「うーん」
椅子の上で伸びをする。凝り固まった筋肉が伸びてパキパキと音を鳴る。
しばらく身体を伸ばしたままにした。天井を見上げ、身体の調子を確かめる。珍しいことに、悪いところはどこにもなかった。
そのままじっとする俺を、隣に座るラーヤが胡乱気に見てくる。
視線を向け「なにか?」と聞くと「いえ、何も」と素っ気ない返事。
そうは言いつつも、ちらちら窺ってくるので思わず苦笑した。ラーヤ的にも今の俺は少し違って見えるらしいい。違うと言うか、ただ単に調子が良いと言うだけなのだが。
今の俺は絶好調だ。頭が冴えて目の前のことに集中できる。
考え事一つ取っても、いつもは気もそぞろで足切れトンボに途切れてしまうのに、今日に限ってはいつまでも考えられそうだ。
この世界に来てからと言うもの、以前から悩まされていた夢見の悪さが多少改善したからだろうか。
それも理由の一つかもしれないが、にしては調子が良すぎる。ここまでの物は生まれてこの方記憶にない。今なら100メートル走っても、ギリギリ吐かずに済みそうだ。確率としては五分五分だろう。
「アスカ様、もうよろしいでしょうか」
「まだ何分も休んでませんよ」
「今日は調子がよろしいようなので、今の内に詰め込めればと思いまして」
詰め込み教育をご希望のラーヤさん。
世代は既に脱ゆとりなのだが、そんなものはこの世界の人には一切関係ない。
古き良き教育法と思えば悪い気はしない。16の若造に勉学の良し悪しなんてわかりはしないけど。
「そうですね。でもその前に一つ気になることがあるんですが」
「なんでしょう」
「近くないですか。俺たち」
今、俺たちはラーヤが用意した小さめの机に二人で並んでいる。
元々この部屋にあった大きな机は使っていない。
聞くところによると、リインは使って良いと言ったそうなのだが、普段使いの物を使わせてもらうのは恐れ多いとラーヤが固辞したため、新しく運び込んだらしい。
それも邪魔にならないよう出来る限り小さい机を用意したせいで、いざ使ってみると普通に肩が触れ合う。
ラーヤが俺の手元を覗きこむと距離はほとんどなくなって、すぐ目の前に顔があったりするから心臓に悪い。
そこに匂いとか感触とかも加わって頭が参ってしまいそうになる。
そのせいで、折角絶好調と言って良い体調なのに勉強はあまり捗らない。
「はあ。そうですね」
そのあたりのことを暗に伝えたつもりなのだが、ラーヤはどうでもよいと言う態度。
この距離感を解決する気はサラサラなさそうだった。
「そんなこと気にしてたんですか?」
「思春期の男の子には中々きつくてね」
得心行ったと言うようにラーヤは頷いた。
「年頃ですものね」
「はい。さっき事後シーツで赤くなってた人と同じです」
「あ、あれは違います……。というかやっぱり事後なんですか!?」
ベッドを振り向くラーヤの顔は、何を想像したのか赤く染まっている。
言葉が出ないとでも言う風に、口元がわなわなと震えていた。
「違いますよ。匂い嗅いだんならわかるでしょ?」
「嗅いでません!」
椅子から立ち上がってまで抗弁されると信憑性が疑わしくなる。
なにをそんなに動揺しているのか。
「嗅いでませんよ、嗅いでません、嗅いでませんから!」
「いや、はい。わかりました。落ち着いてください。冗談だって。わかってますよそれぐらい」
声を荒げ肩で息をする。怒涛の勢いだった。
俺の言葉でようやく少し落ち着きを見せるが、キッと睨む視線は依然とこちらを捉えている。
率直に面白い。この人には泣き真似の恨みがある。弱点を突くのに躊躇はない。
「別に嗅いでいようがいなかろうが、気にしませんから」
「嗅いでませんっ!!」
「はいはい」
遊ぶのはこれぐらいにして。
椅子に座り直して隅っこに置いてある本をめくる。まあ……さすがにまだ読めはしないけど。
見覚えのある単語が目に留まる。
夜……月……雨?
辛うじて読めたのはそれぐらい。数日前には何が書いてあるのか考えられなかった。
歩みは遅々として亀よりも鈍足だが、こうして成果はある。
「続きやりましょう」
「嗅いでないのに……」
折角やる気になったのにいつまで言っているのだか。
嗅いでいないのは分かってるし、そもそも嗅いでいようがいなかろううがどうでもいいとも言っている。
そんなに重要なことか。それは。
「やりましょうよ」
「……はい」
恨みがましそう目に肩をすくめて答える。
「冗談ですよ」ともう一度口にして、それでようやく視線は途切れた。
「何がそんなに逆鱗に触れましたか」
「……そう言う所です」
「えぇ?」
「本人に聞いてしまうところです」
後学のためなんだけどなあと嘯く。
そんな俺をラーヤは冷たく見ていた。
あなたのことをもっと知りたいんですと言えば、この目は穏やかになるだろうか。
まあ、言わぬが吉か。実際なんでこんなに睨まれているのかまるで分かりはしないのだから。
日が暮れるにつれて文字が見づらくなっていく。
目と鼻の先まで近づかないと識別も難しくなった。
これはもう明かりが必要だ。
「用意してます」とラーヤが蝋燭を取り出す間、そういえばあれあったなと机を漁り、以前リインが使っていた照明器具を見つけた。
しかし俺には魔力がない。ラーヤさんはどうですかと訊くと、彼女は首を横に振って答えた。
「私も魔法は使えません。魔力はありますが、訓練を受けていません」
「魔力あるなら使えるんじゃないですか。試しに流し込んでみましょうよ」
「壊したらどうするんですか」
とても高価なんですよとラーヤは暗がりの中で分かるほど顔色を青くした。
「おいくらですか?」
「私が頂いている給金三か月分です」
「ふうん」
日本円でいくらぐらいだろう。
メイドさんが平均どれくらい稼ぐのか分からないと何とも言えない。日本だとどんなに低く見積もっても50万円とか? もっと貰えるのだろうか。
50万円もあれば何が買えるだろう。あまり想像できないけど、霧絵の持ってるパソコン3台ぐらい。あんなちっぽけな箱が三つ分と考えると大したことない気もしてくる。いや、間違いなく高いのだけど。
「触るのもよしときましょう」
「賢明です」
ということで、蝋燭を灯して明かりを確保した。
それで折角明るくはなったのだが、どこに置くかで頭を悩ますことになった。狭い机の上に置く訳にもいかず、かといって離れた場所に置くと文字が見えない。結局ラーヤが燭台ごと手に持つ形で落ち着いた。とことん不合理だ。あっちの大きい机使えばいいのに。
「不用意にあの方の私物に触れるわけにはいきませんから」
「なぜ?」
「恐れ多くて」
「あんな奴のどこが」
「滅多なことを言わないでください」
そうは言われても、囮にされて酷い目あわされた恨みがある。
あんな奴でも優しく扱ってる方だ。糞野郎って言ったらさすがに怒られそうだから控えめにしておいた。
「そういえば、ラーヤさんはお腹減らないんですか?」
「特には」
「でも、さっき俺食べるところ羨ましそうに見てたじゃないですか」
「見てません」
「だからあげるって言ったのに」
「見てません」
燭台を目の前に持って来られて、その向こうからじとっと見つめられる。
蝋燭が眩しくて目を逸らした。
「随分お口がお達者ですが、やる気ないんですか?」
「夜ですしね」
「分かりました」
かざしていた燭台を抱えるように膝に置いた後、ラーヤ何も言わなくなった。
じっと椅子に座っている姿は人形のようにも見える。
この沈黙が俺をチクチクと刺してきて、かなり居心地が悪い。
「まあ、暇だからもう少しやりますけど」
「そうですか」
結局そういうことになり、勉強を進めることにした。
ちょくちょく煩悩を刺激されるので決して捗っている訳ではないのだが、やらないよりはやったほうがいい。他にやることもないのだし。
蝋燭の明かりだけを頼りに、それが最初の半分ほどの長さになった頃、今日初めて扉がノックされる。
来客ならば是非とも歓迎したいところだが、そのノックはあまりに荒々しく、返事も待たずに扉が開いた。
「もどりましたよー」
「リイン様!」
どこの荒くれものかと固唾を飲んだのも束の間、登場したのはリインだった。
ほっと息を吐く俺の隣で、ラーヤが慌てて立ち上がる。
リインは駆けよったラーヤを見事に無視して自分の机に歩みより、例の高価な照明器具に明かりを灯した。
無視されたラーヤはと言うと、まるで気にとめずに蝋燭を消す。
「ラーヤちゃん、お疲れ様です。今日はもう休んでください」
リインはラーヤの方を一切見もせずにそう言った。
ラーヤは一礼して部屋を後にしようとして、続いたリインの言葉に一瞬立ち止まる。
「それと申し訳ないですが、明日もお願いします」
「……承知しました」
サッと立ち去ってしまうラーヤ。ぽつんと一人取り残された俺は未練がましく扉を見つめる。
誰か俺を抱え上げてあの扉から連れ出してはくれないだろうか。さながら捕らわれのお姫様のように。
大して知りもしない不機嫌そうな奴と二人っきりで置き去りだ。夢ぐらい見させてほしい。
まあ、今はこの状況をより良くしようとする努力をすべきなのだろう。
「お帰り。遅かったな」
「ですか」
そう言うわけで、なけなしの根性振り絞って話しかけてみたら、ぞんざいな態度そのままスタコラと箪笥を開いてしまう。ごそごそ中を掻きまわし、終いには手あたり次第放り出し始めた。
色々な服が散らかる様を見ながら、戻ってくるなり暴走を始めたリインを止めるべきか悩む。
触らぬ神に祟りなし。不機嫌な奴に関わったら酷い目に遭うのは霧絵と七夏で実証済みだ。
痛いのはこりごりでね。ちょっとこれ止める勇気は持っていない。
事の成り行きを静観する俺の前で、奥の方から白い服を見つけたリインは、次の瞬間にはなんの躊躇もなく服を脱ぎだした。
「おいこら」
慌てて呼び止めるがお構いなく肌を晒け出す。
色白できめ細かそうな肌だった。触り心地は絶対良い。そんな感想を抱く時点でやばい。この後どうなるかわかったものじゃない。
辺りを見回し、手近なところにベッドがあったので、昨晩のリインよろしく布団に潜り込んだ。
「どいつもこいつも羞恥心ないのかよ!」
布団をかぶったままそんなことを叫んだ。我ながら情けない。
布団の中は暖かくてぬくい。答えはないし、何より不機嫌で関わりたくないしで、もうこのまま寝ようか本気で考えた。もし寝るなら枕が必要だ。探し求めて手を動かす。
布団を被ったまま毛虫のようにもぞもぞ蠢いていたところ、突然布団がガバリと剥がれる。
「ひっ」と悲鳴を上げかけた俺の目前、ベッドの傍らに険しい顔をしたリインが立っていて、空いていたスペースに乱暴に寝転がった。俺から剥いだ毛布を一人で身体に巻きつけ、ふんと顔を背けてしまう。
どうやら寝るつもりらしいが部屋は明るいままだ。魔力照明は煌々と部屋を照らし続けている。
「狼藉の限り尽くしたと思ったら、今度は寝るのか?」
「……」
返事はない。
「じゃあ、俺も寝ようかな」
欠伸しながら布団を引っ張ってみる。
きつく体に巻かれていて、お恵みは望むべくもない。
「……お好きに」
「なら暗くしよう。明るいと寝れない」
「……」
要望は無視され、より深く布団に潜り込んでしまう。
これなら明るくないぞとでも言いたいのだろうか。まるで不貞腐れてる子供みたいだ。
「俺が明るいと寝れないんだよ。あれ消してくれよ」
「……」
揺すっても、頼んでも、やっぱり返事はない。
「お前さあ……」
「……」
「構ってほしいんだろ?」
ほんの少しだけ、リインの身体が震えた気がした。
少し待ってみるとのっそり顔を出す。
俺を仰ぎ見るその瞳は、悲し気な色を湛えていた。
「アスカさん」
「んー?」
「ごめんなさい」
謝られたので、何のことか考える。
思いつくものは何もなかった。
「なにが?」
「明日、お出かけは無理そうです」
「あー……」
そう言えば、さっきラーヤに明日もお願いと言っていた。あれはそう言う意味だったのか。
「一応理由は聞いておこうかな」
「うるさいのがいるんです。ひげもじゃのおじさんですけど」
リインも色々しがらみがあるらしい。
傍から見れば結構好き勝手しているように思うのだが、出来ないこともあるようだ。
ひげもじゃのおじさんと言うのが誰のことか、想像が膨らんで気になるところではある。
「そう言うことなら、まあ仕方ない」
「こちらから言ったのに、守れなくてごめんなさい」
「本当に申し訳なく思っているのなら、お詫びを希望したい」
「……聞かせてください」
「霧絵たちに会わせてくれ」
返答は間が空いた。
その間、リインは俺のことをじっと見つめていた。
その目を見つめ返しながら、返事を待った。
「……会って何をするつもりですか?」
「友達の無事を確かめるだけだよ」
「……一度だけなら」
「毎日会いたい」
「それは……」
「リイン」
渋る気配を見せるリイン。
顔を近づけ、心の底から頼み込む。
「頼む。心配なんだ」
「……」
リインの目が左右に惑う。
そこにある感情を読み取ろうとする。嘘か真か、俺の目には恥ずかしがってるように見えた。
「ひ、ひとまず、明日皆さんのお部屋に伺いましょうか……毎日と言うのは考えさせてください事情がありまして……。……あの、近いです……」
押すならば今。直感がそう囁く。押せば行ける。
しかし同時に疑問もある。これは本当に恥ずかしがっているのだろうか。演技ではないのか。昨晩囮にされたばかりなのだ。素直に信じるわけにはいかない。
しかし、仮に演技だったとして一体何の目的があると言うのか……
「……わかった。考えといてくれ」
そう言って顔を離す。途端にリインはほっと息を吐いた。
これを演技とは到底思えないが、しかし俺の目は節穴と評判だ。霧絵も七夏もよくそう言っている。
それを考えるとどうしても踏み込めない。踏み込むべきではない。我ながら警戒している。もう少し信用しているふりをすべきかもしれないが。
色々と考えながら寝返りを打つ。
この瞬間、リインはどんな目で俺を見ているのだろう。それを思いながら目を瞑った。