小さな女の子がいた。
その子はキレイな銀色の髪を靡かせ、普通の人に比べて耳が幾分尖っている。顔立ちは愛らしく、100人の子供の中に紛れても一目で見つけることが出来るだろう。
少女は今、白銀に輝く雪景色を元気に走り回り、偶に頭から転びながら、それでも楽し気に笑っている。
雪の上をゴロゴロと転がる女の子は、公園で遊ぶ子供たちと何も変わらない。
誰だろうか。耳が長いというただそれだけのことで、あの小さな女の子を忌避するのは。
なぜだろうか。自分の理解の及ばぬ存在だと決めつけ、人の世界から追いやろうとするのは。
『お兄ちゃん!』
小さな体で必死にこっちに向かってくる女の子は俺のすぐ目の前で足を滑らせ転びそうになった。
慌ててその身体を支えてやる。
にへらと羞恥心や安堵、嬉しさがないまぜになった顔を見せる女の子。
『ありがと!』
また雪の上を駆けまわる。
気を抜けばどこか知らない場所へ走って行ってしまいそうな後ろ姿をゆっくり追いかけた。
少し先の盛り上がった丘の上で女の子は振り返り、満面の笑顔で言った。
『お兄ちゃん、また会おうね!』
頭の上で手を振る彼女に、俺は手を振り返した。
また会おう。
そう言った気がする。
白銀に輝く世界で、女の子は駆けまわる。
天に昇る太陽に照らされ、目に映る光景は全てが輝いていた。
丘の向こうへ行ってしまった女の子を追いかけて足を速める。
歩きながら抱いた感情は、まぎれもなく幸福だった。
また会おう。
胸に深く刻んだ約束は、これほどの年月が過ぎようとも記憶の隅にとどまっている。
いつか会えることを信じて、ずっとその時を待ち続けていた。
あと少しで丘の頂上へ辿り着く。
あと少し――――。
起きたとき、俺はベッドに寝ていた。
手を繋いで寝たはずのリインはいない。
自然と喪失感にも似た気持ちを抱く。それは夢から覚めたこととリインが隣にいないことと、どちらの理由で抱いたのか、自分のことながら判然としなかった。
「ここは……」
「起きられましたか」
声のする方を見るとラーヤが立っている。
彼女は手に本の様なものを持っている。
逆の手にはペンを持って、直前まで何か書いていたらしかった。
「ラーヤさん。今何時ですか?」
部屋の中はすっかり明るい。
朝と言うには少し明るすぎる。
随分寝過ごしたようだ。怠惰な生活を送っている。いくら寝ても起こされないとか夢の様だ。
「もうじき昼時です。よく眠られましたね」
皮肉っぽいがどちらでもいい。今はそんなこと気にもしない。そんな気分じゃなかった。
「寝るのが遅かったんです」
「昨晩何かあったようですが、私は聞かされていません。お聞かせいただけるのでしょうか?」
「……」
朝っぱらから考えさせてくれる。いや昼だけど。
ラーヤがリインから何も聞かされていないのなら、それに倣うのが賢明と言う物だろうか。
そもそも何かを説明するにしても、ラーヤは俺のことをどこまで知っているのだろう。口止めしている的なことを言っていた気がする。
「ラーヤさんは、俺のことどこまで知っているんですか?」
「お客様だと聞かされています」
「それだけ?」
「大切なお客様とだけ。他には――――」
そこまで言って、ラーヤは目を伏せて悩む素振りを見せた。
「あくまで噂でしかありませんが、異世界からのお客様であると、荒唐無稽な話も耳に入っています」
「なるほど。リインから具体的な説明は何もないんですね」
「ありません」
ラーヤの瞳は好奇心が渦巻いている。
聞かせてくれるのだろうかと期待が宿っていた。
残念ながら、その期待に応えるつもりは今はまだない。
「部屋から出ていいんですか?」
「今日一日はまだ部屋を出てはならぬと仰せつかっています。ただ、一つ言伝が」
若干失望感を滲ませながら、次の瞬間には切り替えている。
やっぱりこの人は優秀だ。俺なんか及びもつかないぐらい。
「『明日一緒にお出かけしましょう』とリイン様から」
「明日?」
「はい」
わざわざ一日飛ばす理由は何だろう。
昨日のことで忙しいからまた明日ということだろうか。
それは直接聞かねば分かるまい。明日までに会う機会を得られるだろうか。
「昨日の夜たたき起こされてこの部屋に連れられたんですが、ここ誰の部屋ですか?」
「リイン様のお部屋です」
「ああ、そう」
うっすら分かっていたことだ。
今更驚くことでもないが、リインの部屋だと改めて知ると何となく気恥ずかしい。女の子の部屋で何をぐうすか寝てるんだと。
しかしリインの部屋なら夜には帰ってくるだろう。話はその時に出来る。
「起きられますか?」
「ええ」
「では失礼して」
跳ぶようにベッドから起き上がった俺に、ラーヤは着替えを手渡してくれた。
それからベッドのシーツを引き剥がし、手元でつぶさに見ている。
「何してんですか?」
「あ、いえ……その、なんでも……」
声を掛けたら我に返り頬を紅潮させてしまった。
シーツを後ろ手に隠してしまう。もちろんそんなもので隠しきれるものではなく、大部分見えてはいる。
「リインとは何もありませんよ」
「何もと言うのは……」
「セックスとかそういうことは何もしてませんからね」
耳まで真っ赤になったラーヤはコクコク頷く。
皆まで言ってくれるなと必死な様子だった。
「いえ、あの、もし汚れがある場合はシーツだけではなく全部替えなければいけないかなと思っただけでして」
「なら替える必要はありませんので」
「ええ。どうもそのようですね」
ラーヤは照れを隠すため「あはは」と笑った後、しまったと言う顔をして、朝食をお持ちしますと早足に去っていった。
一見あれだけ動揺しながら扉の鍵はきっちり閉めていく。
さて、あれはまた猫かぶりだろうか。それとも素だろうか。俺の頭の中には、無垢な少女然としたラーヤと瀟洒としたラーヤの二人いる。
この世界では本当のことを言ってくれない人が多い。みんな胸に何か隠している。
七夏が恋しい。あいつなら何も隠すことなく暴力で示してくれるのに。
みんなどうしているのだろう。リインは無事と言っていたが、直接見なければ確信はない。
今日は会えないようだ。明日はどうだ。お出かけと言っているから、可能性はありそうだ。明日が待ち遠しく感じてしまう。
一晩経って記憶は整理された。
悩みや難問に当たった時、時間を置くことで解決する場合がある。
狭まった視野が広がることで見落としていたことに気づき、凝り固まった頭がほぐれ、柔軟なアイデアが生まれることがある。
有り体に言えば、昨日は気づかなかったことに気づき、自分の言動を細かく分析することで間違いなどを修正することが出来るのだ。
その考えに則り、俺は昼食を食べながら自問自答を繰り返していた。
昨晩は多くのことがあった。
誘拐され、救われ、囮だったと知り、事情を知った。
リインの話を聞き、囮の経緯を知ったことで、俺はそれを許した。
端的に言えばその程度でしかないのは驚きだ。俺の人生で最大のピンチだったと言うのに。
あの時、俺ははっきりと「許す」と言った。
それは間違いだっただろうか。いや、間違いではなかった。
ならば少なくとも許した態で居なければいけない。
だが本心を言うならば、本気で許したわけではなかった。
許す許さないの判断を棚上げにしたと言うのが正直なところだった。
リインは俺との関係を悪くすることを極端に恐れているようだ。
しかし、それはリインだけではなく俺としても同じことで、リインとの関係を悪化させることはなるべく避けなければいけない。なぜならば、現状俺の知っている限り、俺たちを元の世界に帰すことが出来るのはリインの他に居ないからだ。
リインが今までに語った言葉がどこまで本当なのか疑わしく、嘘をついている可能性は否めない。
もしかしたら、召喚魔法を使える人間はこの世界に数えきれないほどいるのかもしれない。実は帰る方法もすでにあるのかもしれない。
少なくとも隠し事はあるだろう。教えられてないことは山ほどありそうだ。
何が本当で何が嘘なのか。
この城からほとんど出たことの無い俺には、真偽を判断する材料がない。ならば一先ず棚上げするしかない。
俺とリインとの間に信頼関係などない。
あいつの言っていることを一々疑ってかかる時点で、信用も減ったくれもなかった。
だが、あいつが自分の身体を使ってまで信用を回復させようとしたのも事実だ。
俺の信用一つになぜそこまでするのか、これもまた謎ではあるのだが、その行動を否定するわけにはいかない。
だから棚上げ。
真偽を見極めるだけの材料を揃えるまで、信じると言う態で行くことにした。
どちらにせよ信じる以外の選択肢がない以上、内心の矛盾はそう言う形で治めることにした。
思い返しても、この選択に然程悪い点は見つからない。
許さないと態度を頑なにするよりも、聖人よろしくあっさり許すよりも、上っ面は許したと言っておいて、常に疑ってかかる方が先行きよろしかろうと思った次第だ。
馬鹿な頭を振り絞り、及第点ぐらいは取ったと言う所だろうか。
随分頭を使った。今後こういうことがあったとしても、得意な奴にぶん投げるようにしよう。俺は全く持って得意ではない。
「これなんの肉ですか?」
「牛です」
「うし……」
自問自答を終わらせて、目の前の昼食に集中する。
なんだかお高そうな肉切れがあったので聞いてみた。
牛だと言う。牛って牛か。もーもー鳴く奴か。この世界にもいるんだな。
「この野菜は」
「それはニンジンですね」
「赤いですけど」
「ニンジンですよ?」
「ニンジンって橙色の奴じゃないですか?」
「いいえ。ニンジンは赤です」
話していて混乱する。
はてさて。ニンジンは赤かっただろうか。
記憶のそれはまったくオレンジだが、記憶違いの可能性がある。俺の記憶は点で当てにできない。
あるいは、俺が知らないだけで赤いニンジンもあるのかもしれない。パプリカなどは色々な種類があった。
それからは一言も発しないうちに黙々と食べ、ラーヤはやはり何も言わず俺を見ていた。
その視線の痛いこと痛いこと。急かされるようにして、大して味わう暇もなく早々食べ終わり、「早食はお体に悪いですよ」と涼しい顔で注意される。
たかだか食事をするだけなのに、どうしてこんなに尻の座りが悪いのだろう。変な汗をかいてしまいそうだ。
考えた末に一つ思い至ったことがあって、容器を下げようとしているラーヤに問いかけた。
「ラーヤさんはいつ食べてるんですか?」
「はい?」
「昼はいつ食べてるんですか?」
今の質問でラーヤの眉がぴくりと動いた気がする。
表面上は平静そのものだが、何かよからぬことを聞いてしまっただろうか。
「ちゃんといただいてますので。お気になさらず」
「え、いつ?」
ラーヤは困った顔をした。
なかなか言おうとしないのは、何か不味い未来でも予見しているのだろうか。
非情に残念なことに、俺も大体この先の展開は読めている。
「……先ほど、アスカ様のお食事をとりに行った際に食べましたので」
「それつまみ食いじゃ?」
「ちゃ、ちゃんと了承は得てます」
「一口二口ぐらい頬張って、急いで呑んだんでしょう? 早食は身体に悪いんじゃないんですか」
「……確かにそうですが」
「ここで食べたらどうです」
ラーヤは黙ってしまった。
一点を見つめて動かない瞳は、断る理由を探していると言うのが何となく分かる。
「私は召使ですので、お客様と一緒に食事をするのは……」
「俺はそんな偉い身分ではないですし、俺にとってラーヤさんは語学の先生ですよ。上下関係は先生の方が上でしょう」
「お教えしているのは、あくまでお客様のご要望にお答えしたからであって……。そもそもそれは詭弁の類では?」
「心から俺のことを目上だと思ってるなら、詭弁なんて言葉使わないですよね」
ラーヤは再び押し黙った。
出来の悪い生徒は、いつの間にか先生の心の内から主従の関係を消し去っていたらしい。
あのしごき様では無理もない。俺の頭が悪いのがいけないんだ。
「し、しかしですね……」
「リインには俺から許可取っておきます」
「……」
他に逃げ道はあるかな。
いや、別に俺はそこまで真剣に言ってるわけではない。
ただラーヤが昼も食べずに働いているのに、俺は一日食っちゃ寝しているだけなのだ。
病気や怪我と言った理由がるならまだしも、働きもせず飯を食うことの後味の悪さは思っていたよりも苦々しかった。
食べている間じっと見つめてくるのも、別の意味があるのではと邪推してしまう。
出来るならラーヤにはきちんと食べてもらって、その上で休憩も取ってもらいたい。
リインにはその辺り言い含めておこう。
「明日からそうしますか」
「……はあ」
ラーヤは気乗りしなさそうだったが、俺の精神的な安定に必要なので我慢してもらうしかない。
そもそも、こうしてメイドさんにお世話してもらっていること自体に不満を覚えている。
自分で出来ることは全て自分でやりたい。誰かの手を借りるのは必要最小限に済ませたい。
長い居候生活でこういう考えが身に付いた。
独立心が強いのは良いことだから、特に治すつもりもない。
この環境からも早いところ脱したい。あいつらといつになったら合流できるのか。
本当に待ち遠しい。