平日の朝だからか、コスモス畑はよく空いていた。駐車場に私たち以外の車はたった3台しかなく、そのうち2台は農場スタッフのものと配送業者の軽トラックだったので、まあ、ほぼ貸し切りのようなものだった。
ドアを開けてやると、娘はのそりと車から降りた。甲殻化した足でアスファルトを鳴らしながら、あさっての方向に進んでいく。
「こっちだよ」
と声をかけてやると、娘は振り返った。
そして硬直した。
娘の頭の色が、瞬時に黒く染まるのを、私は見た。一面に広がるコスモスを目にして、彼女の頭部を覆い尽くした眼球という眼球が、いっせいにまるまると瞳孔を開いたのだ。さながら、黒い大輪の花が、数限りなく咲き乱れるかのように。
風が涼しく吹き抜けた。
わた雲がゆっくりと流れていき――稜線の向こうに、消えた。
娘はずっと、花畑の前に立ち尽くしていた。長い間身じろぎひとつしなかった。常に何かをいじり回していなければ気が済まないあの子がだ。頭部の眼球はときどき左右に激しく揺れることがあった。娘が
私は娘の斜め後ろの縁石に腰を下ろし、ただ頭を空っぽにして、彼女の気が済むのを待った。秋風のせいだろうか、揺れるコスモスのせいだろうか、私は妙に感傷的になってしまった。口惜しさとも恋しさともとれる胸の疼きがあった。娘は私の手の届かないところに行きつつある。今はまだ彼女に触れられなくはない。全身余すところなく張り巡らされた拒絶の棘に肌身を裂かれることを許容すれば。だがこの先はどうだろう? いつまでも今のままでいてくれる保証がどこにある――?
突然、娘が振り返った。胸の内を見透かされた気がして、私は震える。
娘はのそのそと車に戻り、来た時と同じ後部座席に身を落ち着けた。
「もういいのか?」
娘は甲殻の隙間に手を突っ込み、残された僅かな地肌をぼりぼりと掻いている。気が済んだらしい。ああして体を掻きながら瞳孔を開いたり絞ったりを繰り返して、目を白黒させているさまも、どこか満足げに見えなくもない。本当のところは分からない。分かりようもない。判断する材料も基準も私にはないのだ。
私はハンドルを握った。もうとっくに昼が過ぎていて、大変に空腹だったので、途中でパンと水を買った。娘には農場で買った生花を渡してみたが、全く興味が湧かないようだった。
ひととき心が通じ合ったように思えたとはいえ、私たちの暮らしが劇的に変わるわけではなかった。相変わらず私は毎日仕事に行き、娘は家で様々なものを撫でたり分解したり味見したり、ベランダで歌ったりすることに没頭した。花屋通いも欠かすことはなかった。そこに時々ふたりで花畑に出かけるというちょっとした非日常が加わりはしたが、概ね何も変わらない。今まで通りだ。
しかし私の胸の内は変わった。この2年抱え続けてきた黒く薄汚い
かつて、ただただ虚しいだけだと決めつけて、すべて腹の底に飲み込んでしまっていた娘への言葉が、今は泉から水の湧き出すように自然に溢れてくる。それに対する娘の行動を反応だとみなしているのは、単に私の勘違いかもしれない。ついに私が狂気に陥り、ただランダムなだけの動きに勝手に意味を見出しているだけかもしれない。それでもいい。私は言葉をかけ続けることにしたのだ。
願いは扉。言葉は鍵。鍵穴に合う鍵が分からなくとも、不断に試行し続けることならできる。
時間が流れた。秋を見送り、冬を過ごし、春を迎えた。
クジャク草……喜ぶ
タカノツメ(観賞用)……ごきげん
ペラルゴニウム……あまり気に入らない
メモは着実に蓄積している。もうじき一年分になる。今年の夏からはもっと娘を喜ばせてやれるだろう。私はもう彼女の嫌いな花と好きな花と、大好きな花とをそれぞれいくつか知っているのだから。次は嫌いな花を避け、去年ウケが良かった花と、まだ試したことのない花を贈ってみよう。ドライフラワー作りにも挑戦してみよう。ベランダに小さな菜園など作るのもいいかもしれない。やり方はよく知らないが……いつもの花屋さんが力になってくれるだろうか?
「コスモスって家で育てられるのかな?」
ふと、去年訪れた花畑のことを思い出し、ソファの上で屈伸運動を続ける娘に話しかけた。娘の屈伸運動は止まらなかったが、反応は顕著だった。コスモスの名を聞いただけで、彼女の目玉は一斉に黒く花開き、期待のまなざしを私のほうに向けたのだ。口からよだれが垂れようとしている。
私は笑った。
「気が早いよ。今から植えたって咲くのは秋だぜ」
娘がいきなり歌いだした。
私は目を丸くしてただ娘の歌を聴いていたが、しばらくして、あっと声を上げた。この歌が娘の
もしそうだとすれば、もう充分に成立しているではないか。私と娘との……会話が。
私は娘の隣に腰を下ろした。娘は立ったまま歌い続けた。どこか異様で、どこか不気味で、しかし比類なく美しい、肌身にそっと染み入ってくるような、そんな歌声だった。
だが、楽しい日々はいともあっさり破綻した。解雇を通告する上司の聞き苦しい一声で。
「来年度は契約更新しないから」
「は?」
ある日の仕事中、給湯室に引っ張り込まれ、そこで私は雑に首を切られた。年俸契約でしかなかった奴隷に下された処断は、正確には解雇ですらない。一年単位の労働契約を自動更新しないというだけのこと。だが契約更新の時期は再来週に迫っており、法に定められた通知の期限をとっくに過ぎているのは間違いなかった。
私は抗議した。震える声で。しかし上司はどこ吹く風だ。
「君ね、クライアントから抗議が来てるんだよ?」
「なんのです?」
「有給なんか取って何してるのかと思ったら、気持ち悪いものを連れて花畑とか行ってるそうじゃないか」
私は絶句した。上司はそれを、
「たまたま居合わせて見たんだと。とても見苦しくて周囲の迷惑になっていたと言ってたよ。あんたに関わりたくないそうだ」
「そんな要求を呑んだんですか……」
「客商売だからなあ」
上司はオフィスの方へ戻っていった。
息が苦しい。
心臓が狂気じみて暴れている。
叫び声が胸の中で弾けて、だが喉が詰まり、音も出せず、私はただただ喘いで、喘ぎながら脳内だけで喚いた。「娘だ」噛み付いた。喰ってかかった。「あの子は私の娘だ」八つ裂きにしてやった。脳髄を殴り散らしてやった。「あの子は私の娘なんだ!!」
だのに、何故。
実際の私は、給湯室の床にへたり込むことしかできないのか。
できやしない。たとえ暴走
私にはどうしても――できないのだ……
心が
だが一体、どうすればいい?
働き口を探そうにも、学歴もなく、蓄えもなく、退職金もなく、失業手当だって数か月遅れで支給されるこの状況で、一体どうしようがある?
私は無意識のうちに、習い性だけで家に帰り、ベッドに吸い込まれて眠った。夢の中に、何か得体の知れない怪物が現れた。それは巨大な蜘蛛のようであり、ナイフのようでいて、その実、焼けるように熱い太陽だった。私は全身を針に突き刺されながら、炙られ、皮膚を炭化させられて、なのになぜか逃れようという気も起らず、漫然と身体を焼かれるに任せた。
どうしてこんなにも苦しんでいるのだろう。
一体どこで生き方を間違え、一体なんの報いを受けているのだろう。
妻を失い、財産を失い、職を失い、心の余裕と健康を失い、平凡な娘との不満足な暮らしという安寧さえ失って、次は何を失おうというのだろう。命だろうか。精神の平衡だろうか。あるいは
ああ、私は
夜半を過ぎて目が覚めた。
まどろみの中に、私は歌声を聞いた。娘の歌だ。物悲しいいつものメロディ。この2年あまり、数限りなく聴かされてきたあの歌だ。
娘が変異を始めたばかりの頃、この歌はただ頭痛を引き起こすだけのものでしかなかった。今は慰めの言葉に聞こえる。心の隙間から不安の精油が搾り取られていくのを感じる。熱い。困惑に安らぎが混じり、懐かしさに好奇心が混じり、体内に抱えている多種多様な心の色が、その表面の殻を溶かして不定形となって渦を巻き、やがて、新たな殻を得て、形作られていく、恐るべき創造の熱量。
これは子守歌なのだろうか。いや、むしろ
――違う!!
猛烈な違和感のために、私は跳ね起きた。
頭が痛い。吐き気がする。手探りにロキソニンを探すも、長く使っていなかった薬はどこにしまい込んだのか、見付からない。呻きながら立ち上がり、リビングに向かった。青い月明かりを浴びて、ベランダのレースカーテンがオウロラのように揺れている。窓が開いている。
「どうしたんだ」
私の問いに、
「なおすよ」
なにを――?
そのとき。
娘が爆発した。
私はそれを見た。確かに見たんだ! 分厚く硬い甲殻に守られた――いや、
愕然とする私の前で、娘は外へ、夜空へ、一歩を踏み出した。マンション3階のベランダから、駐車場のアスファルトにまで脚が届いた。月を背負って娘は立った。その姿はまるで、100㎝足らずの胴体に十数メートルの脚を備えた、歪な異形の巨大な蟹――
娘が歩きだす。
大地が揺れる。
私はへたり込み、ようやく理解した。
娘は化物などでは
今――たった今、彼女は真に
(つづく)
次回、「5.開花爆発」は、本日9/22(土)19:34に公開します。