文乃は激怒した。
必ず、かの凄惨なキッチンの光景を二度と生まぬと決意した。
文乃には料理がわからぬ。
文乃は、一ノ瀬学園高校三年生である。筆をとり、父と一緒に暮らしてきた。けれども自炊経験がまったくなかった。
「―――という訳なのっ! お料理を教えてください!」
「……はあ」
文乃ちゃんは料理ができない。
***
一ノ瀬学園の現役女子高生たる
彼女は、その類稀なる現代文・古文・漢文の学力を有していることから、通称は『文学の森の眠り姫』と謳われていた。
容姿端麗。明るく、それでいてお淑やか。
本人もコンプレックスに思っているまな板だけがネックであるものの、ほとんど絵にかいたような美少女―――それが文乃だ。
だがしかし、彼女の志望校は理系。
文系を得意とする彼女は、高校三年生になったばかりの数か月前まで、数式を目にするだけで途轍もない睡魔に襲われるほど、理系科目を苦手としていた。
そこへ学園長が彼女の新たな教育係として任命したのは、同学年の秀才・
『できない奴の気持ちをわかってやれる男になれ。できない奴の気持ちがわかるのは、できなかった奴だけだから』という、亡き父の教えを受けた彼の熱心な教えにより、同じく彼に教えを受けている『機械仕掛けの親指姫』こと
そして一学期を終え、二学期へ突入。
ある者は部活を終え、多くの三年生が本格的に勉学に勤しむことだろう時期に差し掛かった文乃であるが、彼女には一つだけ懸念することがあった。
「うっ……うっ……!」
文乃は自宅のキッチンで涙を流していた。
不甲斐ない自分へ。そして無駄になってしまった食材を哀れみ。
『和洋中なんでもござれだよ!!』
脳裏を過るのは、強がってしまった時の自分の言葉。
しかし目の前に広がるのは、目にするのも憚られる惨劇の地。
爆心地の如き様相を為すキッチンを生み出したのは他でもない。
「なんでっ、なんで私はあの時見栄を張っちゃったのおぉぉ!!」
うわああんと泣く文乃。
普通であればご近所迷惑になりかねない慟哭であるが、幸いにも文乃の自宅は立派な豪邸。この程度の叫びは家中に響きわたるだけで済む。
唯一の肉親である父親も滅多に家に帰ってこないため、基本的には一人で過ごしていることが多いのであるだが、食事はいつも即席のものか弁当を買っていたため、自炊経験がほとんどないに等しい。
それがどういった巡り合わせか、教育係である成幸に頼まれ、一度料理を教える運びになってしまった。
その時は理珠に助けを求め、どういった経緯か初代教育係であり一ノ瀬学園の教師である桐須真冬にレシピを教えられ、事なきを得た。
だがしかし……だがしかしだ。
もう一度突発的にトライした時、それはもうキッチンは酷い有様になってしまった。
その時も、何の巡り合わせか掃除の救援にと家事代行を頼んだところ、成幸と先輩OBである小美浪あさみがやって来て、自身の料理スキルのなさがバレてしまう危険の淵に立たされたのである。
(あの時もなんとかバレずに済んだけど、今度の今度は絶対バレそうな気がするよぉ……三度目の正直って言うし)
一度強がってしまったが故に起きた悲劇。
引くに引けなくなってしまった文乃は悩んだ。悩み、悩み、悩んでいる内に間食が増えたことにより若干体重も増えた。
そんな悩みを払拭するべく文乃が考え出した案は、単純なものであった。
「私、料理を作ってあげたい相手が居て……っという訳なの! お料理を教えてください!」
「……はあ」
ってな感じで冒頭に戻る。
「な、なんか古橋さんに料理教えてって言われるの不思議だなぁ~」
顎に手を当て、笑顔を浮かべるのは一ノ瀬学園三年生料理部研究部元部長・
通称『厨房の白雪姫』だ。男だが。
男子にも拘わらず、インドアでの活動のせいで日焼けしていない肌は粉砂糖のように白く、華奢な体躯、艶のある黒髪を一つ結びにする等、一見女子にしか見えない彼は文乃とは中学校からの知り合い。
「その、女子の情報網の速さって油断ならないし……その点佐藤くんは男の子だけど、女の子っぽいから安心して頼めるかなって」
「ぐふっ」
可愛い顔して悪意なく辛辣な言葉を吐くのも文乃の特徴だ。
好きで男の娘でない良太には心に来る言葉であったが、本心から料理を教えてくれるよう頼まれている手前、断り辛いこともある。
(料理作ってあげたい相手って誰かな? でも、古橋さんのことだから、料理上手なんだろうなぁ~)
(料理が壊滅的に下手だからだなんて、こんな公衆の面前では言えない……! 女子としての沽券に係わるもん!)
二人の考えの間に若干の齟齬があるものの、見事元料理部部長の教えを受けられるに至った文乃。
はたして今後、どうなるのやら。
***
それはとある日の古橋宅。
「―――じゃあ、古橋さん。カレーを作りたいんだったよね?」
「うん、佐藤くん!」
快活な返事をするのは、可愛らしいエプロンを身に纏った文乃だ。
隣にはこれまた板についたエプロン姿の良太が立っている。
そして目の前のキッチンに所せましと並んでいる材料の数々。それらは全てカレーの材料。
「ううん……だけど」
「はい!?」
「カレーと一口に言ってもたくさんあるね。普通のカレー、インド風カレー、グリーンカレー、イエローカレー、レッドカレー……古橋さん。どれを教えてほしいの? 一応色々持ってきたけど」
「あの、えっと……普通のを」
「そっか!」
まごまごとし、尚且つ視線を泳がせる文乃。
彼女の様子は如実に語っている。
―――具体的にどの程度自分が料理をできるかを伝えていなかった、と。
しかし、その詳細を知らぬ良太は笑みを浮かべつつ、炊飯器に目をつける。
「よし、古橋さん。具材の下ごしらえの前にライスの準備にいこう! 本当ならカレーを作る前に済ませて水に浸けておきたかったけど、まあ今から炊く準備をしても大丈夫だよ」
「は、はい!」
「……流石にライスは炊け―――」
「炊けます!」
背筋をピン! と伸ばす文乃は、目を白黒させつつ研ぐ前の生米が入っている器を手に取る。
(言えない! 白米すら炊いたことがないことを!)
以前、成幸が来た時はなんとなしに彼に炊飯を頼んだ。
あの時はなんとなしに流すことができたものの、今は違う。
(え、えーっと! でも、なんとなくでわかるよね、私!)
生米をじゃらじゃらとかき回してなんとか研ぎ終えた文乃は炊飯器の前に立つ。
「あ、っと……」
「むむっ?」
「この線まで入れればいいんだよね!?」
「うんうん」
「お米を!」
「それは入れる水の線だね」
「……」
「……」
「ずびばぜーん゛!!」
「古橋さぁーん!?」
~少々お待ちを~
「ふむ、なるほど。わかった。つまり、基本の“き”から教えてほしいってことだったのね」
「はい……」
「大丈夫大丈夫。最初から料理ができる人っていないから、ほら。寧ろ、これから伸びしろがあっていいね! みたいな……」
優しさが傷口に塩水のように染みわたっていく。
要するに泣きっ面に蜂だ。
「あはは……でも、今の様を見られたら『おいおい炊飯器を使ってライスを炊こうとしているなんて、とても賢いチンパンジーが居るもんだ!』っていう外国人の皮肉たっぷりのジョークが聞こえてきそうだよぉ……」
「へりくだりすぎだよ、古橋さん。手取り足取り教えるから、これから頑張っていこう」
「……師匠!」
(師匠!?)
などの流れを経て、二人は料理へ戻る。
「じゃあ、これからカレーの作り方を教えるよ」
材料は豚肉、カレー粉、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、にんにく、しょうが、ローリエ、カレールウ、そしてサラダ油だ。
「ろーりえ?」
「うん。香辛料だね。生薬として月桂葉って言うよ。入れると、すがすがしく明瞭な芳香が出るんだ」
「へー!」
「ここで、古橋さん」
「は、はい!?」
「料理に際し、大切なことはなんだと思う?」
笑顔の圧力とはこのことだろう。
笑顔のまま詰め寄る良太を前に、文乃はたじたじだ。
「あ、愛情!」
「うん、大事だね」
「えへへ……」
「だけど、僕が今聞きたかった答えは“手順”だったよ」
「はうっ!」
メシマズを作る者にはある程度特徴がある。
一つ、分量を護らない。
一つ、独創的を謳いレシピ通り作らず、変に付け足す。
一つ、味覚が偏っているがために味付けが極端になる等……。
「と、いう訳で一通りの手順は僕が監修するから、古橋さんは僕の指示通り動くように。レシピ通り作れば、まず不味くなることはないと思う」
「ホント!? 今、言質取ったからね!」
「うん! ……どんなトラブルがあっても不味い料理は作らせないから」
「ひぃぃ!?」
最早強迫に近い言動だ。
ここに来て初めて文乃は良太の料理部としての片鱗を垣間見たのであった。勿論、良太自身は威圧感たっぷりであることは意識していない。
そんな中、クッキングスタートである。
まずはボウルに入れた市販の豚肉(カレー用)を入れ、小さじ一杯のカレー粉をまぶし、よくなじませるように混ぜる。
「? なんでカレールウがあるのに、カレー粉をまぶすの?」
「所謂下味だね。こうすると味に深みが出るんだ」
「なるほど!」
下味―――調理前に食材に様々な味付けをする行為を指す。
特に蒸し料理では途中で味付けができないため、専ら下味をつけてから調理することになる。
今回のカレー粉を豚肉にまぶすことも、そんな下味をつける一環だ。
そして下味をつけ終えた後は、野菜の下準備に移る。
玉ねぎはざく切りに、にんじんは乱切りに、じゃがいもは一口大に。勿論、好みによって切った際の大きさを変えることは多いに構わない。
「まあ、失敗した時は形がわからなくなるほどドロドロに煮込めばいいだけだから」
「へ、へぇ~」
「よし、古橋さん」
「はい!?」
「手が止まってるけど、どうしたの?」
「そ、それは……」
じゃがいもと包丁を携える文乃は、さぁーと顔から血の気を引いてしまっている。
「私が切るとじゃがいもが消失しちゃうから……」
「包丁で切ると」
「うん」
「じゃあ、ピーラーを使おう」
「文明の利器!!」
一度、じゃがいもの皮を包丁で切った際は指がズタズタになった挙句、じゃがいもが消失するという事態に陥った文乃。
しかし、今回は一味違う。
ピーラーを使えばあら不思議。文明開化の音がする。
「いもが! なくならない!」
「何を言ってるの、古橋さん」
感激に打ち震えている文乃は、なくならないじゃがいもを前に涙を流す。
あれほど皮むきが苦手であった自分が、いもを消失させずに皮をむき切ったのだ!
それはさておき、自分の指を具材にしかねない包丁さばきを披露しようとした文乃の切り方を是正しつつ、次の工程へ。
一かけのにんにくとしょうが。それらを薄切りにしたものとざく切りにした玉ねぎを、サラダ油をいれて中火にかけたなべに入れる。
そうして全体がアツアツになった頃を見計らい、豚肉、にんじんの順に加えて炒めていく。
「うう、目がぁ!」
しかし、にんにく・しょうが・玉ねぎを炒めているなべから立ち上る湯気は目に辛い。
「そんな時はラップをゴーグルのように目に……」
「痛くなーい!」
適当な長さに切ったラップをパックの如く目の辺りに貼る。
こうすれば湯気が目に入ることを防げる……という、どうでもよい知識だ。
そうこうしている内に全体に油が回ったら、分量通りの水、ローリエを加える。
そして沸々と沸騰し始めた頃に蓋をし、弱火で30分間煮込む。
「あ゛あっ!? じゃがいもは!?」
「安心して。30分煮込んだ後に加えて、もう10分ほど煮込む予定だから」
「あ、なぁ~んだ。安心したぁ」
じゃがいもは崩れやすいため、後々投入という訳である。
「それにしても……古橋さんが料理できないなんて、意外だったよ」
「うっ! ご、後生の頼みだからみんなには言いふらさないでぇ……」
「う、うん」
泣いて縋る文乃。
どうしてこうなったと思うのはお互い様である。
そんな他愛のない会話をしつつ30分経ち、さらにじゃがいもを投入して10分煮る。
「そこで一旦火を止める」
「え、なんで?」
「火をかけたままだと、カレールウを入れてもとけにくいし、焦げやすくもなっちゃうから洗うのが大変になっちゃんだ」
そうして火を止めたなべにルウを入れて3~5分。
ルウが溶けてきたら再び弱火をかけ、焦げないように時折かき混ぜながら10分煮る。
「そしたらもうほとんど完成だね」
「うわぁ~! カレーだぁ……!」
「うん、カレーだからね」
感涙しつつ、カレーをスプーンで掬って口に運ぶ文乃。
割と普通の出来であるのだが、これだけで感涙するとは一体彼女の手料理はどれだけ凄惨なものとなるのであろうか。
傍らで見守る料理の師となった良太は、今後に一抹の不安を覚えざるを得ない。
そうこうしている間にホカホカのご飯も炊きあがった。
早速器によそい、カレーをかければカレーライスの出来上がりである。
「今回は水だけで煮込んだけども、量を減らして代わりに市販のトマト缶を入れてもおいしくなるよ」
「うんうん!」
「あと、この熱々のカレーライスにとけるタイプのチーズを乗せたり……」
「うんうん!」
「その上に市販の粉パセリをふりかけても、彩りと香りもよくなるよ」
「うんうん!」
普通のカレーがチーズと粉パセリで彩りよく、ちょっとおしゃれなカレーに変身である。
とろけるチーズでなくとも、粉チーズでも見栄えはよくなり風味もよくなるであろう。
「っていう感じだね。どうかな?」
「ありがとうございます、師匠!」
「うん、古橋さんに喜んでもらえてなによりだよ」
一通り料理を監修した結果、文乃はレシピさえあればある程度はできる。食材の下ごしらえなどの点についてはまだまだ不安要素は残っているものの、いつの間にか料理がダークマターにならない分、将来性を十分に感じさせてくれるというものだ。
「とりあえず今日のまとめとしては、ちゃんとレシピ通りに作る! 分量は勝手に変えない! この二点だね」
「うん!」
「料理っていうのは、国語であり数学であり社会であり理科であり英語さ」
「え? 数学……」
「どうしたの?」
「う、ううん! なんでもない」
「そっか。じゃあ話を戻して……つまり、料理は勉強と同じってこと。何度も復習することで次はよりおいしい料理を作れるようになっていく! いや、作る! 根気よく続けていくのが上達のコツだからね」
「わかりました、師匠!」
こうしてカレーの作り方を伝授してもらった文乃。
(うん、なんだか自信がついた!)
『あれ? 私、意外と料理できる!?』と自信がついた彼女は、これで友人たちに料理ができないことを隠さずに済むと安堵する。
和洋折衷なんでもござれとは言えないが、一先ずまったく料理が出来ないレベルからは脱却できた……と信じたい文乃なのであった。
***
「フンフンフ~♪」
夕飯に向けて卵をといている良太は、初めて女性の家に上がったことに対して内心ドキドキとしていた。
しかもその相手が同学年でもトップクラスの美少女。
二人きりの密室で料理を教えていたともなれば、緊張しない方がおかしいと言っても過言ではない。
(成り行きとはいえ古橋さんの家に上がっちゃったなぁ……でも、作ってあげたい相手って誰だろう?)
油を引いて温めたフライパンに卵を投入。
完全に固まってしまう前に手早くかき混ぜ、程よく火を通し、フライパンを器用に動かせば、ふわふわのオムレツの出来上がりである。
それを皿に盛り付け、ケチャップをジグザグにかければ、店に出てきそうな見栄えに早変わり。
「ん?」
いざ実食……と思ったその時、携帯電話が振動する。
何事かと思えば、メッセージを送ってきたのは他でもない文乃だ。
綴られていたメッセージはこうである。
『師匠お助けを』
と、ダークマターの写真付きで。
最早なにを作ろうとしていたのかさえ分からぬほど、原型がない。
「えぇぇ……」
まだまだ文乃ちゃんは料理ができない。