佐伯がジムに入会してから二週間が経過した。
まだ完全には慣れていないものの、練習はある程度こなせるようになった。ロードワークはまだまだであるが、駆け出しのボクサーとしてはそれなりに走ることが出来る程度にまで成長した。
さて、ボクサーには2種類存在する。
インファイターとアウトボクサーである。
前者は、恐怖をものともせず自ら前へ前へと進み相手を打ち負かす。後者は、相手との距離をおき、まるで輪舞曲を踊るかのごとく華麗に相手を射止めるのだ。
どちらにも一長一短あり、どれが優れてるとか、劣っているなどと決めることは不可能である。
当の本人である佐伯は悩んでいたのである。
要はボクサーとしての初めての分岐点に打ち当たったわけだ。
「うーん……」
木村はアウトボクサーで、青木や一歩はインファイターである。そして鷹村という怪物はインファイターでもありアウトボクサーでもある。
鷹村は例外として、体型的にもやはり佐伯が目指すべきはアウトボクサーなのであろう。けれど、彼はインファイターを所望しているのだ。
佐伯なりの考えでは、アウトボクサーは技術、そしてインファイターは根性、だ。
インファイターか。
それともアウトボクサーか。
悩みに悩み、彼が出した結論とは────
「木村さんに一歩さん、あ、青木さんも。質問があるんですけど、アウトボクサーとインファイターの丁度間くらいのボクサースタイルってのはないんですか?」
3人ともの返答が「は?」である。
身近な例を上げれば、これには鷹村が確当するのであろうが、彼は例外である。卓越した技術に常人離れした能力がそれを可能にしているのであり、並の人間にはまず真似できまい。
「それなら……あれだな、スイッチヒッターってやつだな」
「スイッチヒッター……ですか」
「というか、本当に別の意味でのスイッチヒッターってやつだな」
スイッチヒッターとは、構えを試合中に高頻度でコロコロと変える選手のことを指す。
基本は右構えか左構えかの1つで、各自各々は1つの構えの純度を高めていくことが普通である。
またスイッチヒッターの利点は、頻繁に右左と構えを変えることで、相手が距離感を測ることが難しくなるという所にある。しかしスイッチヒッターとはそれなりに器用な人間でなければ出来ないものなのだ。
さて、ここでいうスイッチヒッターとは、構えを変えることでなく、闘い方そのものを変える選手のことを佐伯は質問しているのだ。
「というか、ボクサーファイターじゃねえのか?」と青木が呟いた。
「ボクサーファイターですか?」
「簡単に言えば鷹村さんがボクサーファイターさ。そして青木と一歩がインファイター────つまりファイター。そして俺がアウトボクサー────つまりボクサーさ」
「ボクサーファイターか……」
「でもボクサーファイターはなかなか難しいぜ」
「うーん……」
早期に自身のボクサー象を作り上げることは、非常に有効な手立てである。勉強にしろ何にしろ、目標が無ければモチベーションも変わるのだ。
佐伯はある意味自分を俯瞰できる。故に、佐伯はインファイター向きである。勇猛果敢に攻め、相手の懐に入り込み、殴り合う。このスタイルが向いてる。また、相当な精神力が、インファイターを際立たせる。
が、当の本人は鷹村のスタイルをどうしても模倣したいらしい。
「気持ちは分かるけどな」と、木村が肩をポンと叩く。「あの人は俺たちの憧れでもあるからよ」と青木も呟いた。
「まぁ、まだそんな悩むこたぁないさ。とりあえず全部試してみたらいいんだ。それから決めるのもありだろ?」
「確かに……木村さんの言う通りですね」
ほら、とギアとグローブが飛んできた。
「とりあえず練習がてら付き合ってやるよ」
「ありがとうございます!」
リングで対峙するは、木村。しかし今回は己のファイトスタイルを見極める為のものであり、試合形式ではないのだ。
佐伯は見よう見まねではあるが、木村の構えを思い出し、半身になり、ステップを刻む。少し膝を曲げ、常に動作出来るような戦闘体勢に入った。
「しゃ、行くぜ!」
木村が放つ軽めのジャブは空を切る。大振りに身体を揺らし、全てのパンチを避けるぞ、という意気込みは伝わるが、木村はニヤリとしていた。
ステップを刻み、大振りに避け続けることは、かなりの体力を消耗する。初心者の佐伯が2分も持つはずもなかった。
木村の右手ストレートが顔面にクリーンヒットしたところで、佐伯はスリップし、リングにしりもちをつく。
「し、これほどまでにしんどいのか……」
肩で息をする佐伯を横目に、木村は人差し指を振り、ノンノンノンと。
「無尽蔵の体力があったとしても、その闘いかたじゃ肝心な時に手が出せねぇよ。あれだな。動作は最小限に抑えるのがポイントってやつよ」
「……といいますと?」
「まぁ、見てなって。青木!ちょっと手伝ってくれよ」
「あいよ」
木村の講義がスタートした。
まずは、ステップを小刻みに。しかし無駄がないように注意する。行動全てに意味を持たせるのさ。例えば、肩を動かす時は、フェイントを織り交ぜたりとかよ。
ま、ただ適当に半身になってステップを刻むのは誰でも出来る。ただ、ここが難しいんだが、相手の肩や立ち位置を見て、感じるんだ。そうすればどのタイミングで相手が仕掛けて来るかが分かるのさ。ただ、ここらへんは実践あるのみさ。勿論中には、信じたくねぇが天才もいるが、まぁ、滅多に出会わねえから安心しな。
ゴングが鳴り響く。
「なるほどなぁ」
「さて、次はインファイターだな」
「お願いします!」
グローブ構え、一歩のような構えをとる佐伯。左右に身体を揺らし、ジリジリと木村との距離を詰める。
刹那、佐伯の拳が木村を襲うが、それはどれも空を切ってしまう。右ストレートはテイクバックで避けられ、軽めのカウンターをもらい、左フックでは、合わせて放たれた左フックのカウンターを見事に食らってしまう。
しかし佐伯は諦めず勇猛果敢に攻め続けた。
「……なるほど」と、木村は考える。やはり───やはり、佐伯はインファイター向きか、と。
ゴングが鳴り響き、スパーリングが終了した。
「やっぱり……」
「やっぱり……?」
「佐伯はインファイター向きだな」
「……確かに、アウトボクサーは向いてないなとは思ってましたけど。インファイターか……」
「不満か?」
「いや、その、何といいますか、合ってるなと。自分に」
何となくであるが、佐伯は自分がインファイターであるな、と感じていた。ただ、自分には優れた武器があるわけではない。特に鴨川ジムでは、同じフェザー級で期待の新人である幕之内一歩の存在が、あまりにも大きいのだ。
ハードパンチャー。自身の拳の皮がめくれるほどの威力のあるパンチを放つことが出来る特異な能力。加えて幕之内一歩という人間には、家業で鍛えた凄まじい筋肉に加え、無尽蔵の体力が内蔵されている。
自分との格差があまりにも歴然としすぎているのだが、ここでくると最早笑うしかない。
「よくよく考えたら本当に、一歩さんは強いな……。つーかヤベェ」
「まぁ、一歩はヤベェな」と、木村と青木が口を揃えて頷いた。スパーリングの練習によく付き合うので、フックがテンプルに入ると視界が歪み、拳が鳩尾辺りなんかに突き刺さった暁には、ゲボえを撒き散らすだけの機械になってしまう。
「ファイトスタイル……か。自分にあったインファイターの……」
不安を潰す様に、拳をぎゅっと握り締める。
こんなことは前にもあったのだ。もう、上を見て自分にうんざりする事にも慣れてしまった。自分を卑下することも、勝手に自分の価値を決めてしまうことも、結局は自分が自分を信じていないからではないのか。
「やるしかないか……」
「ま、やるしかねぇよな」
「木村さん」
「ん?」
「もう一回スパーリングの相手して貰えませんかね。今度もまたインファイトでいきますんで」
「おうよ!」