太陽のメガロッパ   作:外清内ダク

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3.父娘

 翌日、私は会社に行った。

 なぜって? 火曜日だったからだ。他に何がある?

 その日の朝は、娘のための食事を作らなかった。その代わり、19時ごろに15分だけ休憩を取り、駅前の花屋で白いバラを3輪、買った。店員の若い女性が、上目遣いに私の顔色をうかがって問うことには、

「あのう、贈り物用にしましょうか?」

 私は彼女の意図を掴みかねて、ぽかんとしていた。数秒かけてようやく、湿気た新聞紙か、かわいい模様(パルメット)入りの透明ラッピングシートか、どちらを使おうか迷っているのだ、と気づいて、慌てて私は答えを口にした。

「そうしてください」

「はい!」

 店員は元気よく返事をして、仕事に取りかかった。しまった。飾るために買ったのではない、家に帰って娘の食事にするのだ。花束にしてもらう必要などなかった。とっさのことで、思いもよらないことを口走ってしまった。

 そんな私の内心など知る由もない花屋の女性は、見惚れるほど鮮やかな手付きで3本のバラをまとめ、すっきりと美しい花束に仕上げてくれた。

「奥様にプレゼントですか?」

「いえ、あの……娘に」

「はぁぁあーっ……すてき!!

 私もそんなお父さんが良かったなー!」

 良いものか。こんな父親。

 私は会社に逃げ帰った。

 戻れば戻ったで、空気を読まずに席を空けた()()()()への、冷たい目が待っていた。同僚たちの無言の圧力に追い立てられ、私はすぐに仕事の続きに取りかかった。夕飯は右手でキーをパンチしながら左手で食べるのだ。

 他にどうすれば良かったのだ。仕事帰りの時間では、開いている花屋なんてありはしないではないか……

 花束はデスクの隅に寝かせておいた。帰りは終電になる――それまで(しお)れなければいいが。

 

 深夜に帰宅すると、娘は空腹など気にしていないふうで、カーテンレールがどの程度ツルツル動くかを検査する仕事に没頭していた。私はカバンをベッドの上に放ると、バラの花束を剣のようにぶら下げて、娘の背後に立った。娘はこちらに気付かない。

 どうすればいいのか分からない。

 ずっと、ずっと長いこと、こうして立ち続けていた気がする。娘に最後にプレゼントしたのは何年前のことだろう? 何歳の時だっただろう、娘が、クリスマスはおろか、誕生日のプレゼントもお年玉も拒絶するようになったのは? 私は贈り物を買った。一昨年も。その前の年も。しかしいつも勇気が持てず、プレゼントは寝室のクローゼットの奥に封印された。あさましい媚態の残骸は今も箱の中に眠っている。猫の姿の筆箱も、イミテーションのネックレスも、ハート型の腕時計も、なにもかも……

 私は娘のそばにひざまずいた。

 他に方法を知らなかった。だから、私の前で最も鮮やかにやってのけた人のやり方を、そのまま真似ることにした。

 うやうやしく花束を差し出したのだ。騎士が、麗しの姫君にするように。

「受け取ってくれないか。これが私の……気持ちなんだ」

 娘の目のひとつが、私に、向いた。

 娘の手がゆっくりと差し向けられ、花束の真ん中を掴んで、胸元に引き寄せた。意外な器用さでラッピングを解くと、娘は――食べた。少しずつだが。食べた。白いバラを。花びら一枚ずつ、念入りに味を確かめるようにして……

 抱きしめたいと、そのとき思った。

 私の手は無意識に娘の肩に触れた。とたんに棘が刺さり、私は声を上げて飛び退いた。痛みのために涙が湧いてきた。私は救急箱に飛んでいき、既に傷だらけの手に、また一枚の絆創膏を追加した。

 道化師めいたその慌てようを、娘はずっと見ていた。たくさんある目玉のうちのひとつか……ふたつみっつを動員して。

 

 翌日から花屋通いが日課になった。花屋の女性店員はすぐに私の顔を覚え、私の実験に対して、専門家の見地からアドバイスをくれるようになった。娘がなんの花を好むか、という実験だ。観賞用ではなく食用であるなどとは、夢にも思うまいが。

 毎日1種類の花を買い、娘に渡してみる。反応はいろいろだった。スマホにメモをとった。1日に1行ずつ、花の名前とコメントの文が増えていった。

 

 バラ……食いつきは良くない

 あじさい……嫌いらしい

 ヒペリカム(果実)……飛びついて食べた

 菊……見向きもしない

 ひまわり……まあまあ好き

 ジギタリス……むさぼり食う 大当たり

 

 淡い紫色の、ベルのような形をした愛らしい花に、娘はがつがつと食いついた。本当に旨そうに食べる。娘がこの姿になって以来、彼女の気持ちが理解できたことなどただの一度もなかったが――いや、それ以前から、本当に理解できたことなど皆無だったのかもしれないが――少なくとも今、娘が、目の前のごちそうに興奮していることだけは間違いないと思えた。

 あんまり食いっぷりが良いので、こちらまで唾が湧いてきた。

 娘が食い散らかした花がひとつ、私の膝の上に落ちていた。私はそれをつまみ上げ、匂いを嗅ぎ――好奇心に打ち勝てず、ぱくりと口に入れてみた。猛烈に青臭い。紙を噛んでるみたいな歯ざわりだ。しかしほんのり甘味を感じる。なるほど……

 私は、娘の目玉が、うらめしそうに私を見ているのに気付いた。彼女の好物を横取りするのはそれきりにしておいた。

「すまない。明日、また買ってくるよ」

 娘は何も答えなかったが、きっと喜んでくれるに違いない。

 

 だが、その約束は守れなかった。

 深夜、私は猛烈な吐き気で目を覚まし、胃の中のものを勢いよく便器に吐き下した。吐いて、吐いて、胃液一滴残らず吐いて、吐くものがすっかりなくなっても、なお悪心と目眩は止まらず、私は翌日の夕方までずっとトイレでのたうち続け、ついには疲れ果てて気絶してしまった。仕事は無断欠勤になった。花屋に行くどころの騒ぎではなかった。

 ジギタリスが猛毒であることは、後からネットで調べて知った。

 

 夏が終わり、秋が来て、私たちの暮らしは続く。私の精神は徐々に回復しつつあった。花を食べさせるようにして以来、娘の傷口から湧き出す膿の量は確実に少なくなった。最近では1日にひと塊かふた塊、思い出したように床にこぼす程度なのだ。

 会社での立場はそれと反比例して悪化している。みんな、私が毎日夕方に15分の休憩を取ることが我慢ならないようだ。上司から一度たしなめられた。私は労基法を盾にとって反論した。1日1時間の休憩は法律で認められているはずではないか? 上司はそれで黙った。しかし、同僚の心情に対しては、法律の条文もいっさいの効力を持たないようだ。

 花屋の店員には、ある段階で真実を打ち明けた。店員は突拍子もない私の説明を受け入れ、それまでと変わらず親切に相談に乗ってくれた。最近では、娘の好き嫌いの傾向がなんとなく分かり始めたという。事実、彼女が見立ててくれた季節の花々は、娘が気に入る確率が高かった(記録は実に正直だ)。私には相変わらず理解できないが……

 ある休日、私は疲れ、テレビを垂れ流したまま、ぼんやりと昼前の無聊をしのいでいた。ふと、娘が妙に静かに――“ゴソゴソ”も“ガタガタ”もしないで――過ごしていることに気付き、娘の方に目をやった。

 娘はテレビを見ていた。映像に興味を示したのは、彼女がこの姿になって以来はじめてのことだ。

 つまらないローカル情報番組が紹介する、ありふれたコスモス畑の風景に、娘の目は――あらゆる目は――釘付けになっていた。

 娘は身じろぎもしなかった。

 娘を理解できなかった。

 何が良いのだろう。ただ花がたくさんあるだけ。きれいと言われれば、まあきれい。かわいいと言われれば、まあかわいい。とはいえ特筆すべきことでもない。どこにでもある、ありふれた、なんてことのない風景に過ぎない。少なくとも私にとっては。

 だのになぜ、娘はこうも、一面の秋桜(コスモス)に目を奪われているのだろう。

 さっぱり分からなかった。分からなかった、けれど。

 不意に、店主のくれた言葉が蘇った――「分かることは、必要じゃない」

 なら、必要なこととは、なんだろう。

 考えた末、私は娘の背中に声をかけた。

「そこに行ってみるかい? いっしょに……」

 娘は何も言わない。常にそうであるように。

 私は落胆して、ソファベッドに身を横たえた。

 

 翌朝、娘の姿が消えた。

 起きてすぐそのことに気付き、私はゾッとして家中を駆け回った。どこにもいない。狭い家のこと、隠れる場所などありはしないのだ。まさかと思って玄関を確認すると、やはり、鍵が開いている。昨夜確かに閉めたはずだ。つまり()()()のだ。()()()()()()()()

 私は顔面蒼白で部屋を飛び出した。マンションの廊下、階段、踊り場、各階のエレベータホール。マンション中を探して回り、そのどこにも娘の姿がないことを知ると、私はオートロックの玄関にまで辿り着いた。そこで私は、建物の外のアスファルトにこびり付いた新鮮な膿を発見した。あの子だ。外へ出てしまったのだ!!

 私はねじくれる腸の痛みをこらえながら、道路にまで飛び出した。右。左。いない。ひょっとして共用のゴミステーション? やはりいない。私は駐車場に走った。こうなっては、車で街中を探し回るしかない。

 運転席に飛び乗って、エンジンをかけ、ルームミラーを確認したところで、私はついに叫んでしまった。

 娘が後部座席に乗っていた。

 私は後ろに身を乗り出し、口をパクパクさせながら娘を見つめた。娘は素知らぬ顔でシートベルトの金具をいじっている。娘だ。たしかに私の娘だ。とたん、ほっとして、力が抜けて、私は融けるようにシートに沈み込んだ。

 どうして、車の中なんかに?

 それでようやく、私は気付いたのだ。

「花畑……か?」

 娘の眼球が4つ、私に向けられた。

 そうか。

 そうだったのだ。

 娘に私の言葉は通じていた。

 娘はちゃんと聞いていた。いっしょに行こう、と私が誘うのを。

 娘は花畑を楽しみにして……待ちきれなくて……それで車に乗ってしまったのだ。ほんのちょっぴり勇み足で――

 私は拳で涙をぬぐった。

 気持ちが落ち着いたところで、私は自分が寝間着のまま飛び出していたことに気付いた。

「すまない、もう少し待っててくれ。服を着替えてくるよ。

 そうしたら――いっしょに行こう。な……」

 娘は何も言わない。言わなくていい。

 会社は、仮病で有給を取った。

 

 

(つづく)




次回、「4.愛、目覚めの時」は、本日9/22(土)19:04に公開します。
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