カヤが腱鞘炎になってから一週間後。カヤは卓球用具一式を詰め込んだリュックを背負い、むふーと気合の入った鼻息を漏らす。眠たげな両の目は爛々と輝いており、漲る気力が湯気のように身体から立ち上っている。
練習禁止を命じられたカヤはその翌日、球拾いやアドバイス役として部活には参加した。この時点で部員たちの心配を押し切っての参加だったのだが、いつの間にか捕球ネットを放り出し手首にサポーターを着けて練習に紛れ込む事件が発生し、練習禁止から参加禁止となる。
その上顧問の日本一先生から自宅の祖父に連絡がいき、お説教。せっかく卓球台がそこにあるのに怒った祖父は打ってくれない。近場の卓球場へ行こうにも首根っこをひっつかんで止められる。結果、一週間卓球から離れることとなった。自業自得とはいえ、文字通り三度の飯より卓球が好きなカヤにはあまりにも辛い仕打ちっだった。
しかし卓球禁止令も昨日で終わり。今日からは大っぴらに卓球ができる。そう考えると眠そうな目も輝こうというものだ。
今日は日曜日、部活もなく祖父は仕事に出ているため、卓球場まで打ちに行く。相手のアテはないが行ってから探せばいいだろう。
戸締りを終えたカヤは逸る気持ちのままに駆けだした。陸上部にスカウトされる快速の走りでぐんぐん進んでいく。
「ちょっ、カヤ!?」
「カヤちゃん待ってー!」
「おーいカヤー!」
「さすが元ペンドラ、すごい足の速さ」
早く卓球がしたい。それ以外の思考がシャットアウトされている生粋の卓球人(悪く言えば卓球中毒)のカヤは、見舞いにやってきた同級生たちの声も、後ろから追いかけてくる気配にも構わず前へ前へと駆けていくのだった。
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カヤが足を止めたのは隣町の卓球場「QUEEN」。日曜の午前のみ一般向けに有料で台を貸し出している。午後は運営団体のクラブチームが貸切るらしい。一人一時間500円。
自宅なら無料でできることを考えると多少高いが、知らない場所で知らない人と打てる機会の値段としては妥当だろう。相手が見つからずサーブ練習になっても無駄な時間にはならない。
意気揚々と中へ入ろうとすると、呼び止める声がかかった。
「ま、待ちなさい」
「カヤちゃん速すぎ……」
「あれ、みんな。みんなもここで打つの?」
そこにいたのは卓球部の同級生。あがり、クマミ、ハナビ、ほくとの四人だった。ハナビとほくとは息を整えるのに必死でしゃべる余裕がない。走り込みでもしてたのだろうか、とカヤは首をかしげる。
「みんなも、って。あなたもここで打つつもり? 手首はもう大丈夫なの?」
「ん、大丈夫。前も同じことあったけど、一週間で治った。裏面を使わなければ何しても大丈夫」
険しい顔のあがりに向けて手首をかかげる。一応サポーターはつけているものの、痛みはすっかり引いてどう動かしても問題はない。
気楽にぷらぷらと手首を振ってみせるカヤを前に、四人はほっとした表情を見せた。さすがに卓球狂いのカヤもばつが悪くなる。
「心配かけてごめん」
「ま、まあ平気ならいいのよ」
「やっと一緒に打てるね、カヤちゃん!」
「よーしそうと決まれば早く打とうぜー! 今日こそカヤから一セットとる!」
「ハナビには厳しいんじゃないかな」
「なにをー!」
思い思いの言葉で復帰を歓迎され、今度は気恥ずかしくなるカヤ。
入り口でだべっていると邪魔だし、今から家に戻るのも億劫。この卓球場で久しぶりにみんなと打っていこう。恥ずかしい気持ちを抑えるように、卓球へ意識を持っていく。
「じゃ、中入ろう」
その言葉を皮切りに、カヤたちは卓球場へ入っていった。
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卓球場QUEENではボールやラケット、シューズの貸し出しもしているためあがりたちが手ぶらでも問題なかったのだが、もともとカヤと打つつもりだったらしく、用具の準備は万全だった。
今回は練習ではなくブランク明けのカヤの調子を確かめることを目的としており、普段よりも緩い雰囲気でラリーが始まった。なお、奇数である以上一人はあぶれる。
二台のうち一台を三人が使うこととし、その台ではミスをした方が余った一人と交代する。
カヤはあがりとほくととともに三人の台につき、あがりと相対していた。
フォア前の下回転をクロスにツッツキ。あがりはそのボールを得意のループドライブで返す。ネット近くに弧を描いて落ちたボールは、前進回転により勢いよく前へ跳ねた。
カヤはそのボールを、下へ切る。バック面の粒高によるカットだ。通常のカットと違うのは、後ろに下がらず前陣に張り付いたまま、腕の動きだけで下に切っている点である。
ネット際にゆっくりと返ってきた下回転を、あがりは慌ててツッツキで返す。ループドライブからチャンスボールを作るのがあがりの戦術の基本なので、ここまで打ちづらいボールが返ってきた経験が少ないのだ。
体勢を崩しながらどうにか返球したあがりだったが、カヤは待ってましたとばかり強力なパワードライブをあがりのミドルへ叩き込んだ。
(相変わらずなんて威力……いえ、それよりも)
全身を使った男子並みのドライブの威力に戦々恐々としながら、あがりはほくとと交代する。
ほくとは精密なサービスからの三球目、五球目攻撃を中心とした戦術的卓球を得手とする。
今回使ったのは順横下回転のサービス。相手のレシーブがバックに集まりやすくなるので、回り込んでフォアドライブを狙う。
が、カヤは容赦なかった。粒高で押し込むようにボールをたたくと、がら空きのバックへ直線的なレシーブが飛んでいく。後ろで見ていたあがりは驚愕に目を見開いた。
「プッシュ……! やっぱり粒高の技術がうまくなってる」
プッシュとは、その名の通りボールを強く押しだす攻撃の技術である。回転量はそこまでだが初速が速いのが特徴で、粒高や表ソフトでプッシュをするとナックル性の速球が飛んでいく。レシーブでこれをやるには相手のサービスの回転を正確に見極める必要がある。
「あの、水玉パンツ。私のサービスって分かりやすいかな」
ほくとの声は沈んでいた。得意戦術の要となるサービスをあっさり攻撃されたのだから無理もない。
「別に。今のも勘で角度を合わせただけ」
「勘……」
目が死んでどんよりした空気をまとうほくと。対するカヤは腕を組んで数秒考え込むと、あけすけに言い放った。
「というか、回転が弱い。横上も横下も大して違いがないから、読めなくても当て勘でラケットを振っていける」
「う、地味に気にしていることを……」
ほくとの強みは同じフォームから違う種類の回転を様々なコースに打ち分けられることだが、元々の回転量が弱いせいで変化の幅が少ない。そこに粒高ラバー特有の回転をある程度無視できる性質が加わり、カヤにとっては脅威ではないのだ。
入部当初はラバーの劣化具合から粒高の初心者だと見抜き、サービスをバックに集中させて無理やり勝ちをもぎとっていたほくとだが、粒高の扱いに慣れた今のカヤにはもう通用しない。
「回転量を増やそう。数をこなしてボールタッチの感覚を磨くか、手っ取り早くハイトスサービスを覚えるか」
「……考えてみる」
ほくとは難しい顔ですごすごと後ろへ下がる。空いた台には勇ましい表情のあがりが入り、新しいラリーが始まった。隣の台ではクマミのカットとドライブ、ハナビの激しい前陣速攻が灼熱の火花を散らしており、その熱い空気が卓球場全体の熱をあげているようだ。
必然、すぐそばのカヤ、あがりにも熱が伝播する。一球ごとに体感温度が上がり、心は炎のように燃え盛って、ひたすら卓球が楽しいという快感で頭が埋め尽くされる。自分の戦い方に悩みを抱えているほくともこれに感化され、一時的に悩みを忘れて卓球にのめり込んだ。
そこへ鈴の鳴るような声が割って入る。
「少しよろしくて?」
ずっと打ちつづけだったカヤは休憩のため一人台を離れているタイミングだった。タオルで汗をぬぐいながら声の主に対応する。
「私は神楽坂狐姫。あなたは?」
「橘カヤです」
神楽坂は卓球ウェアを身にまとい、小脇にラケットケースを抱えている。妙に大人っぽい雰囲気だが背丈からして同じ中学生くらいだろう。
「先ほどから貴女の卓球を拝見していました。素晴らしい技術だと思います」
「ありがとうございます」
たとえ付け焼刃で学習中の戦型であろうと、ほめられるのはうれしい。カヤは小さく会釈を返した。
が、唐突に狐姫の穏やかな微笑が曇る。
「それだけの技術を持ちながら――なぜ本来の戦型でプレイしないのです? 見たところドライブ主戦型と推察しますが。その手首のサポーターも形だけで、身体に故障はないでしょう。なのになぜ、窮屈にプレイなさるのです?」
「窮屈、ですか」
見ただけでそこまで分かる狐姫の眼力に感心しつつ、質問の答えを考えた。
窮屈にプレーしている自覚はカヤにはない。本来の戦型とはまったく違うプレーをするのは斬新で面白い。ただ、分かる人から見れば窮屈にも見えるというわけだ。
実際、なぜ本来の戦型を捨てたのかカヤ自身にもよく分からない。なぜかモヤモヤして普段のプレーができなくなったから、違う楽しみ方を探すために戦型を変えたのだ。そういった複雑であいまいな事情を説明するため必死に頭をひねる。
すると考え込むカヤを見て何を思ったか、狐姫は慈愛に満ちた笑みを浮かべカヤの肩に手を乗せた。
「答えにくいことならいいんです。ですがもしよければ、本来の貴女を私に見せてくれませんか? 私は貴女に興味があるんです」
「え、っと、試合しようってことですか?」
「はい」
「喜んで」
打ちたいなら打ちたいと最初から言えばいいのに。本来の戦型――日本式ペンドライブ主戦型で戦うのは後手先輩とやって以来、久しぶりにやれば例のモヤモヤ感に変化があるかもしれない。
カヤはあがりたちに一言告げ、狐姫の確保した台へ向かう。その右手には部活では一度も使ったことのない、古びた日本式ペンラケットが握られていた。
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「ありがとうございました」
「ありがとう……ございました……」
卓球場が重い沈黙に満ちている。利用者は全員、受付の従業員も一つの台に痛々しいものを見るような視線を向けていた。
審判の持つカウンターに記されるは11-0という悲惨なスコア。そのスコアが示唆する通り、三セット行われたどのセットでも極めて一方的な展開が繰り返され、結果は日本式ペンの少女――カヤの圧勝に終わった。
カヤの本来の戦型はドライブ主戦型だが、その中でも超攻撃的ないわゆるペンドラと言われる類のものだった。フォアもバックもフットワークで回り込み絶大な威力を誇るフォアドライブで苛烈に攻める。台上のボールだろうとフリック、流し、長いツッツキで無理やりにでも攻めにつなげて攻撃で押し切る。
あまりにも一方的な試合を前にあがりたちも言葉を失っていた。カヤに攻撃させないための神楽坂の創意工夫、戦術、戦法、すべてを高い技術と読みの力で吹っ飛ばし、攻撃パターンに引きずり込むカヤの実力は、後手と戦ったときの比ではなかった。
この差には二つ原因がある。一つは用具の差で、物心ついたときから使っている日本式ペンラケットと攻撃用のテンションラバーにより、後手の時よりもはるかに攻撃力と安定感が増している。もう一つは事前準備だ。あがりたちと打つことで身体も心も最高に温まっていたからこそ最高の実力を発揮できた。
しかしそれだけの実力を発揮したにもかかわらずカヤの心は晴れない。この戦い方を続けていいのか、本当に自分のやりたい卓球なのかというモヤモヤした疑念がしつこく心に根付いている。
やはりまだこの戦型に戻るには早いようだ、とカヤは結論した。試合を通してそのことを教えてくれた神楽坂に歩み寄り、手を差し出す。試合後の握手である。
床にへたりこんでいた神楽坂はゆらりと立ち上がると、両手でガッシリカヤの手をつかむ。うなだれた顔をあげれば獲物を見つけた獣のように両目をギラつかせている。
「橘さん! 燕女学園にいらっしゃいませんか!?」
「へ?」
落ち込んでいるかと思いきや活力に満ちた声が飛び出す。あがりたちは目を丸くした。
「改めて名乗りましょう、私は燕女学園二年の神楽坂狐姫! 燕女は施設も充実してますし、何より卓球部の部員はほとんどが全国レベル! 燕女の卓球部で研鑽を積めば、きっとあなたの悩みを解決する助けになりますわ!」
「は、はあ」
「ちょっと待ったー!」
あがり、クマミ、ハナビが声をそろえて割って入る。ほくとはカヤを庇うように肩を抱いた。
「カヤはもう雀が原で卓球やってるの! 他のところには行かないんだから!」
「そ、そうです! カヤちゃんは渡しません!」
「そうだそうだー!」
ハナビだけ便乗して楽しんでるような雰囲気があるが、みんなのまっすぐな気持ちが身に染みるようで、カヤは微笑を浮かべた。
「あら、雀が原の方でしたか。橘さんが惜しいのは分かりますが、最終的に決めるのは橘さん自身ですよ。橘さん、後日改めてお話をしませんか? 日曜の午後ならいつでも構いませんから、またここで」
「あ、はい」
「カヤ!」
すっ、と話を切るようにカヤが指をさす。指の先には壁掛け時計。あがりたちがやってきてからすでに一時間を五分過ぎていた。
「とりあえず出よう」
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五人が卓球場を出てからカヤの家へ向け歩き始めてすぐ、カヤがキッパリと言った。
「私は雀が原がいい。先輩もみんなも好きだし。どこに行こうと悩みは変わらないから」
五人の間の空気が弛緩した。表情の固かったあがりとクマミはあからさまにほっと息をついている。ハナビとほくとはそうだよな、と知っていた風である。
「でも神楽坂さんは面白い。また打ってもらう」
「あの一方的な試合が面白かったの?」
「そうじゃなくて、ラブゲームされて全然落ち込んでなかったから。そういう人は珍しい。面白い」
カヤは試合となると相手が誰だろうと本気で勝ちに行くのでラブゲームの経験が多い。一点も取れず負けた選手の中にはその場で泣き出したり呆然自失となったりするのが大半だ。
一応ラブゲームをマナー違反とする向きはあるが、カヤは祖父に「一点も取れない方が悪い、負ける方が悪い」と教えられており勝つことにためらいはない。
カヤの返答にふうん、と返すあがり。
するとほくとが静かに問う。
「カヤの悩みって、何?」
「……分かんない」
だがカヤに確たる答えはなかった。
「分かんないけど、いつからかあの戦い方をするとモヤモヤして、気持ちよく打てなくなった。なんでかは分からない。何に悩んでるのか分かんない」
「そう。いつか、答えが見つかると――いや、一緒に見つけよう」
「そうだな! 卓球の悩みなら卓球してればどうにかなるさ! 私たちも手伝うからさ!」
「ま、まああんたには借りがあるし。できることなら手を貸すわ」
「私も協力するよ!」
答えが見つかるよう祈るのではなく、みんなで手を取り合って見つけに行こうと言ってくれる部員たち。その存在を強く認識したカヤは、モヤモヤした暗雲の立ち込める心に一筋の光が差したような気がした。
けれど妙に気恥ずかしい。カヤは耳まで赤くなり、蚊の鳴くような声で「ありがとう」と返すのが精いっぱいだった。