重桜首都・東京
熱帯低気圧は南からやってきて、"冷戦"と"ホルタ会談"により戦火を免れた優美な街を存分に濡らしている。
東洋一良く整備された道路のアスファルトは湿って特有の匂いを放ち、その道路を歩く人々は傘をさしていた。
天より降りし恵は大抵の人々の歩みを遅らせていたが、しかし、"大抵"に含まれない人間はズボンの裾が濡れようと気にもせず早歩きを続けている。
ユニオン中央情報局(CIU)分析官、『ショーン・ライアン』もこの日は"大抵に含まれない人間"だった。
ボストンの大学を卒業し、その後ユニオン海軍兵学校を首席で卒業したこの男はCIUの分析官であり、同時に証券会社の一流職員という立場も持っている。
だから常日頃から目立つような行動は避けていたし、目立った事は数少ない。
だが、今日はそうもいかない。
重桜中央証券取引所で重大な発見をしてから約20分、彼はCIUのセーフハウスへ向けて大股で歩き続けていた。
悪名高い、かの特別警察が勅命により解散したとはいえ、重桜が情報機関を失ったわけではない。
むしろ、方針の変換と人材確保先の拡大が広がり、前時代よりも強力な機関が出来上がったのだ。
こんな雨の日に、白人男性が東京の道を大股歩きしていれば嫌でも"彼ら"の目につく事だろう。
しかしながら、ライアン分析官は発見した問題を速やかに報告する義務感を優先させた。
なぜならそれは…彼個人どころか、ユニオンという国家自体を危険に晒しかねない物だったからだ。
CIU分析官はセーフハウスに入ると、暗号化された秘密回線に電話を掛ける。
手早く照合を済ませると、この報告を一等早く受け取るべき人間を呼び出した。
その人間の地位が地位ゆえに、電話口の相手は多少渋ったものの結局はライアンの要求に応じる。
やがて、電話口にライアンの要求した男が現れた。
「ダリスだ。ライアン君、こんな夜中に何の用かね?」
「こんばんわ、長官。こちらは昼の2時ですが…時差がありますからね。すいません、どうしても緊急でお伝えしたければならない事がありまして。」
「…私は今年で60になる。こんな老人を夜中に叩き起こすに不十分な内容なら、君を老人虐待の罪で訴える事にしよう。」
「はははっ、長官、その点はご心配なさらなくて結構です。」
「で、内容は?」
「…重桜中央証券取引所で大きな動きがありました。重桜石油社の株式に大きな買い注文が出ています。」
「重桜石油に…?誰が買ってる?」
「ペーパーカンパニーです…重桜情報局の。」
「………すまんが、老人にも分かるように伝えてくれないか?」
「はい、勿論。重桜石油社は重桜政府と深く関わっていて、国策にも関与しています。その会社に情報局が"テコ入れ"をしているんです。」
「一体何のために?」
「……チェフメ油田」
「…………」
「…………」
「………不味いな、ライアン君。チェフメの開発はロイヤルと鉄血の資本が係争中だ。ロルトシート家はウクラニア人を、ビスマルクはプーシロフを使って代理戦争をしている。北連の呑んだくれはそっちで手一杯になっているだろう。」
「この係争に乗じて、重桜は漁夫の利を得るつもりでしょう。彼らがチェフメの石油を手に入れたら、もうユニオンの顔色を伺う必要もない。それがもたらす結末は…」
「強力な仮想敵の再来、か。よくやったぞ、ライアン君。すぐに閣僚を集めて対策を練る。…はぁ、この国の役人という仕事は老人に容赦なく鞭を振るうな、まったく!」
重桜情報局の工作員は、もちろんショーン・ライアンという証券マンをマークしていたし、尾行もしていたし、それどころか彼が重桜の策略に感づいていたことも知っていた。
にもかかわらず、彼らのセーフハウスの30m先に止めたセダンの中から誰一人として下車しなかったのは作戦指揮官の決定に従った結果だった。
その作戦指揮官はセダンの助手席で、自身の計略が上手くいった事に内心ホッとしていた。
「上手くいって何よりですわ。」
「天城姉様、やはりあのネズミは始末すべきです。」
「加賀、我々はもう前時代とは決別したハズですよ?」
「しかし、姉様。今回の計画は重桜が独自の路線に進むいい機会だったのでは」
「過ぎしチカラは身を滅ぼします。重桜がユニオンに依存しているのは石油だけではありません。内実に合わないチカラは所詮役に立つものではない…何より、"そんなモノ"より"あの子"の方が大切ではなくて?」
「…………た、確かに…」
天城は今、サラッと重要資源を「そんなモノ」呼ばわりしたのだが、にもかかわらず誰も否定する者はいなかった。
もう、このあたり、本当に何なんだろうか。
……………………………………
北方連合首都
モスクワ
某所地下室
ガスプロムの買収は北方連合とウクラニアの問題だった。
だから当然、ウクラニアの首相とお話をするのは北方連合の首相でなければならない。
プーシロフは厳密には"首相"ではなかったが、"書記長"という役職は国の代表を意味している。
よって、ウクラニア首相との電話会談はプーシロフによって行われていた。
私は、農業政策失敗か〜ら〜の〜パイプライン危機で精神的に追い詰められているに違いない同志プーシロフの額にすっげえ量の脂汗が浮いているのを見たし、顔色が消費期限切れの饅頭みたくなっているのも見た。
だから、時間を稼ぎつつウクラニアの懐を探るなんていう芸当が彼に務まるのか少し不安にもなる。
彼の後進が今すぐにでもユニオンとの核戦争を始めようとしてるような極右の人間ならその態度は致し方のない部分もあるのだが、だからと言ってこの会談をポシャる理由にはなり得ない。
「ミーシャ…めっ!」
あ、あの、アヴマッマ?
「ミーシャはミーシャにしかできない仕事があるはずです!交渉はプーシロフに任せて、ミーシャはそちらに集中してください!」
集中?この状況で集中?
「はい!」
……あのねアヴマッマ、本当に集中させる気あるのかな貴女は。
なんでKGV本部の秘密地下施設とかに連れ込むのかな貴女は。
なんでわざわざちょっと指先触れただけでTU4爆撃機が飛び立ちそうなピカピカしたボタンとかプレスの効いた制服着込んだ保安要員とか政治要員とかPPSHとかPPSとか沢山あるところに私をぶち込んだのかな貴女は。
これで集中なんぞできるか!!
そもそも生きて出られるの!?
私ちゃんと生きて出られるの!?ねえ!?
「安心してください、ミーシャ。今回は特別に特別の配慮を示してもらいましたから。ミーシャはきっと、この施設から生きて出られる唯一の外国人です!」
そういうこと言うから不安になるんだろうが!!
「しっ!ミーシャ、まもなくウクラニア首相との電話会談が始まります。」
アヴマッマの言う通り、目の前のスクリーンにはウクラニア首相とスクリーン越しの会談を行うプーシロフの様子が映し出されている。
もしスクリーン越しのスクリーンに映るウクラニア首相の顔色についてコメントを求められたのなら…私ならきっとこう返すだろう。
"ウクラニア人は決意を固めつつあるようだ"
私とアヴマッマの仕事は、この極秘の電話会談の様子を伺いつつ、プーシロフを補佐する事。
同志書記長がこの会談に優勢な内に、ビス叔母さんが鉄血陸軍を国境沿いに配備できれば私の勝ち。
逆に、鉄血政府が財界の圧力に屈しなかったり、ウクラニア人がロルトシート家へガスプロムを売り飛ばすと決意してしまえば彼らの勝ち…ウクラニア人ではなく…ロルトシート家の勝ちになる。
はっきり言って楽勝とは程遠い。
要となるのは"バランス"だろう。
ウクラニア人に圧をかけ過ぎてもダメ、かけなさ過ぎてもダメ。
国家生命のかかったジェ●ガをやろうと言うのである…それも赤ん坊が。
ウクラニア首相とプーシロフのやり取りは、お世辞にも上品な会話とは程遠いものだった。
スクリーンの向こう側にお互いの顔を見た次の瞬間には罵倒の応酬が始まる。
とても一国の首相同士の電話会談には見えないし、きっと二人とも程度の良い教育を受けていないのではないかと思えた。
「黒海艦隊と国境沿い戦車師団の撤収!さもなくばアンタらのパイプラインを切り刻んでやるからな!」
「ハハッ!馬鹿め!そんな事をすれば貴様らが欧州中から責められるんだぞ!そんなことも分からんのかこのブタがっ!」
「ブタはお前だ、このハゲ頭!その薄っぺらい頭じゃロルトシートの北海油田の事なぞ思い浮かばんだろう!」
「なっ、このクソブタ野郎!ユ●公と手を組みやがったのか!薄汚えクソ」
あの、やめて、アヴマッマ。
私の仕事はね、クッソ下品な罵声を顔真っ赤にして怒鳴り散らしてる北連書記長閣下のお手伝いなんだからさ。
だから呆れ顔をしてその大きな双丘で私の頭を挟むのをやめようぜ?
スピーカーから聞こえてくる罵言雑踏を聞くのは確かに気持ちいいもんじゃないけどさ、でも聞かなきゃ分からないじゃん?
お仕事できないじゃん?ジェ●ンガできないじゃん?
その内に電話が鳴ったようで、アヴマッマがそれをとって話をし、勝手に切りやがる。
【やっぱり、鉄血政府はダメみたいです、ミーシャ。】
アヴマッマ〜?
双丘越しにテレパシー使ってこないでよ頭の中に直接話しかけて来ないでよ。
全力で焦るじゃん?
もう意味わかんないじゃん?
…しかし、やっぱりダメかぁ。
あのビス叔母さんでも説得できないとなると、鉄血政府はもう無理だろう。
別の手?
…………ないわけがなかろうが。
私を誰と心得る、このマッマァが目に入らぬかぁ〜〜〜ひかえ〜ひかえ〜〜。
…なにやってんだろ。
スクリーンの向こう側で、ウクラニア首相が側近ぽい人に耳打ちされたのを見た時、私は"別の手"が成功したことを確信した。
近々重桜マッマァ祭するぜえ(可哀想な子なんです、わかってくださいね