口では気前のいい言葉を幾らでも言うことが出来る。理想の自分を思い描き、現実逃避することも自由だ。偽りで武装し、他者を欺くことも容易だ。自分を肯定、否定、美化するのも全てが。
純粋に強くなりたければ身体を鍛えればよい。知識人になりたいのならスポンジのごとく情報を吸収し、学問に没頭すればよい。より高みを目指したければ何事にも動じることのない屈強な精神を育めばよい。
本当の意味で己を統制するということは、不可能なのかもしれない。世の中にはあまりにも汚れているのだから。
けれど、人間が人間である所以は、その欲望に打ち勝つ術をもっているからなのではないのだろうか。
身体中が痛む。けれど痛くない。
息があがっていたが、佐伯は歩みを止めなかった。身体が痛むのは確かなことである。けれど、それは自分が努力した証でもあるからだ。
12月もいよいよ終わりを迎えた29日。あと数日で年を越してしまう。佐伯が木村と出会い約3ヶ月弱の月日が流れた。
11月を境に、佐伯が木村と会うことはほとんどなかった。未だに自分がボクシングをしたいという旨を伝えていなかった。まだ11月なのでいいか、と先延ばしをしていた結果もう年の瀬になってしまった。
佐伯は少し不安であった。
もしも、木村に自分もボクシングがしたいと申し出たら一体何を言われるのかと。恐らく拒絶されることはないだろうが、変に気を遣わせてしまうことは確実である。
うだうだ考えている暇があれば、すぐに木村の所へ向かうべきなのだが、ここにきて自分がチキンであるということを発見してしまった。呆れてしまう。
「はぁ……何だかなぁ」
とりあえず来年の一月に会いに行こう、と心に誓い、ただ我武者羅に前へ前へと走り続けるの佐伯であった。
そして12月31日を迎えた。
その日の仕事はいつもより早く、4時半の超早上がりであった。この時期になると何処も彼処も似たようなものである。ただ繁華街や都心部で働いている人達は本当に大変だなと実感させられる瞬間でもある。
明日は1月1日。
1年が第一日目。
今日普通に帰り、いつも通り朝を迎える事は何だか勿体ない。多少しんどかろうが、明日が年の始まりだと心持ちが違うのだ。
仕事場に深々と頭を下げると、佐伯は家とは逆方向である駅の方へと向かって歩いた。
殊更今日は人が多かった。何時もよりも家族連れやカップルが倍以上いるに違いない。愛を語らいながら、家族皆で和気あいあいと、友達や職場の皆でワーッと盛り上がり年を越すのだろう。皆思い思いに。道行人々が全て幸せな表情を浮かべているように思えたのはきっと気のせいではない。
両の手のひらにハーッと息を吐く。
吐息は白く濁っていた。
街は汚れている。
吹き荒ぶ風が身体に染み渡る。
たまには感傷的な雰囲気に身を委ね、悲観的になるのも案外いいかもしれない。さながら映画の主人公のようだ。なぜだか楽しいのだ。この雰囲気に酔いしれることが。
「そろそろ時間か。長居しすぎたな」
腕時計を確認すると、時刻は12時半を回っていた。二冊目の本を読み終えた所なので、店を後にするには丁度よかった。
後30分だ。
今年はどのような年だったのだろうか。
佐伯は思い返す。
ただ何も考えずに生きていた。目的なんてものがあるはずも無かった。人生はまだ長いんだからとか、言われることもあった。けれど、それを二十歳の自分自身にもそう言うことが出来るのだろうか。老いてから初めて言えるからであって、暗闇から抜け出すことが出来たからその様な若者にとっては無責任とも思わせる事が言えるのだ。
自分は歩み続けていけるのか。
暗闇から抜け出せるのだろうか。
考えれば考える程きりがない。不安材料があまりにも多過ぎるのだ。
気が付くと川原の土手に腰を下ろしていた。
「佐伯だよな」
肩をポンポンと。振り返るとそこには木村がいた。
佐伯は思わず声を上げてしまう。まさかこんな所で、しかもこんな時間帯に出会うなど思いもしなかったからだ。
「あ、お久しぶりです」
「元気にしてたか?」
「ボチボチです」
「そうか」と木村は笑顔で応えた。
それにしてもこんな時間に何をしているのだろうか。差し詰めロードワークと言ったところであろう。着ている服は機動性と断熱性を兼ね備えたランニングウェアを着込んでいるからだ。だが少しだけ、どこかお酒の匂いがするのは気のせいだろうか。
「木村さんはロードワーク中ですよね」
「ああ。今さっきジムの野郎どもと飯食ってきてよ。帰って寝ようかと思ったけど、なんか走りたい気分になってさ」
「キツくないんですか? すみません、当たり前の質問して」
「ハハハ。ふつーにキツイぜ」
「ですよね」
「でも、幾ら飲んでも毎日走ってりゃあ、その習慣を止めちまうなんてなんか負けた気がしてよ。んなことよりも佐伯はこんな所で何してるんだ?」
「ああ、ええっと────」
ただ疲れているから。いや、実際そこまで疲れてはいない。精神的にも、死ぬほど追い詰められているのかと問われればそうでない。漠然とした不安がある。ただそれだけのことなのだから。
「ぼーっとしてただけです」
「そうか」
「後少しで年が明けるなぁ、って」
「そうか……ちょっと隣邪魔するぜ」
後10分程度で年が明ける。
2人はただ黙っていた。けれど、佐伯別段気まずくもなかった。寧ろ誰かと共に年を越せるのか、と内心喜んでいたくらいである。
来年は一体どうなるんだろうか。
またイタズラに時間を浪費する日々を過ごすだけなのだろうか。それとも何か有意義な時間を過ごせるのだとでもいえるのだろうか。
何れにせよ行動を起こすのは自分だ。人生をより良い方向へと舵を切るのも。全ては自分次第である。
「あの、木村さんは───プロボクサーなんですよね」
「ああ」
「ボクサーを目指したキッカケってありますか?」
「ヘヘッ、もちろんあるぜ。ちょっとだけ長い話になるけどよ────」
嘗て木村は不良だった。同じジムにいるもう1人とコンビを組み、ここらでは喧嘩最強の2人だとも言われていたそうだ。
ただある1人の不良だけには勝てなかった。
その事実を暫くの間彼らは認める事が出来なかった。唯一自信のあった喧嘩において完敗に終わったからだ。当時の彼らにとってはあまりにも衝撃的だったのであろう。
再び彼らは喧嘩を挑んだ。
しかし負けてしまった。
けれど、今回は違っていた。
彼らはその男がボクシングジムに通っていると分かると、すぐさまそのジムに入会した。その男に一発ぶちかます為に。文字通りの死ぬ気で毎日毎日ボクシングに打ち込んだそうだ。ただその人の顔面に一発ぶちこむ為だけに。
しかしいつしか彼らはその男を目標に掲げボクサーを目指したのだ。彼のように強くなる為に。
「そ、そんな過去が……。ていうかその鷹村って人は木村さんより強いんですか!?」
「めっちゃ超強いぜ。俺なんか一捻りさ」
「木村さんが一捻りだなんて……信じられませんよ」
「あ、後2分で年が明けるな」
「もう今年が終わるんですね」
「そうだな」
大事なことを言い忘れている。本当に大切な事を。木村に自分もボクシングをやりたいと言う事を。
告白するつもりではないが、まさにそれくらいの緊張がある。悪いことを告白するつもりでもないのだが、何だか叱られそうな気がして堪らない。
けれど今がチャンスなのだ。
これを逃す訳にはいかない。
「あ、あの」
「んん?」
「ぼ、ボクシングって面白いですか?」
「ああ、おもしろいよ」
「痛くないんですか?」
「まぁ、痛い時もあるわな」
「ボクシング……」
「んん?」
木村は首を傾げていた。
「いや、その───じ、自分にもボクシング……って出来そうですかね……?」
言ってしまった。
遂に言ってしまった。
暗がりの中、木村の表情を読み取ることは出来なかったが、どうやら怒ってなさそうだ。まぁ、流石に怒ることはないのだろうけど。とすると、困惑してるのではないのだろうか。素人が突然ボクシングをやりたいなんて、そりゃぁ困るに決まっている。誰かに許しを得てするものでも無いのだから。あぁ、言わない方がましだったのか。
佐伯は様々なシチュエーションを想定していた。
その間僅か5秒である。
しかし佐伯の予想は大きく外れることとなる。
木村は突然腹を抱えて笑い出したのである。
「えーっと……」
「い、いやぁ、ごめんごめん。ただちょっと思い出してよ」
「思い出した……んですか?」
「似たような事があってな。鷹村さんから聴いてあくまでも想像しか出来ないけどよ。きっと一歩も鷹村さんに同じことを言ったんだろうな、って」
「は、はぁ……?」
「まさか俺が似たようなことを言われるとは思いもしなかったぜ」
「あ、えっと……」
木村は呟いた。
運命みたいだな───
「1月5日だ」
「え」
「その日の午後5時に鴨川ジムって所に来な」
「は、はい!」
「じゃ、俺はロードワークに戻るわ。今年も……ていうか、今年からか。今年からよろしく頼むぜ」
1月1日、午前1時15分。
身を切り裂く寒さが気持ち良かった。
まだ心臓が大きく鼓動している。
言ったのだ。遂に言ってしまったのだ。
案外呆気ないものだった。
俺にも目標が出来た。
前に進むだけだ。どれだけ殴られようが、辛い事が待ち受けていたとしても、俺はただ折れずに歩みを止めなければいい。何があろうとも絶対に越えてみせる。例え誰もがなし得ないそんな困難なものが待ち受けていようが。
俺に才能が無いことは確かだ。恐らくどこまでいってもきっと並に違いない。けれど、努力することだけは他の誰にも負けられない。それだけは俺が絶対に勝たなくちゃならない分野なんだ。半端者だから分かる。努力の大切さが。半端者のだならこそ分かる。何処に壁がそびえ立っているのかが。