西暦2026年5月26日午前2時
ー パリ ジョルジュ=ポンピドー欧州病院 第6区画8号室 ー
ひとつのベッドで1人の少女が医療マスクを被り、大粒の汗を大量にかき、苦しげに息を吐いていた
嫌……やめ……やめ…て
痛い痛い痛い痛い痛い痛い……痛いっ!!
食べないで……嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
次の瞬間、目を覚ました少女
彼女こそ24日にBETAに襲われ、瀕死の重傷を負ったクロエ・ファルトマイヤーその人だった
午後にここパリ先進医療技術病院に運び込まれ、集中治療室で治療が行われた
それは長時間に及ぶ、各種内蔵の再生と微生物の生成、骨などの再生等、多岐に及んだ
結局治療は24時間程かかり、25日の午後6時ぐらいに終了した
彼女は手を震わせながら医療マスクを外す
「何……この……夢…は?……」
口元が震え、言葉が思うように出せず、震えの余り目の焦点が合っていなかった
彼女の夢に出てきていたのはBETAであり、自分を捕食していた
意識を失う前に見ていたのはまさにその光景であり、恐怖するのも無理はなかった……が、
その内、ゆっくりと重げに視線を上に向け、直後目を驚いたかのように目を見開く
なお、この時だけ目の焦点が収まっていた
「い……いやっ!」
あまり動かない体を恐怖でベッドの上で後ろに引きずるあまり、バランスを崩してベッドの左に転落する
「いっ……た……」
彼女が天井を向いて驚き、恐怖のあまり体を引き摺っていたのには理由があった
普通なら深夜の暗い病室の天井に見える
そのはずだが、彼女には赤い血で汚れた天井、そして、上からのしかかる赤い化け物
それらが彼女の視界に幻覚となって現れていた
そして、ベッドから落ちた彼女は叫ぶ
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
その声は深夜勤務の看護師らが待機している場所にまで届き、すぐに駆けつけた
「大丈夫ですか!……!?」
看護師らは絶句する
クロエは目から涙をとめどもなく流し、手を何かを振り払うように振り回していた
看護師がベッドに戻そうと抱える為に手を触れようものなら、さらに強く振り回してきて、3人の看護師では手のつけようがなかった
その為、深夜常駐の男性医師2名を呼び、無理やり抱えてベッドに戻した
それでもなお手を振り回し足をバタバタとさせる為、本来なら暴徒の拘束に使うのであって子供に使うものでは絶対に無い拘束魔法を仕方無く使用、両手、両足をベッドに拘束し、今も尚叫びつづける口は大声で叫んでも通常会話程度にしか聞こえない防音マスクで塞いだ
「彼女……」
「ああ、間違いない……彼女には……PTSDの可能性がある。」
1人の男性医師が顔をしかめる
「……まあ、あんな事をされたら私達であってもああなります。」
それに女性看護師が顔を青くしながら答えた
「それは俺らであっても同じだ。救出した魔法師が言っていたが、腹は裂け、肩は千切れ、目は虚ろになっていたじゃないか……」
男性医師は苦い顔を浮かべ、悔しげに手に力を込める
「どうしますか?」
「……俺らは日中いるわけじゃないしな、君たちが伝えてくれ。それと、しっかり休め。この後の深夜勤務時間帯は任せろ。」
「わ、わかりました。」
看護師らが退室し、男性医師2名もそこを出る
その時、1人が振り向き、クロエに声をかける
「自分勝手だが言わせてくれ。まだ若いんだ、しっかりと元気を取り戻してくれ。」
声をかけた医師は恥ずかしげにすぐに退出していく
言葉をかけられた彼女は拘束直後は虚ろな目をしていたが、今ではしっかりと目を閉じ眠っていた
昼頃にはクロエの狂乱状態や幻覚症状は収まったものの、異常な程に
食事でさえ促されなければ手をつけないという状態で、担当する看護師は悲しいそうな目で見つめた
その為、父親に電話することが決定された
「すいません、ファルトマイヤーさんですか?」
『ええ。アンセルム・ファルトマイヤーです。』
「実はですね、娘さんがここパリの病院に緊急搬送されて、今はなんとか一命を取りとめています。」
『何っ!……それで……』
「聞いてください…命は助かりました。ですが……彼女にはPTSDの疑いがあります。」
『……そうですか…』
「あまり驚かれないんですね。」
『いえ…内心驚いています。命だけでも助かっただけで良かった。人間、命が助かっていれば、どうとでもなりますから。』
「そうですか……ところで治療はどうしますか?カウンセリング等の精神療法は総合病院の為、完備はしています。ですが、年齢を考えると単独では記憶が蘇って失敗する可能性も……」
『…家族療法と?』
「はい。それが一番いいと思います。」
『…私は軍人なので長期的に会うのは厳しいのですが……』
「それでも、1回だけ会ってくれませんか?大事な人に会う、それだけでも症状が改善される方が多いです。」
『……検討します……』
「お願いします。」
ー マルセイユ港 第四艦隊基地 ー
「はぁ……」
1人ため息を吐くアンセルム
(……クロエが助かったのはよかったが……PTSDか……まあ、BETAに襲われていたから仕方ないこととはいえ……)
「どうした?」
俯きかけていたアンセルムに声をかけたのは原子力空母『クレマンソー』艦長だった
「あ、いえ……」
「まあ、とりあえず、俺の部屋にこい。」
「あ、了解しました。」
アンセルムは諦め、艦長の個室に行った後、事の顛末を艦長に話した
「そうか……お嬢さん助かったのか……」
「助かったみたいですが……PTSDと診断されていて。」
「それで会いに来てくれと頼まれているのだろう?行けばいいじゃないか。」
「!……ですが、私の任務は?」
「リヨンに侵攻されてから、空母を使う意味は無くなった、航空機だと光線級に撃墜されるからな。というわけで俺も暇なんだな。行ってやれよ。」
艦長はヤレヤレという感じの表情をうかべる
「あ、ありがとうございます。ですが手ブラでは……何かあればいいのですが_」
「それの事だが、これでも持っていけ。」
艦長はアンセルムの声を遮り、何かが入った紙袋を渡す
「これは……?」
「俺の妻がスペインで買ってきたお土産だ。だが、俺の嫌いなものが入っててね……正直に言えないんだ……持って行ってくれ。」
「分かりました。ありがとうございます。」
翌日
アンセルムの姿はジョルジュ=ポンピドー欧州病院にあった
そして、8号室に来た途端、自分の娘と目が合った
「……お、お父さん……?」
アンセルムは自分から歩み寄り、クロエを抱きしめた
「……お前が無事で良かった……辛かったろう……泣いていい。」
「……うっ……うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
クロエの涙腺は結界し、泣き叫んだ
アンセルムはクロエを受け止め、しっかりとクロエの体を支えた
「済んだか……?」
「うん……ありがと。」
「そうだ……これ、お見舞い品だが一緒に食べるか?」
「……うん!」
アンセルムは上司から貰ったお見舞い品を開き、一緒に食べながら色々な話をした
長いようで短い……すぐに時間は過ぎていく
「もう帰らないと行けないな……クロエ、また来るよ。」
「!……」
クロエは沈黙したままアンセルムの来ていた服の左袖を右手で引っ張った
そして、父にしか聞こえない小声で呟いた
「……行かないで……怖い……」
クロエに目には微かに潤っていた
「……」
アンセルムはゆっくりとクロエの右手を離す
そして……
クロエの左頬、アンセルムから見れば右の頬を右手で強く平手打ちした
甲高い音が響くと共に、沈黙が走る
「甘えるな!!」
部屋にアンセルムの声が響く
アンセルムはできるだけ乱暴にしないようにクロエの服の胸倉を掴み、引き寄せる
「悪夢を見ようが、幻覚を見ようが、PTSDだろうが関係ないっ!」
「お前はBETAに喰われかけた……その絶望は想像を絶するものだったんだろう……だが……」
「だがな……俺だって殺されかけた時もあるし、人が猟奇的な殺した方で殺される光景を見た。けど、俺は恐怖は感じたが、狼狽することも精神ショックを負うことも無かった。何故だがわかるか?」
アンセルムはクロエに問う、しかし、その答えを聞かずに話を続ける
「それはな、ファルトマイヤー家の人間だからだ。なりかけた時もある、だが、克服出来た。」
「もう一度言う、甘えるな。クロエ……お前はまだ幼いから仕方ないが、それでも必ず克服できると信じている。ファルトマイヤー家の人間なら必ず!」
そこまで言うと、アンセルムはクロエを抱きしめる
「……必ず克服できるさ……ファルトマイヤー家……いや、俺と妻の娘なら。」
「…………うん。」
クロエは頷きながら、静かにひと粒の涙を零す
その夜はクロエは静かに熟睡することが出来た