巨体が月を横切っていく。民家が、マーケットが粉砕される。悲鳴が聞こえ、潰れて消えた。大通りに出た娘は数台の車を蹴散らしながら歩みを進め、道の向かい側のガソリンスタンドを破壊するに至って、大爆発を引き起こした。
「わ!」
爆風が来た。私は情けない叫び声をあげて部屋の中に吹き飛ばされた。窓ガラスは微塵に砕かれ私の左右の壁に突き刺さり、ハリネズミのようになっている。ぞっと背筋に悪寒が走る。私の体にひとつも刺さらなかったのは幸運でしかなかった。あと少し私の立ち位置がずれていれば、今頃私は血の海の中だ。
頭がくらくらする。耳の奥でキンと不愉快な音が響いている。私は叫んだ――「どこへ行くんだ」――私の声が私に聞こえない。世界には静寂と高音のみだ。私は立ち上がった。ふらつきながらベランダに
私はもう、自分が何を望み、何を求め、何を考えて動いているのかさえ分からなくなっていた。不明の衝動にかられて部屋を飛び出した。車のエンジンをかけた。そこらじゅうに散らばった瓦礫を雑に踏み越えながら車を走らせた。幸い、塔のように高い娘の姿は街のどこからでも簡単に見えた。懸命に私は追った。もう追いつけないのかもしれないという不安に苛まれながら、なお少しでも娘のそばに行きたかった。
突然横から車が出てきた。私は反射的にブレーキを踏み、横のブロック塀に車をしたたかに擦り付けて、止まった。
外に出る。怒号が聞こえる。誰かが私を責めている。だが声は遥か遠い宇宙の外から響くようだ。ちっぽけな私の世界、認識範囲が、今や広大な
「あ! 榊さん!」
駅前ロータリーにたどり着いたところで、不意に声をかけられた。振り返った。知った顔だった。花屋の店員、あの親切で愛らしい女性だ。彼女が駆け寄ってくる。私に手を触れて、泣きそうな顔で何か言っている。私にはもう、
「……んです、みんな……歌、聞こえて、ここに来なきゃ」
彼女が私から視線を外し、娘を見上げた。私は気づいていた。彼女の目に、異様な興奮の色がある。私の知る興奮のどれとも違う。寒気を覚えるほど純粋で力強い興奮だ。強いて似ているものを挙げるなら――法悦?
彼女が口元に笑みを浮かべた。
「すてき……すてきな歌……」
――歌?
と。
彼女に、変異の時が訪れた。
甲殻。はじめは甲殻だ。彼女の肌が指先から順に角質化し、棘だらけの甲殻を形成した。内側から衣服が弾ける。膿が一挙に溢れ出す。後ずさり凝視する私の前で、彼女の
不意に聴覚が蘇った。聞こえてくるのは聞こえなければ良かったのにと願うような音ばかりだ。破裂音だ。周囲を見回す。駅前ロータリーを満たす群衆が、あちらで、こちらで、次々に黒い眼球の花を
その中央に、娘は屹然と立っている。ビルを完全に飲み込み、締め上げながらそそり立つさまは、まるで大樹。聖なる神の樹。大いなる幹で天を貫きながら、星空を掴まんと四方に枝を張り巡らせていく――
「何を――」
私は絶叫した。
「何をやってるんだお前は!!」
私は走った。目的もなく、どこをどう走っているのかも分からず、呼吸さえもままならぬままに。なのにどこも花だ。いくつもの花。立ちすくむ花。苦しげに揺れる花。呪いの歌声を上げる花。私は掻き分け、ときに押し退けて、何もいないところを目指した。無機質なコンクリートの壁、明滅するライムライト、蜘蛛の糸。安心する。
私は壁に背を擦りながら、その場に座り込んだ。
一体何が起きたというのだ。
娘が世界を壊している。娘が人を壊している。涙なんて出やしない。出るのは情けない脂汗ばかりだ。あの子のせいなのか? 私のせいなのか? 私が化け物を育て上げてしまったのか?
「それは思い上がりというものさ。誰かが何かをしたから滅びる、なんていうほど、この世は単純にも脆弱にもできてはいないんだ。良きにつけ悪しきにつけね」
私は顔を上げた。
店主が――魔法堂の店主が、私の目の前に立っていた。
いつのまに? などという、当然あるべき疑問さえ浮かばなかった。そこに彼がいるのは当然のことだと思えた。彼の言葉が思い起こされる――“
「“苦しみには価値がある”――そう思いたがるのはひとの悪癖だ。苦しみは苦しみ。価値はない。その他ありとあらゆる
価値は人が作り出すものだ。財産、得点、あるいは精神的充足、そんな尺度を生み出すと同時に、人は価値という概念に囚われた。そしてそれが己の外部にあるものと妄想している。実態は心の目が捉える不確かな幻に過ぎなくとも……」
「何の話を……してるんですか」
「彼女の話。
そして、君自身の話さ」
私は震えた。
恐怖がいまさらになってやってきた。
言葉が私を目覚めさせたのだ。子が欲しいと彼に相談したときもそうだった。私は自分で自分の望みを知らずにいた。いつだってそうなんだ。望みどおりに望みを叶えられないばかりではない、望みどおりに望むことさえかなわない。私にはいつも何も分かっちゃいないんだ。
「彼女は生まれ変わろうとしている」
店主の静かな声が、私の震えを止めた。
「もがき、苦しみ、自らを傷つけ、自らに触れるものさえ傷つけ続けた長い年月の果てに、彼女は
あらゆる矛盾は解消され、全き安寧が天地を満たす。世界は変わる。古きものどもには理解できない在りように。そこに“人間”の居場所はあるまい。人はいっとき花咲き、花吹雪くがごとく死んでいく」
「どういう意味ですか」
「君たちは絶滅するってことさ。
それを止められるのは、おそらく――君だけだ」
「どうして」
「いまさら答えが必要かい?」
ああ。
やっと。
やっと私は、
「私には何もできない。あの子に何をする資格もない。
だって、私は……
あのとき、あなたの店を頼ったあのとき……
私はあの子を、殺そうとしたんだ!!」
それっきり、あたりは静かになった。
悲鳴も破裂音も、もう、ここには届かない。
孤独。
そうとも。孤独で当然なんだ。
かつて抱いた浅はかな殺意の――これが、報いだ。
だが、店主がそばに来て、跪いた。私の肩に手を触れる。
「君の望みは、分かっていた。
でも、思い出してごらん。君はそれを
ちっぽけなひとの力で、世界は変えられないかもしれない。
でも君には――愛するひとを慈しむことができたんだよ」
私は泣いた。ずっと泣いていた。子供のように泣きじゃくり、私自身の砕けた欠片を洗い流していった。今や海綿状の多孔構造になってしまった私の中に、店主の言葉が染み込んでくる。私はそれを飲み込もうとしている。
「さあ、択ぶがいい。幾億万の星々の、揺るぎなき無二のひとつよ。
終わる世界。変わる愛。ままならぬ運命の中で、君は
新しい空気を胸いっぱいに呑み込んで、私は、立ち上がった。
店主が微笑みをくれる。
「行くのかい?」
私も今では微笑みを返すことができた。
「はい。
……親子ですから」
(つづく)
次回、「6.太陽のメガロッパ」(最終回)は、本日9/22(土)20:04に公開します。