部屋の隅のワゴンの前で、大型のピッチャーから新鮮なミルクを二つのグラスに注ぐ。
そして一つを、ソファセットの一つに体を沈めるアルゴの目の前のローテーブルに置き、残りの一つを持って、俺も別のソファセットに腰掛ける。
「さすがソー坊、気が利くナ」
「そりゃどうも」
アルゴはそう言ってから、グラスを持ち上げ一気に飲み干す。
それを見てから俺も自分のミルクを飲む。
うん、美味い。
「ごちそうサマ。飲み放題のわりには上等な味設定だナ。瓶詰めして売ったらどうダ?」
「だろ? だけどこれ、宿から持ち出すと五分で耐久値全損するんだよな。しかも、消滅するんじゃなくてゲキマズな液体になるという……」
「なんダ、試したのカ?」
「迷宮区で、初めて死にそうになったよ……」
現在の場所は、やはりと言うべきか、俺の部屋だった。
キリトから教えて貰った、農家の二階の部屋だ。
なんとここ、今、俺とアルゴが飲んでいるミルクが飲み放題な上、二部屋あって、ベッドもでかくて眺めもいい。
その上、フェンサーが気にしていたお風呂までついてお値段なんと、たったの八十コルという破格の物件なのだ。
それで、そのフェンサーはと言えば。
部屋に入り、西の壁に【Bathroom】のプレートが下がったドアを見つけた瞬間から、なにやらそわそわし始めたのでそれとなく、「俺とアルゴは話をするから、できれば席を外してくれないか? そこの風呂場は、自由に使ってくれてかまわないから」と申し出たところ、「じゃあ」と呟き、そのままドアの向こうへ消えていった。
……今思えば、全然それとなくなかったが。
あの時、必死に笑いを堪えていてくれたアルゴには感謝しているが、腹が立ったのも事実なので口には出さない。
「それで、いつものやつ、キリトの近況はどんな感じ?」
そう、何を隠そう、俺が定期的にアルゴから買っている情報というのは、キリトについての事だった。
決して、そういう趣味に目覚めた訳ではない。
クラインに頼まれたから、というのもあるのだろう。
でもそれよりも単純に、俺はあいつのことが放っておけないのだ。
念の為繰り返すが、俺にそういう趣味はない。
なんというか、危なっかしいのだ、キリトは。
それはパーティーを組んでいた時から、いや、組む前から感じていた。
抱え込みすぎるというか、背負いすぎるというか。
だからパーティーを解散した後も、こうして定期的にアルゴから情報を買っているのだ。
アルゴも同じように考えているのか、この情報に関してだけは、いつも何かと理由をつけてほとんどタダで教えてくれる。
情報屋とのやり取り、というよりむしろ、弟を心配する兄姉のやり取り、といった感じだ。
「そう急かすなヨ。せっかちな男は嫌われるゾ」
「こっちはもう眠気が限界なんだよ……」
だからこの話をする時、アルゴは少し楽しそうだ。
俺もアルゴと話すこと自体は楽しいのだが、如何せん今日は眠たすぎる。
申し訳なく思いながらも話を先に進める。
「そういえば、例の交渉の件はどうなった?」
「つれないナー、ソー坊ハ。でもそれに関しては、タダってわけにはいかないナ」
「分かってるよ」
情報屋の顔に変わったアルゴの前に、オブジェクト化したコルをに積み重ねていく。
それを一枚ずつ、自分のストレージに格納するアルゴを見ながら、こういうところはさすが、一流の情報屋だな、と心の中で賞賛する。
公私の線引きが、しっかりしてるというかなんというか。
まあ決して本人には言わないが。
「毎度アリ。結論から言うと、まだ引き下がってないヨ。今は二万九千八百コルだナ。この後、キー坊のとこに行くつもりだケド……」
「まあ断るだろうな。しかし、ニーキュッパときたか。値段も値段だが、俺も同じようなのを持ってるのに、なんでキリトなんだ?」
「オレっちにも、それが分からないんだヨ」
珍しくお手上げという顔のアルゴに新鮮さを覚えながら、俺も考えてみる。
今の俺とキリトの武器は、《アニールブレード+6》という片手直剣だ。
《+6》というのはこの世界の武器強化システムの強化値のことで、強化パラメータには《
強化をするには、それぞれ対応する専用の強化素材アイテムが必要となり、成功するかどうかはアイテムの質と量、あとは鍛治職人の腕次第となる。
そしてどれかのパラメータの強化が成功するたび、装備フィギュア上のアイテム名に+1、+2と数字が付与されていく。
しかしどのパラメータが強化されているかの《内訳》は武器を直接タップしてプロパティを開かなければ解らないので、口頭で説明する時などは、英訳の頭文字をとって略すのが慣例となっている。
例えば俺の剣なら、正確さ3、丈夫さ3なので、《3A3D》となり、キリトのは、鋭さ3、丈夫さ3なので《3S3D》となる。
武器強化自体はNPCも行ってくれるのだが、如何せんプレイヤーの鍛冶職人と比べると、例え同じレベルでも成功率は低くなる。
この状況で、物好きにも《鍛冶スキル》を上げているプレイヤーなんているはずもなく、《アニールブレード》が少々面倒臭いクエストの報酬であることも相まって、このスペックは現時点で望み得る最大値と言えるだろう。
だからといってあくまで《序盤の装備》であり、キリトの見立てではこの剣も、上手くいって第三層か四層が関の山だそうだ。
それに対して、現時点では間違いなく破格の、二万九千八百コルを払うと言うのだから、俺もアルゴも頭を悩ませるというものだ。
それにどうしても今欲しいというのなら、俺もほぼ同等のスペックの剣を持っているのだ。
アルゴに聞くなりして、出来るだけ多くの該当者に交渉を持ち掛けるのがベターではないのだろうか。
キリトのパラメータの振り方が理想的なのか、もしくは、
ーーーキリトから買うことに意味があるのか。
「だーめだ、眠たくて頭が回らん。ん? アルゴ、俺の顔になにかついてるか?」
「っ! ついてない、ゾ。そうか、なら今日は、ここまでにしとくカ」
顔を上げると、考え事をしていた俺の顔を珍しくぼけーっとした表情で見つめていたアルゴと目が合った。
しかも声をかけると慌てた様子で立ち上がり、そっぽを向いてしまう。
後の予定が詰まっていたのだろうか?
だとしたら申し訳ないことをした。
にしても、何かもう一つ、アルゴに聞きたいことがあったような……
「そ、それにしても、ソー坊も物好きだよナ。キー坊だけじゃ飽き足らず、アーちゃんにまで手を掛けるなんテ」
「おい言い方」
何かを誤魔化すようなアルゴの話題転換だったが、内容が内容なだけに無視は出来ない。
確かに「手を掛ける」には「手間をかける」って意味があるけども、あるけども!
その言い方に悪意がある。
あえて誤解を招くような言い方だ。
だから頼むからその情報は広げないで下さいお願いします。
でも今ので、聞きたいことを思い出した。
「そういえばさ、アルゴ。その《アーちゃん》ってのは、あのフェンサーのことか?」
「あれ? ソー坊達、まだパーティー組んでなかったのカ?」
俺が無言で首肯すると、アルゴは苦虫を噛み潰したような顔になった。
パーティーを組むと新たに、パーティーメンバーのHPバーが左側に表示されるようになる。
そしてその下には、そのプレイヤーの名前も表示される。
それでアルゴはてっきり、俺がもうあのフェンサーの名前を知っているものだと思っていたんだろう。
「まずったナ。情報を漏らすだなんて、情報屋失格ダ」
「…………」
アルゴは情報屋として一流だ、贔屓目を抜きにしても。
情報を抜く力もそうだし、交渉にも長けている。
《鼠》と五分雑談すると知らないうちに百コル分のネタを抜かれてる、と噂されるほどだ。
それにアルゴは、俺も知らない、何らかの信念を持って情報屋をしている。
真偽の怪しい情報はきっちり裏をとるし、有力な情報には相応の対価を払う。
それに、現状の責任を押し付けられ、命の危険さえあるベータテスターの情報は、絶対に売らない。
だからこそ、親しい(少なくとも俺はそう思っている)間柄の俺と話すことで少し気が抜け、知らずに情報を漏らしてしまった自分が許せないのだろう。
でもそんなアルゴに、俺は掛ける言葉が見つからなかった。
「……ソー坊なんかに、ソー坊、なんかに! 情報を漏らすなんテ……」
「……実はお前、そんなに落ち込んでないだろ」
「バレたカ?」
そう言って、にひひ、といつものように笑うアルゴ。
それが強がりであることに俺は気づいているし、俺が気づいていることにアルゴも気づいている。
それでも、このたわいないやり取りにも、意味はあるのだろう。
「まあ、ソー坊に漏らしたところで、問題はないカ」
「どういう意味だコラ」
軽口の応酬。
このやり取りが気持ちよくて、少し気を抜いてしまった俺は、次のアルゴの言葉に上手く返すことが出来なかった。
「信頼してる、ってコトだヨ」
そう言ったアルゴの表情は、見た事ないほど優しいもので。
普段は、あの飄々とした態度と、顔についたヒゲのせいで忘れそうになるが、アルゴも正しく美少女なんだと、改めて意識させられる。
思わず目を奪われ、遅れて顔が熱くなるのを感じ、そしてようやく、自分がなんの返事もしていないことに気づく。
「……さいですか」
「にひひ、これでおあいこ、ダナ」
咄嗟に顔を逸らしながら返事をしたが、ばっちり間抜けな顔は見られていたらしい。
おあいこどころかこっちの大損、もう少し顔を見とけばよかった、などとは口が裂けても言うまい。
「……話、もう終わった?」
しかしそこで、俺の不運、ないしは幸運は、まだ終わらなかった。
遠慮がちにそう言って、《Bathroom》のプレートの掛かった扉から出てきたのはまたしても美少女。
さすがに室内、その上湯上がりの頭にフードを被ることをしたくはなかったのか、少し湿った栗色のロングヘアが、窓から入る陽の光を反射して輝いている。
念願叶ったらしいその顔はさっぱりしたもので、白い肌に、ほんのり赤みを帯びる頬がよく映え、妙に艶かしかった。
そしてそれを見た瞬間、俺のキャパシティは限界を迎えた。
「あんた、上がったんなら寛いでてくれていいから! アルゴも、ありがとな! じゃあ俺は、風呂に行ってくるから〜〜!!」
「え、あの、私はもう……」
「またナ〜、ソー坊〜」
このままではやばいと、理性の危機を感じた俺は、二人に何事か言い残し、何かを言おうとするフェンサーと、したり顔で手を振るアルゴを無視して、風呂場へ駆け込むのだった。
ーーーMMORPG《ソード・アート・オンライン》は、一体いつからギャルゲーになったんだと、一人心の中で愚痴りながら。
なぜか時間がかかりました。
それなのに話は進まないという……
ほんとごめんなさい。
あと、アルゴの脇はこんなに甘くない!(自分で書いてて思った)