彼の人生は、地方の貧しい寒村から始まった。
酒浸りの横暴な父、いつも不機嫌な母。
両親は子供の躾け方を、2通りしか知らなかった。
殴るか、蹴るか。
彼には大勢の兄弟がいたが、その中でも彼は殊更によく"躾け"られた。
成長するにつれ実家に嫌気がさしたのか、彼は10代を迎えるとすぐに神学校の寄宿舎へ入る。
しかし、神学校の教師達も、子供の躾け方を2通りしか知らなかった。
毎日繰り返される理不尽な暴力。
教師達が子供の躾け方を知らなかったせいか、神学校は彼を目指すべきものとは程遠いものへと導いてしまった。
彼は、信仰を捨てることにしたのだ………
「こいつと、こいつと、こいつとこいつ。今日中に。」
「はっ!必ずや実行します、同志書記長!」
立派な髭を蓄えた男から指示を受け、背の高い内部人民委員部中将が軍靴を鳴らしながら部屋を出て行く。
中将の脇にはリストが抱えられていて、そのリフトには107もの人名が載っている。
今から70年後には、この107名の内、リストの題名に沿っていた者が1人だけいた事が明らかになっていた。
そしてその他の106名は、全くもってとばっちりもいいところだった。
しかも、髭男は中将相手に最優先目標を4名指名したが、その4名のうちに例の"1人だけ"は入っていなかったのである。
リストの題名は『国家反逆罪容疑者』。
とばっちりを受けた106名は何の罪もなかったにも関わらず、北方連合東部の極寒の地へと送られる事になった。
その地で生き延びられる期間は、平均して2,3年だという。
だが、髭男にとっては、例え実際の敵が107名の内の1人だけだったとしても…さらに言えば最優先目標からも外れていたにしても…それだけでも粛清は"大成功"だった。
酷い時には200名ほどの清廉潔白な人々を極地送りにした事もある。
無実の人々を尋問し、拷問し、証拠と調書をでっち上げても、髭男が良心の呵責を感じるというような事はない。
典型的な人間不信だ。
生い立ちのせいか、元から猜疑心の塊だったこの人物は、北方連合の書記長としての地位を手に入れたあたりからその猜疑心が倍増していった。
もう、今では誰も信じてはいない。
今、リストを抱えて出て行った中将閣下も、些細な言動一つで抱えるリストに名前が入る可能性が十二分にある。
彼の腹心でさえ、いつ粛清されるかわからない恐怖に悩まされている始末だ。
無論の事、彼は北方連合の誰からも恐れられている。
ある若い党幹部は、彼のシワがれた声で名前を呼ばれただけで胃に穴を空けてしまった。
だからこの日、そのシワがれた声が随分と楽しそうに電話をしていたとは誰も思わなかっただろう。
「やあ、アヴ…失礼、"ミーシャ"。調子はどうだね?」
『同志書記長、この回線は安全な回線です。アヴローラで結構。』
電話の相手は余程の恐れ知らずのようだ。
彼がわざわざ気を遣ったのに、即座に無下にしてしまった。
先ほどの中将がこんな事をしようものなら、同じくらい即座に極東の極地へ送られる。
しかし、髭男は笑みを浮かべた。
「すまないね、アヴローラ。ここには信用のならない者が沢山いるんだ。だからつい…」
『用件に入ってよろしいですか?』
「ああ、いいとも。スタルノフおじさんに、君に何があったのか教えてくれ。」
『DRAはしくじりました。いえ、しくじったどころではなく、ロンドンでの支部すら失っています。作戦は失敗です。』
「………………………」
電話の相手、アヴローラには同志スタルノフが燃え盛る怒りをどう処理しようかと考えているのがありありとわかる。
そして、その矛先が自らの方へ向く事がないというもの、同じくらいありありとわかる。
さらに言えば…内部人民委員部の可哀想な誰かが、彼女の代わりに処刑されるのも、ありありとわかる。
「…いいかい、アヴローラ。君は全く悪くない。以前君に、あのローレンスとかいうブルジョワを使える奴だと"思わせた"男はこの世にいない。今回もどうせ、ロクな考えもできない内部人民委員部の馬鹿者が君を扇動しただけなんだ。」
『はい、その通りです、同志書記長。』
アヴローラはスタルノフと違って、良心の呵責を感じないというまでの鋼のメンタルを保っているわけではなかった。
だが、最近になって、彼女は"慣れつつある"。
勤勉極まりない人間が、自身の過ちによって次々に処刑されたり極地へ送られる事に、慣れてしまいつつあるのだ。
もっとも、今書記長の言葉を即座に肯定したのには他の理由もある。
書記長は彼女には何故か寛容だったのだが、彼女の作戦についても同じように寛容であるとは必ずしも言えないのだ。
彼女が反論を投じれば、彼女の思惑から外れる可能性が出てくる。
それは絶対に避けたい。
「今回の作戦も、ダブーロのゴロツキ共を使えると君に判断させた誰かさんが悪いんだ。君には何の責任もない。………さて、アヴローラ、君の事だ。次の一手は練ってあるんだろう?」
別に答えなくとも、アヴローラが責めを受けるような事にはならない。
だが、アヴローラは実際にも優秀な工作員で、書記長への電話の前に案の一つや二つ練り上げておく事を忘れるほどに無能でもなかった。
『…同志書記長、率直に申し上げて、私達は欧州に居座り過ぎました。』
「ほう。というと?」
『ロイヤルもアイリスも鉄血も、今は全力で私達を探しています。しばらく熱りを冷ます必要がありますし、ここでの収穫はしばらく得られない。』
「ふむふむ。では、別の面から攻めてみたいという事だね?」
『ええ、その通りです、同志書記長。」
「では、どこから攻めていく?」
『東煌』
「…………………」
スタルノフの新たな沈黙が、先ほどのような"怒りの沈黙"ではない事は、アヴローラにも分かった。
考えているのだ。
ご贔屓の工作員からの提案と、自らの政治観とを見比べて。
長きに渡って続いた東煌の帝政だったが、崩壊するのはあっという間だった。
少数民族の王朝が、多数派を支配するという少々奇妙な政治体制は、多数派による大反乱によって滅びたのではない。
外敵…重桜との戦いによって持ち堪える事ができなかったのだ。
王朝は、彼らの言うところの"できの悪い弟"に叩きのめされた。
当然の結果だ。
できの悪い弟が政治・財政・軍事の近代化を推し進めている間、"ぐうたら兄貴"は内乱もないぬるま湯で居眠りをしてしたのだ。
ようやく危機に気づいて近代化に手をつけた瞬間にタイムアップ。
王朝は倒れ、統一政府なるものが出来上がる。
その統一政府を作り上げた人物は、志の高い人間だった。
ぐうたら兄貴は勤勉な弟を見習う必要がある。
そう考えた彼は、重桜の実業家達から支援を受けて革命を成功させた。
ところが、統一政府の生みの親は、わずか1年後には暗殺されてしまう。
統一政府は統治機能を著しく失い、東煌はまた三国志の時代へ入っていく。
つまり、各地で軍閥が跋扈し、4000年の歴史の中で繰り返されてきた群雄割拠が始まったのだ。
もう、ここまでくれば伝統と言っても過言ではないだろう。
不毛な"伝統"を終わらせる為に、統一政府の後継者は本格的な近代化に取り掛かる。
政治、財政政策はもちろんのこと。
鉄血から軍事顧問団を呼び寄せ、装備を一新し、部隊を訓練し直していた。
やがてその後継者は重桜と手を結び、各地の軍閥を退治していく道を選んだ。
近代的な統一政府は軍閥を次々に破っていき、いつか東煌を列強に劣らぬ大国へと蘇らせるかに見えた。
しかし、この時期軍閥を破っていたのは彼だけではない。
北部の方では、北方連合の支援を受けた共産主義者達が南進を続けていた。
無知な農民達にとって、共産主義の理想は無条件で歓迎できるものであり、支持者を急速に増やして今や一大勢力となっている。
群雄割拠の時代の中から、二大勢力の時代が始まっていた。
近代的な東煌を目指す統一政府と、南進を進める『北東煌政府』。
やがて両者は対峙することになり、そして内戦が始まった………
「北東煌の連中はプチブルだ。信用ならない。」
『承知の上ですが、レクタスキー博士の研究を進めるのであれば、彼らの協力が必要です』
「勝算はあるのかね?」
スタルノフがそう聞いた時、部屋のドアがノックされ、一人の男が入ってきた。
丸眼鏡をかけるその男は、不健康に痩せて背が高く、どことなくモヤシのような印象を受ける。
だが、その男は北方連合でスタルノフの次に恐れられていた。
スタルノフはモヤシに向かって手を挙げた。
"待て"。
まるで飼い犬のようにモヤシが頷いて、ドアの前で待つ。
『ええ、勿論。東煌では現在、統一政府の要請を受けた重桜KANSENが活動しています。北東煌政府の支援が得られれば、拉致のターゲットにする事が可能となるでしょう。』
「………」
『どうかご決断を、同志書記長。』
「…よし、分かった。東煌へ飛びたまえ。私は君への支援を惜しまない。全北連が君についている。自信を持ってやりたまえ。」
『お気遣い感謝します。』
「そうだ、東煌へ行く前にこちらへ寄っていかないか?ちょうど南部から取り寄せたキャビアが…」
『任務がありますので。ではこれで。』
モヤシから見ても、電話を切ったスタルノフが落ち込んでいる様子がよく分かる。
とばっちりがないことを、モヤシは祈った。
どうやら、モヤシはツイているようだ。
「ベニヤ、内部人民委員部の馬鹿を一人ばかし適当に選んで、私の元に名前を持ってこい。」
「かしこまりました、同志スタルノフ。」
この立ち話で、アヴローラとDRAのミスがベニヤの部下へ擦りつけられる事になった。
部下に後ろ暗い気持ちがなかったわけではないが、自分に擦りつけられるよりはマシだと考える以外、ベニヤに出来ることはない。
「それから…アヴローラを北東煌のプチブル共の所へ派遣する。連中と話をつけて、受け入れる仕度をさせてくれ。」
「了解です。」
「……………ベニヤ。革命以来の友として、言っておきたい。」
「何でしょうか?」
「私がお前を重用してきたのは、お前が余計な事を言わず、余計な事を考えず、余計な事をしなかったからだ。」
帝政時代の革命運動で、ベニヤはスタルノフの忠実な右手として仕えてきた。
それこそまるで番犬のように忠実で、命じられたことに躊躇する事は一度もない。
周囲からは陰で"考える機能を失ったらベニヤになれる"などと言われていたが、今ではそういう事を言った人間は全て極寒の極地に埋められている。
「私もお前も、共に力を合わせて敵を排除してきた。そのおかげで今の地位がある。だが、地位を失えば………敵は尽きる事がない。敵を殺せば、新しい敵がやってくる。我々に出来ることは、ただひたすらに敵を刈り取っていくことだけだ、そうだな、ベニヤ?」
「その通りです、同志書記長」
「この地位も権力も、私に手放す気は毛頭ない。手放してしまえば、こちらが刈られる。…ベニヤ、この件は慎重に進めろ。そして必ず成功させろ。この作戦に、私もお前も命を握られている。」
「はっ!その通りに致します、同志書記長!」
ベニヤ自身はスタルノフの言いなりとして仕えてきたが、自身の考えが全くなかったわけではない。
スタルノフの権力維持には国家体制を守る必要があり、その為には海軍の増強が不可欠であること。
そして、スタルノフが失脚すればベニヤ自身危なくなる事など言われなくともよく分かっていた。
だから、ベニヤとしてはこの気まずい面談を早く切り上げて、北東煌政府のバカ共に電話をかけたかった。
あの無学なバカ共と話すのは、殊更に疲れるし、時間のかかる事だったからだ。