ようこそ事なかれ主義者の教室へ   作:Sakiru

34 / 87
佐倉愛里の分岐点 Ⅱ

 

 午前いっぱいを使って、櫛田(くしだ)と長期休暇の課題に取り組んだオレは彼女と別れ、学生寮一階にある食堂へ向かっていた。

 階段をゆっくりと降りていると、もの凄い速さで階段を駆け上っている(けん)と遭遇する。

 

「おお、清隆(きよたか)じゃねえか!」

 

「よっ!」と健は気さくな挨拶をしてくる。

 オレも軽く手を挙げて応えた。

 

「清隆は今から飯か?」

 

「ああ、そんなところだ」

 

「食堂だったら今なら空いてるぜ。さっき堀北(ほりきた)たちと飯食ったんだ」

 

 口振りから察するに、どうやら、堀北主催の勉強会は夏休みであろうとも行われているようだ。いや、時間が膨大にある夏休みだからこそなのかもしれない。

 約一ヶ月の膨大な時間を、決して無駄遣いしないという彼女の強い意思を感じた。

 友人から有力な情報を入手したオレは礼を告げた後、「ところで」と話を切り返した。

 

「何やら急いでいたみたいだが、どうかしたのか?」

 

 すると彼は顔を瞬く間に青ざめさせた。 

 

「やべえ、そうだった! 俺、この後部活があるんだよ! シューズを忘れちまって──やべえ! 遅刻なんてしたら先輩に殺される!」

 

「マジか」

 

「マジだ。まあ、運動部なんてそんなもんだけどな」

 

「……部活に入っていなくて良かった」

 

「ははっ、確かに清隆にはキツいかもな。お前、変に抜けているところがあるから」

 

「じゃあな!」と律儀に別れを告げ、愉快な友人は雄叫びを上げながら再び駆け上がっていった。オレは「衝突事故を起こすなよー」と言ってから、足を再び動かし始めた。

 食堂は健が教えてくれたように空いていた。長期休暇に入り生徒は学生寮に居る時間が長くなるので混雑を想像していたのだが、どうやら、オレの想像とは違い、食堂を利用する者は少ないようだ。あるいは、生徒の生活習慣が乱れているのかもしれない。

 時刻は十二時四十五分。約束の時間まで充分に余裕があることに安堵しつつも、オレは食堂を見渡した。一年生の総人数は百六十名。日本政府が創立した高度育成高等学校はあらゆる面で他の公立及び私立の学校より優れている……らしい。らしい、というのは知識でしかオレは知らないからだ。

 兎にも角にも、それはこの食堂にも現れている。広々とした空間は椅子を引いても後ろの席と当たることはない。さらにはカウンター席、テーブル席に区別されている。

 約束している人物を探し──発見。向こうもオレの視線に気付いたのか、顔を上げ、オレたちは目を合わせる。

 

「あ、綾小路(あやのこうじ)くん……!」

 

 椅子から立ち上がり、彼女──佐倉(さくら)愛里(あいり)はわざわざオレの元に駆け寄ってきた。

 それは愛嬌が良い犬だと錯覚させる程で、オレはついつい頬を弛めてしまう。

 

「ど、どうしたの……? 私、変かな?」

 

「いや、何でもないさ。こんにちは、佐倉」

 

「う、うん! こんにちは!」

 

 ぎこちなくも、佐倉は笑った。近くを偶然通り掛かった男子生徒が見惚(みほ)れる。それだけ彼女の笑みは魅力的だった。

 

「随分と早いみたいだが……悪い、もう少し早く来るべきだったな」

 

「ううん……そんなこと、ないよ……。私も十五分前に来たばかりだから……」

 

 つまり彼女は集合時間の三十分前に居たということだ。

 もしこれが櫛田にでも話が行けば、説教される未来が容易に想像出来る。『表』だろうと『裏』だろうと、同級生の女の子に怒られるというのは是非とも避けたいので、彼女の耳に入らないことを切に願おう。

 佐倉が座っていたのは隅のテーブル席だった。オレは彼女の対面に座る。

 

「ありがとう、席を確保してくれていて」

 

「私が勝手にやったことだから気にしなくて良いよ」

 

 そうは言うが、人見知りの佐倉が席を陣取るのは苦行だったのではないかと心配になる。少なくともオレは苦痛に感じる。

 ましてやこれまでの佐倉の『来歴』を考えれば、通常より人の視線には敏感になるだろうし、それは彼女本人が以前言っていた。

 だが──とオレは改めて彼女を観察する。表情はやや疲れているように窺えるが、全くの嘘でもないようだ。

 

王美雨(みーちゃん)が来るまで待っていようか」

 

「うん、せっかくなら一緒に食べたいよね」

 

 その言葉を皮切りに、会話が途絶える。

 オレも佐倉も多弁ではないし、相手に合わせるタイプだから、こうなるのは必然だろう。

 とはいえ、この空気が気まずいとか、嫌だとかいう訳では断じてない。同類だからこそ、互いに尊重し合えることがあるということだ。

 ぼんやりと過ごしていると、食堂の出入口から一人の女子生徒が姿を現す。(つや)のある漆黒のツインテールは彼女のアイデンティティだ。

 彼女はオレたちの姿を見付けると、早歩きで近付いてきた。

 

「ごめんなさい、遅くなっちゃいました」

 

 女子生徒──王美雨(ワンメイユイ)は申し訳なさそうに頭を下げた。

 考える事は同じだと思いながら、オレと佐倉は時間前だから気にしないで欲しいと伝える。

 

「取り敢えず、昼食にしようか。先に取りに行ってくれ」

 

「そんな、私が一番遅かったですから……」

 

 寧ろ佐倉とオレが先に行くべきだと主張した。佐倉も「私には構わず……」と遠慮する。

 なら、とオレはこのように提案した。

 

「三人一緒に行こう。幸い利用者はあまり居ないから、席を外しても大丈夫だと思う」

 

 立ち上がり、数台並んで設置されている券売機に行く。メニューがとても豊富で、何を頼もうかと悩んでいると、右隣のみーちゃんがため息を吐いた。

 

「どうかしたか?」

 

 彼女は苦笑して、こう答えた。

 

「ううん……ただ、せっかくの友達とのご飯ですけど、食べられるのは限られているなと思ったんです」

 

 言いながら、みーちゃんが示したのは山菜定食だった。定価零円のこの定食はすっかりとDクラスに馴染んでいた。偏食しがちな若者にとってはとても健康的だろう。

 とはいえ、殆ど毎日食べていたら飽きもする。みーちゃんはクラスの中でも計画的にプライベートポイントを使っていた部類だが、流石に、振り込まれるポイントが少なければ底も尽きていくというものだ。

 先日、Dクラスは久方振りにプライベートポイントが入ったが、現金に換算すると10000円にも満たない。数週間後にはクルージング旅行が控えているので、貧しいDクラスに限らず、どのクラスもその準備にポイントを消費するのは間違いないだろう。

 

「わ、私奢るよ……」

 

 そう、申し出たのは佐倉だった。

 

「わ、悪いよ! ねえ、綾小路くん!」

 

「そうだな。女の子に奢って貰うのは気が引ける」

 

 櫛田に万が一にでも聞かれたら、ありったけの侮蔑の眼差しと罵倒が贈られそうだ。

 ……オレ、櫛田に凄く恐怖心を抱いているな。

 

「愛里ちゃん、お金に余裕あるの……?」

 

 自身がそうなのだから、佐倉もまた、プライベートポイントには余裕がない筈だとみーちゃんは思ったのだろう。

 佐倉の趣味──写真を撮ることを考えれば、カメラや写真の現像代は想像以上に掛かっている筈だ。

 だがしかし、みーちゃんは同時にこうも思ったのだろう。佐倉が嘘を吐く訳がないというものだ。

 佐倉は気まずそうにやや視線を逸らしつつも、慣れた動作で『残高照会』をする。そして画面をオレたちに見せた。

 

「えっ、これって──!?」

 

 目を見開き、愕然とするみーちゃん。慌てて口を閉ざしたのは正解だろう。もしあと一秒でも遅ければ、画面に表示されている金額を口にしてしまうところだっただろうからだ。

 果たしてそこには、大金が表示されていた。額にして、28万pr。

 とてもではないが、Dクラスの生徒では所持出来ないプライベートポイントだ。いや、学年を通しても、これだけの額を所持している生徒はごくわずかだろう。

 

「佐倉、すぐに消した方が良い」

 

「う、うん」

 

 佐倉はオレの言葉に素直に従った。アプリケーションが閉ざされ、ホーム画面が表示される。プライバシーのことを考え、オレとみーちゃんは視線を切る。

 みーちゃんの動揺は未だに収まっていない様子だった。だが、誰が聞いているか分からない公共の場で尋ねるのは迂闊過ぎる。

 佐倉が気まずそうにしながらも、

 

「ええっと、だから、二人とも、私が奢るよ……?」

 

 と、再度提案してきた。

 彼女の強い意志を感じたみーちゃんは、やがて、了承の頷きを返した。

 オレにも視線が送られる。男が女に料金を払って貰うのは格好悪い。それにオレも、彼女には遠く及ばないがプライベートポイントは充分持っている。だが、オレが辞退すればみーちゃんはまた遠慮するだろうし、何より、佐倉の厚意を無碍にする気がしてならない。

 オレは男としてのプライドを捨て、

 

「悪いな、ご馳走になる」

 

 そう、言ったのだった。

 好きな物を頼んで良いからね、と言う佐倉の言葉に甘え、オレとみーちゃんは各々選んだ。

 佐倉が代表して学生証をセンサーに翳し、会計が済まされる。

 券が発行され、そのまま食堂のおばちゃんに手渡す。数分待つと、頼んだ料理が出された。トレーごと受け取り、そのまま、元の席に戻る。

 既に彼女達は戻っていて、オレを待っていた。対面に座り──厳密には、みーちゃんの前──オレたちは合掌、昼食を開始する。

 

「「「……」」」

 

 全員とも多弁ではない為、無言で食事が行われる。

 最初に食べ切ったのは男のオレだった。次に、みーちゃんと佐倉がほぼ同じタイミングで終わる。

 

「この後はどうするつもりだ?」

 

 今回の主催者は佐倉だ。

 彼女は「ええっと」と口篭りながらも、しっかりと準備をしてきたようで、提案をしてきた。

 

「わ、私の部屋に来てくれませんかっ」

 

「「えっ」」

 

 オレとみーちゃんは揃って、驚きの声を出した。思わず顔を見合わせ、首を傾げる。

 アイコンタクトを交わすが、佐倉の意図がさっぱり分からない。結局、オレたちは揃って訝しげな視線を発言主に向けてしまった。

 

「あっ、その、違うの! 大事な話があるんでございます!?」

 

 顔を真っ赤にして、彼女はそう言った。出鱈目(でたらめ)な日本語を使った自覚が、さらに羞恥心を抱かせ、今ではすっかりと熟れた林檎のようになっている。

 みーちゃんが水を勧めると、佐倉は消えそうな声で「ありがとう……」と言い、一口飲んだ。

 落ち着きを戻したところで、オレたちは話を再開する。

 

「大事な話か……正直、オレはある程度見当がついているが……」

 

「そ、そうなんですか……」

 

 仲間外れだと思ったのか、みーちゃんが眉を下げた。

 彼女をフォローしつつ、「だが」とオレは佐倉に言った。

 

「みーちゃんは兎も角として……男のオレが佐倉の部屋に行くのは……」

 

 学生寮は男女共用だ。下層は男性が、上層は女性がそれぞれ部屋を割り当てられている。

 異性の部屋に行くことが禁じられている訳ではないが、女性が男性の部屋に行くよりも、その逆の方が、人の目に触れた時話題になる──と、櫛田に以前教わった。

 

「そ、そっか……そうだよね……」

 

 困ったな……と佐倉は呟いた。佐倉としては、部外者が居ない場所で話をしたいのだろう。オレもそれには同意見だ。下手をすれば、彼女の学生生活が根底から覆ることにもなりかねない。

 

「あー……嫌なら全然構わないんだが」

 

 と、わざとらしくオレが口を開くと、佐倉とみーちゃんは小首を傾げた。

 こほんと咳払いを打ち、提案する。

 

「オレの部屋はどうだろう」

 

「「……? ……ッ!?」」

 

 変化は激的だった。佐倉は引いた熱が一気に戻り、みーちゃんに至ってはぐるぐると目を回している。

 彼女たちの性格を考えたら無理もないだろう。

 

「何だったら、部屋に居る時は動画を撮ってくれても構わない」

 

 そうすれば、何かされるのではないかという不安が多少は軽減されるだろう。

 

「そ、そこまでする必要はないですよ!」

 

「う、うん……みーちゃんの言う通り!」

 

「じゃあ……」

 

 オレが確認を取ると、二人は顔を見合わせてから、こくりと首を縦に振った。

 そうなれば話は早い。微妙な空気が流れているのを感じつつ、オレたちは食堂を後にすると、エレベーターではなく階段で学生寮を上っていく。エレベーターに乗ると誰と遭遇するか分からないからだ。他クラスなら兎も角として、クラスメイトとは鉢合わせたくない。

 階段を上り終わると、オレは素早く鍵穴に鍵を挿した。ガチャ、という音が鳴り、解錠されたことを告げる。物陰に隠れている二人に手招きすると、彼女達は駆け出した。

 

「入ってくれ」

 

「「お、お邪魔します」」

 

 先に二人を通し、オレは誰にも見られていないことを確認してから、扉をそっと閉じた。

 瞬間、オレはどうしようもなく自分が情けなくなった。なんだか無性にそう思ったのだ。これはそう、例えるなら──浮気を必死に隠しているようではないか。

 実際にはオレは誰も交際をしていないので批難される謂れはないのだが……うん、これ以上考えるのはよそう。

 

「煎茶で良いか?」

 

 リビングで所在なさげに腰を下ろしている二人に声を掛ける。すぐに了承の旨を告げる返事が返ってきたため、パックではあるがお茶を用意した。ちなみにどうでも良いが、ここ最近は趣向を変え、様々な種類のお茶を試していたりする。

 そのうちお茶評論家だと自称するとしよう。……櫛田の冷めた目が怖いからやっぱりやめておこう。

 

「どうぞ」

 

「「い、頂きます」」

 

 ただの煎茶であるのだが、みーちゃんと佐倉は爆弾を受け取ったかのように腰が引けた状態であった。

 傷心するオレを見てか、佐倉が慌てて。

 

「ち、違うんです! 怪しい薬が入っているとかは思っていないんですけど!」

 

「…………そうか」

 

「ご、ごめんなさいごめんなさい!?」

 

 佐倉は意外にも思ったことをズバズバという性格の持ち主のようだ。

 そんな、友人の新たな一面を知ることが出来たオレは引き攣り笑いを浮かべることしか出来なかった。

 お通夜のような雰囲気になる前に──既になっているような気がするが、それは気の所為だと思おう──オレは「それで?」と佐倉に話を振った。

 

「早速で悪いが、話を聞かせて欲しい」

 

「う、うん……。その前に、化粧室を借りても良いかな?」

 

「ああ」

 

 学生寮の部屋の間取はどこも統一されている。これは生徒に不平等を与えない為だ。

「ありがとう」とお礼を言いながら、化粧室に姿を消す佐倉の背中を見送りながら、みーちゃんがオレに質問した。

 

「綾小路くんは、愛里ちゃんの話についてある程度の見当はついているんですよね?」

 

「さっきも言ったが、その通りだ。恐らく、というか、まずそれで間違いないと思っている」

 

 そうなんですか……と呟くみーちゃん。

 自分だけが蚊帳(かや)の外に居たようで、やはり、悲しみがあるのだろう。顔を俯かせていたが、すぐに上げると、決然と宣言した。

 

「でも、わざわざ私と綾小路くんを呼んだってことは、かなり大切な話だと思います。私は愛里ちゃんの友達として、向き合いたい」

 

「そうか。みーちゃんは、強いな」

 

 しかしながら、彼女は首を横に振った。

 

「いいえ、強いのは寧ろ綾小路くんです」

 

「……オレが?」

 

 ぱちくりと瞬きするオレに、みーちゃんは言った。

 

「他クラスの椎名(しいな)さんと未だに仲良くしています。あっ、それを責めているわけじゃなくてっ! ──最初はみんな、他クラスの生徒とも交流をしていました。でも今はそれももう、なくなっています。こんなの普通の学生生活では有り得ないことです。表では仲良くしていても、裏では相手の弱点はないかと探っていますから」

 

「クラス闘争の弊害だな。競争することによって味方とはより強固な絆を築き上げることが出来るが、敵対勢力になるとそうはいかない」

 

「ええ、その通りです。だから私は、綾小路くんが羨ましいんだと思います。私は臆病だから、すぐ近くに好きな人が居るのに、告白出来ない」

 

 彼女の懸想の相手は、平田(ひらた)洋介(ようすけ)だ。王美雨本人から直接そのように話を聞いた訳ではないが、それはDクラスの殆どの生徒が知っている。

 そしてそれは、洋介も知っているだろう。

 だが、彼はそのうえで尚、何もしない。彼は軽井沢(かるいざわ)(けい)という女子生徒と交際をしているからだ。平田は誠実な人間だ。浮気は決してしないだろうし、みーちゃんが恋焦がれている平田洋介という男は、そのような行為はしない。

 しかしながら、オレはこうも思う。根拠がある訳ではない。だが、確信があった。

 もし仮に平田洋介が誰とも付き合っていなくても、彼は決して、みーちゃんの告白を──いや、誰からの告白も受けないだろう。

 可笑しな話だとは分かっている。現実として、彼は一人の女性と付き合っているのだから。その障害がなければ、みーちゃんにも可能性はある筈だと、普通ならそう思うだろう。

 言葉では説明出来ない『違和感』を、オレは平田洋介と軽井沢恵の、一見すると順風満帆な交際生活に対して抱いている。

 

「オレは椎名とはおろか、誰とも付き合っていない」

 

 結局、オレが友人に言えたのは当たり障りのない事実だけだった。

 みーちゃんは苦笑すると、しかし「そうじゃないんです」と言った。

 

「それでも、綾小路くんは椎名さんと仲良くしています。実のところ、私何度か、お二人が一緒に居るところを遠目から見ているんです」

 

 驚きはしない。

 オレたち、高度育成高等学校に通っている生徒は限定されている区画で生活しているからだ。条件が整えば、学友と会うこと、すれ違うことは何ら珍しくない。

 

「……私には、無理だと思いました。綾小路くんには椎名さんと距離をとる選択もありました。それは椎名さんだって同じです。でも、お二人はどちらもその選択を取らなかった」

 

「そんな難しく考えることじゃないと思うけどな。オレも、そして椎名も。一緒に居たいと思って、今も関係が続いている。ただそれだけだ」

 

「だから、綾小路くんは強いんです」

 

 ならばと、オレは口を閉ざした。

 みーちゃんも話を戻す。

 

「ごめんなさい、話が脱線しました。つまり、私が言いたいのは、愛里ちゃんとは友達でいたいってことなんです」

 

 ──やっぱり強いのは、みーちゃんの方じゃないか。

 そんな言葉が口から洩れそうになったが、オレはそれを呑み込んで「そうか」とだけ返した。

 佐倉が化粧室を使って五分が経過した。そしてついに、扉の開閉音がやけに大きく部屋に反響する。

 みーちゃんが緊張した面持ちとなり、その時を待つ。

 

「お、お待たせ……」

 

 語尾が震えている。だが、確かにそこには『芯』があるのだと、オレは直感した。

 オレはみーちゃんに合わせ、『彼女』の方を向いた。

 

「愛里……ちゃん?」

 

 掠れた、戸惑った声を出したのは、やはりみーちゃんであった。

『彼女』──佐倉愛里はいつものように似合わない苦笑いを浮かべた。だが、いつもと違うところもある。

 

「その恰好(かっこう)は、なに……?」

 

「……やっぱり、驚くよね。綾小路くんはあまり驚いていないみたいだけど……」 

 

「そんなことはないぞ」

 

 そう言ったが、佐倉はオレの発言を信じたようには見えなかった。

 そしてオレは、改めて佐倉愛里を観察した。

 服装は、先程と同じ私服。

 だが、普段の彼女を知っている人が『今の彼女』を見ても、佐倉愛里だとは思わないだろう。

 服装は今述べたように全く同じ。違う点は以下の二つ。

 一つ目。普段のツインテール、ではないということ。二つに()んでいた鮮やかな桃色の髪は下ろされ、照明に照らされ艶やかな光沢があった。

 二つ目。これこそが最も違う点。それは、彼女が纏っている『雰囲気』。普段の彼女はおどおどしていて、お世辞にも活発的ではなく、人と話すのもやっとな状態だ。他者との会話については最近少しずつ改善されてきていると思うが、まだ、種は完全に芽吹いていない。

 それがどうだろうか。平生浮かべている苦笑いはそこにはなく、あるのは多くの人を魅了してやまない素敵な笑み。背筋をぴんと伸ばし、口元は柔らかい曲線を描いていて、纏っている『雰囲気』はとても明るい。十人の男が彼女と道ですれ違ったら、十人が美少女を二度見する為に振り返るだろう。

 

()()()()()()。私は『(しずく)』。グラビアアイドルの『雫』と申します」

 

 にっこりと花が咲くように、『雫』と名乗った少女は満面の笑みを携え、そう言った。

『佐倉愛里』という少女の、もう一つの姿──グラビアアイドルの『雫』。

 沈黙だけが部屋にはあった。

 佐倉、否、『雫』はオレたちの反応を静かに窺い、オレはそれを分かっていながらも無反応を貫いていた。

 そして、最後の一人、王美雨(ワンメイユイ)という少女は、明かされた『秘密』に呆然としていた。

 

「……ごめんなさい。打ち明けるのが遅くなってしまって」

 

『雫』の口調で、佐倉は謝罪する。

 オレは頭を下げようとする彼女を手で制すと、

 

「謝ることじゃない。佐倉の立場を考えれば、容易に打ち明けることは出来ない筈だ。オレは芸能界というものに詳しくはないが……様々な制約があるんだろう?」

 

「うん。私は隠れてグラビアアイドルの仕事をしていたから、事務所から言われているんだ。信頼出来る人にしか、教えるなって」

 

「なら、尚更だ。佐倉は誰にも言うつもりはなかった。少なくとも、部外者であるオレたちには。そのうえでお前はオレたちに話している。なら、そのことに感謝こそすれ、怒ることは決してない」

 

「……そう言って貰えると、嬉しいな」

 

 困ったように、けれど、嬉しそうに、『雫』ははにかんだ。オレはそれを見て確信する。やはり、彼女は『雫』であると同時に、『佐倉愛里』なのだと。そんな至極当然のことを、再認識した。

 そしてそれは、オレだけではなかったようだ。

 

「あああああああ愛里ちゃんがグラビアアイドル!?」

 

 驚愕こそ顔一面に広がっているが、みーちゃんが我を取り戻す。……取り戻したかと言うと疑問ではあるが、無反応ではなくなったのだから、良しとしよう。

 

「まさか友達が芸能人だなんて……」

 

 煎茶を一口飲んだ彼女は、しみじみと呟いた。

 

「芸能人って言うと、ちょっと語弊があるかも……」

 

「そうなのか?」

 

 気になる部分だったので、オレが質問すると、『雫』は「う、うん」と微妙に首を縦に振った。

 

「テレビには出演していないから。少年誌の表紙は何回か飾らせて貰ったことはあるけど……」

 

「そ、その少年誌の名前を聞いても良いかな?」

 

「調べれば出てくると思うから、良いよ。えっと──」

 

『雫』が口にした少年誌は、『娯楽』に疎いオレでも知っている程に有名なものだった。

 グラビアアイドル『雫』の知名度はオレの想像を遥かに超えているのだろう。

 

「これが、私の『秘密』です」

 

『雫』は──いや、佐倉は背筋を真っ直ぐに伸ばし、オレと、みーちゃんを見詰めてくる。

 そして、みーちゃんがゆっくりと口を開けた。

 

「愛里ちゃんがグラビアアイドルなのは分かったけど……私は今、他の疑問が生まれている。どうしてあんな額のプライベートポイントを所持しているの?」

 

 王美雨(ワンメイユイ)は聡い少女だ。佐倉愛里にはまだ『秘密』があるとすぐに見抜いた。

 質問された佐倉は迷っているようだった。学校側から直々に、あの『事件』の関係者──佐倉、龍園(りゅうえん)、椎名、そしてオレの四人──は部外者には決して口外しないよう言われており、もし万が一にでも破り、それが知られれば重い処分を受けるだろう。そのリスクを冒して、友人の質問に答えるかどうかを、佐倉は迷っている。

 だが──それだけではないだろう。見れば、佐倉の両手は小刻みに震えていた。フラッシュバックし、恐怖心が再び込み上げてきているのだろうことは想像に難くない。

 それに気付いたみーちゃんが声を掛ける。

 

「ご、ごめん。言えないことならそれで良いのっ。愛里ちゃんが不正をしたとか、そんなことは思っていなくて、ただその……気になっちゃって」

 

 佐倉は「ごめんね……」と心から申し訳なさそうに目を伏せた。

 それは何に対しての謝罪なのか。勝手な推測をするならば、それは全てに対してじゃないだろうか。

 沈黙を破ったのはみーちゃんだった。「愛里ちゃん」と名前を呼ぶ。おずおずと顔を上げる彼女にみーちゃんは優しく微笑みかけた。

 

「ありがとう、私に『秘密』を打ち明けてくれて。それが、本当に嬉しいよ」

 

「みーちゃん……」

 

「うん、だから。えっと……これからもよろしくね」

 

「…………うんっ!」

 

 顔一面に笑顔という花が咲く。

 佐倉は静かに涙を流した。みーちゃんが慌てて手巾を取り出して、彼女に手渡す。

 オレとみーちゃんは彼女の嗚咽が収まるまでずっと待った。

 

「ごめん……もう大丈夫」

 

 彼女はそう言って、深々と頭を下げた。

 オレとみーちゃんは黙ってそれを受け入れた。

 沈黙が降り立つ前にオレは「さて」とわざとらしく言った。彼女たちの怪訝な視線を浴びながら、オレは苦笑して提案する。

 

「せっかくの夏休みだ、遊ばないか」

 

 二人の友人は顔を見合わせると、うん、と頷いた。

 それからオレたちは大いに遊んだ。遊ぶ中で佐倉から別の相談──クラスメイトの山内から視線を感じるという内容だった──を受けたり、クラス闘争について話したりした。

 佐倉愛里、王美雨(ワンメイユイ)

 至って普通の少女たち。そんな二人だからこそ、オレは彼女たちとの時間が楽しいと、そう思えるのだろう。

 

読書の皆さんが思う、一学期の間に最も実力を示したDクラスの生徒は?

  • 綾小路清隆
  • 堀北鈴音
  • 平田洋介
  • 櫛田桔梗
  • 須藤健
  • 松下千秋
  • 王美雨
  • 池寛治
  • 山内春樹
  • 高円寺六助
  • 軽井沢恵
  • 佐倉愛里
  • 上記以外の生徒

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。