9.6時間
ある朝の事、一頭の牛が自らの帰るべき場所に向かって猛然と走っていた。
不思議でもなんでもない光景だ。
牛というのは存外走り出すと止まらない生き物で、生存本能を刺激されればとてつもない勢いで走り出す。
ただ問題は…この牛が走っているのは牧草地ではなく、古びたアスファルト舗装の道路だという事だろう。
徒歩や車で通勤を行なっていた人々は充分に驚いた。
まあ勿論、出くわしたほぼ全員が、どこかの牧場で世話係がウトウトして逃しちまったのだろうという風な事を思っていたに違いない。
後日、朝っぱらから通勤ラッシュアワーにひと騒動起こしたこの牛が、どこの牧場の所有する牛でもなく、ある豪邸で個人所有されているという事実が知られ、それはより多くの人々を更に驚かせた。
牛の方といえば…生存本能を刺激されたり、急に自由が欲しくなったわけでもない。
普段とても人懐っこくおとなしいこの牛は、自身にとってもかなり大切な何かを失ったという事を知らせる為に、バルセロナの雄牛のように文字通り猛進していたのである。
やがて牛は一軒のあまりに広大な邸宅の前に至る。
その時、邸宅の出入り口には2人のパイロットと1人の貴婦人がいて、ちょうどこれから教会へ向かうところだった。
「モォォォオオオ!モォォォオオオ!!」
「おお。ヘレナの牛じゃないか。今日も元気そうで何よりだ。」
「グラーフ?この牛、少し様子が変では?」
「そうか?私にはそうは見えんが…」
「いいえ、グラーフ。確かにこの牛は何かに怒っています。」
「そういう事なら…我が頭上に御坐す我らが主よ、どうか怒れる子牛を鎮めたm」
「モォォォオオオ!!!」
「あー、グラーフ、残念ながら効果はないようですね。」
「そんな!私の信仰が足りないと言うのか!?」
「グラーフ!グラーフ!落ち着いて!信仰の道は長く険しいのです!一朝一夕で成るものではありません!」
取り乱すグラーフ・ツェッペリンと、彼女を宥めるパイロットは、牛の異変には気づいたものの、それが何を意味しているのかまでは読み取れなかった。
この牛が何故こんなバルセロナ状態に陥っているのか分かるのには、別の一人を待たねばならない。
その一人とは、異常な程に妖艶な淑女で、この日も日課となっている散歩へ出かけようかという所だった。
彼女、イラストリアスの外出着は流石に露出狂チックなどという事はなかったものの、歩いている雰囲気が正にエロスそのものでしかない。
故に「エマニエ●夫人かお前は」と近所の学校のPTAから幾度となく理不尽な苦情があったにもかかわらず、彼女が理不尽に屈することはなかった。
結局はPTA側が折れて、通学路の方が変わった。
彼女自身は年端もいかない少年たちを、挨拶のみで未知の世界へ誘う楽しみを奪われたと感じていたのだが、それは別のお話。
とにかく、この日も、この淑女は散歩へ出かけようとしていたのである。
淑女が往々にしてそうである通り(?)、イラストリアスも動物と会話できるという特技を持っている。
だから、今グラツェン相手に咆哮を挙げている牛さんの"言葉"も理解する事ができた。
「あら、牛さん。御機嫌よう。そんなに怒って、どうなされたの?」
「モォォォオオオ!モォォォオオオ!」
「あらあら、それは大変ね。うふふふ。」
「イラストリアス、牛さんは何故怒っているんだ?」
「あら、グラーフ、御機嫌よう。ええっとぉ、"ヘレナちゃんが誘拐された"、ですって。」
「おお、なるほど。」
「……………」
「……………」
「………まあ大変!!」
同じ頃、ロイヤル南部の漁港にほど近い沖合では、一人の少女が釣りに興じていた。
海面に糸を垂らしてから早くも1時間。
今日はまだ何の成果もあげられていない。
「ダメにゃ…そろそろ餌を変えるかにゃあ…」
明石はボートの上で溜息を吐いて、リールを回しに掛かる。
昨日はなぜか知らんが大きなカジキが釣れた。
獲物が針にかかった時、彼女はまだ鎮守府にいた頃に見たライオンや力自慢のKANSENとした腕相撲勝負の事を思い出しながら引きあげようとしたものだ。
だが、カジキは彼女の予想を遥かに超えていて、ボートまであと少しというところで海に落としてしまう。
カジキはアオザメに喰われ(以下略
とにかく、今日は1匹も釣れないどころかピクリとも掛かってすらいない。
エサがダメになっている可能性が高いので、彼女は一度エサの付け替えを行うことにした。
その時、ウキがピクリと動く。
彼女は注意深くその様子を見守りながら、ようやくツキが回ってきたことに歓喜した。
魚がエサに興味を示し、つついているのだろう。
よぉし、いいぞ、そのまま来るのにゃ。
そのままエサに食いついて、今日はお前が晩御飯。
こっちはエサを食わせてやったんだから、これは等価交換にゃ。
だが明石の期待は、上空から響いてきた轟音にかき消される。
「ファァァァアアア●!!ふざけんにゃッ!!テメエ、マジでブッ●すにゃあ!!」
不埒な飛行機に向かって怒鳴りながらも、明石は飛び去るDC3輸送機の機首方向に疑問を覚えた。
そういえば、この場所では何度も釣りをしているが、あの方面へ飛んでいく機体は見た事がない。
あのコースはヒスパニア(史実のスペイン)へ向かう航路のハズで、通常ならこの時間帯飛んでいく便はないハズだ。
「ま、そんな事はどうでもいいにゃ」
明石は気を取り直し、諦めてエサを取り替える事にした。
だがそこで気づく。
釣竿が、ない。
きっとさっきの轟音を聞いて驚いた拍子に落としてしまったのだろう。
ファァァァアアア●ッ!!!
明石は人生2度目の英語を声高々に叫んだ。
「私は上着。私は指揮官くんの上着。上着なの。だから、離れないの。私はセントルイス、ラッキールー、幸運艦。だから指揮官くんの上着なの。」
セントルイスが壊れてしまった。
無理もない。
ヘレナが誘拐されたという第一報を受けた時、ルイスマッマはロックバンドのボーカルのようにヘッドバンキングをしながら暴れ回った。
ロイヤルから戻ってきたピッピやダンケに宥められ、ベルが淹れた紅茶を飲んでもまだ暴れていたので、ピッピが仕方なく私をルイスに渡したのだ。
結果、ルイスは落ち着きを幾分か取り戻し、代わりに壊れたのである。
「指揮官くん、寒くない?ねえ、指揮官くん、寒くない?ヘレナも寒くない?指揮官くん、ヘレナ、上着のラッキールーが温めてくれるからね?ほら、私で温まって、2人とも…え、1人しかいない…ヘレナ、ヘレナは!?ヘレナ?ヘレナ?ヘレナァァァアアア!!」
もう助けてくれええええ!!!
ルイスも辛いだろうよ、そらあよぉ!!!
でもいい加減こっちも辛えわ!!!
情緒不安定丸出しじゃん!?
大切な妹がサイコ野郎に拉致られたりなんかしたらそらたしかに焦るし辛いだろうけどもさぁ、ちょっとばかし落ち着いてくれてもいいんじゃないかなあ!?
ルイスが私を凄まじい圧力で抱きしめる間にも、ラインハルトとピッピは落ち着いて分析を行っていた。
「拉致の実行犯はヴァルギンもといレクタスキーで間違い無いだろう。ヤツは数年前に死んだ男にも化けられる。ヴァルギン以外に化けて国境を超えるくらい、造作もないハズだ。」
「MI5はDRAの本拠地を襲撃したと言ってた。でも北連工作員を何人確保したかについては言及していなかったわ。つまり、残っていた工作員と合流して拉致を実行した。でも、どうして坊やの家の事を知ってたのかしら。」
「ピッピ叔母さん、貴女が北連の工作員なら…ブロが邪魔で仕方がない事くらい分かるだろ?東煌での拉致を邪魔された仕返しもしたい。だから徹底的にブロの事を調べたハズだ。」
「成る程、さすが姉さんの息子ね…。"元"とはいえKANSENはKANSEN。軍事施設にいないだけ、拉致もしやすい。ヘレナは毎日牛さんのお散歩をしていたハズだから、行動パターンも読みやすい。」
「まったく!MI5は何だってブロの家の警備に無関心だったんだ!」
「仕方ないわ…MI5も人員不足なのよ?職員一人一人の家に警護をつける余裕はない。私達も臨時職員という立場だから、尚更…」
レクタスキーはついにどうしようも無くなって、自分でやる事にしたんだろう。
MI5はDRAの掃討に夢中で、北連工作員を取り逃がしていたに違いない。
で、今回そのツケが回ってきた。
ただ、N長官に文句は言えない。
長官も長官で、ヘレナの拉致事件に全力を傾注してくれているところだからだ。
ヘレナが拉致されたと思わしき場所では警察が非常線を張り、例を見ないほどの高速で検問を敷いている。
今やヘレナの安全はMI5の重要案件トップ5に入っていて、長官は全力を尽くしてくれていた。
よって、「その全力の一部でも工作員狩りに費やしてくれてたならウチのヘレナは」とか言えない。
間違っても言えない。
口が裂けても言えない。
「私は、セントルイス、ラッキールー、指揮官くんの上着……なら指揮官くんは私の…指揮官くんは私の…指揮官くんは私の…」
ルイス?ルイスルイス?
頼む、落ち着いてくれ、そんな制御不能なスカイ●ットにならないで、落ち着いて、落ち着いて。
「私の…………下着?」
うわ
「私は指揮官くんの上着、指揮官くんは私の下着、私は指揮官くんの上着、指揮官くんは私の下着、私は指揮官くんの上着、指揮官くんは私の下着」
ルイスゥゥゥゥゥ!?
だ、誰かルイスを止めてくれえええ!
「ご主人様!ただ今、明石より連絡がありました!」
おお、ベル!助けてくr
「今朝方、ヒスパニア方面へ向かうDC3輸送機を見たそうです!」
え?…マジかよ。
「ヒスパニア!?…畜生っ!」
「どうしたの、ラインハルト?」
「ヒスパニアは三年前まで社会主義国家だった!今でこそファシズム国家だが、社会主義時代の連中が北連とパイプを持っていてもまったく不思議ではないっ!」
「それってつまり…」
「ヘレナは…もう、ロイヤルにはいない…」
「そして………追跡も難しい………………」
「…………………………。指揮官くんは私の下着、下着、下着、下着、下着」
ルイスゥゥゥゥゥ!?
もうホント落ち着いてぇっ!?
分かったから!!下着でもなんでもいいから!!とりあえず、私もあの対策練ってる人々に混ぜて!!
頼むよ!?離して!?一回だけでいいから解放して!?
「下着は勝手に歩かないわ、指揮官くん。だから、私が動くわね?」
ルイスマッマは私をアパラチア山脈に挟んだまま、ピッピとラインハルトの元へ向かう。
ピッピもダンケもベルもルイスによる独占に何一つ文句をつけないのは、彼女たちなりの気遣いなんだろう。
私からすれば、気遣いはいいんだけど、ちょっとの間だけでいいから助け出してくれないかな?というところだが。
「ブロ、ルイス。こんな事は言いたくないが…」
諦めるにはまだ早くないか、兄弟?
「当てはあるの、坊や?」
私はルイスの谷間の間から、ピッピとラインハルトの前に広げられた欧州地図に目をやった。
当てはもちろんある。
この地図には欧州諸国の他に、アフリカと中東の一部の国々が載っていて、その国がどういう状況にあるか大体の予想がつく。
どれも第二次大戦後の紛争の舞台ばかりだ。
こういう時ほど落ち着いてなければならない。
時間制限はあるものの、焦っては気づくべき問題点に気づけないのだ。
だから私は地図を見回して、いくつかの目星をつけた。
あとは各国の情報機関に連絡して、確認を取って行けばいい。
裏付けと符合すれば、その予想が正しく、そして奪還のタイミングさえ推し量れるハズだ。
私はピッピからミネラルウォーターを受け取って一口飲む。
気分はフレデ●ック・フォー●イス。
ルイスの谷間に挟まっていなければ、尚フォー●イスだったのだが。