ようこそ事なかれ主義者の教室へ   作:Sakiru

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椎名ひよりの分岐点 Ⅱ

 

 龍園(りゅうえん)(かける)がオレと椎名(しいな)を案内したのは、ケヤキモールの中にある、完全個室を売りにしている和食店だった。

 どうやらこの店は予約制であるようで、店員が来店した客を流れるようにして予め割り当てられた部屋にと案内した。和食店である拘りからか内装は和室だ。

 隙間なく整えられた(たたみ)に、細かい刺繍(ししゅう)が施された座布団(ざぶとん)、さらには年季が入っているとひと目でわかる長テーブル。

 こういった店に来るのは初めてだからちょっとドキドキする。

 オレが感動している間に、龍園と椎名は何も言うことなく座布団の上に腰を下ろした。

 何て言うか、ただ座っているだけなのにとても絵になっている。龍園は胡座(あぐら)をかき、椎名は正座だ。

 さて困った。というのも、彼らはそれぞれが向き合うようにして長テーブルを挟んで座っている、ということはつまり、オレはどちらかの隣を選ばなくてはならない。

 いったいどちらの隣に座れば……。

 

綾小路(あやのこうじ)くん」

 

 オレが迷っているのを感じ取ってくれた椎名が、幸いにも助けてくれた。

 何て気が利くんだろう。堀北(ほりきた)にも見習わせたいものだな。

 彼女に礼を言ってから隣に座る。寮にある座布団とは比べる余地もない程の座り心地(ごこち)に、思わず感嘆の声を出してしまった。

 

「好きなものを食え、俺の奢りだ」

 

「……驚いたな。まさか本当に奢ってくれるとは思ってなかったぞ」

 

「クク、この店は設備は十分だが……その分高い。Dクラスのお前じゃ払えないと思った俺のせめてもの慈悲だ。有難く受け取るんだな」

 

「そうか、それはどうもありがとう」

 

 実際のところは、俺の所得ポイントはおよそ七万五千以上あるのだが……指摘したら龍園の慈悲をなくしかねない。

 せっかくだ、ここは甘えさせて貰おう。思えば、誰かに奢って貰うのは初めてだな。いや違った。この前堀北に奢られたばかりだ。

 

「ひよりも気にする必要はないぞ。俺が払ってやる」

 

「ありがとうございます。しかし意外ですね。てっきり綾小路くんは例外として、私の分は自分で払えと言われると最悪覚悟していたのですが」

 

「おいおい、女のお前に払わせるだなんてするわけがないだろう。まっ、そういう事だ。遠慮なく食いたいものを頼め」

 

 言質(げんち)を取ったオレと椎名は、各々好きな料理を選ぶ。龍園も同様で、一番値段が高い料理を選んだ。Cクラスが五月に振り込まれたポイントは490ポイント。つまりおよそ五万円。それ故に出来る芸当か……。

 普通の飲食店なら店員を直接呼びに行ったり、あるいはボタンを押して合図を送る必要があるのだろうが、この店は従来(じゅうらい)のそれとは異なっているようで、和室に場違いにも置かれていたタブレットで注文することが出来るらしい。

 迷うことなく液晶画面をタップする龍園を見て、オレは時代の流れを感じた。これがジェネレーションギャップってヤツか……。

 

「それで、用件は結局なんだ?」

 

「用件だと? 飯を食うって俺は言ったはずだが?」

 

 何食わぬ顔で龍園はそう(うそぶ)く。

 オレは堪らずに、呆れを通り越して笑いが込み上げてくるのを感じた。

 

「他所のクラスのオレを数時間にも渡ってあの場所で待っていたにも拘らず、用件が夕食を共にするだけだなんて、本当に信じると思うのか? どんなに鈍い人間でも感じることだぞ」

 

「違いない。まぁでも、待て。確かに俺はお前らに用があるが、まずは飯を食ってからだ」

 

 そう言われてしまえば引き下がらざるを得ないか。オレは龍園から意識を外して、何となく椎名を横目で盗み見た。

 彼女は読書をしていた。

 オレと龍園の会話中、きっと彼女はいつものように自分が大好きな本の世界に旅立っていたのだろう。

 背筋をぴんと伸ばし、黙々と文字の羅列を読んでいくその姿勢はとても綺麗なもので、オレは素直に感心した。何度見ても美しい。

 初対面の人間と充分なコミュニケーションが取れるとは到底思えないので、オレも彼女と同じようにスクールバッグから一冊の文庫本を取り出す。

 

「お前らは本当に読書しか眼中にないんだな」

 

 (さげす)み、ではないだろう。単純に疑問に思ったのか、龍園はさも不思議そうにそう言ってきた。

 オレは何も答えず無言の肯定をする。ただ一言言わせて貰えば、正確には読書しかやることがないのだから仕方がない。

 数分後。従業員が頼んだ料理を運んできた。

 

「「いただきます」」

 

 読んでいた本の(ページ)(しおり)を挟んだオレと椎名は、太っ腹の龍園に改めて礼を告げる。彼は特別何か言うことはなかったが、さも面白そうに笑いながらそれに応えた。

 上質な木材で作られているとひと目で分かる箸を摑み、ゆっくりと食材を口に運ぶ。刹那、口の中一杯に美味しさが詰まった爆弾が爆発した。

 絶え間ない美味に、オレは思わず顔を綻ばせてしまう。

 

「美味いな……!」

 

「ええ、とても。コンビニとは大違いですね」

 

 椎名が感極まったように、ちょっとズレた感想を口に述べた。

 オレと龍園は思わず見つめ合ってから、天然少女を一瞥(いちべつ)し、再度見つめ合う。お互い、ちょっと反応に困っている顔になっているんだろうな……。

 

「それにしても、良くこの店を知っていたな」

 

「ククッ、当然だ。この店は良い。出される飯は美味いし……何よりも、周りの目がないからな」

 

 なるほど、確かに龍園の言う通りだ。これだけ好条件の店は、なかなか、見付からないだろう。

 料理を食べ終えたオレたちは、しばらくの間無言の時を過ごした。先程までの賑やかさは消え失せ、冷たく、ひんやりとした緊迫感が場を支配する。

 最初に切り出したのは椎名だった。

 

「龍園くん。そろそろ教えて貰えないでしょうか。どうして私と綾小路くんをこの店に案内したのか、その理由を教えて下さい」

 

「椎名は知らなかったんだな」

 

「はい。放課後になるや否や彼に連れ出されましたから」

 

 やや不満そうに椎名は龍園に視線を送る。

 しかしそれは連れ出した彼も同様なのか、呆れを含んだ顔になって、苦言を(てい)した。

 

「お前はすぐに寮に帰るだろうが」

 

「今の図書館はいつも以上の喧騒(けんそう)さに包まれていますからね。それに綾小路くんも居ませんから、そんな状態の中率先して行こうとは思えません」

 

「だそうだが、良かったな綾小路」

 

 何が良かったのか全然分からない。

 現状を客観視する。龍園は同じクラスの椎名にすら目的を言わず、寮の帰り道でオレを放課後の時間を使って待っていた。

 彼が何を企んでいるのかは分からないが、『そうせざるを得ない理由』があったのだと想像が付く。

 

「──お前の知っての通り、この学校は実力至上主義の学校だったってわけだ。Aクラスにのみ特権を得られる、嫌だとは思わないか?」

 

「否定はしない」

 

「俺はすぐに『王』になるための行動を起こした。この学校は最高だ、何せ実力さえ示せばそれで良い。俺は邪魔な奴らを潰し、晴れて『王』へと即位した」

 

 即位、か。どうやらこの龍園翔という男は、他者を自分の支配下に置きたい人間のようだ。

 いや、それは多かれ少なかれ人間誰しも思っていることか。

 ただ気になることがある。

 櫛田(くしだ)が教えてくれた情報によると、Cクラスは今内紛状態ではなかったのか。誰が指導者に──『王』になるか。その戦いの最中ではなかったのか? 

 

「Cクラスの入学からの様子を説明しますね。入学当初、私たちのクラスは個が集まっただけの集団でした。そうですね……個性的な人が多かったんです」

 

「ククッ。ひより、お前がそれを言うか」

 

 椎名は一瞬首を傾げたが、すぐに言葉を続ける。

 

「綾小路くんが所属するDクラスと違うところは、それでも一応、クラスとして機能していたところでしょうか。一人一人の我が強いCクラスでしたが、奇妙なことに授業は必要最低限受けていました。……いえ、我が強いからこそ、それは必然だったのでしょうね。弱肉強食の教室内で、些細の弱みすら見せてはならない。そういった息苦しい空気が流れていたんです」

 

 良く理解した。

 確かにDクラスとは根本的に違う。集団でいながら、集団ではない。

 その矛盾が何の因果(いんが)か成り立っていた、それがCクラスの内情だったのか。

 

「五月になり、坂上(さかがみ)先生──Cクラスの担任の先生です──からこの学校の理念を説明されました。当然、生徒の過半数以上は不平不満を言い、すぐにAクラスを目指すことになりました。ここまではどのクラスも同じだったでしょうが、一つだけ違うとすればそれは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 思わず絶句した。

 自分こそが先導者として相応しい、そう信じて止まない人間が沢山居たその事実が何よりも恐ろしい。

 

「こうして、私たちCクラスは荒れました。私は参加しなかったので詳しくは知りませんが、あらゆる手段が使われたことは容易に想像出来ます。──違いますか?」

 

「クククッ、正解だ。ひよりの言う通り、俺たちは相手を潰すために画策(かくさく)し……躊躇いなく実行した。表で戦うのは論外、裏で俺たちは争った。信じられるのは自分だけ、他者を信じてはならない。それが鉄則(てっそく)だったのさ」

 

「そしてつい先日、『王』が決まりました。それが彼──龍園翔くんです」

 

 如何(いか)なる手段を以て『王』になったのか、そんなことは至極どうでもいいことだ。

 Cクラスを統べる『王』であること、それが分かればそれで良い。

 

「俺は即位した時、クラスの連中に宣言した。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()とな」

 

 龍園翔という人間がそれだけの偉業を達成出来る(うつわ)か否か、それは現段階では推し量れない。

 ただ言えることは──彼が『強敵』であること。

 高度育成高等学校は入学が決定した生徒を振り分ける際、優秀な人間程Aクラスよりに配属したと、茶柱(ちゃばしら)先生は言っていた。

 だからこそオレが所属するDクラスは、学校側の言葉を借りるのなら『不良品』としての烙印(らくいん)を押されている。

 彼や椎名はCクラス。字面だけで考えるならば、そんなに優秀ではないと考えるのが道理だろう。

 だが、目の前で不敵に笑っている男から、そんな気配は微塵も感じられない。

 油断出来ない相手だと、素直にそう思う。

 Dクラスで、彼とまともに戦えるのはごく少数と言ったところか。BやAクラスは彼以上の者が待ち構えているのだとしたら、戦いは厳しくなるだろうな。そんなことを他人事のように考える。

 

「俺は──俺の邪魔をする奴は全て潰す。たとえそれが同じクラスの人間であろうとな」

 

「お節介かもしれないが、そんなんじゃ上手く統治出来ないぞ」

 

()()? ククッ、お前は何も分かってねえ……。そんなことをやる必要はない。最初は俺に反対する奴も居るだろうがな、時間の問題だ。最終的には必ず俺にこうべを垂れるのさ」

 

 そう語るということは余程の自信があるのだろう。言葉に迷いが一切ない。この手のタイプは非常に厄介だ。

 

「ひよりから話は聞いた。なんでもお前らは、クラス闘争に興味がないらしいな」

 

「はい。特に魅力も感じませんから。それに、争いは好きではありません」

 

「それだけだったら俺は何も言わない。俺の邪魔さえしなければそれで良いからな。だが、他所のクラスとの交流は認められない」

 

「私が綾小路くんに情報を提供するとでも?」

 

「そうだ」

 

「私と彼の付き合いを認めないと、龍園くんは言いたいのでしょうか?」

 

「その解釈で合っているぜ」

 

 龍園が首肯した次の瞬間、途轍(とてつ)もない殺気が室内に充満した。龍園ではない。

 発生源は──椎名だった。

 いつもの無表情さはさらに度合いを増し、見る人を恐怖で凍らせる程の殺意に呑まれている。

 彼女が怒っているところを、オレは初めて見ているのだ。

 身の危険を現在進行形で浴びているだろう龍園は、けれど愉快そうに唇を三日月型に歪ませる。

 

「まぁ待て、俺が今から出す条件を達成したらお前たちの付き合いを認めてやっても良い。受ける受けないは自由──」

 

「受けます」

 

「即答か。愛されているなあ、綾小路?」

 

 揶揄(やゆ)してくる龍園が鬱陶(うっとう)しい。

 オレは脳内でため息を吐いてから、隣の少女を盗み見る。興奮しているのか、心做しか姿勢が前に倒れているように窺えた。

 いつもの冷静沈着さはそこにはなく、衝動で動いているのは誰の目にも明らかだ。心配してしまう。

 だが同時にオレは嬉しくもあった。彼女がオレのことを大切に想ってくれていることの(あかし)でもあるのだから。

 

「俺が提示する条件は一つだ。ひより、お前が有能であることを俺に証明しろ。一学期中に、お前が価値ある人間だと判断したそのあかつきには、綾小路との付き合いを認めてやる」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 口で言うのは簡単だが、これはそんな生易しいものでは断じてない。

 

「質問をさせて頂きますが、その採点基準は何ですか?」

 

「良い着眼点だ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そう、何でもだ。もう一つ加えよう。お前が協力を頼めるのはそこの逢引(あいびき)相手だけだ。とはいえ、綾小路が頼りになるとは到底思えないが」

 

 悪魔の取引。そんな言葉が脳裏に浮かび上がった。

 龍園は恐らく、独自の方法でオレのことを調べあげたのだろう。しかもこの短期間でだ。

 だからこそ、オレが平凡以下の人間だと分かっている上で、椎名の行動可能範囲をさらに縮めた。

 取引とは同格の相手で初めて成り立つものだ。

 それを熟慮するのなら、これは取引ではなく、脅迫であることは一目瞭然。

 イヤらしいのが、こちらにもメリットがあること。いや、メリット以上のものだ。何せ彼が提示した通りにすれば、オレたちの望みは叶うのだから。

 

「ひより、俺はお前のことを買っているんだぜ? 馬鹿が多いCクラスで、お前の高い頭脳は必要だ。この前の小テスト、金田と同じくクラス首位だったからな。金田(かねだ)は俺の軍門に下ったが、それでも軍師が一人じゃあ万が一がある。もう一人欲しいところだ。が、お前は争いに興味がないときた。困ったもんだぜ」

 

 椎名の頭の良さは薄々感じていたが、まさかそこまでなのか。

 これで椎名じゃなくて他の生徒だったら、『王』は他所のクラスとの積極的な交友は認めなかっただろう。

 

「必要最低限の協力さえしてくれればそれで良い。これ以上の譲歩は出来ないがな。どうする?」

 

「分かりました、その条件を呑みましょう」

 

「クククッ、交渉成立だ」

 

 そう言うや否や、龍園はスクールバッグから一枚の書類を取り出し、長テーブルの上を走らせて椎名に送った。

 なるほど、口約束ではなく、ちゃんとした書面での契約にするのか。良く考えている。

 彼女は迷うことなく印鑑を押した後、携帯端末を(かざ)す。そしてカメラモードにしたのだろう、シャッター音がすぐに和室内に響く。

『王』は満足そうにその様子を眺めていた。オレも同感で、彼女の利発さには舌を巻く。

 

「それでは先に帰りますね」

 

「もうちょっと残っていけよ」

 

「今日は新刊の発売日なので、書店に行かなくてはなりませんから。それに……龍園くんもその方が都合が良いでしょう?」

 

 椎名はそう言い残して、部屋から出て行った。宣言通り、書店へと足を向けたのだろう。

 取り残されたオレと龍園の間には、何とも言えない気まずい雰囲気が流れる。

 顔を俯かせた彼の心情は外面からは分からないが……多分、(わら)っているんだろうな。

 ややしばらくして、彼はおもむろに顔を上げた。狂気に染まった獰猛な瞳がオレの体を射抜く。

 

「あの女は味方なら心強いが、敵になるとちょっと面倒だ。潰す手間を増やさない手はない」

 

「だから手駒(てごま)までとはいかなくても、手元に置くようにあの条件を出したのか」

 

「当然だ。──さて綾小路。本題に入ろうか」

 

 オレは無言で頷く。

 今までの話は全て椎名に向けられた事柄だ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 椎名はそれを分かっていたからこそ舞台から一旦降り、オレと彼だけの状態にしたのだ。

 そしてある程度、彼が言おうとしていることは察せられる。その鍵は彼と彼女の会話から覗いていたのだから。

 

「単刀直入に言おう。──俺のスパイになれ」

 

 

 

§

 

 

 

 夜遅く。今なお照明が照りついているケヤキモールから出て、オレは移動していた。こんなにも遅い時間に出歩いているのは初めてだから、ドキドキしてしまう。

 雲の隙間から漏れている月明かりを頼りにして、寮への道を突き進む。管理人は労働時間外なので()らず、無人の出入口を通過する。

 喉が乾いたので、ロビーに置かれている自販機で無料飲料水を購入。少し呷って、エレベーターに向かう。

 どうやらエレベーターは現在七階で停止しているらしく、少なくない時間を過ごすことに。

 やることも特にないので、オレはエレベーター内を映すモニターに目を向けた。驚くべきことに、そこには制服姿の堀北が映っていた。

 

「……何言われるか分からないし、適当にやり過ごすか」

 

 すぐさま行動する。自販機の影に隠れたオレは、時が過ぎるのをただ待つのみ。

 軽やかなサウンドがロビーに優しく木霊(こだま)する。堀北が一階に降りてきたのだ。

 彼女は嘗てない程に顔を強張らせていた。しきりに周囲を確認しながら寮から出ていく。

 オレは逡巡してから、彼女の後を追うことにした。彼女のような優等生がこんな時間にどこに行くのか好奇心が湧いたのだ。

 それに彼女の表情を考えれば、隣人としては多少心配してしまうというもの。

 暗闇に紛れる彼女を追うこと少し、寮の裏手の曲がり角に差し掛かったところで、オレは素早く身を隠す。

 彼女の足が止まったのだ。こんな所で理由も無く止まるはずがない。予想は的中して、そこには一つの男の影があった。

 

鈴音(すずね)。まさかここまで追ってくるとはな」

 

「……」

 

「何か返事をしたらどうだ」

 

「兄、さん…………」

 

 暗がりに加えて声だけなので断定は出来ない。

 だがオレはこの男を知っていた。いや、オレだけでなく、高度育成高等学校に在籍している生徒なら必ず知っているだろう。

 その男は現生徒会長である堀北(まなぶ)だった。彼の声の残滓は幸か不幸かオレの耳に残っていたらしい。

 堀北の台詞から察するに、恐らく彼らは家族、そして実の兄妹なのだろう。それ自体に驚くことは何もない。部活説明会のことを考えれば想像は出来るし、実際にそうだと考えていたからだ。

 

「兄さんに追い付くためにここに来ました。もう、過去のダメな私じゃありません」

 

「……追い付く、か。そんな不純な動機でこの学校を選んだと言うのか? なるほど、それならお前がDクラスであることも必然ということだ」

 

「それは──でも──私は……!」

 

「お前は過去とは違うと言ったが、断言しよう。お前は三年前と何も変わっていない。自分の欠点を欠点と認めない愚か者に送る言葉は何もない。何故なら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 兄妹とは到底思えない程の内容だな。

 堀北の兄貴の言葉のナイフに、堀北は何も言い返す術が無いようだった。平生の彼女からは考えられないほどに。

 これ以上は流石に駄目だと思ったその時。

 

「今はたとえDクラスでも、私は必ずAクラスに(のぼ)ってみせます」

 

「「無理だな」」

 

 期せずして、オレと堀北の兄貴の台詞が重なった。

 慌てて口を閉ざすが、第三者の存在には感づいていないようで安堵する。

 

「無理なんかじゃありません」

 

「無理だと言っている。お前はAクラスはおろか、Cクラスにすらなれないだろう。それどころかクラスも崩壊するだろうな。実力至上主義のこの学校は、お前が考えている程甘くはない」

 

「……絶対に辿り着きます」

 

「無理だと言っているだろう。本当に聞き分けのない妹だ」

 

 堀北の兄貴はそう言って、妹との距離を詰めた。

 陰から現れた彼の顔は、とても無機質なものだった。機械のような能面な顔で、彼が何を考えているかを考えることは不可能。

 堀北は無意識下で一歩後ずさり、開いた距離を彼はさらに詰める。

 そして実の妹の手首を壁に押し当てる。

 

「どんなに俺が否定しても、お前が妹という事実は覆らない。Dクラスの妹を持つAクラスの兄。恥をかくのは俺だ。鈴音。今すぐこの学校から去れ」

 

「出来ません。私は必ずAクラスに…………!」

 

「なら俺は何度でも言おう──無理だとな。今のお前では上を目指す資格も、そして力もない」

 

 堀北の華奢(きゃしゃ)な身体が宙に浮いた。考えるよりも体が動く、そんな文章で良く使われる表現を、オレは体感していた。

 彼がこれ以上の行動をする前に、オレは地を蹴り肉薄する。気配を感じ取られる直前に、堀北の手首を摑んでいる彼の右腕を摑み取り、動きを制限した。

 

「──何だ、お前は?」

 

 奴は鋭い眼光をオレに向け短く問い掛けてくる。

 オレが口を開く前に、堀北が驚愕(きょうがく)した表情で。

 

「あ、綾小路くん……!?」

 

「綾小路……? 聞き覚えがある名前だな」

 

 そう言うが、オレと奴の面識は皆無で、これが初めてだ。

 

「あんた、今堀北を投げ飛ばそうとしていただろ。ここはコンクリだぞ、いくら兄妹でもそれはやっちゃいけないんじゃないのか?」

 

「盗み聞きは感心しないな。そしてこれは俺と鈴音の問題の……言い換えれば家族の問題だ。部外者が口を挟むな」

 

「そうか、それは悪かったな。取り敢えず──その手を離せ」

 

「こちらのセリフだ」

 

 睨み合う。オレたちは目の前の敵をどう排除するか、そのことだけに思考を専念していた。

 

「やめて、綾小路くん……」

 

 だからこそ、堀北の絞り出した声に反応するのが遅れてしまった。

 今夜の彼女はオレの知っている堀北鈴音とは別人だと言われた方がまだ納得出来るだろう。

 妹の懇願に兄は応えるようだった。脱力し、戦意がないことを行動で示す。

 仕方がないと嘆息してから、渋々彼の腕を放す。

 

 刹那、オレの顔面めがけて途轍もない速さの裏拳が飛んできた。

 

 回避出来たのは奇跡に等しい。オレは上半身を仰け反り間一髪(かんいっぱつ)で躱し、敵と距離を取ろうとした。

 だが敵は、オレの行動を見越した上であの攻撃をしてきたのだろう。拳の後にワンテンポ遅れて、今度は回し蹴りが迫る。

 だがこれはフェイクだ。真の狙いは──オレの胸倉を摑み、地面に叩き付けること。

 回し蹴りを上に跳躍することで避け、弾丸の速度で飛んでくる開いた手を受け流す。

 互いに硬直し、今度こそオレたちは距離を取った。

 

「良い動きだ」

 

「それはどうも」

 

 投げられた賛辞を軽く受け止め、短く礼を告げる。

 堀北の兄貴はここでようやく臨戦態勢を解除し、浅く呼吸をした。

 そして興味深そうに、眼鏡の奥にある瞳を妖しく輝かせて問いかけてくる。

 

「何か習っていたか?」

 

「ピアノと書道なら。あぁそうだ、小学生の時、全国音楽コンクールで優勝したこともあるぞ」

 

「ほぅ……是非とも聴かせて貰いたいものだ。……中々にユニークな男だな」

 

「褒めているのか?」

 

「さてな。そして思い出したぞ、お前のことをな。──綾小路清隆(きよたか)()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。さらに先月の小テストでも五十点。狙ったな?」

 

「偶然って怖いですね」

 

 そう、偶然だ。

 オレは偶然そのような点数を取っただけに過ぎない。堀北の兄貴がオレのことを知っているのは、恐らくその情報をどこかで耳にしたからだろう。

 さらなる憶測をすれば、生徒会の活動の際に得たというのが最も濃い線か。

 

「しかし正直意外だぞ。鈴音、まさかお前に友達が居るとはな」

 

 兄は見直したかのように妹を讃えた。それは本当のようで、少しだけ両目が見開かれている。

 

「彼はそのようなものじゃありません。ただのクラスメイトです」

 

「相変わらず孤高と孤独を履き違えているな。それからお前、綾小路といったか。お前のような奴が今年は多いと聞いているが……期待しているぞ」

 

 勝手に期待されても困る。

 堀北の兄貴は最後まで妹を妹と扱わないまま、オレの横を通り過ぎて、そのまま闇に姿を眩ませる。

 

「上のクラスに上がりたければ死に物狂いで足掻(あが)け。それが最も近道だ」

 

 聞こえるか聞こえないかの小さな声。

 堀北学。一際異彩を放つ生徒会長。彼が何を思い、その言葉を告げたかは分からない。

 けれどオレにはどうしても、不器用な兄が妹に贈る不器用なアドバイスとしか思えなかった。

 

「悪い、盗み聞きをするつもりはなかったんだけどな……。大丈夫か?」

 

 壁に体を預け顔を俯かせている堀北に、オレは一応声を掛ける。

 彼女の心中は彼女だけにしか分からない。ただ、『大丈夫か』としか言えない自分自身に心底呆れるしかほかなかった。

 夜の静けさが、今の状態をそのまま表しているようだった。一陣の風がどこからか吹き、オレたちの体を通過した後、彼女は不意に。

 

「さっきの話、本当? 受けたテスト全教科五十点って……」

 

「入学試験の時のは分からない。でも小テストの点数が五十点なのは本当だ。どっちにしろ偶然だけどな」

 

 肩を竦めて答える。

 堀北はここでようやく顔を上げて、オレの顔を直視する。オレもまた彼女と目を合わせた。

 

「兄さんは空手五段、合気道四段の熟練者よ。そんな兄さんと互角に戦えるなんて……」

 

「言っておくが武術は何も修めてないぞ。ピアノと茶道をやってたけどな」

 

「さっきは書道って言ってたわよ」

 

「……書道もやってたんだよ」

 

 嘘ではない。実際のところ、オレは本当にピアノと書道、そして茶道をやっていた。ここにピアノがあれば……そうだな、ヴェートーベンの交響曲第九番を弾いても良い。

 

「あなたのこと、よく分からないわ」

 

「たった一ヶ月と少しの付き合いなんだ、むしろ熟知されたら困る。お前もそうだろ?」

 

「……そうね……。戻りましょう。誰かに見られたら誤解を生みかねないわ」

 

「同感だ」

 

 ましてやオレの場合、椎名と付き合っていると殆どの生徒に思われているようだし。寮に戻り、そのままエレベーターに搭乗。オレの部屋がある四階で停止した。

 別れを告げようとすると、

 

「明日からの勉強会。あなたは参加しないのよね?」

 

「堀北もその方が良いだろ?」

 

「ええ。……引き留めてごめんなさい。また明日」

 

「また明日」

 

 エレベーターの扉が閉まるのを確認してから、オレは我が家にようやく着いた。

 今日は色々なことがあって、正直とても疲れた。重たい体に鞭を打って、シャワーを浴びてからベッドの上に寝転がる。

 数時間振りに携帯端末を手に取ると、膨大な量の数のメッセージがグループチャットに送られていた。

 流石は現役高校生だと戦慄(せんりつ)する。

 既読だけでも付けておこうと思い、閉じそうになる瞼をなんとかこじ開け確認した。

 須藤(すどう)(いけ)山内(やまうち)たちが主に会話をしていたようだ。時々挟まれるのは沖谷(おきたに)のメッセージ。今日までは参加していなかったはずだが、多分、池が誘ったのだろう。

 

『堀北マジすげぇ!』

 

『それなー。アレで性格が普通だったら惚れてるわ。俺と山内は櫛田ちゃんに教えて貰ってたからあんまりだけどさ、どうだったんだ?』

 

『教え方が本当に上手だったかな。正直、学校の先生よりも先生だったと思う』

 

『沖谷、お前文章だと普通に会話出来るんだな』

 

『当たり前だよ。その、直接話す時は緊張しちゃうけど……。須藤くんはどうだった?』

 

『教え方が上手いのは分かったけどよ……その前に俺自身の学力の低さを痛感したぜ』

 

『おいやめろよ。嫌な現実突き付けるなよ!』

 

『確か小学生の学力扱いだったっけ……。でもまっ、俺が本気を出せば大学生並みの学力を誇るんだけどな!』

 

『はい出ました嘘ww』

 

『嘘じゃねぇよ!』

 

『『『分かった分かった』』』

 

『お、沖谷まで! 綾小路ー、お前から何か言ってやってくれよ!』

 

『あれ? そう言えば一つだけ既読付いてないね。綾小路くん見てないのかな?』

 

『あぁー、櫛田ちゃんと堀北と勉強会の作戦会議をしているんだっけ? 櫛田ちゃん櫛田ちゃん櫛田ちゃん櫛田ちゃん櫛田ちゃん』

 

『池お前、正直気持ち悪いぞ』

 

『な、何だよ須藤! お前だって、誰かを好きになったらこうなるって! なっ、山内!』

 

『そうだそうだっ! 櫛田ちゃんは天使、異論は認めないっ! もし誰かと付き合ってるなら……俺はその男を殺す!』

 

『あはは…………。でも綾小路くん凄いよね。だって、他のクラスの女の子と付き合っているんでしょ?』

 

『本人は否定しているけどなー。俺独自の調査によれば、名前は椎名ひよりだって』

 

『相変わらずのコミュニケーション能力だな』

 

『おう、褒めろ褒めろ! で、話を元に戻すけど、図書館の四隅の一角をほぼ毎日貸し切っているみたいだぜ。図書課の先生が教えてくれた』

 

『お、お前いつそんなことを……』

 

『休憩中にちょっとな!』

 

『今は会ってないのかな?』

 

『そうじゃないか? 仮にもテスト週間に入ったからなー。あっ、そうだお前ら。話変わるけどさ』

 

『『『どうした?』』』

 

『テスト終わったらさ、堀北と櫛田ちゃんにお礼をしようぜ。何か買ってさ』

 

『良いね、池くん!』

 

『それは良いけどよ……ポイントあるのか?』

 

『俺ちなみにゼロー』

 

『山内お前……!』

 

『じゃあ池はあるのかよ?』

 

『ないけどさ』

 

『僕、少しならあるよ』

 

『俺も三千ポイントは残ってる』

 

『『おおおおおおおおおっ!』』

 

 盛り上がっていたようで何よりだ。最後の履歴は一時間も前だった。今更投稿しても遅いな。

 安堵の息を吐く。

 堀北の教え方にはち言い方に問題があったから、陰で悪口でも言っているものだと内心ひやひやしていたのだが……心配は杞憂だったか。

 堀北の兄貴が言った言葉が想起される。

 彼は言った、堀北がAクラスに上がるのは不可能だと。

 オレもつい数分前は彼に同意したが……このまま彼女が成長すればあるいは……。

 そして勉強会がこのまま上手く捗れば、須藤や池たちが赤点を取る可能性は極めて低いだろう。

 だがそれも、全てが可能性の話でしかない。

 何が起こるのかなんて、誰にも分かりはしないのだから。

 

 

 

§

 

 

 

 Dクラスが退学者を出さないために行動してから、あっという間に一週間が駆けていった。

 現在のDクラスでは、主に三つの派閥が構築されていた。

 一つ目は言わずもがな、平田(ひらた)のグループ。彼と、彼女の軽井沢(かるいざわ)をはじめとしたもので、率先的に勉強会を開いている。小グループが連結し、強大な組織に変貌(へんぼう)していた。

 二つ目は堀北のグループ。『赤点者の救済』を理念に作られたこのグループはあくまでも一時的なもので、他者から見たら滑稽でしかないだろう。だが、これまでやる気を見せなかった人間の突然の変わりように、クラスメイトたちは驚きを隠せないでいた。

 三つ目は……集団に群れることを嫌う人種の集まり。赤点を取る心配が無いオレたちにとって、率先してどこかのグループに参加する理由が見当たらないためだ。

 ちなみにオレは二つ目と三つ目に片足ずつ足を突っ込んで立っている状態だ。自分からは動かないが、求められたら動く。まさに事なかれ主義を体現しているだろう。

 隣人の堀北曰く、勉強会は思いの外順調に回っているらしい。

 

「勉強することが楽しくなったのかしら……?」

 

 堀北は珍しく困惑の色を浮かべてオレにそう言ってきた。

 兎にも角にも、今日という日付けを以て、中間テストまであと一週間となる。最初の試練が着実に迫りつつあることに一年生は緊張していたが、オレの見立てでは誰も退学にはならないだろうな。

 キーンコーンカーンコーン! 昼休みの開始を告げるチャイムが鳴る。

 刹那、須藤が一目散に食堂へと駆けていった。運動神経抜群の彼は、場所取りという非常に重要な役割を担っているのだとか。

 堀北、櫛田、池、山内、沖谷もやや遅れて席から立ち上がる。手には教科書やノート、筆記用具があり、食堂で昼食を食べたらそのまま図書館に行くためだ。

 実に効率的だと思う。

 効率さを求めるのなら教室でやる方が時間の手間はかからないのだが、堀北は集中力を高めるためには、騒がしい教室では適切ではないと判断したようだ。

 放課後の図書館は多くの生徒が勉強目的で訪れて埋め尽くされるから、その補充を兼ねているのだろう。とはいえ、それだけではない。

 教室では平田グループが勉強会を開いているからな。話し掛けられる可能性は高いだろう。必要以上の人付き合いを彼女は嫌うから、それを防ぐ目的もあるはずだ。

 

「テスト範囲は無事に全部出来そうか?」

 

「当然よ。私が教えているというのもあるけれど、彼らの勉強意欲が異常に高いから問題ないわ。本音を言えば、テスト終了後も持続させて欲しいのだけど」

 

「かなり難しいだろうな。けどま、良かったじゃないか。お前の尽力のおかげでDクラスは赤点者を出さずに済みそうだぞ」

 

 ぱちぱちと手を叩いて素直に称賛すると、頭蓋骨に無言で手刀が撃ち込まれた。……痛い。

 

「堀北さん、行こう?」

 

「櫛田さん、何度目になるか分からないけれど、私を待つ必要はないわ。どうせ合流するのだから」

 

「おいおい、そんな冷たいこと言うなよ〜。俺たちは仲間だろ?」

 

「私はあなたたちを仲間だと思ったことは──ちょっ、引っ張らないで」

 

「良いから良いからっ」

 

 櫛田たちに引き摺られていく堀北。ようやく彼女にも気が許せる友達が出来たんだな……。いや、それは流石にないか。

 ほら、手を取ろうとした山内の手を払っているし。沖谷はそんな様子を苦笑いで眺めていて……堀北は兎も角として、彼は打ち解けたようだ。

 オレも適当に済ませるとしよう。食堂に行くのは堀北たちの後を付いていくようで何となく気まずくなりそうだから、ここはやっぱりコンビニにするか。

 学生証カードと携帯端末をブレザーのポケットの中に押し込み、廊下に出ようとしたところ。

 

「きみはいつも独りで哀れだねぇ綾小路ボーイ」

 

『自由人』の称号を欲しいままにしている高円寺(こうえんじ)に背後から声を掛けられた。

 オレと彼の接点は無いに等しい。そんな彼がどうしてオレに……いやその前にかなり面倒臭い。

 渋々顔だけ振り向かせる。

 

「確かにオレは独りだけどな、そう惨めな気持ちにはならないぞ。むしろ、独りだからこそ得られる時間がある」

 

「はははははっ。そう言うわりには、キミの背中からは哀愁さが漂っているのだがねえ。そうだ、今から私とカフェにでも行かないかい?」

 

「…………今なんて?」

 

「きみもそんな顔をするんだねえ。面白い顔を見せてくれた礼だ、もう一度だけ言おう。綾小路ボーイ、今から私とランチタイムを共に過ごさないかい?」

 

「………………理由を聞いても良いか?」

 

「なに、私の気まぐれだと思えば良い。無論、誘ったのは私だ。マネーくらいは払おう。その上でどうかな?」

 

 高円寺六助(ろくすけ)という人間は、自分がしたいようにこれまでの人生歩いてきたんだろうな。

 金髪を掻き上げ見下ろしてくるその姿勢には思うところがないわけではなかったが、ここは一つ、クラスメイトとして一緒の時間を共有してみるのもありかもしれない。

 それに、タダ飯が貰えるのならば是非とも貰いたいからな。

 

「分かった」

 

「では行こう。麗しのレディーたちが()を待っているからねえ」

 

 ふはははは! 高笑いしながらどんどん離れていく高円寺。廊下のど真ん中を歩き、なおかつ大声を出していたら人の注目も集めるというもの。

 あぁ、こいつか……と、諦観の目で多くの生徒が『自由人』を眺め、揃って長く重いため息を零す。ここまでが一連の流れなんだろうな……。

 オレは軽はずみで承諾したことを後悔しながら、彼の背中を追い掛けた。

 訪れたのはカフェだった。ただのカフェではなく、如何にも女性専用といった内装のカフェだった。つまり、オレのような人間が訪れる機会はまずない。目の前にあるのは全て未知の塊。

 事実、客層の八割以上は女子という……非常に居心地が悪い。

 

「……帰りたい……」

 

「はははははっ、何度訪れてもこの店は良いねえ。綾小路ボーイもそう思わないかい?」

 

「…………思えないな…………」

 

「それはきみの経験が足りてないだけだねえ。おや、レディーたちが()を呼んでいる。レディーを待たせるのはクールなボーイとは言えない、すぐに行かなくては」

 

 店員にちょっとだけ同情。こんな客が店内に居たらさぞかし迷惑だろうな。

 高円寺は胸を張りながら奥に突き進んで行った。彼の背中に隠れ、オレも追従する。

 

「高円寺くーん、こっちこっち〜」

 

「遅いよ〜」

 

 最奥の多人数用のテーブル席。そこにはそれなりの数の女子生徒が目をハートマークにして高円寺を待っていた。

 高円寺は女子生徒の間に座り、愉快そうに笑う。呼応する女たちの黄色いきゃきゃうふふの声。

 そんな光景を目の前で見せられたオレは立ち竦んでしまい、放心してしまう。

 

「綾小路ボーイも座り給え」

 

「あ、あぁ……」

 

「高円寺くん、この子は?」

 

 オレが空いている隅の方の椅子に座ったところで、女子生徒の一人が興味深そうに高円寺に尋ねた。

 

「私のクラスメイトさ。独りで居たから、たまには級友と過ごすのも良いと思ってね」

 

「それもそうだね〜。でも珍しいね、高円寺くんがクラスメイトを誘うなんて〜」

 

「はははははっ、興が乗っただけだよレディー。おっと、早速ランチを頼まなくては。ヘイ、クラーク」

 

「お決まりでしょうか」

 

「いつものを頼むよ」

 

「畏まりました。そちらのお客様は当店のご利用は初めてですよね? お決まりになられましたか?」

 

 まさかここで、伝説の『いつもの頼む』が聞けるとは……。嬉しいような悲しいような……。

 っと、そんなこと感じている場合じゃない。横に座っている女子生徒がメニュー表を渡してくれたので、彼女に礼を言ってから吟味する。

 メニューはパスタやらケーキやらと女性が好きそうな料理ばかりで、男のオレからしたら物足りない感じは否めない。

 適当にカルボナーラを頼み、店員に注文する。店員の男性は慇懃(いんぎん)にお辞儀をしてから立ち去って行った。

 高円寺の周りではとても楽しそうな空気が流れていたが、オレの周りでは真逆だった。殆どが高円寺と会話をしていて、対面に座っている人だけが困ったように微笑んでいる。

 

「えぇっと、きみ……綾小路くんだっけ? きみもDクラス?」

 

「そうですが」

 

「私もDクラスなんだ。ううん、ここにいる皆Dクラスかな」

 

 私『も』Dクラス? 

 人の名前と顔を覚えるのが苦手な部類に入るオレだが、流石にクラスメイトのことは一応頭の中に入れている。まあ、顔と名前を一致させているわけではないが。

 だが、彼女たちは思い浮かばない。そうなると、導かれる解答は一つだけだ。

 

「先輩でしたか」

 

「うん。三年生」

 

 オレはこの時、高円寺六助という人間に心底恐怖した。

 まさか歳上に囲まれて昼食を取っていただなんて! 

 

「綾小路ボーイ、女性は歳上に限ると思わないかい?」

 

 全く以てそんなことは思わないが、龍の逆鱗には触れたくないので黙って頷く。

 

「ごめん、名乗ってなかったね。私は鈴木(すずき)玲奈(れいな)。さっきも言ったけど三年D組」

 

「一年クラス組綾小路清隆です」

 

 差し出された手を摑み、握手を交わす。まあ、社交辞令だろうな。紛れ込んできた異物に興味はないだろうし、あちらの会話に加わるんだろうな。

 だがオレの勝手な思い込みは外れる。鈴木先輩はにこにこと微笑み掛けてきたのだ。

 

「ね、綾小路くん。きみはどこかの会社の御曹司(おんぞうし)だったりするのかな?」

 

 その言葉で、オレは全てを察した。

 つまりこのテーブル席に集まっている女子生徒は高円寺六助に打算で近付いていることになる。

 というのも彼は高円寺コンツェルンの一人息子であり、将来社長のポストに就くことが約束されているからだ。

 自分の売り込みをする心意気は買いたいところだが、女子の闇を視た気がする……。

 そして目の前の鈴木先輩も同族ということか。

 

「いえ、普通の一般家庭ですよ。少なくとも高円寺のような立派な家柄ではありませんね」

 

「そうなんだ」

 

「残念でしたね、当てが外れて」

 

「あはは……確かに綾小路くんの言うことはあるよ。ほら、Dクラスは生活が大変でしょ? けど言わせて貰うなら私はタダ飯を貰いに来ているだけ。それ以上でもそれ以下でもないかな」

 

 嘘ではないのだろう。実際、鈴木先輩は高円寺の方を見向きもしていないし。しかし、本当でもないのだろう。

 話に挙がった当の本人はオレたちの会話を聞いていたはずなのに、鈴木先輩を怒鳴りつけたりはしなかった。多分、薄々は察しているんだろうな。

 それを悟ることが出来るくらいには彼は優秀だ。

 

「お待たせ致しました。熱いのでご注意を」

 

「ありがとうございます。──高円寺くん、はい、あーん」

 

「はっはー! ビューティフルレディーに身の世話をされるのは最高だねえ」

 

「もうっ、おだてないでよ〜」

 

 運ばれた料理を『あーん』して貰っている。本当に凄い奴だ……。

 三年生相手に物怖じする気配が全然見られない。むしろ、肌を密着させようとする有様だ。

 

「私たちもする?」

 

「お断りします」

 

「つれないなー」

 

「先輩は良いんですか? お金を得る貴重な機会が減りますよ」

 

「そうだね。だけど私は必要最低限のおこぼれが貰えたらそれで満足しているから。それに高円寺くんと話すより綾小路くんと喋った方が楽しそうだし」

 

 その根拠はどこから来るんだろう。当然の疑問が湧くが、すぐに打ち消す。

 出会ってたった数分で何かが分かるわけでもない。

 

「中間テストの勉強はどう? 赤点取ったら即退学だから、気を付けてね」

 

「皆必死になって勉強していますよ」

 

「綾小路くんは違うんだ?」

 

「もちろんオレもです。けど驚きました、本当に即退学なんですね」

 

「うん。実際、何人かの生徒が退学させられてるからね。でもまあ、自業自得と言われればそれまでなんだけどさ」

 

 なかなかにドライな性格の持ち主のようだ。

 カルボナーラを口に運びながら、オレと鈴木先輩は取り留めのないことを話す。彼女はとても聞き上手で、話していて苦にならなかった。

 昼休み終了まで十分を切った。

 これ以上長居をしたら授業に遅れてしまうため、客は減りつつある。オレたち一行(いっこう)もその流れに乗って、椅子から立ち上がる。会計は全て高円寺が払ってくれた。

 どこからそんなポイントが出てくるのか気になるが、考えても無駄なだけだ。

 三年生の女子生徒たちと別れる。「また今度ねー!」と目をハートマークにして彼女たちは自分の教室に向かう。だが鈴木先輩は違った。高円寺……ではなく、オレをじっと見つめている。

 

「握手しない?」

 

「それは大丈夫ですが……さっきもしましたよね?」

 

「さっきは社交辞令だからノーカウントだよ」

 

 やっぱりさっきのは社交辞令だったんだな……。

 鈴木先輩と固く握手をする。結ばれた手を上下に軽く振ってから、彼女は満足そうに微笑み、自分の教室に向かっていった。

 

「やはり女性は歳上に限ると思わないかい?」

 

「……そうだな……」

 

「はははっ。綾小路ボーイ、これからも私が気まぐれを起こしたら共にランチタイムを過ごそうではないか」

 

「その時が来たらな」

 

 高円寺はオレの返答に満足したのか、行きと同じように高笑いしながら帰る。オレはため息を吐いてから、彼の背中を追い掛けて行った。

 

 

 

§

 

 

 

 五時限目の開始五分前。

 教室に入ると、そこは喧騒に包まれていた。いや違う。いつも以上に騒々しい。

 殆どの生徒が不安そうな表情を浮かべ、何やら必死に話し込んでいるようだった。

 耳をそば立てるが雑音が混ざり合っているために難しい。

 取り敢えず席に座るかと思い立ったその時。

 

「綾小路!」

 

 須藤がオレの姿を視認するや否や俺の名前を叫んで駆け寄ってくる。それに追従するように池や山内、沖谷に、最後に、やや遅れて櫛田が近付いてきた。

 

「どうした、そんな顔になって……?」

 

 何かが起こっていることは分かる。だが、それが何かが判別出来ない。

 困惑するオレの質問に答えたのは櫛田だった。焦燥に駆られた様子で口を開く。

 

「テスト範囲が変更されていたの。しかも今日じゃなくて、先週の金曜日に!」

 

 その瞬間、オレは悟った。

 この一週間の努力が全て無に還ったことを。

 そしてこのままでは──退学者が出ることを。

 

読書の皆さんが思う、一学期の間に最も実力を示したDクラスの生徒は?

  • 綾小路清隆
  • 堀北鈴音
  • 平田洋介
  • 櫛田桔梗
  • 須藤健
  • 松下千秋
  • 王美雨
  • 池寛治
  • 山内春樹
  • 高円寺六助
  • 軽井沢恵
  • 佐倉愛里
  • 上記以外の生徒

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