バタフライエフェクト   作:べれしーと

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嘲笑う声が聴こえる


醜悪と幸福と…… 01

水の打ち付ける音が辺り一面から聞こえてくる。

 

立ち昇る蒸気は熱を帯びていて、まるで俺の心を表しているよう。

 

人の賑わいも夥しく、談笑の声は止む事を知らない。

 

灰色の道は大衆にかき消され、活気に満ちていた。

 

自然豊かな彩りを携えた風景は、晴天に祝福を上げている様にも見える。

 

所々から臭う硫化水素。ほんのりと苔むした岩盤。

 

昔ながらな和のテイストに興奮を抑えられない。

 

「来たぞーっ……温泉!テンション上がるぅ!!」

 

心が俺の横でわちゃわちゃと叫ぶ。煩い。

 

(来ちゃったなぁ……)

 

秋も深まってきた頃、俺は先輩である佐藤心という横暴な女に捕まった。

 

彼女は俺の抗議も聞かず、矢継ぎ早に様々をまくし立てた。

 

四年生だからもう卒業だの、勉強大変だったけど頑張ったから褒めろだの、今も本は読んでいるのかだの。

 

そして、二人きりで温泉旅行に泊まりで行こうとも。

 

卒業旅行とか同輩と行くだろうに、俺とのそれも必要なんですか?と訊くと、ぼっちなんだと返されて。

 

(断れないだろこんなの。)

 

基本的に俺は彼女の戯れ言に応えない。予約したホテルに行った時も、彼女の口は驚くほどによく回っていたのでぬるりと受け流した。

 

今も自分は温泉街にカメラを向けている。心は無視しよう。うん。良心が痛まない程度に。

 

「お?しゅがーはぁとのチェキも撮っとく?」

 

「いりません。」

 

「遠慮すんなって☆」

 

「いりません。」

 

「はいチーズ☆」

 

「ちょっ」

 

俺は最終的に何故か心が座禅している写真を撮っていた。この女の思考はホントに謎。

 

早々にカメラを仕舞い、温泉街を楽しむ事にした俺は、その前に誘われた時からずっと気になっていた事を彼女に訊いてみた。

 

「先輩。」

 

「ん~?」

 

「貴女って男性経験あるんですか?」

 

「ん!?はっ!?!?お、おま!」

 

飲んでいたお茶を噴き出して明らかに動揺を見せるしゅがーはぁとさん。珍しい。新鮮で少し面白いかもしれない。

 

「いや、だって二人きりの旅行はまだしも、泊まりでっていうのは流石にびっくりして。」

 

そう説明すると、彼女は顔を赤くして弁解(?)を始めた。

 

「とっ、友達なんだから良いだろ別に!一泊くらいあるある!……つーか、男性経験とか訊くか普通☆怒るぞ☆」

 

「すいません。焼き鳥あげるんで許して下さい。」

 

「許す。」

 

「はや。」

 

どうやら彼女の怒りは食べ歩きへの情熱に転換されたらしい。助かった。

 

しかしそれも束の間、肥満を心配して情熱を置いてきぼりにした彼女は、再度俺の女性に対する無礼に体を震わせ始める。

 

焦った俺は供物という名の食べ物をまた与えた。因みにたこ焼き。

 

「美味しい。ありがと☆」

 

(ちょっろ。)

 

語弊を恐れず言わせてもらうと、佐藤心は安い女だと思う。そこが気兼ねなく付き合える理由の一つでもあるのだが。

 

その後、同様の繰り返し処理を済ませ、彼女を満腹にさせた。子育ての気持ちを少し理解できた気がする。

 

 

 

 

 

×

 

 

 

 

 

洋に染め上がったホテルの中は閑散としていて、先程まみえた景色との違いに頭が少しクラクラする。

 

自室ではしゃいでいるであろう彼女とは違い、俺は大きなロビーにてゆったりと寛いでいた。

 

荘厳な雰囲気には多少たじろいだが、ふかふかのソファーで脱力しているとそういった緊張は解消されていった。

 

日暮れの空模様、流れる水音、清爽な匂い。リラクゼーション効果は抜群である。

 

(俺の方も結構満喫してるな……)

 

二十歳を超えた大人なのに、内心は未だに子供らしい。友人の存在とは、とても大きなものだ。

 

とはいえ、俺は男。先輩は女。一緒の部屋にでもなっていたら、もしやすると間違いを犯していたかもしれない。

 

あの心の事だからそういう提案をしてこないか一抹の不安を抱いていたが……そんな事は無かった。彼女に貞操観念が一応は具わっていて良かった。

 

(距離が近く、気のおけない関係。俺からすれば、先輩は絶世の美女と称してもいいレベルだ。)

 

どうしても避けがたい問題、それは、異性との友情だろう。

 

一歩踏み間違えれば欲に溺れてしまう。理性と本能の闘争問題。

 

俺達はまだ若い。やり直しは効く。しかし、どうせなら正しいままでいたいものだ。

 

(……心は何を考えて俺を誘ったんだろう。本当に、ただ友情の志向するままに、という事なのか?)

 

この煩悶は温泉に入っている間も続いた。

 

 

 

 

 

「来たぞー☆めちゃかわな乙女が☆」

 

夜も深まってきた時分、彼女は濡れた髪をそのままにして俺の部屋に入ってきた。

 

温泉に入った後だからなのかは知る由も無いが、心は徐に薄着のままチェアに座り、俺の飲みかけである冷えたお酒を口に含んで表情を弛ませた。

 

「強い。」

 

「25度。」

 

「いいね。ちゃんと酔えそう。」

 

先とは打って変わった態度に拍子抜けする。脈絡も無く俺の部屋に突撃してきた割には途端に真面目になって。

 

「どうしたんですか先輩。そんな薄着だと湯冷めしますよ。」

 

「……肌見える方が嬉しいかなって……なんちゃって……えっと、うん。」

 

彼女の発した理解不能な文章に困惑し、俺の脳がそれで支配されている間に無音が訪れる。

 

どういう事だ。

 

心は何を言っている。

 

いや、()()()()()()。恐らくは()()なのだろう。

 

長らく心配していたものが、時間を経てここにやって来てしまったのだ。

 

噛み砕いて、反芻して、思慮に思慮を重ねて漸く納得のいくその答え。

 

ありふれた自分本位の()()

 

(でもそれは、正しいのか?)

 

鼓動が速くなるのを感じる。艶やかな雰囲気に当てられて、まるで酔いが回った様にさえ感じた。

 

酒類には強い筈なのに、テンプレートな覚束なさが俺を襲ってきて抗えない。

 

白く透き通る彼女の肌は、驚くほどに赤く上気して見えた。

 

「旅行って楽しいね。思い出が沢山できたよ。」

 

先輩には似合わない微かな声。言葉の陰では緊張が見え隠れしていた。

 

「あの…………仲良くしてくれて、ありがと。うん。」

 

彼女は落ち着かない様子で何度も足を組み変える。体の前で自分の手を弄って、口をもごもごと動かしてもいた。

 

俺はここで何かを喋るべきなのだが、どうにも勇気が出ない。曖昧な後ろめたさがある。鮮明な困惑がある。

 

思考の陰にはまだ()()がいた。

 

「言いたい事があるから言うね。」

 

そうして、一呼吸。沈黙。鼓動は鳴り止まない。

 

「好きだよ。」

 

「っ……」

 

心臓を握られた。汗が吹き出る。言葉はやはり出ない。

 

俺は心の方を見れなかった。ぐちゃぐちゃの感情が俺の中でぐるぐるしていた。

 

体が重く感じた。自分のものではない心地がした。掴み所の無い重りが、数えきれないくらい繋がっている。

 

好きと言われたのは初めてではない。だから、これが嘘や冷やかしの部類のそれでは無いなんて事は直ぐに分かった。

 

本物の好意を断った経験だって俺にはある。けれども、その時はこんな思いにならなかった。冷静に己の感情を分析出来ていた。

 

状況の違いが俺を焦燥に誘ったとすれば、そんなものは高垣楓に決まっている。

 

その存在が俺を未だに乱していたのだ。

 

(存在が、こびりついて離れない。一人の言葉で俺は二人の女性の笑顔を思い出してしまった。なんて卑しい男なんだ。)

 

目の前にいる彼女はその存在ではない。それなのに俺は思考の陰のそれに取り憑かれていた。誠実さの欠片も無かった。

 

これまでの生活を振り返ると、先輩の好意が如実に表れていた事を再確認できた。

 

それに見て見ぬ振りを決め込み、道化を演じて彼女に接していた俺の軽薄さたるや。

 

(何故俺は彼女に惹かれるように接したのだろうか。)

 

最初から冷徹にしていれば、彼女を傷付けずに済んだのに。こんな最低な塵芥如きに時間を割かずに済んだのに。もっと良い人を好きになっただろうに。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(俺はこれから、幾度も彼女を悲しませる。その(きた)る事実からも目を背けたい。でもそれは無理だ。もう知り合ってしまった。)

 

鉛の体を引き摺って、数分間の静寂に一助していた先輩の顔を見る。逸らしていた目線を、元に。

 

まだ想いはうねっていたが、そろそろ口を開けなければ怪しいだけである。

 

「先輩が……その、そう言ってくれて嬉しいです……でも。」

 

そこまで発言して、気付く。

 

彼女の目はすっかり閉じていた。

 

「んっ……んー……」

 

拍子抜け、唖然。しかし、やんわりと体が軽くなった。落ち着きを取り戻しつつある五感の情報によると、小さな寝息がゆっくり聞こえてくる。

 

どうやら心は酒が回って椅子で寝てしまったらしい。

 

安心感や申し訳無さ、自己嫌悪、懸念。再度、様々な思いが渦巻く。

 

吐き出したくなる。黒くて生温い。

 

彼女が都合良く眠ってくれてよかった。何故なら、俺が断りの宣告をしなくていいのだから。このまま有耶無耶にでもしてしまえば楽だ。あの存在にまた想いを馳せる事が出来て嬉しい。

 

そんな風には考えられなかった。

 

悪辣でいて残酷な感情。

 

飾らない言葉で表現するなら、これはただの移り気でしかなかった。

 

男としての優越感、人としての罪悪感。

 

頭がおかしくなりそうだった。

 

(整理をつけないとダメになる。誘惑に負けてしまう。)

 

なんとか理性を働かして俺は動く。

 

彼女を俺は、恐らく好きではない。

 

それなのに本能はその頽廃を受け入れろと、端的に性欲に負けろと囁いてくる。

 

断らねばならない。

 

でもそうしたら俺達の関係は?

 

取り戻せない。どんな選択肢を選んでも。

 

じゃあ、どうすればいいんだ。おしまいじゃねぇか。

 

持参してきたタオルケットを眠る先輩にそっとかける。

 

そして俺は部屋を出た。

 

夜風に助けを求めるしかなかった。

 

 

 

 

 

×

 

 

 

 

 

俺の記憶は朧気で、その後にあったであろう詳細を思い出すのは難しい。

 

夜の温泉街は美しかった。外で夜を明かして、朝焼けの優雅さに感情が氾濫して泣いた。部屋に戻ると彼女は変わらずそこにいて、しかし昨日の事は全く覚えていなかった。あれは酒と眠気の勢いだったのだと悟った。

 

そんな概略を出す事しか出来ない自分の無能さに辟易する。

 

甘ったるい雰囲気はそれ以降、一度も無かった。彼女はいつも通りの平常運転。俺だけが乱されていた。

 

これは掘り返したくない思い出だ。早く忘れてしまいたい。

 

奇跡的に有耶無耶になったおかげで関係が壊れる事はついぞ無かったが、もしもあの時、選択を誤っていたら。

 

(俺は…………)

 

恐ろしかった。

 

変わるのが嫌だったから。

 

誤って不正解を選ぶのだけは避けたかったのだ。

 

(……不正解?()()()()()が?)

 

ふと、思考の足を止める。

 

俺は何か、自分がおかしい心地がした。

 

僅かながらに畏怖を覚えた。

 

とても気持ちの悪いものが己の奥底でくすぶっている。

 

俺自身の何もかもが突然、詭弁に感じた。

 

納得させる為の甘言に感じた。

 

脳裏に浮かぶエゴイズムという文字列。

 

心の人格を蔑ろにしたという自責。

 

欲に絆されて事を都合良く消化したという不純。

 

(それなら、俺にとって心とは何だ?)

 

 

 

 

 

×

 

 

 

 

 

音響室にて、私は楓さんに言われた通り待機する。

 

この部屋には私を除いて人がいない。全員が出払っていた。

 

私は元々このドームに来る予定だったが、勿論それは音響室に用があったからではない。

 

輝く人達の勇姿を見届ける為、そして加蓮の為に私はここに来た。

 

しかし、学校の補習を迅速に終わらせて到着してみれば、そこは惨憺たる様子だった。

 

「奏ちゃん。」

 

「何これ……楓さん、一体どうしたんですか?」

 

外で暗い顔をしていた彼女に情報を求めた。ただ事では無さそうだった。

 

そうして突き付けられた現実は途徹もなく残酷なもので。

 

(加蓮が……人質……美優さんも。)

 

呆気に取られた。意味を理解したくなかった。だって、彼女達は清廉潔白で、人に恨まれたりするなんて有り得る筈が無い。

 

(どうしてこんな不幸な目に合わなければいけないのか。)

 

事の顛末を反復しながら考える。

 

今も彼女達は怖い思いをしているに違いない。ひたすら頑張って生きてきたお返しがこんな惨たらしい結果だなんて納得出来ない。

 

(可能なら私も手助けしたい。でも、それは無謀。むしろ手間を増やしてしまう。)

 

ジレンマ。私の人生はいつもそうだった。

 

傍観するしかない。友達が死ぬかもしれなくても、動いてはいけない。そうするしかない。

 

私の心は死んでいく。

 

(何でも出来る才能なんていらない。孤高なんて、何も良くない。)

 

密室に独り、うずくまる。

 

悲しいくせに、やはり涙が出る事は無かった。

 

あっという間に時間が経ち、電話が鳴る。

 

楓さんからの着信。前もってしておいた合図。

 

曇った気持ちのまま立ち上がり、一呼吸。

 

私は神様に祈りながら、最大音量で音楽を流した。




実は温泉旅行とか行ったことないです(震え声)

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