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───ザァア。やけに重く冷たい、鋭い雨が、まるで地を打つような轟音と共にイビト山に降り注いでいく。
どんより重く、低く垂れこめた藍鼠の空を、どこまでも白い閃光が駆け回った。
その光を合図に、子供たちは一斉に耳を塞いだ。まるで鼓膜が破れてしまうのではないかと考えてしまうくらいに、大きな雷が轟いて、響いて、ゆっくりと霧散していく。
赤ん坊を抱いた女はみな一様に今日は停電かしらと頭を悩ませ、男どもは明日の仕事について考えていた。そんなつまらない大人たちを横目に窓に張り付いて、日常では見ないような雷雨に子供たちは目を輝かせる。
山の麓町での日常は、そうしてめぐっていく。
老人は退屈そうに本を読み、時折冷めて酸っぱくなったコーヒーを啜る。父母は我が子や伴侶の昼食の用意をして、明日の天気情報を見て嘆いている。一人暮らしを始めたばかりの少女は離れた地域の家族に電話でこの大嵐について話している頃だろう。子供たちはゲーム片手に休校の話をチャットで話し回り、テレビのくだらないカートゥーンで大笑い。赤ん坊はお気に入りのおもちゃで遊んでは雷に驚き、犬猫は外を不満げに見つめる。
そうやって、誰もが平穏な午後を過ごしている。いつまでもこの日常が続いていくのだと疑わない。
実に、喜ばしいことだ。
そうだとも。嗚呼、そうだとも。この幸せは素晴らしく喜ばしいものだ。
たとえ。このイビト山の頂上付近、大穴のある洞窟。そのすぐ傍で。
一人の年若い少女が、土砂に巻き込まれて。今にも消えそうな息を吐きだして、空を眺めていても。大多数の誰かの日常が崩れることは、決して無いのだ。
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「が、フ。…ッひゅ、ぇ゛。……ごぼッ!…は、ァ」
少女は、とうに虫の息であった。善悪も判らぬ幼子に幾度となく踏み潰され、ただ惨めに死を待つだけの蟻のような。そんな姿であった。
「…ハハ。は、ぁ゛ー、…は」
──なんて、無様。艶を失ったチョコレート色の髪をまろい頬に張り付かせ、少女は暗雲を見上げた。鞭のように絶え間なく肌を殴りつける雨粒に打たれても、もう指先ひとつ動きやしない。
目的を果たすことさえなく、物語を始めることすらなく。有り触れた事故から生まれる有り触れた死で、自分はここで終わっていくのだ。
そう考えると、嗚呼。情けない。一周回って笑いがこみ上げてくる。そうやって自分を嘲笑おうと、少女は口から浅い吐息を吐き出したつもりだった。
「ッぅ”。げ、ボ。ァ”、…ェ”。おェ”。…はぁ、は。ハァ、あ゛っ」
代わりに出たものは、血の塊であった。
痰と絡まったそれは腔内を鉄錆の味で満たし、あっさりと雨粒の匂いをかき消して我が物顔で居座った。まるで硬貨を噛んだような味にクソマズ、と心中で唾を吐いて、少女はまたぼやりと空を見上げる。
右半身はもうダメになってしまっていた。胸から先は泥が固くこびりついた岩石に潰されて、腕も顔もぺしゃんこ。左半身はかろうじて無事ではあるものの、膝から下は重い泥に埋もれて身動きも取れない。しっとりと露を含んだような白肌には武骨で黒い太枝が突き刺さっていて、未だどくどくと血を流し続けている。
(アーこの調子じゃ足もダメんなったな。終わったわ)
少女は右腿を貫通した枝を視界に捉えながら一人ごち、諦念に目を伏せた。この状況では土砂に流された荷物を探すことはおろか、助けを呼ぶことはまず不可能。そうに決まってる。右腕は肘から先がまるでゴム人間のように捻じれた状態で潰れてしまったが、生憎ともう感覚はない。今頃指先は失敗作のハンバーグになっている頃だろうか、と思考を遠くにやっても、血反吐を吐く咳は止まらなかった。
顔の右半分が潰れた少女はルアングリーンの瞳を瞬かせて、アドレナリン漬けになった脳みそが乾くのが先か、自分がくたばるのが先かなどと考えていた。
薄い腹にギュッと詰まった臓器は潰れてはいないものの、肋とその内側が肝臓諸共ぺしゃんこに潰れてしまっているのだから息苦しいのは当たり前であった。肺が潰れ、骨が肉に突き刺さっているその体では息を吸って吐くという、生き物なら当然の動作すら困難な状況なのだから。
咳を何とか喉奥に押し込んで、ハア。と生ぬるい熱のこもった吐息浅を吐きだした少女は、ふと自分の頬に触れようと腕を持ち上げた。つい先ほどまで難なく動いていた腕が鉛のように重くなっていることに煩わしさを感じたが、頬へと伸ばした指がするんと肌の上を滑るのに嫌な予感がしたのだ。
(…ア。私の、顔)
何とか目を凝らしてそれにピントを合わせて見れば、指先には酸素を含んだ鮮烈な赤が付着していた。
この顔。母さん譲りですごくきれいなのに。もったいない。口の中で消えた言葉に温度はなく淡々としたものであったが、少女は存外落胆していた。この顔は母が残した、母との最後の繋がりであったというのに。思わずとも、彼女は確かにそう感じていたのだ。
投げやりに放られた腕はバシャン、と音を立てて水溜りにたたきつけられ、それと同時に元気よく泥水が跳ねる。勢いの弱まった雨で頬に飛んだ泥が流れ落ちるのを感じながら、少女はこフ、とまた小さく咳き込んだ。
「………ぁ"ー、…ア」
視界いっぱいに広がる曇天。なけなしの体温を容赦なく奪っていく雨。いつまでもやかましく鳴り続ける雷。
最悪の天気じゃねえかと心中で悪態をついていながら、彼女はどこか落ち着いているようにも見えた。
(ほんとうの物語はまだ、始まってもいない。…セーブファイルなんてものは、存在しない)
今この場で眠りにつけば、自分は死ぬ。
少女はその光景をひとり夢想してぼうっとしていたが、瞼を一際強く打った雨粒に眼球を痙攣させたことで現実に引き戻された。睫毛にこびりついた血がカピカピに乾いてしまって、瞬きをするたびに不快な気持ちにされるが、次第にそれすらどうでもよくなっていった。
さびしい冬を迎えるこの山で。無数のばけものいのちに蓋をした、この山の腹の中で。彼女は朽ち果てる。かつての知己にその死は届かず、誰に知られることもなく大地に還る。
ここはイビト山。登ったが最後、帰ることなんてできないと言われる呪いのような山。自らここに訪れる人間は、彼女で最後だろう。
少女はそれを怖いとは思わなかった。恐怖もなく、悔いもなく、拒絶もなく。
ただひとつ。自分のような親不孝者なんぞは、きっとは地獄へ落ちるのだろうな。そんな確信めいた予感だけを抱いて、視界いっぱいのグレーを目に焼き付けていた。
(台風が来るってのに山に登って、土砂に巻き込まれましたー、ってのは…まあ。ダッサい死に方だと、思うけどさぁ)
少女は死に損ないの体に鞭を打つようになけなしの力を左腕に込めて、「しょうがないじゃん。ねえ?」と苦笑した。
(…私は、母さんみたいにはなれない。……こんな状況で諦めないなんて、むりむり。できるわけないじゃん)
ゆっくりと腕を持ち上げ、眼球を覆う薄い瞼に触れる。そこに宿る確かな温もりにほう、と安堵の吐息を漏らして、少女は静かに目を伏せた。
絶え間なく聴こえていた鼓動が泣き止んでいく。指先から這いあがってくる死のこどもの足跡で、全身が冷え固まっていく。体の端からじわじわと浸食されて、最後に体温が寒さに溶けていく。
言い訳じみた言葉が浮かんでは消えて、脳裏にべったり張り付いた暗闇に溶けていく。自分の輪郭が崩れて、やがて目を開けているのかもわからなくなる。
(私。そんなに強くないんだもん。仕方ないじゃん。…ああ。でも)
最後に見えた、消えかけの蝋燭のような光。いつかのぬくもりを求めて、少女は遠くの空に向かって手を伸ばす。
手を伸ばしたというその感覚さえ、脳が見せた都合のいいユメなのだとわかっていても。
「やくそく。まもりたかったなあ」
そうして少女は、長い眠りにつき。
───一年後。モンスターが蠢く、地下世界で目を覚ました。