月ノ輪紅真深にとって上矢あがりは特別な存在だった。
月ノ輪は幼いころから数多くの習い事に手を出し、すべてにおいて天才的な才能で優秀な成績を残してきた。卓球もその一つで、いつも通り大会で才能を発揮しようとしていたところ、それを阻み月ノ輪に初めての悔しさを味わわせたのがあがりだった。
以来、月ノ輪は初めてのドキドキを教えてくれたあがりとの再戦を願い、卓球に打ち込む。すると雀が原中学校卓球部で再会を果たし、部内戦にて完勝した。
しょせん卓球も他と同じ、練習したら練習しただけ強くなれる、ドキドキとは無縁なつまらない競技だった。にわかに失望した月ノ輪を引き止めたのはあがりの泣き顔だ。月ノ輪に負けた後卓球場の裏手で泣きはらすあがりの泣き顔は、月ノ輪の心と卓球を繋ぎ止めた。
もっとあの顔が見たい。あーちゃんを泣かせたい。だからもっと卓球をする。
次の週にあがりが再戦を申し出たときには内心小躍りするほど喜んだ。またあの泣き顔を見られると考えたためだったが、その予想は裏切られることとなる。
あがりに自分の武器は通じなくなっていた。強烈な横回転をかけた特殊なカットを主軸とする得点パターンは、そのことごとくが打ち破られた。
悔しくて悔しくてたまらない。あがりの泣き顔が見られなくて寂しい。そういった思いのあまり、勝利を手にしたあがりの最高の笑顔は月ノ輪の目に入らなかった。
心中に渦巻くのは、とにかくあがりを倒して泣き顔を見たいというどす黒い衝動。練習後の更衣室で月ノ輪は一人謎の気迫を漂わせており、誰一人声をかけない。月ノ輪を倒した張本人であるあがりはもちろん、明るく物おじしない天下でさえ近づくのをためらうような圧力を発しており、更衣室に重い空気が漂う。
「月ノ輪さん、ちょっといい?」
「……なに?」
沈黙を破ったのは、練習中にノーパンを暴露された橘である。
橘が月ノ輪に何かを耳打ちすると、月ノ輪は機敏に荷物をまとめ、橘の手を引いて更衣室を出た。
「ほ、本当!?」
「うん、本当」
橘に鼻息荒く詰め寄る月ノ輪。鬼気迫る勢いを受け流しつつ、橘は続ける。
「すぐに実践できる、上矢さん対策があるよ。詳しくは後日うちの台を使って――」
---
週明けの月曜日、月ノ輪はホームルームが終わるや否や部室へ駆け込み着替えを済ませ、勢いのまま一人で台だしを終わらせた。月ノ輪の次に入ってきたのは三年の紫藤部長で、月ノ輪が元気よくあいさつすると上機嫌に腕を組み数度うなずいた。
「うんうん、今年の一年は元気があっていいね! その様子だと、上矢さんへのリベンジはできそうかな?」
「はい、必ず……!」
「おおう、どっから声出してんの? まあいいや、がんばってね」
気合のあまり腹話術教室で身につけたダンディボイスが出てしまった。とたんに恥ずかしくなり、その拍子に気負いすぎていたことを自覚する。
(危ない危ない、空回りするところだった。今日失敗したら橘さんにも申し訳ないからね。練習の成果を出す!)
その後、次々に部員たちが卓球場へ入ってくる。月ノ輪はあがりに熱い一瞥を送った後そっぽを向き、橘とは強い視線でアイコンタクトして頷き合っていた。
なお、部内戦前の基礎練習では月ノ輪だけ一球ごとに殺気をこめており、最後の夏大会を前に緊張感を高めている三年生たちから好評を得た。
そうしてやってきた部内戦の時間。月ノ輪は真っ先にあがりのもとへ向かう。あがりの方も同じ考えだったようで、お互い好戦的な笑みを浮かべにらみ合う。
「あーちゃ、上矢さん。やろう」
「もちろんよ」
短いやりとりの後台につく二人。
はたから二人の様子を見ていた橘は審判につこうとするが、肩に腕をかけられたため動きを止める。
「まあまあ、審判は他の子に任せて。ちょっとお話しようよ」
「後手先輩」
二年の後手キルカ。同学年の中では抜きんでた実力を有するカット主戦型。橘としてもあまり話したことのない相手だったので、お話するのは大歓迎だった。
「この試合、どう見る?」
「五分五分です」
「五分? 意外だなー。てっきり今度は月ノ輪さんに必勝法を教えたのかと思った」
ははあ、上矢さんから聞いたなとあたりをつけつつ、橘は答える。
「必勝法なんてめったにないです。対策を詰めたら後は地力勝負。一朝一夕で変わらな……変わりません」
「それもそっか。で、今回は何教えたの?」
「見てたら分かる……ますよ」
案外敬語が難しい。人生初の先輩との会話に橘が苦労している間に、試合は始まっていた。
月ノ輪のバックサーブ。フォアに曲がる横下回転のそれをあがりがドライブで返す。月ノ輪のバックカット。
「あれ?」
後手が声をあげたのも無理はない。月ノ輪バックカットには横回転ではなく、強い下回転がかかっていた。しかもコースはミドル。横へ逃げていくカットに目が慣れたあがりには返球困難な球種、コースである。
それでもどうにか反応し、ツッツキでカットをやりすごす。
ここからが月ノ輪の特訓の成果だった。フォア側へ返ってきたボールを、全身の身体のひねりを使い全力で叩く。
猛烈なスピードボールが相手コートへストレートに突き刺さり、そのまま得点となった。
「スピードドライブ。なるほど、通常のカットと、攻撃を教えたんだね?」
「はい」
従来の月ノ輪の戦い方は、曲がるカットで相手を左右に振り回し、ミスを誘う受動的なものだった。曲がるカットに相手が慣れてなければ無類の強さを発揮するが、慣れてしまえば前回の試合の通りになる。
そこで、曲がるカットによる得点パターンはそのままに、通常のカットと、チャンスボールを確実に決める攻撃力を教え込むことで、攻守の緩急をつけた。相手のミスによる得点ではなく、相手のミスにつけこみ自分から得点する戦術である。
「できればナックルカットも覚えてほしかったけど、時間がかかるからやめました」
「ふうーん」
試合を見つめる橘は気づかない。普段の細目を見開いて自分を見下ろす後手の視線に。
「キルカ、ダブルスで先輩方と試合しない?」
「あ、ムネムネ。ごめん、ちょっとだけ待ってくれない?」
二人のもとへ近づいてきたのは二年のムネムネ先輩。名前の通り大きな胸が特徴的なパワータイプだ。ちなみに部内ランキングのネームプレートもムネムネ表記なので、本名を知らない一年が割といる。
「橘さん、試合やろっか。ムネムネは審判お願い」
「私はいいけど……」
「……分かりました」
できればもう少し試合を見ていたかったけれど、二年のトップの先輩との試合はありがたい。少し考えてから了承した。
「おおっ、強いんだか強くないのかよく分かんないと噂の橘さんと、二年の後手さんが試合だって!」
「これは見たい!」
「わ、私そんな評価なんですか?」
三年の先輩方の盛り上がりに困惑する橘。ムネムネは「あはは」と苦笑する。
「ほら、一年トップの月ノ輪さんには圧勝したのに、二位の上矢さん、四位の出雲さんにはけっこうあっさり負けてるでしょ? だから」
「よく分かんないって評価になってるわけ」
「はあ」
後手が言葉を引き継いでそう締めくくった。毎試合本気でがんばっている橘にはなんとも言えない評価だ。
「この機会に本気出しちゃえば?」
「私はいつでも本気です」
「そうじゃなくてさ。本当の戦型でやれば? ってこと」
「本当の戦型……?」
ムネムネが首をかしげる横で、橘は考え込んでいた。
本当にそうしていいのか。そうすることで自分の卓球は良くなるのか、楽しくなるのか。答えは出ない。
けれど、自分が本当に得意とする戦型で全力を出すことが、先輩の言う本気なのではないか。本気を出さないと先輩に大して失礼なのでは。
とにかく先輩に失礼のないように。決意を決めた橘は、一度は捨てた自分の戦型を思い出し、全身全霊で試合に臨んだ。
---
橘カヤが本来の戦型とは違うプレーをしていることは、後手をはじめ部内の実力者たちの間では周知の事実だった。バック面に貼っている粒高をほとんど使わず、得点源はすべてフォアドライブであることから、ドライブ主戦型と見ている。ただ、本来の戦型でなくともそれなりに強いこと、非常にまじめかつ本気で練習に取り組んでいることはボールから伝わってきたので、気づいている部員のうちの多くが静観を決め込んだ。
後手もそのクチだったが、湧き起る好奇心を抑えきれなかった。新入部員のツートップであるあがりと月ノ輪にアドバイスと実践練習をほどこし、灼熱の試合を実現させた橘の本来の実力が、どうしても気になったのだ。
しかし――
「な、9-1」
「くっ……!」
ここまでとは思ってなかった。
卓球場が静まり返っている。試合中の部員も、僅差で月ノ輪の勝利に終わった月ノ輪、あがりの二人も、見て学んでいた観衆たちも、驚きのあまり動きを止めている。
試合は9-1で後手の不利。サーブは後手の先攻だったが、現在は橘にある。
橘の手のひらに乗ったボールがトスされ、右手のラケットがブレる。後手のバック前に出されたサービスを前に、後手は頭をフル回転させた。
(何度見ても回転が読めない! こうなったらバクチだ、上回転だと思って振りぬけ!)
回転させても分からないものは分からない。開き直ってラケットを振る。
バクチには勝った。球種不明のサーブは直線的な軌道で橘のコートへ返っていき――カウンタードライブで後手のミドルへ返ってくる。台上に一歩踏み込んでいた体勢から戻れておらず、そのまま得点となった。
続けて橘のサービス。幾重ものフェイントとスイングスピードにより、打球面が見えない上回転量もけた違い。結局レシーブすることができず、11-1のスコアで試合は終了した。
「11-1……マッチウォンバイ橘さん」
「ふ、ふふ、ふふふ」
「あ、あの、キルカ?」
「あははは! こんな負け方初めてだよ! 悔しすぎて逆に悔しくない!」
後手のヤケクソな笑い声が響くに伴い、卓球場の空気が弛緩していく。「なんか、すごいものを見たような気がする」「水玉パンツって何者?」「私も一点はとったから、後手先輩と同じくらい強いってことだな!」「それはない」
後手は試合を振り返る。レシーブはすべて攻撃、サービスは一切読めない、カットをすると鬼のようなパワードライブが返ってくる。卓球として成立しているかも怪しい一方的な展開だった。
周囲からの視線に身を縮めている橘に歩み寄り、握手を交わす。差がありすぎて逆に悔しくない。むしろすがすがしい気分だった。
「完敗だよ。一応聞くけど、本来はペンドラってことでいいの?」
「ありがとうございました。はい、日ペンのドライブ主戦型です」
「そっか」
戦型とはプレースタイルのことであり、普通は軽々しく変えるものではない。妙な癖がついてちぐはぐな戦型になると修正が手間だからだ。だが、ひと月近く別の戦型で打っているにも関わらず支障はまったくないようだった。注意はしなくていいだろう。
「なんでその戦型で打たないのか、聞いてもいい?」
「行き詰まりを感じるんです。本当にこの打ち方で上に行けるのか、自分のやりたい卓球はこれなのか。打っててもモヤモヤするから、勉強も兼ねて別の戦型を試してます」
「なるほどねぇ」
いかにもモヤモヤします、と言いたげに顔をしかめる橘。後手としては、シェークハンドラケットを無理やりペン持ちするハンデを抱えた上で人をボコボコにしておいて、モヤモヤするなど言われたくはない。
とはいえ、人の卓球を否定する気はなかった。やりたい卓球を探しているなら、気のすむまで探せばいい。
こうして橘は、部内でもトップクラスの実力者として認識されるようになったのだった。