ようこそ事なかれ主義者の教室へ   作:Sakiru

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テスト準備 Ⅱ

 

 ベッドの上で寝転がりながらとある長編推理小説を読み、犯人が誰かを予想していると、机の上に放置していた携帯端末がブブッと小刻みに振動した。

 オレが現在所持している友達の登録数はとても少なく、それに比例するかのようにメールが届くことも少ない。一番仲が良いと思う椎名(しいな)ですらも、彼女の性格が起因してあまり話さないのが実情だ。

 ……改めて思うけど、オレって友達少ないな……。

 さて、今は夜の九時半。こんな時間に誰が……。いやでも、普通の高校生ならこの時間帯で連絡を取り合うのは当たり前のことなのか……? 世間の常識に疎いオレは、これくらいの事でも頭を悩ませてしまう。

 取り敢えず、携帯端末を手に取り電源を起動させる。

 

『夜遅くにごめんね。(いけ)くん、山内(やまうち)くんからはオッケーでたよー』

 

「おぉ……流石は櫛田(くしだ)だな」

 

 些かショックでもあるが。

 オレが誘った時は即答で拒否したクセに、変わり身がとても早い。まあ、男に誘われるよりかは可愛い女の子に誘われる方が良いに決まっているか。

 

須藤(すどう)くんはまだ迷ってるみたい。バスケ部はテスト週間でも部活やっているそうなんだけど……練習を休んで体が鈍ることを嫌がってるみたいなの』

 

 さらにもう一通のメールが届いた。

 そうなのか、テスト週間に入っても活動がある部活動があるんだな。オレの勝手なイメージを述べるなら、全部活動停止だと思っていた。

 この前部活説明会の際に貰ったパンフレットを確認すると、どうやら、その部活の方針と個人の自由だそうだ。

 須藤の懸念は分かる。一日休むだけで、人は三日程前の状態にポテンシャルが戻ると言われているしな。

 だが、困った。

 脱落候補筆頭の彼には是非とも参加して貰いたい。仕方がない。ここはオレがもう一度声を掛けるとしよう。

 慣れない動作で数字を押し、コール。このドキドキはきっと、いつまで経っても続くんだろうなあ……。

 

「うーす。どうした綾小路(あやのこうじ)、お前が電話掛けてくるなんて初めてだろ」

 

 思い返してみればそうかもしれない。

 

「単刀直入に聞くけど。勉強会参加しないのか?」

 

「櫛田からメール来たのはやっぱりお前の差し金かよ」

 

「まあな。それで、どうするんだ?」

 

「……正直迷ってる。赤点は取りたくないけどよ、けど練習を休んで動かないのは……」

 

 口調から相当な葛藤を感じるな。オレと櫛田の説得で、退学に対して真剣に考えてくれるようになったようだ。

 あと一撃が入れば折れるか?

 

「須藤の心配も納得だ。だったら朝に運動をすれば良い。知ってるか? 朝のジョギングは体に良いらしいぞ」

 

 そんなことをネットの記事で閲覧した気がする。

 

「けどよ……その分、睡眠時間が削れるじゃねぇか」

 

「そこは諦めてくれ。今まで散々居眠りしてきたんだ、そのツケが回ってきたと思えば良い」

 

「けどよ……」

 

「なんだったら、オレもその朝のトレーニングに付き合うぞ。一人よりも二人だ。一緒に頑張ろう」

 

 出来るだけ感情を込めて、オレは須藤に語りかけた。

 端末のスピーカーからは彼の声は聞こえなくなり、その代わり、浅い息遣いが伝わってきた。これで駄目なら仕方がない、奥の手を使うしかないな。

 どれだけ流れただろうか。

 

「お前にここまで言われたんだ──分かった。参加するぜ」

 

「分かった。堀北(ほりきた)に伝えておく。朝トレはいつから始める? オレは明日からでも構わないが……」

 

「それで頼む。朝の五時半に寮のエントランスに集合、それで良いか?」

 

「ああ、了解だ。じゃあ、また明日」

 

「おう!」

 

 回線を切り、オレは勝利の余韻にしばらく浸った。これでオレのミッションはコンプリートだ。

 櫛田に須藤の件はオレが片付けたこと、池と山内を上手く釣ってくれたことに関するお礼のメールを送信。

 

『凄いね、綾小路くん! 須藤くんを参加させるだなんて……いったい何をやったの?』

 

『青春を作ろうと言ったら賛同してくれたんだ』

 

『青春?』

 

 嘘ではない。早朝の涼しい時間に友人と仲良く体を動かす。うん、青春だな。

 櫛田とのやり取りを終わらせ、今度は堀北宛てに文字を打ち、メールを送信する。

 

「良し、明日に備えてジャージの準備でもするか」

 

 この一ヶ月、体育の授業は全て水泳に割り当てられていた。おっさん先生の体を張った指導のおかげで、Dクラスの生徒全員が五十メートル泳げるようになり、また現在は二十分間泳の時間になっている。

 そのため、入学前に購入したジャージに袖を通す機会にはまだ遭遇していない。ちなみに高度育成高等学校の制服は赤色が主になっており、また、ジャージも赤と白の二色によって構成されている。

 箪笥を開けようと動こうとしたその時、堀北からメール……ではなく、電話が掛かってきた。

 おめでとう堀北。お前は栄誉を得たぞ。オレが初めて異性と電話した相手という栄誉だ。

 

「もしもし、どうした──」

 

「嫌よ」

 

 ブツンッ! 一方的に切られてしまった。……さてどうしたもんか。堀北が何を嫌がっているか、それが分からないわけでは決してない。だがな……。

 嘆息してからリコール。回線は一コール、二コール、三コール……十コール目でようやく繋がった。

 

「……」

 

「堀北?」

 

「…………」

 

 まさかの返答なし。画面を確認するが、電話はまだ続いていることを示唆していた。

 話を聞く姿勢はまだある判断する。

 

「言いたいことは分かるつもりだ。お前が嫌いな櫛田の参加についてのことだろうが、確かに主催者のお前に聞かなかったのはオレの落ち度だ。それは認める。悪かった」

 

 数秒の沈黙。

 

「…………理由を聞いても良いかしら?」

 

「オレが誘うよりも櫛田が誘った方が効果があると思ったからだ。実際、池と山内は彼女が誘ったから取り敢えずは来てくれるようになった」

 

「それは……そうかもしれないけれど……綾小路くん、私はそんなこと許可していないわ」

 

「確かに許可は受けてない。だがな堀北、お前はオレに頼む時、手段を限定しなかった。違うか?」

 

「……」

 

「何度も言うが、お前の気持ちは分かっているつもりだ」

 

「だったらどうして──」

 

 勝手な行動をしたのか、そのような言葉が出されるその前に、オレは強引に口を挟む。

 

「Aクラスに上がるためには、赤点者を出してはならない。堀北。これはオレの意見だ、全てを受け入れろとは言わない。だが、もしお前が本当に行きたいのなら──一旦私情は捨てろ。じゃないと何も出来ない」

 

「…………分かったわよ。櫛田さんには今度お礼を言うわ。けれど、彼女が勉強会そのものに参加することを、私は認めない」

 

「いや、だから。オレの話を聞いていたか? それが櫛田が出した条件なんだよ」

 

「それはあなたが勝手に約束したことよ。私が守る義理はない。それに、彼女は前回の小テストで高得点を取っていた。私が勉強会を開く理由は、赤点候補者を救済するためよ。彼女は当てはまらない」

 

 一応筋は通っている。しかしながらオレは、堀北が全てをさらけ出しているとはどうしても考えられなかった。

 彼女が櫛田のことが嫌いなのは何度も言うが分かっている。人の交友関係に兎や角口を挟む程、オレは愚かでは無い。

 だがオレは彼女が拒絶している女性と約束を交わしている。そして、オレの優先順位は既にこれが上回っている。

 それならまずは、約束を果たすことを先決にしなくてはならない。

 

「なら堀北、一回だ。一回だけ、勉強会に櫛田を参加させてやってくれ。彼女は多分、お前に力を貸してくれるはずだ。一人で三人を見るのは効率が悪いだろう?」

 

「やけに彼女の力になろうとするのね」

 

 そう思われても仕方がないのかもしれない。

 

「どう思おうが勝手だが、兎に角頼む。その一回でどうしても無理だと判断したら、櫛田も今回のこの一件に、これ以上は首を挟まないはずだ」

 

「首を挟む余地を与えたのはあなたの失策だけれど……分かったわ。今回だけは妥協してあげる。けれど、彼女は不要だと判断したその時は容赦なく切り捨てるから」

 

「ああ、それで問題ない。じゃあまた明日な」

 

「ええ」

 

 通話を切る。堀北はなまじ頭が良いから、丸め込むのにとても苦労するな……。

 櫛田に再度メール送信。堀北が参加を不承不承ながらも認めたこと、次回以降も参加するつもりなら最初の一回で自分の存在価値を知らしめることが必要になること。

 先程とは違い、既読はすぐに付かなかった。女の子は忙しいのだろう。

 気付けば時計の針は十の数字を刺そうとしていた。

 目覚まし時計のアラームを早朝の五時に設定し、携帯端末も充電器に挿す。ジャージ、そしてインナーとして体操服を机の上に置いたオレは、明日からの新しい行事に備え、眠ることにした。

 

 

 

§

 

 

 

 翌日の早朝。五時二十五分、寮のエントランス。

 設けられているソファーでボーっとしていると、エレベーターが一階に降りてきた証として、黄色いランプが点滅した。

 中からジャージ姿の須藤が現れ、「よう」と軽く声を掛けてくる。オレも軽く手を挙げることでそれに応えた。

 

「正直意外だぞ。てっきり遅刻するもんだと思っていたからな」

 

「おいおい、俺だってやっていいことと悪いことの分別はついているぜ。それに体を動かすことは好きだからな」

 

 好きだからこそ、須藤はどこまでも真摯にバスケットに向き合えるのだろう。

 羨ましい、と思う。

 ──オレもいつか、そうなれるのだろうか。何かに心の底から向き合えるだろうか。

 雑談しながら寮から出ると、ひんやりとした冷気が襲いかかってきた。

 無理もない、太陽が辛うじて東の空に見える時間帯だからな。

 

「今日はどれくらい走るつもりだ?」

 

 試しに聞いてみると、須藤は少し迷いながら。

 

「そうだな……今日は最初だから、一時間くらいにしようぜ。いけそうか?」

 

「多分、な」

 

「おいおい……」

 

 俺の返事に頼りなさを感じたのか、須藤は苦笑いを浮かべる。これで勉強が人並に出来たら平田(ひらた)みたいにモテるだろうに……勿体ない。

 準備運動をしっかりとして、筋肉を(ほぐ)した後、オレたちは走り始めた。

 思えば、走るという動作をするのは随分と久し振りな気がする。

 呼吸を小刻みにやりながら、両手両足を動かす。あくまでもジョギングだから息を荒らげることはない。

 並走している須藤は流石と言うべきか、フォームがしっかりとした形になっていて驚きものだ。

 一ヶ月前に行われた水泳の授業での競泳で、彼は二位の成績を収めている。一位の高円寺(こうえんじ)とは確かな差があったが、このまま自分を磨き続ければその差をなくす事も可能かもしれない。

 一歩足を動かす度に感じる、コンクリートの固い感触。足音が反響し、とても心地よい。

 目まぐるしい変わる景色に、ゆっくりと……けれど着実に昇っていく太陽。

 一時間達成まで、残り十分。

 

「走るぜ」

 

「分かった」

 

 ジョギングからランニングに切り替えた須藤が加速する。そしてすぐにトップスピードになり、彼の背中がどんどんと遠のいていく。

 オレもまた彼を追うべく足の回転率を上げ、両手を大きく振った。

 風を感じる、陽の光を背中に浴びる。

 オレが思い描いていた学校生活。それを今、オレは体感しているのかもしれない。

 

 

 

 寮の前では須藤がオレのことを待ってくれていた。

 お互いに汗を大量にかいているが、とても清々しい思いで一杯だったから、気にもしなかった。

 自動販売機で無料のミネラルウォーターを二人分買い、彼に放り投げる。

 

「ありがとよ」

 

「無料だけどな。それにしても……凄いな、須藤は。疲れているようには全然見えないぞ。オレは立っているのがやっとなのに」

 

 素直に褒めると、須藤は照れ臭そうに頭をガリガリと掻いた後、少しばかり呆れた様子になる。

 

「当たり前だ。バスケは常に走るスポーツだからな、足を止めるなんて言語道断だ」

 

「部活は楽しいか?」

 

「おうっ。三年の先輩が俺を気に掛けてくれていてな、いつも面倒を見てもらってんだ」

 

 期待の新人ってところか。それも当たり前かもしれないな。なにせ、たった一ヶ月弱で彼は一年生ながら一軍の練習を受けているのだから。

 同級生は内心嫉妬で荒れているだろうが、実力至上主義のこの学校ではそれも意味をなさないだろう。いやそれ以前に、体育会系の世界だったらそれが当たり前かもしれない。

 

「レギュラー入りも近いんじゃないか?」

 

「どうだろうな。まっ、そうかもしんねぇな」

 

 誇りもせず、事実をありのままに伝えて須藤。そんな彼にオレは、好感を覚える。本当にバスケットになると、彼の印象は随分と変わってくるものだ。

 Dクラスの生徒の殆どは、彼のことを馬鹿だと思っている。実際オレも、彼のことをそのように思うことは多々あった。

 だが彼のこの努力を知ったら、少しはその評価も変わるかもしれない。

 

 

 

 

§

 

 

 

 堀北は終始無言だった。

 朝の挨拶をしても無言。休み時間に声を掛けても無言。昼飯を一緒に食べようと声を掛けた時は流石にお断りの返事を頂いたが、それでも「嫌」という最早文すら成り立っていない単語だけだった。

 これで頬を膨らませたり、あるいはいっそのこと暴力でも振るわれたら対処のしようがあったのだが……。

 トラウマになりそうだなと他人事のように考えながら、長い長い一日を終え、ようやく放課後に入った。

 

「あなたは参加するのかしら?」

 

「ああ、今日だけだけどな。お前もその方が良いだろ」

 

「そうね。私が先に図書館に行って席を取っておくから、あなたは赤点組と一緒に来なさい」

 

「おいおい、櫛田を忘れるなよ」

 

 堀北はオレの言葉に耳を傾けることなく、それはもうそそくさと立ち去っていく。一つだけため息を零してしまったオレは悪くないだろう。

 友達と何やら談笑している櫛田にアイコンタクトを取ると、可愛いウインクで「分かっているよ」と返された。池や山内が直視したら感激のあまり天に召されそうな、そんな破壊力があった。

 

「池くん、山内くん、須藤くん! 昨日メールで送ったけど、勉強会やるから図書館に一緒に行こう?」

 

「「もちろんだぜ」」 「ああ」

 

 頷く三バカトリオ。

 オレも彼らと合流して、図書館に向かうことにした。

 

「俺さ、図書館に行くの初めてなんだよな」

 

「俺も。須藤は?」

 

「俺もだな。つうか、娯楽施設も行ったことあんまねぇ」

 

「須藤〜! 高校生活の九割をお前は失ってるぞ!」

 

 そこまで言うか。

 だが、言われてみればそうかもしれない。少なくとも一般的な学生だったら友達と買い物に行ったり、ゲームセンターで交友を深めているのだろう。

 

「綾小路くんはどうなの? 私、放課後や休日に綾小路くんを外で見たことがなかったから気になって」

 

 黙って後ろを付いているオレを心配してか、櫛田がさり気なくを装ってそう聞いてきた。

 この辺りが彼女が人気な理由の一つなのだろう。本質がぼっちの人間にも気付き、独りの状況をなるべく作らせない手腕は、見事と言うしかない。

 そして何よりも、彼女はぼっちの性質を良く理解している。だからこそいつも会話に入れようとはしないで、本当に必要な時だけ声を掛けてくれるのだ。

 

「大体は図書館か寮で過ごしているな」

 

「そんでお前は美少女と逢引(あいびき)してんだろ?」

 

 池が心底羨ましそうにそう言ってくる。肘で頬をグリグリしてきて、それだけを見ていれば男のじゃれあいですむが、目がかなりガチだ。

 これでオレが椎名ではなく、彼の想い人と逢引していたら、冗談抜きで殺されていたかもしれない。

 

「ま、待って……!」

 

 図書館への長い道のりを旅人と共に歩いていると、背後から控えめな声が飛ばされた。

 誰だと思い振り返ると、そこには一人の男子生徒が立っていた。沖谷(おきたに)という、Dクラスの生徒だ。

 彼はオレたちを走って追いかけてきたのか、息が乱れていた。

 

「沖谷くん、私たちに何か用かな?」

 

 沖谷が落ち着くのを見計らい、櫛田が代表して優しく尋ねる。

 

「その、堀北さんが勉強会を開くって聞いて……。参加したいなって思って……」

 

「赤点取ってたっけか?」

 

「あっ、う、うんそうなんだけど……。その、テストなんだけど……かなり危なかったから……駄目、だったかな? 平田(ひらた)くんの所は入りにくくて……」

 

 可愛く頬を染めて、沖谷はオレたちの顔色を窺ってくる。櫛田とは一味違う可愛らしさだ。だが残念なことに男だ。

 華奢(きゃしゃ)な体付きに、青髪のショートボブ。女子免疫のない男子だったら、彼を彼女と勘違いしてコロッと堕ちているかもしれない。男だったらオレも危なかった。

 

「うぅーん、私が開くわけじゃないから断定は出来ないけど……」

 

 櫛田はちらりとオレに視線を寄越してくる。今度はオレが口を開いた。

 

「多分大丈夫だと思うぞ。なんだったら、オレが堀北に掛け合うから」

 

「うんっ。ありがとう、綾小路くんっ」

 

 沖谷が男で本当に良かった。きっと彼はこの先、Dクラスのペット枠として収まるだろう。本人の意思は関係なく。

 図書館に入ると、館内は喧騒さに包まれていた。とはいえ、バカ笑いしているわけではない。訪問者たちは皆、勉強会を開いているのだ。

 堀北は長机の一角を場所取りしてくれていた。

 読んでいた参考者から目を上げた彼女は、一人来訪者が増えていることに目敏く気付く。

 

「沖谷が参加しても大丈夫か?」

 

 オレが堀北にそう聞くと、彼女はオレの背中に隠れている沖谷を一瞥(いちべつ)する。彼が上げた小さな悲鳴を、オレだけが聞くことが出来た。

 

「沖谷くん。この前の小テスト、何点だったか教えて貰っても構わないかしら」

 

 流石の堀北も沖谷だけは例外なのか。いつもとはちょっとだけ口調を柔らかくする。

 

「さ、三十九点です……」

 

「備えあれば(うれ)いなし、勉強しすぎて困ることはない。良いわ、参加を認めましょう。ただし、やるからには真面目にやって貰うわ」

 

「も、もちろんだよっ」

 

 沖谷はぎこちなくはにかみ、椅子を引いて腰掛ける。そしてスクールバッグから勉強道具を取り出し、意欲があることを示した。

 須藤や池、山内、オレもそれぞれ自分が気に入った所に腰掛ける。堀北の目の前には座ったのは須藤だった。

 どうやら、一応はやる気があるらしい。勉強がこの中で一番嫌いな彼がどうして心変わりしたのか、その理由は分からない。けれど良いことだ。

 人間とは周りに流される生き物だ。池や山内も教科書とノートを取り出し、早速睨み合いを開始する。

 ──何とかなりそうだな。

 しかしオレは忘れていた。まだ問題が残っていることを。

 櫛田だ。昨日の電話では堀北は不承不承ながらも、彼女の参加を認めた。

 だがそれは櫛田がその場に居なかった、という意味合いも大きい。理性では分かっていても、本能に従ってしまうことも十二分に有り得る。

 

「あなたも座ったら」

 

「その……ごめんね、堀北さん。無理を言って……」

 

「私はあなたの参加を認めた。けれどこの最初だけよ。あなたがこの勉強会で役に立たないと私が判断したら、次回からは来ないで頂戴」

 

「はあ!? 何だよそれ、そんなの聞いてないぜ! どういうことだよ堀北!」

 

 池が握っていたシャープペンシルを放り投げて、堀北に詰問する。山内も同様だ。彼らがこの勉強会に参加している最大の理由は、大好きな櫛田の存在がとても大きい。当然、次回から彼女が参加しない、なんてことになったらやる気が削られてしまうだろう。

 須藤と沖谷は教科書にこそ目を通しているが、明らかに集中出来ていない。無理もないか。

 

「池くん。これは私と櫛田さんの約束なの」

 

そうよね? 堀北は櫛田に確認を取る。頷く櫛田。

 

「うん、堀北さんの言う通りだよ。だから池くん、落ち着いて。それに私──次回からも参加したいから、この時間で存在意義を証明するよ」

 

「く、櫛田ちゃん……!」

 

 さめざめと感動の涙を流す池。見れば、山内もそうだ。相変わらず仲が良いな。

 

「櫛田さん、あなたは池くんと山内の面倒を見て頂戴。その方が効率が良い。私は沖谷くんと須藤くんを見るから」

 

 うーわ、堀北の奴、ここぞとばかりに櫛田をこき使う気満々だな。

 散々あなたは必要ないと口に出していたのにも拘らず、この仕打ちだ。性格が悪いこと悪いこと。

 

「うん、任せてっ」

 

 けれど櫛田は嫌な顔せず笑顔で頷いた。可愛い。

 兎にも角にも、勉強会スタートだ。この場に居る全員が、赤点を防ぐために決意した。

 

「三十二点未満は赤点って言ってたよな。未満ってことはよ、三十二は含むのか?」

 

「須藤。俺が言えることじゃないけどさ……お前、よくこの学校に受かったな」

 

 小テストでワースト二位の点数を取った池にまで心配されるとは、中々ないことだ。

 でも実際彼の指摘は正しい。せめて未満や以下、以上といった最低限のことは知ってて貰いたい。

 

「どちらでも関係ないわ。最初に言っておくわね。この場に居る生徒全員には、全教科五十点を目指して貰うつもりだから」

 

 全教科五十点。

 口で言うのは簡単だが、果たして取れるかどうか……。皆、一様に暗い表情を浮かべる。

 

「ご、五十点……。うぅ……取れるかな?」

 

「取れるかな、じゃないの沖谷くん。ちゃんと理由もある。まずだけど、赤点ラインをギリギリで狙うのはとてもリスクが伴って危険よ。そうね……四十五点。四十五点取れば、赤点扱いにはならないはず」

 

 ハードルが下がったことに、今度は顔を輝かせた。

 堀北も上手い。敢えてハードルを下げてみせることで、生徒たちのやる気を引き出すことに成功した。

 たった五点の落差。されど五教科で考えるとトータル二十五点だ。これはとても大きい。

 

「テスト範囲の絞り込みをしたわ。今からプリントを配布するから、まずはこれをやってみて。暗記科目の社会は分からなくなったら自分で教科書を引きなさい。自分で調べることによって、確実に情報が上書きされていくから。反対に、数学、英語、理科はすぐに私か櫛田さんに聞いて。ああそれと、見栄(みえ)を張る必要はないから」

 

 ──最後の一言が無かったら文句なしだったんだけどなあ……。

 

「国語はどうすんだ?」

 

「国語は取り敢えず何か書きなさい。特に、文章問題は必ずよ。国語は部分点がとても多く、さらに答え方によっては得点が貰えるチャンスが多い。だから反復練習よ」

 

 各々、配られたプリントと向き合う。内容は基礎が分かれば簡単に解ける問題が比較的割合を占めていたが、須藤たちにとってはその基礎が出来ていないから充分に強敵だろう。

 

「分かんね……」

 

 須藤が呻く。覗いてみれば、第一問目で躓いているようだった。

 最初の教科は数学。オレも目を通してみる。

 

『以下の問いに答えよ。

 A、B、Cの三人のお金の合計は2150円で、AはBよりも120円多く持っています。また、Cが持っているお金を五分の二をBに渡すと、BはAよりも220円多くお金を持つことになります。Aははじめ、幾ら持っていましたか?』

 

 それは連立方程式の問題だった。連立方程式自体は中学時代に基礎は習っているが、実践するのは高校一年生からだ。

 堀北は良いチョイスをしたと言える。

 

「須藤くん。数学の問題を解く時に必要なのは何だと思う?」

 

「……応用力じゃねぇか?」

 

 それは決して、間違いではないだろう。確かに応用力……こと数学に於いて、柔軟な発想力はある程度必要になる。

 だが堀北は首を横に振ってから。

 

「いいえ違うわ。改めて聞くけれど、何だと思う?」

 

「…………公式、だったか? それを覚えることか?」

 

 惜しいな。確かにそれも必要だ。公式を覚えることによって──ただ覚えるだけでなく、その公式が成り立つ意味を理解することが最も望ましいが──ようやくスタートラインに立てるのも事実だ。

 けれど堀北は再度首を横に振る。

 

「いいえ、それも違う。答えは──文章を噛み砕く冷静さよ。まぁこれは、どの教科にも当てはまるわね」

 

「堀北。もうちょっと分かりやすく頼む。須藤の頭はもうパンク寸前だ」

 

「ンなことねぇよ」

 

 須藤が小突(こづ)いてきた。それを軽くいなしつつ、堀北にアイコンタクトを送り、授業を再開させる。

 

「文章が多いと、文字を読むことに長けていない人間は流し読み……もっと悪いと読もうとすらしない。けれど良くよく読んでみて。まずは必要ない情報を削りなさい」

 

「このA、B、Cって数字がいらないのか?」

 

「いいえ違う。聞かれていることは、『Aの最初の金額』。よってこれは必要よ」

 

「そもそも何でアルファベットなんだよ……」

 

「その方が分かりやすいからよ。このアルファベットで、対象を簡略化している。例えば、『堀北鈴音が──』なんていちいち書いていたら面倒でしょう?」

 

「おぉ……! 確かにそうだな」

 

「堀北さん、これで合ってるかな……?」

 

 堀北が須藤に説明している間に、沖谷が問題を解いたようだ。彼女は一旦須藤から目を離し、別の生徒から答案を受け取る。

 

「惜しいわね。途中式は全て合っているけれど、答えだけが違う。沖谷くん。問題を解いた後は確認しなさい。それだけでケアレスミスが大幅に減るわ」

 

「は、はい……!」

 

 堀北グループは意外なことにとても順調だ。

 てっきりオレは、須藤が開始早々シャープペンシルを放棄するとばかりに考えていたのだが、一緒に頑張る沖谷の存在、そして堀北自身が出来るだけ分かりやすく教えているためなんとか食らいつこうとしている。度々先生から出される罵倒にも、須藤は苛立った様子を一瞬見せるこそすれ、けれど暴れるようなことはしなかった。

 ただ一言言わせて欲しい。連立方程式くらいは知っておいた方が良いぞ。

 堀北グループから目を離し、次は櫛田グループに視線を送る。

 

「うん、それで合ってるよ池くん。山内くん、その問題はね……」

 

「なるほどな……。流石櫛田ちゃんだぜ!」

 

 良い意味で櫛田は期待を裏切らないな。池と山内は櫛田に褒めてもらうために、それはもう必死になって教科書と睨み合いをしていた。

 やっぱり、男が動くその最大の理由はいつだって女の子なんだな。

 あちらも問題はなさそうだと判断して、オレもまたテスト勉強をするのだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

「「「「ありがとうございましたっ」」」」

 

 須藤、池、山内、沖谷の声が重なり、そんな言葉が出された。

 時刻は午後六時四十五分。図書館の閉館時間まで残り十五分。オレたちは施設外に居た。

 堀北主導の元で行われた勉強会は、はじめのスタートこそままならなかったが、それでも上手く機能したと充分に言えるだろう。

 途中集中力が途切れる場面もあったが、そこは小休憩を取ることで堀北は対応した。案外、教師に向いているのかもしれない。

 

「まずはご苦労さまと言っておくわ。けれど、正直あなたたちの学力は低い。はっきり言うと、小学生の学力ね」

 

「「「「うぐっ」」」」

 

「だからこそ、復習をしっかりとすること。寮に帰ったら今日やった内容の復習を、学校の授業は、私が渡したプリントで予習をしなさい」

 

「一日中勉強漬けかよ……」

 

 池が絶望に表情を彩らせてそう呟く。他の生徒も同様で、今日からテストが明けるまで日々を想像しているに違いない。

 

「で、でも堀北さん。授業の時間で予習をやって良いの? ポイントが……」

 

 恐る恐る尋ねる沖谷に、堀北は問題ないとばかりに。

 

「大丈夫よ。確かにポイントは入らないかもしれない。けれど、赤点を防ぐ、そのための行動が今は何よりも大切。平田くんだってそう言うと思う」

 

「うん!」

 

「そんじゃあ帰るか」

 

 勉強から開放された山内がそれはもう嬉しそうに誘う。

 須藤、池、そして沖谷がおずおずとついて行き……彼らはオレと堀北、櫛田が動かないことに困惑した。

 

「どうしたんだよ。早く行こうぜ」

 

 さてどうしたものか。

 オレたち三人が学友たちと一緒に歩かないのには、もちろんわけがある。というのも、櫛田が今後参加するか否か、資格を得たか否かの判決が言い渡されるのだ。

 

「ごめんね皆。私たちこの後、夕ご飯を食べる約束をしているんだ。ほら、今後の方針とか話し合わないといけないしね。だから今日は一緒に帰れないの」

 

 即興の嘘にしてはかなり上出来だな。

 

「えー! マジかよー」

 

 池は不満そうに唇を尖らせたが、勉強会のことを言われたら引き下がるを得なかった。

「また明日なー」と別れの挨拶を交わし、彼は持ち前のコミュニケーション能力を如何なく発揮し、須藤や山内、沖谷を引き連れて寮にへと向かっていった。

 直前まであった和気藹々(わきあいあい)とした賑やかさは消え失せ、無音の時間が数刻残されたオレたち三人に流れる。

 

「櫛田さん」

 

 そんな中話を切り出したのは堀北だった。

 櫛田はいつも浮かべている笑顔で、彼女と対面する。

 

 この時オレは初めて、櫛田桔梗という人間に対して『違和感』を覚えた。

 

 どのように表現したら良いのだろう。

 仕草、息遣い、そして表情。全てが素晴らしい。

 だが──その全てが()()()()()

 

「何かな?」

 

 可愛らしい声だ。つくづくそう思う。

 そう思う一方で、違和感は疑念へと膨張していくのをオレは感じた。

 

「勉強を始める前に、私は言ったわよね。あなたの存在価値を示せなければ、次回以降の勉強会の参加を認めないと」

 

「うんそうだね。……どうだったかな?」

 

 口ではそう言いながらも、自分が認められることを確信している様子が窺えた。

 そしてそれは自惚れでは断じてなく、的中する。

 

「──認めましょう。次回からも参加してくれて構わないわ」

 

「ありがとう! でも堀北さん、正直に言うと意外だったかな。てっきり駄目だと思ってたから。嫌われていると思っていたから……」

 

「なら聞くけれど、あなたは自分のことが嫌いと察した相手を好きでいられるかしら?」

 

 一瞬思考が止まった。

 堀北が言ったことにはそれだけの威力があったから。

 櫛田が堀北を嫌っている。その逆である、堀北が櫛田を嫌っているなら、まだ話は分かる。

 堀北の考えすぎじゃないか、あるいは妄想なのではないか、そのように考えたオレを裁くことは誰も出来ないだろう。

 

「……? 私は堀北さんのこと好きだよ?」

 

 櫛田は心底分からないとばかりに困惑の表情を浮かべた。

 二人の視線が交錯し──最初に逸らしたのは堀北の方だった。

 

「……そう、まぁ良いわ。あなたのことに時間を割く余裕は無いのだし、邪魔しないのならそれで良しとする。今は、ね」

 

「堀北さんが何を言っているのか私は分からないけど、その考えには賛同するかな。まだ日にちはあるけど、少しでも勉強した方が良いと思うよ」

 

「ええ」

 

「じゃあ私、先に帰るね。ちょっと寄る所があるんだ。ばいばいっ」

 

 櫛田は結局終始笑顔でそしてそのまま立ち去る。オレと堀北はそんな彼女の背中を見届けた。

 オレも帰るとするか。

 これでミッションはコンプリート。須藤や池たちの面倒は、彼女たちに任せるとしよう。

 堀北と一緒に寮に向かうことを一瞬考えたが、すぐに打ち消す。もし知り合いにでも見つかったら、あらぬ誤解を与えてしまうだろうし、彼女はそれを嫌うだろう。

 

「じゃあ、オレも帰るから」

 

 無言で離れるのは流石にどうかと思うので、一応声を掛ける。堀北はどうやら考え事をしているみたいで、返答はなかったが、まあ、良いか。

 スクールバッグを肩に担ぎながら我が家への道を踏みしめていく。

 明日の朝も須藤とのジョギングがある。いつまで続くかは分からないが、少しでも早く寝ておこう。

 今日の夕ご飯について思案していると、二人の男女生徒がオレの行く末を塞いだ。

 女子生徒は椎名だった。オレが視認したように、彼女も視認したのだろう。軽く会釈してきた。オレも軽く手を挙げて応える。

 問題は男子生徒の方だった。身長はオレと同じくらいだろうか。黒髪だがやや癖がある長めのヘアースタイル。

 そして何よりも──獰猛(どうもう)な目。自分に余程自信がなければ、このような好戦的な目付きには至れないだろう。

 

「お前がひよりの逢引相手、綾小路か。随分と覇気がない男だ。流石、根暗そうランキング上位者は違うな」

 

 何だその、初めて聞くランキングは。

 

「初対面で人の悪口を言うのはどうかと思うぞ」

 

「悪口? 俺はただ、事実を事実で言っただけだぜ。まあ、そんなことはどうでも良い」

 

 男子生徒は本当にそう思っているのか、至極平坦な声でそう言った。

 

「同感だな。手短に要件を言って貰えると助かる」

 

「ほう。先に聞くことがそれか。俺が誰だが気にならないのか?」

 

「気になるか気にならないかと聞かれたら──興味ないな。けど、それはお前もだろ」

 

「ククッ、違いない。いいぜ、第一試験合格だ。綾小路。ちょっとツラ貸せ」

 

 男子生徒は一方的にそう言い放った後、オレと椎名から離れていく。歩みに迷いがない。オレが付いてくると彼は確信しているのだ。

 

「ごめんなさい、綾小路くん。連絡しようとは思ったのですが……彼が駄目だと言いまして……」

 

 その理由は見当がつく。退路を断つためだろう。

 つまり彼らは、放課後が開始してから今まで、ずっとこの場所に居たことになる。

 

「分かった。付いていく」

 

「本当にごめんなさい」

 

「いや、椎名が悪いわけじゃないから安心しろ。それで、オレをどこに連れて何をするつもりだ?」

 

 当然の疑問。

 数歩先で歩く彼が顔だけ振り向かせてから言う。

 

「俺が答えよう。行く場所はケヤキモール。何をするか──飯を食うのさ」

 

 ケヤキモールとは学校から徒歩数分の距離にある大型ショッピングモールのことだ。カラオケやブティック、本屋など、生徒が欲しい娯楽施設があり、飲食店も充実している。

 放課後暇な生徒が訪れることがとても多い。とはいえ、オレは二、三回程しかまだ行っていないが。

 

「そうか。ちなみに奢りか?」

 

「ハハハッ。おいおい綾小路、初対面の人間に良くもまぁそんなことを言えるな」

 

「お前には負けるけどな」

 

「違いねえ」

 

「名前は?」

 

「あ? 興味がなかったんじゃなかったのか」

 

「今湧いた。わざわざ数時間に渡ってオレを待ってくれたんだ、覚えようと思った」

 

 そう告げると、男子生徒は音を立てて豪快に笑う。愉快そうで何よりだ。

 彼は数秒後、笑いから一転、捕食者の笑みで答える。

 

「──龍園(りゅうえん)(かける)。Cクラスの『王』だ」

 

 

 

 

読書の皆さんが思う、一学期の間に最も実力を示したDクラスの生徒は?

  • 綾小路清隆
  • 堀北鈴音
  • 平田洋介
  • 櫛田桔梗
  • 須藤健
  • 松下千秋
  • 王美雨
  • 池寛治
  • 山内春樹
  • 高円寺六助
  • 軽井沢恵
  • 佐倉愛里
  • 上記以外の生徒

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