桜内梨子に贈ります。
いつもと同じ毎日が、当たり前にくるものだと思っていた。
何かで落ち込んでいた時も、一緒にいれば気付けば笑っていて、灰色に見えた世界だって息を吹き返していた。
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────不幸な事故だった。
高校を卒業した春休み。たまに気分を変えようと選んだ、いつもとは違う道。
私は無傷で助かった。相手方の運転手も多少の怪我は負ったものの、命に別状はなかった。
だけど、いつも私の少し先を歩いていたあの子は、いなくなってしまった。もう、手が届かないところに行ってしまった。
信じられなかった。いつも通りの日常が、一瞬で破壊されてしまったから。身体は無傷でも、心には一生消えないであろう深い傷が刻まれた。
ちゃんと車に対処できていたら、私が普段と違う道を選ばなければ、といった"たられば"が頭をぐるぐると回った。
あの角を曲がれば、あの桟橋から海に飛び込めば、あの坂を駆け上がれば、あの学校まで行けば、笑顔で触れ合えた時に戻れるような、そんな気さえしてくる。私が大好きは桜の木は、まだその枝に蕾さえつけていないけれど。
ぼんやりとテレビを観ているといつもと同じ時間に流れてくるニュースでは、悲しいことばかりが目に付いて、その中から自分よりも悲しんでいる人を見つけようと必死になってしまう。
無意識のうちに精神を安定させようと、自分よりもひどい境遇に身を置かれた人を探しているという事実に、自己嫌悪が加速する。
ある人は言った。『辛いことや悲しいことが、人の土台になる。嫌になるような思い出が、幸せを引き立てるために必要なのだ』と。
私の友達が、私を心配して家まで来てくれたり、ベランダ越しに話しかけてくれたりもする。でも今はまだ、誰とも会いたくない。
こんなに泣き腫らした目で会ったりなどしたら、もっと心配させてしまうから……。
できることならば。
耳を伝い、身体中を温かく包んでくれるような、あの子の可愛らしい声を、ずっと聞いていたかった。
できることならば。
誰かに取られるわけでもないのに、誰にも渡すまいと急いで、そして、とても美味しそうにご飯を食べるその姿を、ずっと見ていたかった。
できることならば。
あの子に向けてちゃんと"ありがとう"と、そう伝えたかった。言葉が伝わるかどうかなんてこれっぽっちも分からないけれど。
そんな、一人で悲しみに暮れる日々が続いた。
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私は東京の音大に進学が決まっている。あと2週間もすれば、沼津から出て新たに一人暮らしを始めることになっていた。
さすがにこのままではいけない。前のようにとはいかなくとも、なんとか立ち直らなければ。
それで、何かを変えたくて、高校時代によくトレーニングで使った、あの離島にある神社の階段を走ったり、ピアノを弾いたりしてみた。それでも、気分が晴れることはなかった。
むしろ心の中の穴が、広がったような気がしただけだった。
結局、私にはどうにも出来そうになかった。家から出ようと決意できるようになったことくらいしか、進歩していなかったみたいだ。
そんな時だった。
隣に住む、蜜柑色の髪をした私の大切な友達が、飼い犬の散歩に一緒に来ないか、と誘ってくれた。
正直、行きたくなかった。けれど、何か変わるきっかけが欲しくて、藁にもすがる思いで同行することにした。
目と鼻の先に住んでいるのに久しぶりに会った友達は、温かな微笑みをたたえながら、私の左手を引いてくれた。犬のリードは私が右手で持っている。傍から見れば、人と犬に両手を引っ張られている人、というなんとも不思議な光景だっただろう。
家を出て道路を渡ると、街の方に住んでいる、灰色がかった茶色の髪をした、私のもう一人の大切な友達が浜辺で待っていた。その友達は、リードを持っている、私の右手を優しく包み込んでくれた。
二人に気兼ねすることなく、好きなコースを選んでいいとのことだったので、私はいつもあの子と歩いていた散歩コースを選んだ。
二人とも気を遣ってくれているのか、特に当たり障りのない話題を振ってくれる。トンネルの横にある道を抜け、陽光を浴びてキラキラと輝く海を右側に見ながら潮風を浴びて歩く。その吹いてくる風は、すっかり冬の気配など感じさせないほどになっていた。
本来であれば適当なところて引き返すけれど、今日はそのまましばらく歩き、長浜城跡まで行くことにした。
普段の散歩では、気が向いた時にしかここまで足を伸ばさなかった。足を伸ばした時は、少し開けた場所まであの子を抱き抱えていき、そこで遊ばせたりしていた思い出の場所だ。
今回は、二人と話していると自然と心が落ち着いていくような感覚になるので、もうしばらく一緒にいたかった。
せっかくここまで来たということと、間もなく東京に行ってしまうから、と長浜城跡に登ることになった。
ここから見る富士山が、東京に行ったらしばらくは見られなくなってしまうこの景色が、私は好きだった。
一つ深呼吸をする。肺の中にある、ずっと家の中で吸っていた重苦しい空気が、柔らかな潮風と入れ替わっていく感覚がした。
しばらく三人で無言で、遠くに見える雄大な富士山を見ていた。すると、富士山の近くに小型犬のような形に見える雲を見つけた。
視点によっては他のものにみえるであろうなんでもないその雲でも、何故だかあの子と重なって見えた。今では会えないあの子が、もう一度私の前に現れてくれたような、そんな錯覚さえした。
二人は気が付いているのだろうか。分からないけれど、なんとなく、私の中だけでの秘密にしておきたかったので、言葉にはしなかった。
誰からともなく、家に帰るためにまた歩き始めた。
今朝までより、悲しみの淵から這い上がれているような気がした。
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その夜、夢を見た。
私はあの子と一緒に長浜城跡にいた。
夢の中であると分かってはいるけれど、現実では会えないあの子にもう一度会えたこと。それだけで何物にも代えられない喜びを感じた。
ただ一緒にいて、笑顔で触れ合えるだけでよかった。だからただ座って、頭を撫でていた。
この夢は、私が望んでいた、ずっとそこに身を置いていたかった日常そのものだ。和やかで、静かで、落ち着きがあって、温かい。
でも、私にはもう、手に入らない。それがたまらなく悲しかった。先程までの喜びの感情は、潮風に吹かれて流されていった。あまりの悲しさに、涙が溢れ出してきてしまった。
ただひたすらに"ごめんね"と、涙を流しながらあの子に向かって謝り続けた。
違う、そうじゃない。私が伝えたいのは"謝罪"じゃない。
しかし、私は"ごめんね"としか言えなかった。壊れたアンドロイドのように、ずっとその言葉を繰り返しているだけだった。
そんな私に、あの子は体を寄せて、心配そうに声を上げる。夢の中だというのに、まるで現実であるかのように体温が伝わってくる。悲しい気持ちが和らいでいく。
それで私は我に返った。
今こそ伝えなければ。私がずっと伝えたかったメッセージを。たとえ夢の中だとしても、ここで伝えなければもう二度と機会はないかもしれない。
景色が白んでいき、夢が終わろうとしている。
伝えなければ。たった五文字の"感謝"を。
どうか届いて欲しい。その一心で。
"ありがとう。"
夢が終わる直前、いつも聞いていた、あの子の元気な鳴き声が聞こえたような気がした。
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次の朝、私は曲を作っていた。
昨日までの悲しみが完全に晴れた訳ではない。かといって悲しみに沈んでいる訳でもない。
ただ、どうしてもあの子に向けた曲を作りたくなった。
もしかしたら、人間の言葉は通じていなかったのかもしれない。でも、私の想いは伝わってくれていたのかな。そうだったらいいな、とそう考えながら。
曲を作っている様子をお母さんは何も言わずに見守ってくれた。それがありがたかった。
半日ほどかけて、曲が出来た。作曲をするのは久しぶりだった。
明日、長浜城跡まで行こう。そこでこの曲を流してあげよう。喜んでくれればいいな。
これは、悲しみを忘れさせる曲ではなく、悲しみに立ち向かい、乗り越える曲。
あの子の
聴いてくれるわよね。
────ねぇ、プレリュード?
お読み頂き、ありがとうございました。