そこには見知らぬ天井があった。不良達に暴行を受けたことだけは身体がキチンと記憶しているのだが、それよりもここは何処だろうか。それ以降の記憶がゴッソリと抜け落ちてしまっているのだ。
「よっ、起きたか!」
突然の声に驚いてしまった。
振り返ると、そこには男性が菓子パン片手に持った男がいた。察するにこの人が自分を助けてくれたのであろう。───とするとこの人が不良を……?
「お、おはようございます……といいますか───その……」
「とりあえず大きな怪我は無くてよかったな。ぎりぎり間に合ったぜ」
「すみません。恐らく助けて頂いたのだと思うのですが、記憶が全く無くて」
「いいってことよ」
まさかとは思うが、あの不良達を片付けたとは到底思えないほどの優しそうな人であった。背丈は大体同じくらいだ。しかしよく見るとガタイは自分とは比べ物にならいほどしっかりとしていた。
差し出された菓子パンを頬張ると、口に激痛が走る。薄れゆく意識の中、鉄棒を舐めているような感じがしたと思っていたが、まさかこれほどまでのものとは思いもしなかった。これが口の中を切るということなのか。
苦痛に顔を歪ませていたからであろう、その優しそうな男は笑いながら水を差し出した。
「結構痛いよな、口ん中がキレれたらよ」
「ええ、本当に……。というかこんなに痛いんですね」
「まあ、それが勇気を出して闘った勲章でもあるんじゃないか?」
「……?」
どうやらこの人は、自分が助けたあの女性にたまたま助けを求められたらしい。一先ず女性が逃げれたことに安堵したとともに、その人には礼を言わなければならないようだ。
「その、あなたは大丈夫だったんですか?」
「ん、ああ、全然大丈夫さ。ついでに俺は木村ってんだ。こう見えてもボクシングやってんだ」
ようやく理解した。
木村はボクシングをしていたからある程度そこら辺の不良に対応出来たのだと。そしてプロライセンスを所持しているのだという。そう、いわゆるプロボクサーというやつだ。
本物のボクサーに出会ったことはこれが始めてである。
「自分は佐伯といいます。今日は助けて頂き本当にありがとうございました」
「いいってことよ。それよりも、勇気あるんだな、佐伯は。普通ならあんな不良共に立ち向かうなんて出来っこないぜ」
「いや、ただ自分が許せなかったから……。勇気なんてそんな立派なものじゃありません。ただ自分の為に彼女を助けただけに過ぎませんから」
「自分の為───か。まぁ、でもそれでも人を助けたことには変わりないさ。大体自分の為っつっても早々助けにいけるもんじゃねえよ。賞賛に値するぜ」
自分の為に彼女を助けた───助けたかったと言えば助けたかったが、実際に助けるつもりは全然無かったのかと言えばそうでもない。けれど、咄嗟に身体が動いたのは男が女性の胸ぐらを掴んだからであって……そう考えるとただ助けたかったからなのであろうか。
一度逃げてしまうと、もう歯止めが利かなくなることを俺は知っている。嘗て自分が逃げてしまったように。
佐伯があの場面で思い出していたことは、過去の自分である。あの場面ですら逃げてしまうといよいよ自分は人間としても駄目な奴になってしまう、彼はそう直感したのだ。
「まぁ、今日は夜も遅いし、家で泊まっていきな」
「そ、そんな!悪いですよ!」と言い立ち上がったその時、右太ももに鋭い痛みが走る。姿勢を崩しかけたが、何とか持ちこたえた。しかし再び立ち上がろうと試みるが、どうも出来そうになかった。相当深刻とは言えないがそれなりのダメージを負っていたことに佐伯はようやく気が付いた。
「あぁ、言わんこっちゃない。さささっ、とりあえず寝た寝た。明日は病院に連れて行くからな、覚悟しとけよ。じゃ、おやすみ」
翌朝、近くの病院へと向かった。検査の結果は打撲と、筋を痛めているとのことである。言い渡されたのは、2、3日の入院とその後3週間バイト等の類は一切禁止であった。
入院して早くも4日が経過し、5日めにようやく家に帰ることができた。入院中も木村は1日おきに覗きに来てくれていたので、本当に何から何まで申し訳ないないな、と佐伯は感謝する以外他になかった。
自宅安静から2週間が経過した11月の終わり頃、寒さもあってか家から全く出ない日が続いていたが、流石の佐伯でもいつまでもダラダラしてはいられないと考えたのである。
コートを羽織り、ただ当てもなく繁華街へと駆り出した。身を切り裂くとはまさにこのこと。あまりの寒さに顔を歪めるが、まだ11月。寒さにはめっぽう弱い佐伯にとって、冬とはまさに最悪の季節である。
ふと、あることを思い出した。
木村がプロボクサーだということを。
辺りを散策すると、駅前に大きな書店があった。贅沢をしなければ困ることは無いほどの貯えはあったので、ボクシングについての本を5、6冊とその他トレーニングや格闘技に関する論理系等々様々な本を買い込んだ。ボクシングの基礎から絶対に使わないであろう難しめの言葉で埋め尽くされている本まで実に様々である。
本を読むのは何年ぶりだろうか。最後に読んだ本が確か、コナンドイルの探偵ものの小説だった。それからたいして新聞も読まなかったし、テレビも特に見ることもなかった。よく良く考えれば、自分は一体何をしていたのだろうか。
「へぇ、ボクシングってただ殴り合うだけの格闘技じゃないんだな……」
ただ相手を殴り倒す事がボクシングの全てだと考えていた佐伯にとって、これはあまりにも興味をそそられる内容であった。闘い方にしろ実に様々で、距離のとり方や様々なファイトスタイルの長所短所等々上げればキリがない程ボクシングについて無知であったことを思い知らされるのであった。
「ボクシングか……」
何かを求めていた。あまりにも漠然とし過ぎていた何かを、ようやく見つけたような気がした。
しかしそれは単なる思い過ごしなのかも知れない。
たまたま木村というプロボクサーに助けられたから。本を読みボクシングについて詳しくなったから。ただ単に身体を動かしたかったから。
理由は至って単純なものなのかもしれない。
けれど、一筋の蜘蛛の糸が遥か彼方からようやく垂れてきてのだ、と佐伯は確信する。きっと自分自身を変えるにはもう、これしか無いのだと。
逃げることにはもう疲れてしまった。逃げること自体に嫌気が差してしまった。これ以上自分を、自分自身を偽るのはもうゴメンだ。
過去を変えることは不可のだ。
未来しかない。
自分の未来をこの手で掴みとるしかない。
俺は出来るのか?
無理なのか────いや、
やるしかない……
食らいつくしか方法はないんだ……
例え不可という烙印を押されようが……押されようがやるしかない……やるしかないんだ────!
12月。もう残り14日。2週間で年を越してしまうそんなある日。佐伯は着々と準備を進めていた。
少なからずともある程度は勉強だけは出来ていたため、プランニングは実にお手の物である。
独りで努力をする事の辛さは重々承知していた。二度も失敗した。だからこそ今回ばかりは、成功させる以外退路は残されていない。2度も選択を誤ってしまった。だからこそ、失敗を経験してしまった者にしか理解し得ない事だってある筈なんだ。
寒空の中、拳を握りしめる。