私が駆け戻ったとき、駅前ロータリーの奥の噴水広場は異様な興奮に包まれていた。例の黒い花――つまり怪物化した人間たち――が隙間もないほど空間を埋め尽くし、ひとりにつき数十個の目を、一様にある方向に向けて、揺れている。彼らの視線の先には私の娘がいる。今や30階建ての高層ホテルを飲み込むまでに巨大化した私の娘は、長い蟹の脚を四方八方に伸ばしていた。天を衝く大樹。花畑は、それを崇める宗教者の群れ。
つまりこれが、再誕の儀式か。
私はホテルビルに入った。
自動ドアは問題なく動作していたし、エレベータのボタンも反応したが、人間の姿だけが失われていた。代わりにロビーには《花》がいくつも咲いていて、その根本に、飲みかけのコーヒーや取り落としたスマホなどが転がっている。エレベータが来た。私は上に行った。
最上階でドアが開き、私は目の前の光景に息をのんだ。最上階はフロアの半分余りが崩壊しており、柱めいて周囲を囲む蟹の脚の隙間から、星空と月さえ覗いていた。上を見上げた。8本の脚が中央でひとつに集まっている。そこに娘の本体があるはずだ。
私は慎重に瓦礫を避けながら、上へ登れる場所を探した。崩れた鉄筋コンクリートが折り重なって階段状になったところを見つけたが、悪いことに、棘だらけの
私は
多分これは、残骸だ。娘を守っていた甲殻の、抜け殻のようなものなのだ。
こんなものでひるんでいられるか。
私は
私は、進んだ。
なぜって? この先に娘がいるからだ。他に何がある?
血まみれになって進みながら、私は奇妙に冷静に、目の前の状況に分析を加えていた。娘が自身の変異を意図的に引き起こしているのだと仮定すれば、この
誰かとは?
それが私のことだと考えるのは、自惚れだろうか?
「聞こえているかい」
私は坂を登りながら、自分でも気が付かないうちに喋り始めていた。耳元で囁くような小さな声だ。彼女に届くはずはない。だが届くに違いないとも思っていた。それが必然なのだと。
「私はね、正直に言って、ここへ来てもまだ……お前が
お前が何を望んでいるのか、何を考えてるのか、どうしてこんなことをしているのか。ぜんぜん理解できないんだ。
……ずっとそうだったのかもしれない。
私はお前に、幸せになって欲しかった。高校に行って、大学に行って、自立した知性的な女性になって……幸せに生きていって欲しかった。そのためにお前を助けたかった。そして……お前に感謝してもらいたかった……
でも、そんなのみんな……私のわがままだったんだなあ……」
不意に、鞭のようにしなる
「そうだな。怒られて当然だ。今さら何を言ったってな……」
布で傷口を押さえてみたが、とても血を止めることはできそうもない。、結局、片目を固く閉じてそのまま登ることにした。
「赦してくれとは言わない。
お前の赦しを、私が理解できるとも思わない。
もうやめにするよ。
お前を――」
瓦礫の山の頂上に辿り着く。
眼前に娘の身体があった。
「お前を、私の理解できる
私は娘の前に座り込んだ。
もう一歩踏み出す体力さえ残ってはいなかった。どれほどの血を流してしまったかも定かではない。意識が朦朧として、眠気に似た猛烈な憔悴が私を蝕み続けていた。私は腕をだらりと弛緩させ、残った力の全てを首に集中させて、娘を見上げた。辛うじて人型をした甲殻の
棘の甲殻に覆われた娘は、その上からさらなる甲殻の触手に絡めとられ、大樹の中央に磔にされていた。ぐったりとうなだれ、微動だにせず、甲殻の隙間から白い膿を流し続けている娘の姿は、痛々しくもあり、同時に神聖でもあった。
そうだったのだ。これが娘の本当の姿だったのだ。
甲殻はあの子の本体を護ると同時に、あの子をずっと縛り付けていたのだ。
なのに私は、そうとも知らず。
あるいは、薄々感づいていながら。
理解できないということを免罪符にして、ずっとあの子に分かりやすい姿で
胸を落ち着け。
正対して。
「私には、お前が分からない。
だから、
私は、
「私は私の世界で生きる。
お前はお前の世界へ
そして私に見せてくれ。
見たって分からないかもしれない。ついては行けないかもしれない。
それでも! お前が
お前が創ろうとしているものを!
お前の
直後。
閃光が夜を蹂躙した。
私は光耀に呑み込まれ、声なき声で叫び続けた。夢の中と同様だ。身体と精神を焼き尽くされる。魂が黒変し、炭と化していくのが分かる。私の存在が燃えていく。それは世界そのものの死と再誕。私という小さなものが、生まれて、変わり、新たな何かとして形作られていく。
夢の永さと同様に永い炎の時間が過ぎ去った後、私は目覚め、瓦礫の中に転がっている自分を見出した。夜空が朝日に切り裂かれ、蒼と白に澄み切っている。その中に私は、見た。太陽を背負い、太陽そのものよりも眩く輝いているものが、瓦礫の山の頂上に佇んでいたのだ。
ミサキ。
素裸の女性。その肌からは、焼けつくように熱い光が絶えず放たれ、私の目を突き刺すようだ。なんてことだ。なんと神々しいのだ。とても私には言い表せない。彼女の魅力を語るだけの言葉を私は全く持ち合わせていない。美しい。ただただ美しい。完璧な均整だとか、情熱そのものの肉体だとか、そんなことは彼女の輝きの一端をさえ表しえない。
私は堪えがたい衝動に突き動かされ、這いずり寄り、彼女に手を伸ばした。とたん、指先が火炎に包まれ、私は悲鳴を上げて手を引っ込める。
火はすぐに消えた。ミサキは私を見て微笑んでいる。ただそれだけで火傷はすぐに癒えた。いつのまにか
ああ。私の娘であったひと。
比類なく美しい、この世にただひとりのひと。
私は今こそ確かに知った。
もう二度と、彼女に触れることはかなわない。
なぜならミサキは今、真の《太陽》になったのだから――
THE END.
これにて完結です。
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