつも通りの時間に現れた。察するに何かスポーツか、将又格闘技でもしているのであろう。いや、恐らく格闘技に違いない。時折止まりながら拳で空を切るところを見るとそうに違いない。
確か6ヶ月以上だ。
ここに来てはじめの頃は気にも留めなかったが、恐らくずっとここでそのフードを被った男は居たに違いない。
きっと彼は今の自分と違い、明確な目標の下必死に努力しているのだ。それが叶うか叶わないか別として、逆風に耐え一歩、また一歩踏みしめるあの辛さは思い出そうとしても、その記憶すら美化されている事実に驚きを隠せない。人は都合の悪い記憶とやらをあの頃は良かったなどと考えさせるように書き換えてしまうようだ。
家に着くと、疲れがどっと押し寄せる。
慣れっこなのに。
食欲も無かった。
これが夢であって欲しい。長い夢であると。
そして、彼は眠りについた。
朝を迎えた。そそくさと着替えを済まし、またあの仕事場へと向かった。いつも通り仕事をこなせばそれだけでいい。ただそれだけでいいんだ。
昼食の休憩時間に入った。
皆でコンビニで買った飯を食べるのが嫌いだった。何故だか嫌いだった。理由は恐らく、昔彼らのような人種を見下していたからなのだろう。現在でも見下している。
今度は自分自身を含めてだ。
空がオレンジ色に染まる頃、ようやく一段落つき、今日の仕事が終了した。
年上の方々に頭を下げ、仕事場を後にした。
「たまには公園でもよるかな」
河川敷とは反対の方向に足を運んだ。あまりこっちの方面には行ったことがない。そもそも行く必要もない。が、若干弱った心を癒すには充分である。心の安寧を保つ為には何が必要かを考えたことは無いが、家でじっとしているよりか、外に出て足を動かしているほうが幾分かはましなのである。それは過去の経験から学んだ事なのだ。昔は勉強の合間に────。
久しぶりの商店街はどこか面白かった。やはりどんな場所でも商店街とは活気があるべきだと思う。ここですらどんよりとしていたらこれこそ心の精神衛生上よろしくない。これ以上自分の精神をすり減らしたくないのだ。
商店街を抜け、少し歩くと、そこには公園がある。
近くで弁当を買い、公園で食べよう。それがいい。それがいいんだ、今は。そうだ、たまには奮発して高めの弁当でも買おうか。それなら1番高いやつがいい。高ければいいんだ。味はきっといいに違いない。高いんだから。
弁当を買い、公園のベンチに腰を降ろす。
時刻は六時半。さっきまでいたのであろう小学生たちはすっかりと家に帰ってしまっていた。十月もいよいよ冷え込む頃、今日は少しだけ温かかった。運が良かった。
弁当を膝に乗せ、食べようとしたまさにその時、事件が起こる。
「そこから降りて下さい!」
突如として聴こえてきたのが女性の声であった。振り返ると、そこには不良達と女性が花壇の側で揉めているようであった。暗くてハッキリと分からなかったが、不良は花壇の内側にいるようである。
彼は暴力とは全く無縁の所にいたという訳では無い。ただ、少しだけ格闘技をしていただけであり、特に得意ではなかった。ただそれだけだ。
巻き込まれるなら、いっそただ傍観しているだけでいい。そうすれば何も被害を被らないのだから。
逃げるのか。
また───。
いや、いっその事逃げようか。自分にとってあの人がどうなろうと関係なんて無いだろう。大体ガラの悪い六人に怒鳴るあの女性が悪いんだ。分かるだろう。女が力で負けることぐらい。分かるだろう。声を掛けちゃ被害を被ることくらい。分かれよ。皆敢えて声を掛けなかったことくらい────分かれよ!。
そうだ。そうしよう。この場を離れよう。そうすれば逃げたことにはならないじゃないか。ただ自分はベンチから腰を上げ、他の場所に移動すればいいだけのはなじゃないか。そうだ。あの女性が悪いんだ。不良にわざわざ声を掛けた、あの女性が悪いんだ。
距離が徐々に詰められていく。
女性が辺りに助けを求めている。
そこのサラリーマン逃げやがった。高校生も中学生も逃げた。仕方ないよな。面倒だもんな、あんな連中と絡むなんてろくなことがない筈だもんな。
囲みやがった。
男達の笑い声が聞こえた。さしずめさっきの威勢は───とか言っているのだろう。
あ、一人が女の子に被さりやがった。
小さな悲鳴が聞こえた。
動画でしか見たことないな、こんなの。
だんだんと抵抗しなくなったな。
男達が女性に群がり始めた。
うわぁ、気持ち悪ぃ────
……あいつらがか?
それとも俺か?俺自身か?
大体────
あれ、今目が合ったのだろうか。
合ったのか。
いや、気のせいに……
助けて────────
やめろよ……今にも泣きだしそうなそんな表情で訴えかけてくるなよ……。原因を作り出したのは────作り出したのは────
俺は……
俺は────!
彼は駆け出していた。
「お、お前ら!その女性を離せ!!」
恐怖で足がすくんでしまう。喧嘩なんてしたことが無いし、したくもない。けれど、今、逃げてしまっては過去の自分と同じじゃないか。いや、過去の自分の方がよっぽど果敢に立ち向かっていたじゃないか。
間に割って入ると、男達はニヤリと笑を浮かべていた。それは、たった1人の優男が俺たち相手に何が出来るんだと物語っている。
「ここで逃げてしまえば本当に俺はどうしようもないクズになってしまうから……少なくとも……俺は、俺自身に諦めをつけたくないから───」
思わず声が漏れてしまった。
不良達はケラケラと笑っている。
そりゃそうだ。こんな情けない言葉、自分自身でも笑ってしまいしそうだ。けれど、その言葉の真意を知るものは自分以外知るところはない。
まだ、自分自身を信じたいから────だから俺は留まらず逃げないことを選択したのだ。嘗て自分がいた場所から抜け出せなかった状況にいたように。
「あなたは早く逃げて────」
そう言いかけた刹那、腹部に激痛が走る。
その数秒後には地面に伏せている自分がいた。ただ幸いな事に、女性の姿はそこにはなかった。
ちゃんと大通りに出れたのであろうか。
しかし、そう考えている暇は最早残されてなどいなかった。
男達に取り囲まれた頃にはもう遅かった。それはまるで子供が気に入らないオモチャを壊す位の勢いで、何度も何度も蹴らては殴られの繰り返しであった。徐々に鉄の味が染み渡り、意識が朦朧とし始めた時、ふと男達の猛攻はピタリと止まった。
何か声のようなものが聴こえた気がした。
あぁ、そうか。遂に意識を失ってしまったのであろうか。妙に温かかった。あれ、さっきまで自分は何処にいたのだろうか。そうか───殴られて────
気が付くとそこには天井があった。