轟と吹く風の音で目が覚めた。
背中にはゴツゴツと固い感触を感じる。安らかとは言い難い寝心地で、薄ら目を開けると白と黒のまだらな空模様が目の前に広がっていた。
どうしてこんな所で寝ているのか。状況が理解できず、茫然としている内に一つだけ理解できたことがある。
……外かよ。
雲の流れる様をじっと見つめた。間違いなく外だ。
で、ここはどこだろう?
俺はどうしてこんな所にいるんだっけ?
それは考えるまでもなくとても重要なことだけど、そうは思っても探る気にならなくて。
寝起きの倦怠感に身を任せてじっと空を見つめていると雲に紛れて白い雪が降ってきた。
顔に降る雪はひんやりと肌を冷やす。吐く息は白く、久しぶりに呼吸をした気がした。喉が痛い。
少しの間、なぜこんな所で眠っていたのだろうと考えた。記憶を振り返っても何も出てこない。
いつまでもこんなことしている訳にはいかないと体を起こす。見れば降り積もった雪の中に倒れていた。身体はすっかり凍えている。
一面雪に覆われた場所で大の字に眠っていたらしい。身体に積もった雪を払い落とす。これでよく死ななかったものだと空恐ろしくなった。
「……ここ、どこ」
呟いた声は不思議と掠れていなかった。喉の痛みはそれほど重症ではないようだ。
周囲は見覚えのある様な無い様な場所だった。
いつか来たことがあるかもしれない。まったく思い出せはしないけど。
立ち上がって辺りを見回す。
誰も居ない。何もない。真っ白な平野だ。白い世界がどこまでも続いてる気がした。
風が吹いて、身体が凍える。吹く風の冷たさにようやく気が付いた。
どこに居るか皆目見当もつかないが、少し歩いてみることにした。どの道、ここにいたら凍え死ぬ。
足を踏み出す度にザクザクと雪を踏む音がする。足の裏で雪を踏む感触はなじみ深い。
歩いて過ぎ去っていく風景に既視感がした。この場所はよく見た。そう、夢で。
「夢……?」
ここも夢なのだろうか。
今俺は夢の世界にいるのだろうか。
いつも見る夢じゃない。毛色が違う。いつもはこの風景の中を走ってる。何の目的かは知らないけど、ひたすら走っている。夢と気づいても走るのを止めることはできなかった。
今は自分の意思で歩いている。長いこと同じ夢を見続けているが、こんなヴァリエーションがあったのは知らなかった。それとも単に俺が忘れているだけだろうか。
前へと歩く。走らずに、ゆっくりと。
だと言うのに、いつの間にか鼓動が早くなっている。
視界は少しずつ悪くなっている。いつの間にか10メートル先に何があるのかすら分からなくなっていた。
この先に何が待っているのか。それを考えると少し緊張した。
一際強い風が吹く。粉雪が舞って思わず目を瞑る。風に煽られて束の間息を止めた。
風が止み、恐る恐る目を開ける。目の前は晴れていた。雲の合間に顔を出す太陽が陰気な世界を白く輝かせている。
そして、目の前には壁があった。崖だ。見上げてなお見上げきれない絶壁。雲より高く続いている気がする。途中で見えなくなるので本当のところは分からない。
日本だとこんなの見たことがない。外国にはありそうだが。
「……はあ」
少しがっかりして溜息を吐く。夢の世界の続きが見れるかもと期待していた。そんなわけはないのに。
夢の世界ではこんな崖はなかったな。それだけは分かる。自分の馬鹿さ加減を盛大に自嘲して、崖を見上げて二度目の溜息を吐いた。
ここからどうすればいいのか。
まあ夢なら覚めるのか。覚めるためにはどうすればいいんだろう。死ねばいいのか?
自殺について真剣に悩みだす。
出来る限りあっさりと死ねる方がいいなとか、怖いのは勘弁だなとか。しかしそれ以前の問題で、そもそも死のうにも手段がなかった。
この崖によじ登って飛び降りるぐらいしかできそうにないが、こんな垂直な壁によじ登れるのか。
寒さに手がかじかんでるから、無理じゃないかな。
夢から覚める方法って死ぬ以外に無いものだろうか。考えてもぱっとは思いつかなかった。
「――――何を悩んでいるんですか?」
直ぐ近くから声がした。
自分の世界に没頭していた分、心臓が跳ね上がって声のした方を向く。
崖に沿って露出した岩に水色の髪の女の子が座っていた。見覚えのある顔だ。いつか夢で見た迷子の女の子。
女の子は今まで気づかなかったのが不思議なほど近くにいる。お互い手を伸ばせば届きそうな距離でじっと見ていた。
「あ……」
全く突然のことで言葉は出なかった。頭は真っ白になって、呆けた顔で女の子を見つめる。
女の子は俺を見ながらまた同じことを言った。
「何を悩んでいるんですか?」
「……いや、別に悩んではない」
いつだかの意趣返しだろうか。
そう思って、見栄からだろうか。口から出たのは嘘だった。
それ以上言葉は紡げない。というか質問に答えられる精神状態じゃなかった。まだ心臓がバクバク言ってる。驚き過ぎだと自分でも思う。
「そうですか」
女の子は別にどうでもいいと言ったふうに頷いた。
それにしても、この女の子を見るのは二度目なのだが、相変わらず髪の色は水色だ。
白の雪に水色の髪と言うのが神秘的にマッチしていて、つい不躾な目で見てしまう。
夢だからだろうか。配慮とか遠慮は一切なかった。
「また会ったな。元気してた?」
「ぼちぼちです」
女の子は俺のことを覚えていた。所詮夢なのだから繋がってなくてもおかしくないけど、俺の願望のおかげだろうか。
身体を前後にに揺する女の子は悪戯に笑う。上機嫌だと言うのが見てわかる。誕生日にずっと欲しかったものをプレゼントされた子供みたいだった。
変な夢だと思う。
夢に脈絡なんてないのは知っている。しかし以前見た夢の登場人物が、後日再登場と言うのはあまり聞いたことがない。記憶も持ちこしている辺り随分都合が良い。
夢と言うのは欲望や願望が作り出すと言う話を聞いたことがある。それが正しいのだとすると、こんな可愛いくて小さな女の子が出てきて、あまつさえ会話しているのは俺の欲望の表れということになるのか。
いくらモテないからって妄想で女の子を作り出すのはとんでもないことだ。自分で自分が嫌いになりそう。
自己嫌悪に苛まれる俺のことなど露知らず、女の子はキョロキョロと辺りを見回し重ねて尋ねてきた。
「ここはどこなんでしょうかね」
「しらね。ていうかお前また迷子かよ」
女の子は頷いた。
「迷子です」と答える口調は思いのほかしっかりしてる。二度目ともなれば慣れたのだろう。俺が知らないだけでもっと迷子になってるのかもしれない。
そのおかげか知らないが、その目は好奇心で輝いて見えた。子供っぽい無邪気で知的好奇心溢れる目。
そんな目をしながら、もったいぶった口ぶりで人差し指を左右に振りながら言った。
「突然ですがここは夢の中です」
「知ってる」
大仰に驚かれた。
お前がいる時点でこれは夢以外ないだろ。
「おお、さすが。前の氷像の夢とはずいぶん違う夢ですが、こんな夢をよく見るんですか?」
「似たような夢はよく見るな。こんな夢は初めてだけど」
「ほうほう。ちなみにどんな夢か聞いても?」
根掘り葉掘りと聞いてくる。
今まで夢の内容を誰かに伝えたことはない。
しかしここが夢だからか俺の口は思った以上に軽くなっていた。
「吹雪の中を走ってる。それでよく分からない場所に着いて、そこにいる誰かと言い争う。そんな夢」
女の子は三度頷いている。目を瞑って何かを噛みしめるように深々と。
しかしその目が再度開けられた時には、燦々輝いていた好奇心は露ほども残っていなかった。
一変して氷のように透きとおった眼で俺を見ている。
「その誰かって誰のことなんでしょうねー」
「顔見れたこと無いから分からん」
「それは残念」
言ってくすくすと笑いだす。そこに楽し気な気配はなく、いっそ無感情ともいえる冷たさがあった。
その反応の理由はとても気になるが、所詮は夢だ。聞いても真面な回答が返ってくるはずもないし、目を覚ませば忘れてしまっているかもしれない。
そう思うとあんまり長々喋っているのも無駄か。
「じゃあな」
「おや、どこへ?」
「起きないと」
「ああ」と女の子は得心言ったふうに頷く。
「起きますか。もう少し話していたかったんですが」
「夢の中の一分が現実では何分なんだろうな」
「それはわかりませんね……。今度検証してみます」
夢と現実での時間の流れの差。結局のところ頭の中で起きていることだから、必要とあらば一秒が一年になったりもするのかもしれない。だとしたら検証する労力は無駄と言う他ない。
「じゃあな。また会えるかは知らないけど、もう迷子になるなよ」
「平気ですよ。そろそろ抜けられそうなんです。それと、一つ訂正しましょうか」
別れの挨拶をことごとく無視して、女の子は真面目な顔で俺を見つめている。
俺は夢が終わりかけているのを感じながらその言葉に耳を傾けた。
「またすぐに会えます。具体的には起きてすぐ。お楽しみに」
女の子が手を振るのを見つつ、意識はだんだん暗転していった。
夢が覚める――――。
普段、目が覚める時は何とも言えない気持ちになる物だが、今回ばかりはさっぱりと目が覚めた。
意味の分からない夢だったから、本心ではむしろ覚めるのを心待ちにしていたのだろうか。
実際の所どうだかわからんと、のっそり起き上がる。
夢の中では雪を毛布にしていたが、現実ではしっかり布を毛布に使っていた。
それだけで安心する。あれが夢で良かった。
夢から覚めたばかりとは思えないほど頭が冴えている。
夢の内容もしっかりと思い出せている。あの女の子が出てくると大体覚えているらしい。理由はわからない。
室内を見わたす。よくよく見ると俺はベッドに寝かされていた。けれど見覚えのない部屋だ。
どうしてこんなところにいるのか。京都に修学旅行に訪れていたはずだ。
それで和人の行きたい寺に行った。それで……?
あと少しで思い出せる。すぐここまで出かかってる。
なのに出てこない。何かに引っかかって詰まっている。出てきそうで出てこないのは何とも歯がゆい。
記憶を取り出すのに四苦八苦していると、もぞっとベッド脇で何かが動いた。
そっちに目を向ける。人が寝ていた。
俺が寝ていたベッドに突っ伏すようにして眠っていたらしいその人は、大きな欠伸をして起き上がった。
「ふわぁ……。……あ、おはようございます」
知ってる顔だった。というかついさっき夢の中で見た顔だ。
思い出す。『またすぐに会えます。具体的には起きてすぐ』そんなことを言っていた。
「えぇ……?」
顔が引きつる。あれは夢のはず。
偶然の一致だろうか。そんな奇跡みたいなことあり得るか?
女の子はベッドに頬杖をついて俺を観察している。
猫のように細められた目を見て、偶然じゃないと悟ってしまった。
「どうですか? 予言、あたりましたよ」
「……夢じゃないのか?」
「ふふふ」
悪戯に笑う。小悪魔みたいに。
「私は魔法使いですから、夢ぐらい入り込めるのです」
「冗談だろ」
「冗談は……あまり好きじゃないですねー。たまーに言いますけどねー」
立ち上がって服の裾を叩く女の子は存外背が低かった。
来ている服は神社の巫女が着ているような服装で、余った袖がだぶだぶしている。
神社……。
思い出す。
「霧絵たちはどうなった!?」
全部思い出した。
怪奇現象に遭遇して地面に引き込まれた。あの光景を思い出したら総毛だってしまう。
霧絵も七夏もリュウも和人も、みんな引き込まれかけていたはずだ。
「霧絵たちは!? ていうかここどこだよ!?」
「ああ……まあ、その前に自己紹介しときましょうか」
「そんなことは――――」
どうでもいいと怒鳴りかけた所を、女の子の小さな手に口をふさがれた。
身を乗り出されて、至近距離に女の子の顔がある。こんなにまじまじと女の子の顔を見たのは初めてだ。整った顔立ちだった。思わず言葉を呑んでしまう程の。
「あなたのお友達は4人とも無事ですよ」
子供っぽい語尾を伸ばした喋り方は一転して静かな口調になった。
俺を落ち着かせようとしたのかもしれない。実際俺は落ち着いた。効果は抜群。
「私はリインと言います。この国では魔法使い兼神官みたいな立ち位置ですね。よろしくお願いしますアスカさん」
俺の名前を知っている理由とか、魔法使いとか神官とか、そもそも日本の名前じゃないとか、聞きたいことがいっぱい出てきた。
でも頭がついて行かなかったから、その中で一番聞き逃してはいけないだろう単語を拾って、おうむ返しに繰り返す。
「……国?」
「ここはあなたの居た日本とは違う国です。……と言うか、そもそも世界が違います」
「世界?」
言っている意味が分からない。
頭痛がしてきた。神社からこっち、自分の常識を疑うことが起こりすぎてる。
手……いや、あれはもう忘れよう。思い出すだけで泣きそうになる。
「なんかよくわかんない。寝ていい?」
「今起きたばっかりじゃないですかー」
実はこれも夢かもしれない。修学旅行からここまで全部夢。夢だったらいいな。
「ほら、こっちに窓ありますから。まずはこれ見て現実も見てください」
無理矢理立たされて手を引かれる。
リインの言った通り、部屋の一角に大きな窓があった。
バルコニーになっていて外に出ることができた。
窓を開ければ涼しい風が吹いてきた。
リインに先導されて手すりまで連れてこられる。
手すりの先に広がる光景に目を奪われた。
大きな川に陽の光が反射してキラキラと輝いている。そこを下る舟も、周りに建つレンガ造りの家すら輝いているようだった。小さく人が歩いているのが見え、人の営みが垣間見える。
言ってしまえばそれだけだった。
それを高い場所から見下ろしているだけだった。
けれど、この光景に酷く胸を打たれていた。テレビでしか見れない光景に感動したのか、それとも自分の知らない土地にいることに衝撃を受けたのか。
具体的にどっちだなんて、理由はわからなかったけど。
「これが私たちの国です」
強い風に吹かれて何も言えずに街を見つめていると、すぐ隣にいたリインが口を開いた。
真ん中を通る運河と下る舟。人が行き来できるように多数橋が架かっている。
運河沿いの家はレンガかあるいは石で出来ていて、一軒家ではなく3~4階のマンションが多い。
運河を使った貿易が盛ん。治安ぼちぼちで頑張ってるが、世界情勢がよろしくない。
「と、まあ簡単に言えばこんなところですが」
「……」
つらつらと並べられた言葉を易々呑み込むことは出来なかった。
理解できない現実を突きつけられている。
「ここ、どこだよ……」
「日本ではありません。地球でもありません」
さっき聞いた言葉の意味をようやく理解できた。
日本じゃない違う国。俺の知らない別の世界。それはつまり――――。
「ここは異世界です。この世界を示す呼称はありませんが、この国の名前ならあります」
淡々と述べられる言葉をただ聞くことしかできない。反応なんてできたもんじゃない。
それでもリインは俺のことなどお構いなしに、必要なことを必要だから伝えていると言わんばかりに言葉を連ねる。
「この国の名前はウルトリクス。大国に挟まれた小さな国です」
全身から力が抜けて、手すりに縋り付いて膝をついた。
神社でのことも、目の前に広がっている景色も、内心ではドッキリだと疑っている。でも、その可能性が低いことを頭では分かっていた。
膝をつく俺に、受け入れがたい現実を直視させるリイン。止めを刺すように聞こえてくる声。
「アスカさん。ようこそ、ウルトリクスへ」