「あれっ」
夕暮れの草原に、クラインの頓狂な声が響いた。
今までの付き合いだけでもクラインが多少抜けていることが分かっている俺とキリトは一瞬顔を向けるも、特に気にすることもなくその言葉を聞き流そうとした。
が、続く言葉を、俺は聞き流すことが出来なかった。
「なんだこりゃ。……ログアウトボタンがねぇよ」
その一言に、キリトはウィンドウを弄る手を止め顔を上げ、俺は流れるはずのない冷や汗が背中を流れる感覚を覚え、それを無視するように右手で《メインメニュー・ウインドウ》を呼び出した。
「ボタンがないって……そんなわけないだろ、よく見てみろ」
キリトが呆れ声でそう言うと、クラインはもう一度自分のウインドウを凝視するが、やがて、
「やっぱどこにもねぇよ。おめぇも見てみろって、キリト」
「だから、んなわけないって……」
「いや、ほんとにないぞ」
自分のウインドウを見ながら俺がそう言うと、キリトは怪訝そうに眉根を寄せ、慣れた手つきで自らのウインドウを操作し、そしてーーーぴたりと全身の動きを止めた。
恐らくベータテスト時代にもそこにあったであろうトップメニュー左のメニュータブの一番下、ログアウトボタンのあった場所。
そこにできた空白を凝視し、信じられないと言った様子で、もう一度ウィンドウを上から下まで眺め、そして視線を上げて俺とクラインの顔を交互に見る。
クラインの顔が、な? というふうに傾けられる。
「……ねぇだろ?」
「うん、ない」
クラインの言葉に、不承不承といった感じでキリトが頷く。
キリト達はそのまま何やら話し出すが、今の俺には入ってこない。
今日の午後一時にログインした時には確かにあったログアウトボタンの消滅。
そもそも、《ログアウト不能》なんて致命的なミスを運営がするだろうか。
それにしたってなぜなんの対応もないのか。
アナウンスもなければ、強制ログアウトといった措置も取られていない。
GMコールもさっき試したが、通じない。
それに、ナーヴギアは現実世界の体への命令信号を完全に遮断している。
つまりそれは、どれだけ体を動かそうとしても動くのは仮想世界の体だけで、自分では、現実世界にある電源を切ることも、ナーヴギアを外すことも出来ないのだ。
自発的ログアウトの不可。
ボタンが一つなくなった、たったそれだけのことで俺たちは、自力でこの世界から出ることが出来なくなった。
むしろ、閉じ込めたれた、と言ったほうが正しいかもしれない。
向こうも同じ結論に至ったのか、キリトとクラインが少し焦ったような顔を向けてくる。
「……こうなったら外的要因に頼るしかないだろうな。と言っても俺は一人暮らしだが……」
そう言って、ちらりとクラインを見やる。
「オレも一人暮らしだぜ。おめぇは?」
「……母親と、妹と三人。だから晩飯の時間になっても降りてこなかったら、強制的にダイブ解除されると思うけど……」
キリトはやや迷ったようだったが、素直に答えた。
しまった、またリアルの話をしてしまった。
ついさっき、気をつけようと思ったとこなのに。
俺も少し焦っていたようだ。
少し頭を冷やそう。
「おぉ!? き、キリトの妹さんて幾つ?」
俺が反省している中、クラインは突然目を輝かせ身を乗り出し、キリトに、正確にはキリトの妹さんに食いついた。
キリトがその頭をぐいっと押し戻すのを横で眺めながら、俺は思った。
クラインへの評価を改めなければいけない、と。
これは妹という単語に食いついているのか、もしくは女性そのものに食いついているのかで、その評価が大きく変わるところである。
一言で、
もちろん、どちらにしても下降修正であることに変わりはない。
まあしかし、狙ったわけではないだろうが、肩の力が抜けて、どうでもいいことを考えれるくらいには頭に余裕が出来たのも事実だ。
とりあえずこの問題は棚に上げておいてやろう。
時刻は五時半を回り、層と層の間から覗く空は真っ赤な夕焼けに染まっている。
差し込む夕陽が広大な草原を黄金色に輝かせ、俺は場違いにも仮想世界の美しさに言葉を失った。
直後。
突然、リンゴーン、リンゴーンという鐘のような大ボリュームのサウンドが鳴り響き、俺たちは飛び上がった。
「んな……っ」
「何だ!?」
「……っ!」
同時に叫んだ二人の姿を見て、息を呑む。
二人の体を、鮮やかなブルーの光の柱が包んでいた。
恐らく俺も同じだろう。
青い膜の向こうで、草原の風景がみるみる薄れていく。
そして体を包む光が一際強く脈打ち、俺の視界を奪った。
青の輝きが薄れると同時に、風景が再び戻った。
しかしそこはもう、夕暮れの草原ではなかった。
目に入るのは広大な石畳に、周囲を囲む街路樹と中世風の街並み。
正面遠くには、黒光りする巨大な宮殿ある。
間違えなく、ゲームのスタート地点である《はじまりの街》の中央広場だ。
恐らくはテレポートの類だと当たりをつけ、周囲に視線を走らせれば、幸いにも二人はすぐ隣にいた。
別々の場所にテレポートさせられたわけではなかったことに安堵しつつ、さらにその周囲にいる大量のプレイヤーに目を向ける。
恐らくはログインしている全プレイヤーが、俺たちと同じように強制的にテレポートさせられたのではないだろうか。
だとしたら十中八九運営の仕業だと思うのだが、なぜ何のアナウンスもなしに……。
人々はしばらく押し黙って周囲を確認していたが、ぽつりぽつりと誰かが話し出したのを皮切りに、次第にボリュームを上げ、徐々に苛立ちの色合いを増し、遂には喚き声までも聞こえ出した。
と、不意に。
それらの声を押しのけ、誰かが叫んだ。
「あっ……上を見ろ!!」
俺たち三人は、反射的に上を見上げた。
遥か上空、第二層の底を、真紅の市松模様が包んでいく。
そこには交互に【Warning】、そして【System Announcement】の文字が。
二つ目の言葉の意味に、多くのプレイヤーは肩の力を抜きかけるが、俺は背景と同じく真っ赤な文字で綴られたそれらに、どうしようもなく、不安を掻き立てられた。
いつの間にか広場は再び静寂に包まれ、誰もが訪れるであろう運営のアナウンスに耳を傾けた。
しかし、次に起きた現象はプレイヤーたちの予想を裏切り、運営のアナウンスなどではなかった。
真紅のパターンの中央から、巨大な血液の雫のようにどろりとしたものが、ゆっくりと空中に落ちてゆく。
空中で留まったそれは突如その形を変え、次に現れたのは、巨大な真紅のフード付きローブをまとった人の形をしたナニカだった。
下から覗けるフードの中には、そこにあるべきはずの顔はなく、その不気味さを際立たせている。
それを見たプレイヤー達は、恐れや不安を誤魔化すようにまた口々に話し出すが、今回それは長くは続かなかった。
不意にローブの右袖が動いた。
袖口からは純白の手袋が覗いたが、袖と手袋を繋ぐ肉体は存在しない。
続いて同じように左手も動き、まるで俺たちを歓迎するかのように、両手が広げられた。
直後、低く、落ち着いた、よく通る男の声が、遥かな高みから降り注いだ。
『プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ』
咄嗟には、多くのプレイヤーは意味を摑み損ねたようだが、俺は、自分の中で何かが落ち着くような感じがした。
そしてそれは、次の言葉で確かなものとなる。
隣でキリトとクラインが唖然として顔を見合わせる中、赤ローブは、否、その向こうにいる男は、両手を下ろしながら続きの言葉を発した。
『私の名前は茅場晶彦。今やこの世界をコントロールできる唯一の人間だ』