9:09
天井に張り巡らされた蛍光灯は止まず点滅を繰り返していて、物寂しくも怪しい雰囲気を醸し出している。
ここに来る度にアタシは思う。
なんとも言えない独特の臭気を発しているこの地下駐車場が嫌いだ、と。
思い出したくもない
特に、美優さんの惨状を目撃してしまった今は。
『大丈夫。』
靄がかった声に、騙されてしまいそうになるから。
(きっつい……鼻もげそう……)
鼻をつまんで、こそこそと歩き回る。車は沢山停めてあるが人は誰もいない。
アタシは慣れた不気味さにはさして動揺しない。しかし苛立ちの気持ちがどうにも抑えきれない性分であった。
どうしても病院のエタノールが思い出されてしまって。独り、病室に佇むあの頃を思い出してしまって。
無音の空間に一人分の足音だけが響く。籠ったように反響するところが、ますますあの病棟を連想させて気が散ってしまう。腹がたつ。
『大丈夫だよ。』
何が大丈夫だった……一体何が……
(もう、出よう。人がいないんなら用なんてない。)
燻る気持ち悪さにたまらずアタシは入り口へ足を向ける。無駄に時間を浪費してしまったと判断して。
『私は加蓮ちゃんの___』
アンタのせいで
(違う。忘れろ。こんなものは今、関係無い。)
両手で頭を叩く。出てけ。アタシの頭の中から出てけ。アンタは
階段に着いて、上へと昇っていく。足取りは自然と急ぐカタチになっていた。
……次第に、アタシの頭の中から幽霊は出ていってくれた。
いつの間にか滲んでいた冷や汗を手の甲で拭う。
結局、有益な情報は何も得られなかった。
乱されただけだった。
(……どうにもやはり、美優さんの死に引き摺られてしまう。)
×
私が十三歳の頃。ふわっと記憶していること。ただ一つだけ記憶していること。
お母さんが怒っていました。私に説教をしていました。
悪い事をしたから怒られたのではない筈です。行動もしてないのにどうやって悪事を働くのでしょう。
だからといって、何もしていない事に対して怒られたというのにもなんだか違和感。
他愛もない普通な生活。既に平均を座右の銘にして生きていた私からすると、怒られる理由が全く見当も付きませんでした。
これを記憶しているのも多分そのせいです。訳が分からないんです。悪い事なんてしていないのに怒られたのです。
抜きん出ない。平均。平々凡々。中庸。エトセトラ、エトセトラ。
平和でいるには消極的平等が肝心なんです。
耐え忍び、笑う。これが重要。
まさかこの
実を言うと、私は後にも先にもこの一回しかお叱りを受けていないんです。だから気になるのは当然ですよね?
何度もリフレイン。
そうやってずっと考え続けて幾数年。糸口さえ不明なまま。
(もしかして私、何か忘れてるのかしら……?)
×
9:31
ドームに到着して、直ぐ、俺は外に出た。忌まわしき遊歩道へ歩を進めるためであった。
美優を轢き殺す予定のあの男には勝手なでまかせを用いて退場してもらった。嘘も方便だ。
その後、中に戻った俺は注意をはらいながら周辺の仲間達を観察した。怪しい行動や不明な人相が無いか等。
しかしなんの変哲も見当たらない。驚く程に自然であった。
俺が、浮いているみたいだった。
社員棟へアタシのようなアイドルが入るのには許可証が必要となる。名前の通り、社員の為の職場であるからだ。アイドルが楽々と出入りできる所ではない。
その許可証というものは別に大層ご立派なものではない。ただの紙切れ、切符みたいなものだ。
しかし発行に一日以上かかる。入棟審査とかいうよく分からないやつを経て、それが認可されるまで待たなければならない。
(地下駐車場はもう行きたくない……ので。)
無断で侵入するしかない訳だ。
助かることに社員棟の周りは夏の力で草木が生い茂っていた。隠密に、バレないようにするのは簡単だ。蝉の煩さが足音も消してくれている。よっぽどじゃなければ侵入できる。
(そうして三分前に第一ミッションはクリアした、けれど……)
階段の陰に隠れて様子を見る。人の気配は消える事がない。
(ライブ当日だから、そりゃこうなるか……)
話し合いを絶えず続ける三人の女性、資料片手に奔走する一人の男性、無表情に佇む警備員。どこかからか聞こえてくる電話の音、息をきらす音、怒鳴り散らす音、シュレッダーの音。
できればアタシは初老の男性運転手を捜したかった。最悪、名簿かなにかを盗み見てやるつもりでさえあった。でもこの状況じゃそんな愚行は無理だ。見つかれば締め出される。
(どうにか……どうにかしないと……)
9:42
高垣さんからドームに着いた旨のメールが送られてきた。事務所での確認を早めに切り上げたらしい。時間に大分余裕のある到着だ。
裏手には既に彼女がいた。声をかけると此方に気づいた彼女が手を振ってきた。爛漫たる桜の様な笑顔だ。
側には関係者が数人いて、彼らにも挨拶しながら話を始めようとするが。
「期待してますよ。楓さん。」
「…………あの、」
ちょいちょいと手をこまねく高垣さん。密談をご所望のようだった。しょうがなく一言彼らに謝ってから二人だけでその場から離れる。
「どうしたんですか?」
そう俺が訊くと、彼女はゆっくりとこう言った。
「その、ですね。あの……あそこの彼らの中の___」
「北条さん?何してるの?」
停滞していても意味がないと動き始めた瞬間、声をかけられる。頭の中が白く染まった。人の気配が最小限になったタイミングで移動を試みた結果がこれか。
「い、飯田さん……」
話しかけてきたのはアタシの送迎を担当する運転手の飯田さん。二十代の女性。鋭く睨みつける目が人の優しさを孕んでいない事で有名な人だ。
「あの、なんていうか、」
まずい。アイドルが社員棟に入る時、その情報は事前に伝えられているものだ。無断で許可無しは百パーセントバレるし、言い訳が効かない。しかも彼女は真面目だ。冗談が通じない。詰んだ。追い出される。
「ここは悪戯で侵入していいところではありません。何をしていたんですか。」
「あっと……えと……」
最適な言い分が思いつかない。まさか美優さんが云々なんて言えないし。どうしよ。
と、アタシがうんうん唸っていた横で、飯田さんの隣にいた男性が彼女を宥めだした。
「まあまあ落ち着いて。別にいいじゃないですかこれくらい。」
「でも葛城さん……」
「加蓮ちゃんも悪い事しようとしてここに来たんじゃないんでしょう?」
男性にそう問われる。
「あ、加蓮ちゃんと僕って初対面か。ごめんごめん。誰だこのおっさんって感じだよね。」
「葛城って呼んでくれればいいよ。
「は、初めまして……」
「楓さん。すみません。もう一回お願いします。」
声が微かで聞こえなかったので再度の発言を促す。すると彼女はばつの悪そうな顔をして、申し訳なさそうにこう言った。
「あそこの黒い手袋をした彼は私の運転手じゃないんです。それなのにその振りをしていて、しかもいつもの運転手の方が見当たらない。おかしいんです。
俺は彼女につられて関係者達が集まっているそこに目線を向ける。
彼は帽子をかぶり、黒の手袋をしきりに弄っている。いつもの彼だ。異変を感じはしない。
しかしながら高垣さんがおかしいと言うのなら俺はこれを調べなければならない。
(美優の件を優先したいが、仕方ないか。)
「楓さん、彼を俺の元まで連れてきて下さい。そしたら中で待機を。」
「わ、分かりました。」
×
「どうしましたプロデューサーさん。到着、早すぎましたか。」
高垣さんが連れてきた彼の、はきはきとした声でそう言われる。声質は同じだ。間近からの見てくれも全く同様のものである。
「いえ、飯田さんに話があって。」
「……桜田です。飯田は北条さんの方です。」
引っ掛からないか。
「ああ、すみません。間違えました。」
「いえ。別に構いません。それで?」
「貴方の写真が撮りたくて。いいですかね?」
詳細まで調査するのにうってつけの理由を提示。カバーを外してからスマホを出す。
「良いですよ。」
「ありがとうございます…………はい、ありがとうございます。オッケーです。」
写真をちらと見て、一旦それをしまう。後で確認しよう。
「……終わりですか?」
「ああ。もう一つ。スマホ見せてくれません?」
ここでどうでるか。普通なら見せない。見せたとしても携帯は自分で持っているものだ。だが後ろめたい事を画策する者は逆に見せて潔白を証明しようとする。個人情報の宝庫を他人に一任するのだから。
(これだけで判断を下すのは愚策……しかし判断の手掛かりにはなり得る。)
「……ありません。」
「えっ?」
予想外の応答に空気が抜ける。確かに貴方は五十代ですけど携帯は常備しているものだと考えてましたよ……
「車の中です。取りに行ってきますね。」
「そこまでしな……行っちゃった……」
彼は足早に去っていく。わざわざ取りに行くなんて律儀な人だ。
彼が見えなくなって、考える。
別段、変化した様子は無い。容姿、声質、口調も以前同様。おかしいところなんてなかった。いつもの彼だ。
(高垣さんの意図が分からない……
と、思考途中、加蓮のスマホが揺れる。どうやらメールがきたらしい。タイトルには『プロデューサーへ』と書かれている。
そこには俺が彼女を置いていってから今に至るまでの行動の結果や、美優がどのようにして殺害されたのか等の情報が記されていた。
絶望し、恐怖していた加蓮が美優の為に行動した記録の数々。キツイ状況を忘れ、少し心が温かくなった。
そんな中、俺は目を見張った。温かさは汗と共に蒸発していった。
(葛城さんを初めて知った……!?)
美優の送迎車の運転手を、彼女を殺した相手を、
意味不明だ。加蓮は美優が殺されるのを目撃した、その筈だ。彼女が嘘を吐いたとは考えられない。真実だろう。
それなのに初対面?顔を隠していたのか?
それはない。ドーム周辺に顔を隠した変人がいれば通報は免れられない。ましてやライブ当日だぞ。格好は普通で間違いない。
しかも加蓮は掌を見て《血が》と呟いていたのだ。美優と一緒に移動して、美優が殺された。恐らく犯人は直ぐ近くまで迫っていた。
それで初対面……初対面だと?
(…………待て。なんだこの文は。)
下にスクロールして出てきた一文。
(……ああ、俺は、勘違いをしていたのか。)
そうだ。美優の送迎車の運転手が犯人であると決めつけた理由は全て状況証拠であった。ただ可能性が一番高いというだけで彼を犯人だと決めつけてしまっていた。
(桜田さん、
先程撮影した彼の写真を加蓮に送って、数分後、これとは別のメールが彼女から届いた。確信を得ながらもそれを開く。
「間違いない……か。」
(見つけたぞ、くそったれが……ッ!!)
×
私だけが覚えている。
あの約束の真意も、この謎の答えも。
死や彼の友情の因果でさえも。
全て、私だけが知っている。
プロデューサーである彼が
(設定の見直しをしてたら遅くなりました。)