鴨川ジムは遠くないが、近くもない。
徒歩十五分程でようやく到着した佐伯であるが、不安な表情を浮かべていた。遅刻したわけでもない。ただ、誰にでもあることだが、新たな一歩を踏み出すことを躊躇う者が多いことは事実であろう。
誰しも変わりたいと願う。けれど、それが叶うか叶わないかは神のみぞ知るところである。しかし、その一歩が持つ価値は計り知れない。
ジムの目の前で立ち止まっていると、ドアが急に開いた。中から、木村が「よっ」と現れた。
「お久しぶりです。というか、明けましておめでとうございます」
「久しぶりだな。明けましておめでとう。とりあえず中に入れよ」
初めてボクシングジムという所に入った佐伯にとって、あるもの全てが新鮮なものであった。ミット打ちや、スパーリング、シャドーボクシングをするボクサー達はあくまでも想像の中の人達であったからだ。
中でも佐伯の目が捉えたリーゼントの大男は、爆音を立てながらサンドバッグにパンチを繰り出していた。
「す、すげぇ……。これがボクシングジムってやつなのか……!」
「割と汗臭ェだろ」
「あ、いや、そんなことは……。」
「そのうち慣れるさ。変な話だけどさ、心地よくなるんだよな。この臭いや雰囲気含めてな。」
「心地よく、ですか」
「こればかりは説明のしようがねぇぜ」
「いえ、何となくわかるような気が」
すると、リーゼントの大男はサンドバッグを打ち終えたのであろうか、肩にタオルを下げこちらへと歩み寄った。
大男は不思議そうな顔で佐伯をじっと見つめている。
「あ、鷹村さん」
「コイツが例の新人ってやつか、木村」
「そうっすよ」
「この時期に入門ってのも、なんか珍しいな」
「いいじゃないっすか、丁度。新年だし、キリがいいし」
リーゼントの大男は鷹村というようだ。
佐伯を舐め回すような鷹村の視線に、ひどく緊張したが、直感的なものが働いたのであろうか、彼はそんなに悪い人ではなさそうだなと佐伯は考える。
「は、はじめまして!佐伯亮太と申します!ふ、ふつつかものですが、こ、これからも末永くよろしくお願いします!」
刹那、沈黙が走る。
が、数秒後、佐伯の言葉を聞いた人達の笑い声で鴨川ジムは覆い尽くされた。
緊張のせいで、挨拶の言葉を完全に間違ってしまったが、まぁ、新入りのつかみとしては申し分内ほどの上出来であろう。
ゆでダコのように顔を紅く染めてしまった当の本人である佐伯は穴があれば入りたいようであったが。
「ナイスつかみだったな!」
「や、やめてください……」
あれから二十分が経過した。
鷹村はロードワークに行き、佐伯はジムの隅っこの方で各々が格闘する様を眺めていた。
バチバチと縄が跳ねる音に、周期的になゴングの音。ミットがパン、パン!と立てる音に、シャドーボクシングをしている人が奏でるキュッ、キュッといった独特の音。
ジムに来てから気が付かなかったが、ここでは色々な音が溢れていた。うるさいというか、寧ろ自分自身を奮い立たせるような、そんな音だ。
「どうよ、これがボクシングジムってやつよ」
「木村さん」
「ん、どうした?」
「なんだか分かった気がします。臭いとか雰囲気とか、説明のしようがないんですけど……その───」
「ああ、分かるぜ。言わんとしていることがよ」
「俺も、ボクサーに……」
厳しくもあり、美しくもあるその険しい道に、佐伯はその一歩を踏み出そうとしていた。佐伯が拳をギュッ握りしめる様を、木村はどこか微笑ましそうに眺めていた。
「さてと。とりあえず今日は軽くスパーでもしようか」
「はい!……え、す、スパーってその、スパーリングってやつですか?」
「おうよ!」
「いやいやいや、無理ですって!いきなりグローブ握って、闘えとか無理ですよ!」
「大丈夫大丈夫。スパーリングつっても、条件つきのスパーリングだからさ」
「じょ、条件付き……?」
「丁度今帰ってきた鷹村さんがスパーの相手さ」
「いやいやいやいや、条件もクソもないですよ!あんな大男とスパーリングなんて無理ですって!」
佐伯の脳裏に浮かぶ光景は、鷹村の鬼のような猛攻である。常人が喰らえば即KOであろう攻撃を受ければどのような結果になるのかなんて決まっている。吹っ飛んだ上に失神。運が良くても確実に吹き飛ばされるに決まっている。
が、流石に条件付きのスパーリングであり、その条件というのが、鷹村は攻撃をしない、という内容である。
それなら恐れることはないだろう、と木村は万遍の笑みで言い放った。
「よしっ、それじゃ、はじめるとすっか」
リングに初めて上がると、広いようで以外と狭い事に気が付いた佐伯である。そして鷹村が放つプレッシャーが更に佐伯の視野を狭めていた。
そしてゴングが鳴り響く。
「さ、御手並み拝見といこうか」
「お、お願いします!」
ここで立ち止まっていても意味がない。
佐伯は意を決し、そのボクサーとしてのはじめの一歩を踏み出したと同時に駆け出した。
依然として鷹村はガードを軽く固めたまま、リング向かい側───リング隅で構えている。
佐伯は思い返す。
ボクシングには様々なパンチがあることを。肘で打つフックに、捨てパンチと呼ばれるボクシング特有のジャブ。そしてストレートパンチに、顎を抉るようにして放つアッパーパンチ。
佐伯が選択した第一打はジャブであった。
「シュッ───シュッシュッ!」
「おお、やるじゃねぇか……が。まだまだ甘ちゃんだな」
「う、ウソだろ……!?」
佐伯のジャブは鷹村にカスリもしなかった。
驚くことに鷹村はあの巨体でただ上半身を左右に振り、全てのジャブを見抜き、完璧に避けきっていたのだ。
誰しもボクシングの真似事はした事があるだろう。高校生や小中学生の頃に。しかしそれでも自分が放つパンチとやらは相手に当てることが出来たはずなのだ。
それなのに今目の前で起きているこのおかしな現象をどう説明すればよいのだろうか。
佐伯は顔を歪めたが、同時に感動した。
ボクサーとは想像以上に凄いのか────ボクサーというやつは!
佐伯は本に書いてあったパンチを一通り鷹村へと放った。ストレートにフック、アッパーパンチ。だがどれも全てがまるで鷹村を嫌うかの如くただ虚しく空を切るだけであった。
3ラウンドに差し掛かるが、鷹村のキレはラウンド数が増える事に増すばかりであった。自分の可動域を知り尽くした合理的な避け方や立ち居振る舞いは科学的であり、鋭い目つきや桁外れの動体視力はまさに野生の動物。科学と野生が融合したとも言うべきであろうか。
一方佐伯は既に限界を迎えていた。
いや、寧ろ彼のような初心者が鷹村の放つプレッシャーの元で3ラウンドも耐えれたこと自体が健闘したとも言うべきであろうか。
「こんにちは、木村さん」
「よぉ、一歩か」
「あ。あの方が木村さんが言ってた方ですか────って、いきなりスパーリング!?しかも鷹村さんと!?」
「アッハッハ、大丈夫だって。鷹村さんが一切手を出さないっていう条件付きのスパーだからさ。こちらとしても安心して見れるぜ」
「ほ、本当ですか……?」
「ま、まぁ、今回に限っては大丈夫だろう……多分」
佐伯はただ我武者羅に拳を打ち続けていた。
既に両腕は鉛が乗ったように重く、足は思う方向へと進まない。そして目の前には鷹村という真の強者が待ち構えている。不敵な笑みを浮かべながら。
3ラウンドも残り僅か。
残り1ラウンド。
しかし残りの1ラウンド、果たして自分は動けるのであろうか、と佐伯は考える。
いや、無理に違いない。今でさえも立つことさえままならないほど息を荒らげているのに。
それならば────
それなば鷹村さんに────
そして第4ラウンドへと続く。