ファイトスタイルが決まってから、佐伯の闘いには、安定感が増した。佐伯は基礎を忠実にこなすタイプの人間なので、鷹村を始め、木村や青木もその成長速度には驚くばかりであった。ちなみに最近の佐伯のあだ名は『教本』である。
「それにしてもすげぇ上達ぶりだな」
「いやいや、そんなこと……」
「佐伯も新人戦に参加決定だな」
「まじですか」
「まじまじ」
新人王戦────一歩達にとっては、実に懐かしい響きである。去年の冬、幕之内一歩は宿敵である真柴を倒し、フェザー級東日本新人王として、有終の美を飾った。
そして、迫るは西日本王者との試合。つまり日本フェザー級新人戦のチャンピオンを決める試合が刻々と迫っていた。
佐伯はふと思い出した。対戦相手の千堂のスマッシュには気を付けろと、会長が口を酸っぱくして何度も何度も一歩に言い聞かせていた事を。
スマッシュとは、カナダのドノバン・レーザー・ラドックという選手が使っていた、フックとアッパーの中間のパンチのことである。
千堂武士は、幕之内一歩に引けを取らない程の強打者であり、不良上がりということもあり、拳闘────つまり、ボクシングのセンスもさることながら、類まれなる能力の持ち主でもあった。
本来スマッシュとは、そこまでの威力はない。そもそも、打ち方がなかなかに難しいのだ。並のファイターでは、フィニッシュブローとなり得ないものを、千堂は自らものにしたのだ。つまり、それは千堂がかなりの強打者であるということを再認識さけることに他ならない。
斜めから突き上げるスマッシュ。鋭利な一撃を食らった対戦相手は皆、身体を宙に浮かばせていた。
「それにしても、あれなんですかね。他の人は全員自分のフィニッシュブローってやつを持っているもんなんですか?」
「まぁ、大体はな」と木村と青木は口を揃えたが、奥の方から鷹村がニュっと顔を出し一言、
「ま、俺様レベルになると、種類関係なしに全てがフィニッシュブローだけどな」と得意げな顔で言うが、実際そうなんだからタチが悪い。
「そう焦るな。まだオメーは素人に毛が生えたような実力しかねーんだ。今はただ黙々とトレーニングをこなすしかねーよ」
「確かに。鷹村さんの言う通りやな…」
「ま、どっかの2人よりかは少なくとも能力はあるだろうから、気楽に頑張れや」と、この一言を皮切りに、青木木村がキレ、逆に鷹村に逆襲され、会長が怒鳴り散らし、逃げるようにロードワークを行う一連の流れは最早様式美と言っても過言ではないだろう。
「そういえば、拳の調子はどうですか?」
実は東日本新人王決勝で、一歩は拳に怪我を負ってしまっていたのだ。未だに完治はしないものの、ここの所はひたすらロードワークを行い、鬼のような基礎トレーニングをこなしていた。
「ちょっとまだ痛みます。ただ、前よりかは随分とマシになりました」
「おお、それはよかったです。その時の試合この間拝見させて頂きました。いや、まさか怪我した方の拳で勝つなんて……」
去年の東日本新人王決勝戦。相手は間柴という男であった。スタイルは、確かアウトボクサーだったはずで、特筆すべきは彼がデトロイトスタイルを用いてたこと。つまり、ヒットマンスタイルだ。
右腕を顎辺りに構え、半身になり、左腕の甲を下に向け、脇腹辺りで構える独特なスタイル。そして、そこから放たれるスナップを効かせたジャブこそが真骨頂であろう、フリッカージャブだ。
さながら鎌をユラユラと揺らし、不敵な笑みを浮かべる死神であろうか、相手によっては、フリッカージャブだけで勝った試合もあるくらいの実力者である。
さて、そんな男と幕之内一歩は闘ったのだ。
佐伯は試合のビデオを観、唖然としていた。
フリッカージャブを封じる一環として、一歩は己の拳で相手の肘を狙い、それが功を奏し、見事優勝した訳だが、それが原因で拳に怪我を負っているのだ。
肘というものは、拳よりも硬い。相手の一撃を肘でガードするということは、ある意味攻防一体のものだ。肘を撃ったせいで、拳が壊れ、選手生命を絶たれた人もいるほど、肘というものはボクシングにおいて、それほど脅威的なものである。
それを幕之内一歩という男は、自分の意思で、しかもフルパワーで実行していたのだ。さながら我慢比べともいうべき試合。最終的には一歩の拳が間柴の肘に勝利した訳だが、あの試合は観ているだけでもひやひやしてしまうのは、きっと自分だけでは無いだろう。
「お疲れ様でした」と一礼し、佐伯はジムを後にした。割と今日は早めに上がった佐伯は、その足で本屋に向かう。その後はお決まりのコースで図書館に。
佐伯は、少なくとも自分には能力が無いと考えている。あるのはせいぜい根性くらいだが、それも幕之内一歩という男には劣ってしまうだろう、と。
それならば、彼は知識や基礎体力面で勝るしかない、と。ここんところは、ほぼ格闘技系の本しか読んでいなかった。どれもほとんどボクシング系の本である。雑誌に始まり、ボクシングに関する学術書等を図書館で探し、それを読む日々である。まさにバイトをしつつ、生活の殆どをボクシングに捧げる生活を送っているのだ。
「お、佐伯じゃねーか。ラッシャイ!」
「ウィッス!」
たまに晩飯を作るのが面倒な時は、青木のアルバイト先である中華屋に向かうことにしていた。青木の作る中華はこれまた意外な事に絶品で、割とハマっている佐伯である。また、ここに来れば大体は鴨川ジムの誰かしらと、仕事帰りのサラリーマンがいるのだが、今日は珍しく、お客は自分1人だけのようであった。
いつものようにラーメンチャーハンセットと餃子を注文する。余談であるが、青木がオマケしてくれるので、足繁く通う佐伯である。
「フィニッシュブローか……」
「どうしたどうした。まーだそれで悩んでんのかよ」
「男なら、自分の必殺技!みたいなものに憧れるじゃないですか!」
「まぁ、気持ちは分かるがよ」
「そもそも、一歩さんはハードパンチャーで、拳そのものが必殺技みたいですし、鷹村さんは存在そのものが必殺技じゃないですか」
「まぁ、あの二人は特にやべーよな。本当一歩には驚かされてばかりだぜ。まったくよ」
「早く俺にもフィニッシュブローが欲しいなぁ」
「そこまでこだわる必要なんて、なくてもよくねぇか?」
「うーん……。あればいいかなぁ、的な」
「フィニッシュブローは確かに己の必殺技だけどよ、フィニッシュブローよりも厄介なもんがあんだぜ」
「……え、まじですか!?」
「それは─────」
「それは─────?」
「闘志だな」
意外な返答に佐伯はキョトンとしていた。
それもそうだ。必殺技が闘志だなんて、まさかの返答に困る以外の選択肢があろうか。
青木は続ける。
「リングに立ちゃぁわかんだけどよ。確かにフィニッシュブローってやつは有るに越したぁねえよな。それだけで相手を牽制できるし。だけどよ、闘志ってやつは、それさえも超えちまう時があるのよ。なんつーか目の奥の炎っつーか、燻りみてーなやつがよ。ただ、こればっかは実際に試合をしてみねーと分かんねぇよなぁ。」
「…なるほど」
「まぁ、つまりだ。必殺技ってのは、フィニッシュブローだけじゃなく、闘志とか、そこらへんもなるんじゃねーのかな?」