「風邪引いちゃったの?」
「はい゛」
鼻づまりがひどい鼻声で返答するには、文乃と同じく成幸に教育係についてもらっている理珠だ。
普段は基本的に感情を面に出さない彼女であるが、今日ばかりはあからさまに具合が悪そうである。
寝間着に身を包んで敷布団に横たわる理珠を、いち早く緒方家である『緒方うどん』と看板を掲げている家と店舗を兼用している建物に到着した文乃は看病していた。
「今日は父と母も町内会で朝まで帰れないと言っていて、私は平気だと思い一人家でゆっくり休もうと思っていたのですが―――」
『げほっ、げほっ!』
グキッ!!
『あ゛―――ッ!!?』
「思いのほか激しい咳に腰をやってしまい、身動きがとれません……」
「それは……災難だったね、りっちゃん」
「申し訳ないです、文乃。わざわざ家に来てもらって」
「ううん、そんなことないよっ!」
言葉通り申し訳なさそうに眉尻を下げる理珠。
そのような友人に笑顔を取り繕う文乃ではあったが、
(流石に、鍵が開いままで出向かえもないしおかしいと思ってりっちゃんの部屋に入ったら倒れてて……事件性を感じずにはいられなかったよ)
殺人現場の如き光景に、文乃は心臓が縮むような思いをした。
もし仮に立場が逆であったならば、ホラーが苦手な理珠は失神していたかもしれない。それが唯一の幸いだろう。
冷却シートを額に張り、マスクを着け、あまつさえ首にネギを巻いている理珠を眺めていた文乃は、一旦腕時計を見る。
「ん~……りっちゃん。夕ご飯はどうするの?」
「夕飯ですか? それなら……げほっ、父がうどんを作り置いてくれました」
「ちょっと早い時間かもしれないけど、今日は早く寝た方がいいし、寝付き良くするために早く食べておく?」
「そうですか? で、あれば店の厨房ではなく家のキッチンに……」
「ああ、私がとってくるから大丈夫だよ、りっちゃん! ここで寝ておいて」
「……そうですね、お言葉に甘えます」
「ちょっと待っててね」
ぎっくり腰であるにもかかわらず立ち上がろうとする理珠を慮り、自分がと立ち上がり、駆け足でうどんがあるであろう冷蔵庫の下へ行く。
理珠の父親が作るうどんは絶品だ。
そして理珠の好物もまたうどん。うどんは消化吸収の良い、胃腸に優しい食べ物である。
好物を食べ、薬を飲み、早く寝る―――そうすれば風邪が長引くこともないであろう。
一人の友人として彼女の快復を願う文乃は、早速冷蔵庫の中のうどんをおぼんごと取り出す。丁寧にもラップがかけられたつゆ入りの器も付属しており、貼られているメモ書きには理珠の父のものだと人目で分かる内容のメッセージが綴られていた。
メモ書きは余り見なずに居ようと自分に言い聞かせる文乃は、適当にペットボトル入りの飲み物も携え、理珠の私室に舞い戻る。
「はい、りっちゃん! うどん持ってきたよ」
「ありがとうございます、文乃……では早速」
鼻水を啜った理珠は、『頂きます』と手を合わせた運ばれてきたうどんに手を付ける。
冷えても尚コシの残るうどんに、かつお出汁の利いためんつゆ。風邪に効きそうな薬味であるネギもつゆに入れた理珠は、一息にうどんを啜った。
「んごっほ!!?」
次の瞬間、理珠の鼻から鼻水ではない何かが出た。
うどんだ。紛うことなきうどんだった。
啜ったのと同時に咳をしてしまった故に起こった悲劇は、ただでさえ疲れ衰えている理珠の体力を掻っ攫っていく。
「んげっほっ! ほえ゛っ!! ん゛あっ、あ゛ああっ!!?」
「りっちゃぁ―――んっ!!?」
※少々お待ちを※
***
『それでもうどんが食べたいの?』
「それでもうどんが食べたいの! だよ」
理珠の咳き込みが終わってから数分後、文乃は緒方家のキッチンに立っていた。
そして携帯電話のテレビ通話で話す相手は良太だ。
(うるかちゃんは国体に向けての練習……唯我くんは水希ちゃんが風邪引いちゃったらしいから、その看病と家事で家から出られないらしいし……紗和子ちゃんは……来れるんだったらもう来てるだろうし、今頼れるのが良太くんしかいない!)
須らく、理珠の知り合いが来られない事態に若干の危機感を覚えている文乃。
その理由は、今現在布団で横になっている理珠が呪詛のように『うどん……』と呟いていることに起因していた。
頑なにうどんを食べたがっている理珠であるが、そのまま食すのは如何せん喉に悪い。
せめて温かいうどんを出してあげたいと思う文乃であったが、勉強した範囲外であるうどんの料理に手をつけようものならば、心身ともに衰弱している理珠にトドメを刺しかねない一品が爆誕してしまうかもしれない。
「だからお願い! 私一人じゃ、小麦粉を煮込んだ謎の液体みたいな料理が出来上がっちゃうよぅ! 風邪を引いてる人に良いうどん料理、教えて!」
『う~ん、うどんで風邪の人に良い料理かぁ……じゃあ、うどん雑炊にしよう!』
「うどん雑炊?」
うどんなのに雑炊。それ如何に?
そう言わんばかりのトーンで応える文乃に対し、ビデオ通話画面の良太は『ある食材を教えて』と聞いてくる。
事前に理珠から食材を使う許諾をとった文乃は、冷蔵庫の中身を物色し、めぼしいものの名前を口にしていく。
「卵とかネギとかはあるけど……」
『梅干しとかは?』
「梅干し? あっ、あるよ!」
『うんうん。じゃあ、雑炊だからご飯もないとだけど……』
「ご飯ご飯……っと、あった!」
『そのくらいでいいかな。じゃあ、早速作ってみよう!』
用意するものは、うどん、炊いたご飯が少し、卵、ネギ、梅干し。調味料としては基本の味付けとなる出汁……なのだが、これはめんつゆで代用する。そして最後に、味を調える為の塩だ。
まずはなべに水とめんつゆを入れてひと煮立ちさせる。
温まり、めんつゆの中のかつお節の甘露で芳醇な香りが湯気と共に立ち上る程度に温まってきた頃、お椀に対し半分程度のご飯を投入。
『本当なら、うどんはもう少し後に入れるつもりだったんだけれど、もううどんも入れて煮ちゃおう』
「え、どうして?」
『うどんは確かに消化しやすい食べ物なんだけれど、コシの強いものだったりすると、逆に消化し辛いんだ。だから、風邪を引いて弱ってる胃腸でも消化しやすいように、柔らかく煮てあげなくちゃ』
「へー、なるほど!」
麺類はあまり消化がよくないとされている一方で、原材料が小麦、塩、水のうどんは消化がいいと言われているが例外もある。
それは上述の通り、コシの強いうどん―――延いてはしっかり煮込まなかったものだ。
緒方うどんで提供されるうどんは、歯ざわりのよい噛み応え抜群のシコシコな麺が特徴的である。
普段からそのうどんを食べ、己が身の糧としている理珠であるが、風邪を引いているこの時ばかりは話が違う。その弾力が抜群の麺が、寧ろ弱った胃腸には天敵と化す訳だ。
そこで、消化しやすいようにしっかりと煮る。
それから暫くし、水とめんつゆを吸って膨らみ、柔らかく煮られていくご飯とうどん。彩られる茶色は出汁を十分に吸っている証。
これだけでもイケることはイケる。
しかし、手間こそ美味への道のり。
弱っている理珠を元気づけるため、美味しい料理を作ってやらねばと文乃は奮い立つ。
「10分経ったよ、佐藤くん!」
『じゃあ、そこに溶いた卵を入れよう』
「かきたまだね!」
事前にボウルに入れ、ホイッパーで溶いていた卵をなべに流し込む。
そして手早く菜箸で掻きまわしていけば、溶き卵が熱で次第に固まっていき、風に靡く羽衣のようにうどんとご飯の間を掻い潜り、出汁の中を舞うように泳いでいく。
茶と白しかなかったなべの中身が、一気に黄色に彩られる。
それと同時に、立ち上る湯気からは卵の優しい香りを感じるようになった。
『味はどうかな?』
「んっ……はふっ、はふっ。うん、おいしい!」
味見する文乃は、思いもよらぬほどの味わいに目を輝かせる。
流石はうどん屋。相当工夫を凝らしためんつゆを使っていたのだろう。塩っ気が足りないのではと危惧していた文乃であったが、複雑な芳醇な香りと、絶妙な甘みと塩っ気のハーモニーに舌を唸らせる。
これだけでも美味しい……のだが、さらにここからワンステップ上を行こう。
「この出来上がった雑炊を器に盛りつけて……」
『細かく刻んだネギの青い部分と、梅干しを乗せて完成だよっ!』
さらに彩られる器の中身。
緑と赤が差したことで、一気に料理の色が華やいだ。
ネギは風邪によく効くというが、それはネギに含まれている成分である硫化アリルが変化した物質『アリシン』による、疲労回復、殺菌効果、血行促進作用、免疫力の向上といった効果によるものである。
ただしこのアリシン、熱に弱い。故に、最後にトッピングとして盛り付ける形を今回はとった。
そして次に梅干しだ。
梅干しに含まれているクエン酸は、疲労回復に効果がある。これは疲労の下になる乳酸を、クエン酸が分解してくれるからだ。
さらにクエン酸は、食欲増進効果に加えて整腸作用、抵抗力・免疫力向上の効果もある。
これは二品のトッピングは、比較的甘い味わいに仕上がっているうどん雑炊の味を引き締めてくれることだろう。
そして、いざ実食の時間だ。
「ふーっ、ふーっ」
レンゲに掬ったうどん雑炊を吐息で冷ます理珠は、文乃が固唾を飲んで見守る中、ハムっと一口食す。
「んっ……」
「ど、どう? りっちゃん……」
「……おいしいです、文乃」
「! よかったぁ~!」
「流石です、文乃……料理も上手だったんですね」
「え!? い、いや、まあね~!!」
「?」
文乃が必死に笑顔を取り繕う一方、風邪でうまく思考が回らない理珠は彼女の普段と 違った様子にも気が付かず、次々にうどん雑炊を口に運ぶ。
甘露な味わいに芳醇な香り。これは紛うことなき緒方うどんに伝わる出汁だ。
それらは柔らかく煮られたうどんや米の一粒一粒に染みわたっており、噛み締めれば噛み締めるほどに旨みがあふれ出してくる。
しかし、時折刻みネギや梅干しと共に食べれば、味わいが一味も二味も変わった。
ネギの辛み、梅干しの酸味。その刺激は、風邪によって体力を奪われていた理珠の体に活力をもたらす。
「……ごちそうさまでした」
「完食……っ!」
「おいしかったです、文乃。この度はなんとお礼を言えばいいものか……」
「気にしないで、りっちゃん! 困った時はお互い様でしょ?」
「文乃……」
理珠が文乃の言葉にしみじみとしている、その時だった。
「緒方理珠!!」
扉が凄まじい勢いで開く。
「この前のもそうだけど、なんだか不穏なメッセージが届いたからかけつけたわよ!!」
現れたのは、科学部部長の関城紗和子だ。
理珠の親友を自称する彼女は、鬼気迫った表情で現れた―――そう突然に。
故に理珠は反射的に弾かれたように体を揺らす。
その際、咳で痛めた腰に―――、
「はうっ」
再び痛みが走った。
「あっ、あっ、あぁ~~……!!!」
「りっちゃぁ―――ん!!?」
「え、ちょ、どうしたのよ緒方理珠……」
「腰が……関城さん、急に驚かすなんて……嫌いですっ」
「いやぁ―――!!?」
理珠の私室は、一転して騒がしい様相を呈する。
腰の痛みに悶絶する理珠。
理珠に『嫌い』と告げられ、嘆き悲しむ紗和子。
そんな二人に挟まれ、どうすればよいのかわからず困惑する文乃。
理珠の風邪が治るには、もう少しの時間がかかりそうだ。
***
机に置くのは、先程まで文乃とテレビ通話していた携帯電話だ。
文乃と通話していた間とは違い、静寂が室内を包み込む。
高鳴る鼓動を確かに感じつつ、文乃との会話の余韻に浸るようにため息を吐いた良太は、今一度電源の落ちている携帯電話の画面に視線を落とした。
そこに移り込むのは他ならぬ自分の顔のみ。
(古橋さんは僕が親切心で教えてると思ってるだろうけど……)
むず痒いような感覚を覚え、頬を指で掻く。
『女の子っぽいから安心して頼めるかなって』
料理の指南を頼まれた時の言葉が脳裏を過る。
「……僕だって男なんだから、まったく気がない女の子の家に通って料理を教えることなんてできないよ」
抱くは仄かな恋心。
男として見られないことに悩む、一人の男子高校生の独白であった。