ようこそ事なかれ主義者の教室へ   作:Sakiru

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第四章 ─人格形成─
『天国』と『地獄』の境界線


 

 多くの子どもが『真っ白い部屋』に居た。

 (みな)(みな)椅子に座り、机の上に置かれている空白の紙を埋めるために、手に持っているシャープペンシルをただひたすらに走らせる。

 無駄なものは一切何もなく、この部屋にあるのは、机と、椅子と、最低限の筆記用具と──子どもたちだけ。

 難しい式を、彼らは難しい顔で組み立てていく。

 時には頭を抱え、時には苦悶(くもん)の声を上げ、時にはシャープペンシルを放り投げる者も居る。

 窓の向こう側には白衣を(まと)った大人が数名居て、()()()の表情、仕草、はてには心拍数すらも監察している。

 内界と外界は完全に絶たれていて、境界線を超えることが出来る者は一握りの権力者だけ。

 どれだけの時間が経っただろうか。

 やがて、一人……また一人と子どもは減っていく。

 時間の経過が過ぎる程に、被験者の数もまた比例して減っていく。

 

 泣き出す者が居た。

 

 怒り出す者が居た。

 

 困惑する者が居た。

 

 絶望する者が居た。

 

 現実を受け止める者が居た。

 

 現実を受け止められない者が居た。

 

 前、後、右、左。

 

 この世界から彼らは音もなく消えていく。まるで、最初からそこには誰も居なかったかのように……真っ白い空間だけが代わりに生まれる。

 その中でオレは、ひとり黙々とシャープペンシルを動かしていた。

 人が消失していくのは知覚していた。だがオレは、彼らの消失に何も思うところがなかった。否、それは誇張だろう。

 

 ──……ああ、また居なくなったんだな。

 

 答えを解答欄(かいとうらん)に書き込みながら、頭の片隅でそんなことを思考する。が、それも一瞬。

 感情は通り過ぎ定着はしない。すぐに『無』に帰る。

 そしていつしか、室内に居るのはオレだけとなっていた。

 

 ──…………嗚呼、またか。

 

 何度目かの結果に心の中でため息を零す。無論、手は動かし続ける。

 すると机に影が出来る。誰かが内界に侵入してきたのだ。

 

清隆(きよたか)

 

「────」

 

 この窮屈な部屋で、オレの名前を呼ぶ者はたった一人だけ。

 だがオレは特に反応を返すことはしなかった。

 何故男がオレを呼んだのか、何を話そうとしているのか。その全てがどうでも良かったからだ。

 無反応を示すオレを見ても、男が機嫌を悪くする気配は感じられなかった。

 むしろオレが顔を上げでもしたら、男はどうするのだろうか。その点については(いささ)か興味が湧いたが、浮上した好奇心という名の感情はすぐに沈められる。

 

「清隆、よく覚えておけ」

 

 再度オレの名前を呼んでから、男はそう言った。

 そこでようやくオレは顔を上げ、彼の顔を静かに見つめた。

 声色、息遣いから分かっていたが、その男はオレが知っている男だった。既知の間柄と言えなくもないが、だからといって相手することに特別な喜びは感じられない。

 顔を上げた理由はただ一つ──『命令』だからだ。

 この空白の部屋の中では、男の言うことは絶対的なものであり、何人(なんぴと)たりとも逆らうことは赦されない。

 互いに無感情な表情で互いの顔を凝視する。

 やがて、男は言った。

 

「──『力』を持っていながらそれを使わないのは、愚か者のすることだ」

 

 

 

§

 

 

 微睡(まどろ)み。

 頭が優しく撫でられる感触によって、オレはおもむろに瞼を開けた。

 脳が働き、意識が急速に冴えていく。

 朧気だったものの輪郭(りんかく)がしっかりとした線になり存在を浮き彫りにしていくまで、そこまでの時間は掛からない。

 すると頭上から美声が投下された。

 

「──おはようございます。熟睡出来ましたか?」

 

 オレはぱちくりと何度か瞬きしてから、声主を視認した。

 非常に整った顔立ちに、見る人を見惚(みほ)れさせてやまない純白の髪色。陽の光に反射して、今は白銀に映っている。

 友人の椎名(しいな)ひよりだ。

 

「……おはよう」

 

「ええ」

 

 起床の挨拶を口にすると、椎名は薄く微笑んだ。同時に、右手でオレの頭部を撫でながら。左手には文庫本が握られている。

 後頭部に感じるのはひとの温もり。確認するまでもなく少女の太腿だろう。

 彼女の小さな顔越しに見えるのは無限の蒼穹(そうきゅう)。雲一つがない碧空(へきくう)に、眩いばかりに輝く太陽。

 何となく右手を伸ばすと、彼女は読み掛けの本をオレの腹の上に置いてから握ってくれた。

 まるで(けが)れを知らないかのように白く、それでいて華奢な指がオレの指にしっとりと絡み付く。

 肌と肌との接触によって感じるあたたかさ。

 オレはこのひとときを堪能することにした。恐らく、今のオレは嘗てない程に心の底からリラックスしているだろう。この喜びが嬉しくもあり、同時に、悲しくもある。

 ややしばらくすると、彼女が問い掛けてきた。

 

「まだ眠りますか?」

 

 何とも甘美(かんび)な誘いだ。

 本音を言うと、是非ともこの至福の時間をまだまだ過ごしたい。この穏やかな気持ちを抱えたまま……少しとは言わずに、ずっと過ごしていたいくらいだ。

 だが、そうも言ってられないだろう。

 

「……いや、起きるよ」

 

 首を横に振ると、土台の少女の膝もまた微かに揺れる。

 椎名は(くすぐ)ったそうにしてから、オレを起こそうと背中に手を押し当ててくれた。彼女に全部任せるわけにはいかないので、オレも自身の意思で身体を起こす。

 

「どれくらい寝てた?」

 

 ベンチに座り直している椎名に確認すると、彼女はやや考え込む仕草を見せてから答えた。

 

「そうですね……だいたい一時間くらいでしょうか」

 

「あー……悪いな。ずっと同じ姿勢で疲れただろ」

 

 ところが少女はふるふると首を横に振った。

 携帯端末を取り出して操作してから、オレに液晶画面を見せてくる。

 画面を見た瞬間、オレは思わず顔を引き()らせた。何故ならそこには熟睡しているオレの姿があったからだ。

 

綾小路(あやのこうじ)くんの寝顔、とても可愛かったですよ」

 

 ですから見ていて飽きませんでしたと、椎名は悪びれず言う。

 勝手に写真を撮るなよと苦言を(てい)したかったが、少し考えてからやめておいた。

 彼女の言葉が本当なら、一時間という長時間に渡ってオレは彼女を束縛(そくばく)していたのだ。オレの寝顔の写真一つで済むのなら、それに越したことはないだろう。

 

「ですがちょっとびっくりしちゃいました。綾小路くん、気付いたら眠りについていましたから」

 

「……気持ち良くて、ついうっかりな。悪い」

 

 椎名とオレは一時間前までは確かに読書に(きょう)じていたのだが、ぽかぽかとした陽射しによってオレの意識は眠りに(いざな)われてしまったようだ。

 視線を逸らしながら言うと、彼女は「責めていませんから」と言ってくれた。

 

「綾小路くんの気持ちも分かります。何て言ったって、私たちは今……海の上に居るんですから」

 

 そう、オレたちは……いいや、高度育成高等学校に在籍している一年生は現在、太平洋のど真ん中に居た。

 常夏(とこなつ)の海。無限に広がる青い空。澄み切った空気に混じる微かな塩の香り。そそぐ潮風は夏の厳しい陽射しを感じさせず、オレたちの身体を優しく包み込んでは旅をしていく。

 

「まさしくシーパラダイス、だな」

 

「ええ。まさか生きているうちにこんな体験が出来るなんて……思いもしませんでした」

 

「うおおおお! 最高だああああああああああ!」

 

 どこからか聞こえてくる聞き慣れたクラスメイトの声。

 彼は今、この豪華客船のデッキで遊んでいるはずであり、オレたちが現在居るのはその反対側であるため聞こえるはずもないのだが……。

 潮風によって運ばれてきたのだろうか、それとも彼の歓喜の声があまりにも大きかったのだろうか。

 

「ふわあ……」

 

 欠伸(あくび)を噛み締め、空気に漏らすと、くすりと椎名が笑いながら、悪戯(いたずら)っぽく聞いてくる。

 

「やっぱりまだ眠りますか?」

 

 ぽんぽんと自身の膝を叩きながら、彼女は「いつでも構いませんよ」と言った。

 堪らずにオレは苦笑する。

 入学当初から椎名とは友人関係を築いているが、まさかここまで親しくなるとは正直なところ思っていなかったのだ。

 純粋に嬉しく思う。

 オレがこの数ヶ月で変わったように──そう思いたい──、彼女もまた随分と変わっていた。最初あった無表情は今ではすっかりと()せていて、彼女本来の色が彩られるようになっている。

 

「けどまさか、本当に豪華客船に乗れる日が訪れるとは思っていませんでした。もちろん、学校から説明はありましたけれど……正直、実物を見るまで半信半疑だったんですよ」

 

 その気持ちはよく分かる。

 中間試験、期末試験、さらにはアクシデントとして『暴力事件』が起こったりしたが、オレたち一年生は、百六十人全員が一学期の全過程を終了させた。

 待望の長期休暇を迎えたオレたちを待っていたのは、学校が用意した二週間の豪華旅行。豪華客船によるクルージングだった。

 

「お父様お母様……私を産んでくれてありがとう! お土産(みやげ)は買えないけど、無事に卒業出来たら思い出話をたっぷりと聞かせるね!」

 

「神様、私を産んでくれてありがとう! これからは嫌なことがあっても八つ当たりしないね!」

 

 二人の女子生徒の会話が、なかなかにアレな内容だった。

 特に後者は酷かった。本当に神様が居たら神罰(しんばつ)を降しそうだな。

 しかしながら、彼女たちの気持ちは当然と言えよう。

 一般人からしたら規格外の旅行であることは確かだからだ。日本政府が創立したこの学校は、学費や諸々な雑費を払う必要が皆無。そしてそれは、このイベントにも適用されるようだ。

 オレたちが乗り込んでいるこの客船も外観は圧巻の一言であり、また内部施設も充実している。一流の有名レストランに演劇が楽しめるシアター、遊戯施設、さらには高級スパまでもがあるのだとか。

 

「個人で旅行しようとしたら……何十、いや何百万は一気に消えそうだな……」

 

「赤字じゃないんでしょうか?」

 

「どうだろうな……。普通に考えたら椎名の言う通り赤字だけど……それを帳消しにする何かがあるんじゃないか」

 

 常識的に考えて、一介の高校生にここまでの無償の行いは異常だろう。

 

「今日から二週間、何が起こるのでしょうか……」

 

「分からない、としか言い様がないな」

 

 (ぜい)の限りを尽くした豪華旅行は二週間の計画だ。

 最初の一週間は無人島に建てられているペンションで夏を満喫し、その後の一週間は客船の中での宿泊になっている。

 オレとCクラスの『王』の見立てでは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……。

 

「ところで、綾小路くん」

 

「何だ?」

 

「私は兎も角として……クラスメイトの方たちと一緒に行動しなくて良いのですか?」

 

「あー……そうだな……」

 

 オレは言葉を(にご)らせた。

 椎名の指摘は尤もなものだ。

 客船のラウンジで朝食を食べてから、オレは彼女と行動を共にしていた。一度たりとてクラスメイトの元に向かう素振りを見せていないオレを気に掛けるのは必然だろう。

 無論、オレだってクラスの連中と合流したい気持ちは多少なりともある。

 ……が、現実はとても残酷なのだ。

 

「ほら、この前の一件があっただろ? 完全に……とはいかないけど、まだクラスから浮いているんだよな……」

 

「その、ごめんなさい……」

 

「椎名が謝ることじゃないから……」

 

 暗い空気が漂う。

『暴力事件』でオレが取った行動は、未だに多くの生徒から関心と反感を寄せられている。オレの所属クラスであるDクラスでは我らが先導者によって幾分かは鎮圧されているが、それでも時々ながらも嫌な視線を感じるのが実情だ。

 とはいえ、完全に自業自得だから文句は自分にしか言えないのだが。

 洋介(ようすけ)はクラスメイトの面倒を見るのに忙しく、(けん)は客船の中にあるジムで身体を鍛えているそうだ。二人とも、旅行先なのにぜんぜん旅行を楽しんでいないな。

 これまでは健を含めた三バカトリオ、沖谷(おきたに)とよく一緒に居たものだが、すっかりと疎遠となっている。

 佐倉(さくら)やみーちゃんとは遊ぶ仲ではあるけれど……女性と居るなら椎名と一緒に居た方が格段に楽だ。

 

「それでしたら、龍園(りゅうえん)くんとはどうでしょうか?」

 

「それ、本気で言っているのか」

 

「もちろん冗談です」

 

 笑えない冗談はやめて欲しい。割と切実に。心が虚しくなるから。

 そう言えばと、オレは隣に座っている少女を失礼にならない程度に眺めた。

 大半の生徒が持ってきた私服や、客船内で借りることが出来る水着に着替えている中、彼女は未だに制服姿だ。

 

「着替えないのか?」

 

 疑問に思ったので尋ねたところ、椎名は呆れたようにオレの体を指さした。

 

「綾小路くんこそ着替えないのですか?」

 

 オレもまた制服姿だった。

 流石に熱中症になるのでブレザーは脱ぎ、長袖ワイシャツに長ズボンといった姿だ。

 なるほど、確かに言う通りだな。

 

「面倒だからオレは着替えないかな」

 

 洋介のような(さわ)やかイケメンなら私服姿にも価値があるだろうが、オレのような人間が着ても意味は無いだろう。

 

「私も同じです。私服は兎も角として……水着は嫌ですね」

 

 それはかなり勿体ない。

 椎名程の美少女なら、水着はさぞかし似合うと思うんだが……。

 

「理由を聞いても?」

 

「水着に着替えても、デッキのプールで泳ぐわけでもありませんし……。それに何より、知っているとは思いますが……私、運動が苦手なんですよ」

 

 椎名は苦虫を噛み潰したように(うめ)いた。

 オレは得心した。確かに以前、そのようなことを言っていた気がする。

 

「よくそれで水泳の授業が出来たな……」

 

「いえ全然です。何度か適当な嘘を吐いて欠席したくなりました」

 

 当時を思い出しているのか顔を顰める。

 私、運動音痴なんです……と、椎名は自虐するが、それでも授業に参加していたのは偉いと思う。

 Dクラスの女子はそれこそ彼女が言ったように、適当な嘘を何人も吐いていたしな。担当教師のおっさん先生が可哀想だった。

 

「無人島まであと何時間くらいでしょうか」

 

「予定だと、昼前には着くって聞いていたよな」

 

 現在時刻を携帯端末を使って確認すると、昼前を指していた。いつも以上に時間の経過が早く感じるのは、オレ自身、このバカンスを楽しんでいるからだろう。

 

 ──そんな時だった。

 

『生徒の皆様にお知らせします。お時間がありましたら、是非デッキにお集まり下さい。間もなく島が見えて参ります。しばらくの間、非常に意義ある景色をご覧になって頂けるでしょう』

 

 突如として艦内放送が流れる。近くに居た生徒たちは歓喜の声を上げているが、オレと椎名は違った。

 

「『奇妙』な放送でしたね」

 

「ああ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 真意を摑もうにも情報が少な過ぎる。

 オレたちは勧められるがままにデッキに向かうことにした。反対側のためにかなり歩くことになるが、それは仕方がないと割り切るしかない。

 道中、たくさんの生徒の後ろ姿を見掛ける。オレたちと同様、放送に導かれてデッキに向かっているのだ。

 

「あれ? 綾小路くんに椎名さん!」

 

 背後から声が掛けられた。

 椎名と揃って身体を振り向かせると、そこには一年B組の委員長を務める一之瀬(いちのせ)帆波(ほなみ)の姿が。

 やっほー! と元気よく挨拶をしてくる。

 

「久し振りだねー、二人とも!」

 

「最後に会ったのは……あの時か。久し振りだな、一之瀬」

 

「お久し振りです、一之瀬さん」

 

 挨拶を交わしたところでオレは、一之瀬が一人で居ることに気付いた。

 友人が少ないオレや椎名とは違い、彼女は学年を超えた有名人。そんな彼女が一人で居ることに、ちょっとだけびっくりする。

 椎名も同じ感想を抱いたのか、嫌味にならないように配慮しながら尋ねた。

 

「お一人ですか?」

 

「私? うん、そうだよー。『冒険をしよう!』って誘われたんだけどねー」

 

「冒険か……」

 

「それはまた……アグレッシブですね……」

 

「にゃはははー、二人とも思ってることが顔に出ているよ……」

 

 苦い顔を浮かべてしまい、一之瀬に指摘される。流石の彼女も苦笑いだった。

 しかし冒険か。無人島での生活が終わったら、一通りは散策をした方が良いかもしれない。もしもの時に活かせる可能性があるだろう。

 

「けど断ったんだな。何か他に用事があったのか?」

 

「うん。星乃宮(ほしのみや)先生って分かるかな。Bクラスの担任なんだけどね」

 

「確か保健の先生ですよね。直接の面識はありませんが、多くの生徒からかなり慕われているのは耳にしています」

 

「綾小路くんは……そう言えば、随分前に話してたよね」

 

「よく覚えているな。一之瀬の言う通り、何回か喋ったことはあるけど……あんまり良い思い出はないな……」

 

「綾小路くん、また顔に出ているよー」

 

「あー……別に嫌いじゃないんだ。ただちょっとだけ苦手なんだよな」

 

 そう言うと、二人は得心がついたように頷いた。

 彼女たちとは親しくさせて貰っているから、オレの性格は分かっているのだろう。

 

「それでさ、星乃宮先生とスパを利用していたんだ。凄いよね、ここはさ。無償ってところが本当に凄いよ……」

 

 彼女はしみじみと呟いた。どうにも一之瀬らしくない、(うれ)いを帯びた表情だが……まあ、こんな日もあるだろう。

 客船内では、どの施設も無料で利用することが出来る。

 日頃から金銭不足に襲われているDクラスの生徒からしたら実にありがたいことだ。

 

「星乃宮先生についてだけど……そう言えば、神崎(かんざき)くんも同じようなことを入学したての時に言ってたかな。あっ、この前二人で遊んでたよね、ケヤキモールでさ」

 

 思い出したように一之瀬は言った。

 神崎もまた彼女と同じくBクラスの生徒だ。

 

「夏休みのほんとの序盤に一回だけだけどな。偶然会ったから、そのまま流れで過ごしたんだ」

 

「そっか、なら良かったよ。神崎くん、あまり自分をアピールしないからさ、心配だったんだよね」

 

「綾小路くんと同じタイプですね」

 

「そうそう、そうなんだよねっ。……お節介かもしれないけどさ、これからも彼と仲良くして貰えないかな」

 

「もちろんだ」

 

 オレ自身、神崎の性格は好ましかった。

 最初の出会いこそ微妙なものだったが、人間、少しでも時間を共有すれば印象はすぐに変わる。

 恐らく、椎名とも気が合うだろう。

 

「あっ、二人は今もしかしてデート中だったりするのかな?」

 

 だとしたら私邪魔だよね……と、一之瀬は申し訳なさそうな顔を作るが、全然そんなことはない。

 オレと椎名の共通の友人といえば、彼女くらいしかいないからな。

 それに何より……。これは、デートって言えるのか? 

 彼女いない歴=実年齢という経歴を日々更新している身からすれば、首を傾げてしまう。

 

「大丈夫ですよ、一之瀬さん」

 

 そうですよね? と目で確認されたのでもちろんとばかりに首肯する。

 一之瀬は安堵の息を吐いてから。

 

「二人はデッキに向かおうとしているのかな?」

 

「ええ。さっきの放送が気になりましたから」

 

「綾小路くんも?」

 

 逡巡してから、オレは頷いた。

 彼女の前では嘘を吐いても意味は無いだろう。

 

「やっぱり気になっちゃうよね、あの放送。──今回は綾小路くん、きみはどうするのかな?」

 

「……」

 

 一之瀬らしく、真正面から切り込んできた。

 さてどうしたもんか。

 DクラスとBクラスは協力体制を築いている。というか、オレが仲介役を担ったわけだが……。

 オレ自身、一之瀬帆波とは出来ることなら争いたくない。だが今回に限っては──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 オレは茶柱(ちゃばしら)を恨んだ。奴の所為で面倒臭いこと極まりない状況にまで圧迫されているのだ。

 

「……」

 

 なおも黙り込むオレに、一之瀬は不思議そうに首を傾げた。

 彼女からしたら、オレが否定すると予め想定しての問い掛けだったのだろう。

 

「まっ、それならそれで良いよ。どっちみちこの学校の異質さを踏まえたら、クラス闘争は必然的に起きるわけだしね」

 

「…………悪いな」

 

「ううん、むしろ私こそごめんね。踏み込みすぎたからさ。けど綾小路くん、これだけは言わせて欲しいかな」

 

 一之瀬はこほんと咳払いしてから、言葉を続けた。

 

「何があっても私たちは友達だよ。これは絶対だから、覚えておいて欲しい」

 

 そう言い切った彼女は微笑んだ。

 予想だにしていなかった言葉にオレが呆然とする中、遠くから一之瀬を呼ぶ声が出された。

 ちらりと一瞥(いちべつ)すれば、そこでは数名の女子生徒が手を振っていた。友人だろう。

 

「あっ、ごめんね二人とも。お呼ばれされちゃったから、私もう行くね。また後で会えたら会おうよ」

 

「もちろんです。それでは一之瀬さん、ごきげんよう」

 

「うんっ」

 

 パタパタと廊下を小走りして、一之瀬は友人たちの元に向かった。合流し、彼女を中心にして歩き始める。

 オレは去っていく背中をただただ瞠目して見届けるしか出来なかった。

『何があっても私たちは友達だよ』か……。迷いなく断言出来るのは一之瀬帆波という少女の魅力だろう。

 誰しもが彼女の在り方に羨望の眼差しを向けるのは当然のことだ。

 だが──オレはどうだろうか。

 そこまで考えて自嘲する。()()()()()()()()()()()()()()()()()? 悪魔が静かに囁いた。

 

「──私たちも行きましょうか」

 

 オレの内心の変化を察したのか、椎名がオレの手を摑んで言ってきた。

 船内から出ると、最初に歓迎したのは先程から変わらない碧空に、爛々(らんらん)と光る太陽。

 あまりの眩しさに目を細めてしまう。

 視線を上から下に下げたところで、地平線上にぽつんと浮かぶ点が微かに映った。

 

「あそこで一週間過ごすのですね」

 

「「「うおおおおおおおおおおお!」」」

 

 柵から身を乗り出して歓声を上げている大勢の生徒たち。

 着々と近付いてくる無人島を一目見ようと群衆がひしめき合っている。

 

「痛っ……!」

 

 どこからか小さな悲鳴が出された。

 

「だ、大丈夫か京介(きょうすけ)!? おい、何するんだよ!?」

 

 続けて出された怒号。

 どちらも聞き慣れたものだ。

 オレは椎名に一言(ひとこと)言ってから、騒動の中心部に向かうことに決めた。赤の他人なら無視を決め込むところだが、いくら疎遠になったとはいえ、クラスメイトの危機には駆け付けるべきだろう。

 

「おっ、清隆じゃねぇか。こりゃあいったいどうなってんだ?」

 

 道中、私服のジャージ姿の健とばったり会った。

 首には純白のタオルが巻かれていて、顔には疲労の色が少し浮かんでいる。

 移動しながら手短に話す。

 

「ジムはどうだったんだ?」

 

「おう、ここは最高だぜ。最新鋭の設備が何個もあってよ、めちゃくちゃ鍛えられるな!」

 

 健は不良少年から熱血少年に変貌していた。

 入学当初から到底考えられない程の変化だが、これもまた『成長』と言えるだろう。

 

「ここか……人が多いな……」

 

 遠巻きに眺めている人集りが邪魔だった。

 これでは中心部に辿り着くのに苦労しそうだ。

 

「俺に任せろよ、清隆!」

 

 ふんす! 鼻から息を吐き出して、須藤は腕をぐるぐると回し始めた。

 どうやら、やや強引にでも突貫する作戦のようだ。

 いつもならやめろと言うところだが──

 

「頼む」

 

「おうよ!」

 

 うおおおおおお! 雄叫びを上げ、健は前へ前へと一直線に進行する。オレは彼の真後ろにびしっと張り付き追うだけで良いから、物凄く楽だった。

 押し寄せる波をバッサバッサと切り捨て、オレたちは舞台に登った。

 そこでは争いの構図がしっかりと描かれていた。

 (いけ)櫛田(くしだ)、沖谷といったDクラスの生徒を、顔は辛うじて見覚えがあるが名前は知らないAクラスの生徒が見下ろしている。

 彼らAクラスの顔には侮蔑の表情がありありと浮かんでいた。

 小声で隣の友人に囁く。

 

「……健、両者の間に立ってくれ。分かっているとは思うが──」

 

「分かってる。暴力は振るわねえ……体格差を見せ付けるだけで充分だ」

 

 今の健なら全幅の信頼をおけるな。

 彼と別れ、オレは池や櫛田たちのもとに向かった。

 その間に健が中間点で立ち塞がる。

 

「綾小路くん、須藤くん!」

 

「これはいったい……どうなっているんだ?」

 

「あいつらが京介の肩を突き飛ばしたんだ!」

 

 池が憤りを隠せない表情で()える。平生の彼からは考えられない程の気迫(きはく)を以て、敵を強く睨む。

 オレは沖谷の傍に立っている櫛田に真偽を確かめた。彼女はこくりと頷く。

 なるほどな……予想通りと言えば予想通りか。

 

「な、何だよお前らは! 急に出てくるんじゃねえよ!」

 

 Aクラスの生徒の一人が、圧倒的な体格を誇る健の登場に怯みながらもそう言った。

 彼らも知っているはずだ。健が先の『暴力事件』の渦中の人物だったことに。

 結果はCクラス側の訴えの取り下げによって彼の無実は事実上証明されているが、それでも、彼が喧嘩に強い、という事実は残っている。

 

「あ? 俺たちはダチのために駆け付けたんだ。それのどこが悪いんだよ」

 

 ポキポキと骨を鳴らしながら、健は静かに佇む。

 今の彼はさしずめ正義のヒーローと言ったところか。

 彼が牽制している間にオレは事実確認を取った。

 

「彼らが沖谷の肩を突き飛ばしたのは分かったけど、それは明確な悪意があったのか?」

 

「当たり前だろ、綾小路! じゃないと、京介があんなにふらつくわけがない! そうだよな、櫛田ちゃん!」

 

「そう……だね。これには私も池くんと同じ意見かな。さっきの放送が流れるまで、私たちはデッキの一番良い場所で海の景色を堪能していたの。けど放送が流れて、他の人たちが一気に押し寄せてきて……」

 

 そこでAクラスの生徒が絡んできたのか。

 騒動は時間が経つにつれて大きくなっていく。

 最初は小規模だったが、今では甲板に居る生徒全員の関心が寄せられる程の大きさになっていた。

 その中には当然、A、DクラスのみならずB、Cクラスの生徒も居る。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ぴりぴりとした剣呑な空気が流れ、青空の下には似合わない重たい雰囲気に移行する。

 良い機会だ、これを活かさない手はない。

 

「櫛田、悪いけど二人を頼む」

 

「……えっ? あ、綾小路くん!?」

 

 櫛田に一方的な命令を伝え、オレは自身の名を呼ばれるのも(はばか)らずに健の隣に立った。

 奴らに会話を聞かれないよう、モールス信号で仲間に『待機』の指示を出す。

 

「お前は……綾小路、だったか」

 

 Aクラスの生徒の一人が呟く。

 

「こいつが……?」

 

「ああ、間違いない」

 

 その瞬間、彼らの意識は健からオレに集中する。

 目には警戒の色がありありと浮かんでいた。そして僅かな恐怖の色も。

 オレは無感動に周囲一帯を見渡してから、おもむろに口を開いた。

 

「……一応そっちの弁明を聞くが、沖谷をわざと突き飛ばしたのか?」

 

「ハッ、これだから不良品は!」

 

 すると奴らの一人が鼻で笑った。目には嘲りの色を、顔には侮蔑の表情を浮かべ、失笑する。

 と、ここまで聞けばどこぞの『王』が想起されるが、悲しきかな、彼にはそこまでの度胸がないらしい。

 

「もう一度言ってみろや!」

 

 健がひと睨みしただけで「ひいっ……!」と悲鳴を上げた。

 奴らからしたら完全に想定外だったのだろう。確かにDクラスには特別、身体能力に秀でた者は少ない。

 挙がるとしてもここにいる須藤(すどう)健や、自由人である高円寺(こうえんじ)六助(ろくすけ)ぐらいなものか。

 その高円寺と言えば、遠巻きからオレたちをにやにやと笑いながら眺めていた。てっきり一人悠々と過ごしているかと思っていたが……いや、彼もまた違和感を覚えたからこそここに居るのだろう。

 助けてくれと頼ったら彼の気分如何では助けてくれそうだが、まあ、借りを作りたくないから却下だな。

 

「それで、どうして沖谷を?」

 

「お、お前らもこの学校の仕組みは理解しているだろ。ここは実力至上主義の世界だ。Dクラスに人権なんてないんだよ! この客船には高級レストランがあるけどな、お前らに使う権利なんてない! ハンバーガーでも食ってろ!」

 

「あぁん!? てめ、ハンバーガーをバカにすんなよ! お前……お前、ハンバーガーはなあ! 最高のジャンクフードなんだよ!」

 

 思わぬところで健の怒りを買ったようだ。ガルルルゥ! と威嚇するさまは百獣の王、ライオンのようだ。

 だが、沸点を迎えたのは彼だけじゃないらしい。そこかしこから「そうだそうだ! ハンバーガーをバカにすんじゃねえ!」といった非難の言葉が飛ばされる。

 徐々に増えていくアンチAクラス。

 

「う、うるさい! と、兎も角だ……不良品は不良品らしくしていろ! こっちはAクラス様なんだよ!」

 

 声高にAクラスの有能さをアピールするが、残念なことにそこまでの効力はなかった。

 野次馬の女子生徒たちの会話がどこからか聞こえてくる。

 

「うわぁ……中間試験の時、その不良品のクラスに負けたのに何を言っているんだろうね」

 

「ちょっ、やめてあげなよー。ここは調子に乗らせて自尊心を満たしてあげるのがベストなんだからさー」

 

 悪意のない言葉は刃となって、彼らの心を引き裂いた。

 向けられる同情の視線。

 形勢が圧倒的に不利だと遅まきながら察したのか、彼らは苛立ちながら立ち去って行った。

 

「勝った、のか……?」

 

 池が後ろで小さく呟いた。

 そして、あらん限りに叫び出す。

 

「うおおおおおおお! やってやったぜ──!」

 

 勝利の雄叫びを上げる池に続いて、他のDクラスの生徒からも「やった!」とはしゃぐ声が出された。

 すぐにオレたちを囲み、勝利の余韻(よいん)に浸る。

 

「かっこよかったよ、みんな」

 

 そう言ったのは松下(まつした)──正直、下の名前はうろ覚えだ──だった。

 普段は篠原(しのはら)佐藤(さとう)──同じく、下の名前はうろ覚えだ──と行動をしているために、今も彼女の周りには二人が居た。

 照れたように笑う池が、「どこがかっこよかった?」と尋ねる。いつもなら調子に乗るな! と言われるのだが、今回はそんなことは起こらなかった。

 代表として、クラスの女王である軽井沢が答えた。

 

「そうだねー。池くんは実は意外に友達想いってことが分かったし、須藤くんはボディーガードとして立ち塞いでいたし、綾小路くんは……綾小路くんは……?」

 

 ううーん、と首を捻る軽井沢。

 必死に良い点を探しているのは伝わってくるのだが、彼女と浅からぬ因縁があるオレからしたら、絶対にわざとだろ! と思わなくもない。

 そんな彼女をフォローするかのように、櫛田が尊敬の眼差しを向けてきながら言った。

 

「綾小路くんもかっこよかったよ! 冷静に話を進めようとしていて……それに須藤くんもコントロールしていたしね」

 

「おいおい……俺はこいつの犬かよ……」

 

 健が勘弁してくれよとばかりに両手を挙げる。すると笑いが起こった。

 そこに山内(やまうち)が「俺が居たらもっと早くに鎮圧出来たのにな!」と便乗し、笑い声はますます大きくなる。

 この学校に入学してから四ヶ月が経とうとしているが、一学期の最後の一ヶ月で、オレたちDクラスの仲は急速的に縮まっていた。

 今も、最初は不良少年として怖がられていた須藤を交えて冗談を言い合っているのだから、仲間意識が生まれているのは間違いないだろう。

 

「あれ、揉め事が起こっていると聞いて慌てて来たんだけど……その心配は要らなかったようだね」

 

 洋介の登場に、場のボルテージは最高潮に達した。

 流石はDクラスの先導者だ。

 ちなみに、今はオレが所属するグループのリーダーでもある。一学期が終わる最後の日、旅行に向けた宿泊部屋のグループが決められた。

 その際、オレたちは迷うことなくグループを結成した。健が入りたそうにしていたが、彼は池、山内、沖谷のグループに招かれていたため出来なかった。

 オレたちのグループは、オレ、洋介、幸村(ゆきむら)、高円寺の四人。なかなかに面白い人員だと自分でも思う。

 

三宅(みやけ)くんと話していたから来るのが遅くなっちゃってね。けど良かった、清隆くんのおかげだよ」

 

「オレは何もしていないぞ。むしろ今回活躍したのは健や池だ」

 

「そうだぜ平田!」

 

「うん、皆凄いよ!」

 

 洋介の笑顔が眩しくて直視出来ない。

 イケメンスマイルに崩れていく女子生徒たち。ここまでが一連の流れなのだから末恐ろしい。

 戦々恐々しながら、椎名の姿を捜す。彼女は人集りから一歩引いた場所で、海の景色を眺めていた。

 視線の先にあるのは無人島。点だった島はくっきりとした輪郭を浮かばせていて、オレたちを待ち侘びているようだった。

 

「──争い事は嫌ですね」

 

 視線を外すことなく、彼女はそう言った。

 オレは無言で少女の隣に行き、潮風に身を委ねる。

 そのまま数分が流れ、歓声の声が豪華客船中で溢れ出た。

 上陸の時がすぐ目前……それだけの距離になったからだ。

 生徒たちの熱気と興奮が高まっていく中、しかし船は桟橋をスルーした。てっきり島に着けられると思っていたんだが……──なるほど、そういうことか。

 島の周りを迂回(うかい)する船に、けれど不満の声が上がることは決してなかった。

 

「凄く神秘的な光景ですね……」

 

 言葉とは裏腹に、椎名の表情は晴れない。

 

「……」

 

 オレは彼女に掛ける言葉がなかった。

 島の観察を続ける。だが、船の旋回速度が早いために苦労する。

 国から借り受けて管理する島の面積は約0.5k㎡、最高標高230m。日本全土から見ればちっぽけな島だが、百数十名がバカンスで過ごすには充分程だ。

 

『これより、当学校が所有する孤島に上陸致します。生徒の皆様は三十分後、全員ジャージに着替え、所定の鞄と荷物をしっかりと確認した後、携帯を忘れず持ちデッキに集合して下さい。またしばらく御手洗に行けない可能性がありますので、きちんと済ませておいて下さい。繰り返します──』

 

 二度目の船内放送が流れた。

 ぞろぞろとグループ部屋に向かい始める生徒たちを他所に、椎名はなかなか動こうとしなかった。

 彼女を待つ必要性は皆無だ。むしろここはオレが彼女を促す場面だろう。

 だがオレは、敢えてその選択をしなかった。ただ静かに彼女を待つ。

 

「──争い事は嫌ですね」

 

 オレは二度目のその言葉を受け入れた。

 どちらともなく互いの顔を見つめ合う。

 少女の顔は複雑な色で彩られていた。彼女が何を想い、何を考えているのか──。

 突然、一陣の強烈な潮風がどこからか運ばれる。

 反射的に目を(つむ)り、瞼を開けると、彼女の身体がとても近くにあって、オレは心の底から驚いた。

 

「────」

 

 少女が紡いだ音が少年に届けられる。

 次の瞬間には彼女の身体は元の位置に戻っていて……淡く微笑んでから彼女は言った。

 

「それでは私は先に失礼しますね。綾小路くん、また今度会いましょう」

 

 綺麗なお辞儀を披露してから、椎名は客船内に入っていく。自分の部屋に戻り、戦いの準備をするためだろう。

 オレは彼女の背中が消えてなくなるまで見届けてから……静かに吐息を漏らした。

 頭をすぐさま切り替える。

 デッキに残っているのはオレ一人だけだった。すぐ目の前にある無人島を観察する。

 向かう先は『地獄』だ。

 豪華客船が『天国』だとするなら、ここは──

 

「『天国』と『地獄』の境界線、か……」

 

 独り言を呟き、オレは部屋に戻るために足を向けた。

 

 

 

§

 

 

 

 扉を開けて部屋に入ると、そこにはオレ以外のメンバーが既に揃っていた。

 全員が学校指定のジャージに着替えている。

 

「遅かったね、清隆くん」

 

「先にトイレに行ってたんだ」

 

 洋介に返事しながらてきぱきと着替える。

 その途中で、幸村が感心したとばかりに頷いてから。

 

「なるほどな……混んでたか?」

 

 声が掛けられたことにオレは内心驚いた。

 このメンバーの中で最も接点がないのは幸村だ。会話をしたことは片手で数えられる程で、まさか話し掛けられるとは思っていなかった。

 ……いやまあ、共同部屋だから必然と言われたらそうなのだが。

 

「いや、まだそこまでは混んでいなかったかな。けどあと数分もしたら生徒で溢れると思う」

 

「そうか……早めに行った方が良いかもな」

 

 集合時間まであと二十分はある。時間的猶予はまだあるが、それは何もしなかったらの話だ。

 

「幸村くんの言う通りかもしれないね。ここに来るまでの道中、先生方が生徒に注意していたから、万が一があると思った方が良いかもしれない」

 

 そんなことがあったのか。

 幸村は洋介の言葉で、早々にトイレに行くことを決意したようだ。情報を教えたオレに一言礼を告げてから、部屋をあとにする。

 

「僕も行ってくるよ」

 

 洋介も室内から居なくなり、残ったのはオレと高円寺の二人になった。

 そこまでの仲でなかったらこの状況は辛いが、幸い、彼は自分以外に興味がないと豪語する変人だ。

 現に今も何やら分厚い本を読んでいる。姿勢が綺麗なのは気の所為ではないだろう。

 相変わらず、自分磨きに熱心なことだ。

 

「先程のはなかなか、ユニークなショーだったと称賛しておこう、綾小路ボーイ」

 

 学校から配布されたパンフレット片手に荷物の最終チェックを行っていると、不意に、愉快そうな声が出された。

 珍しいことがあるものだと思い声主を横目で見るが、彼は活字から目を逸らしていない。

 そこまで真面目に対応しなくても問題ないと判断し、オレもまた、作業を再開させながら答える。

 

「ユニークなショーってどういうことだ?」

 

「ふふふ、なに、言葉通りの意味さ。綾小路ボーイ、きみは意外にも賢いようだねえ」

 

「何のことだ?」

 

「惚けても無駄だよ。先程のショー……いや、ショーはショーでも茶番劇だが、()()()()()()()()()()()()()()()。あれには流石にこの私も、Aクラスの彼らには同情を禁じ得なかったよ」

 

 ふははは! 声を上げて笑う高円寺。

 オレは彼の評価を一段階上にあげた。なるほど、どうやら彼にはオレの真意が摑めたらしい。

 

「高円寺こそ、デッキには行ってたんだな。てっきり船内放送は無視するものだと思っていた」

 

「なに、気が向いただけさ。それに広大な海、そして雄大な自然をバックにポーズをとる私というのも絵になるだろう?」

 

「……そうか?」

 

「そういうものさ。綾小路ボーイ、きみにはまだ早い世界かもしれないがねえ」

 

「ただいま、清隆くん、高円寺くん。二人は準備、終わったかい?」

 

 洋介が幸村と一緒に戻ってきた。

 先程までの笑い声が嘘のように、高円寺は口を閉ざし静かになる。

 やっぱり、オレに話し掛けたのはたんなる気まぐれではなく──無論、気まぐれなのに違いはないだろうが──、タイミングを見計らっていたのだろう。

 全員が荷物を持ったところで、洋介が号令を掛けた。

 

「よし、それじゃあ行こうか。あっ、携帯はちゃんと持っているね?」

 

「……何も、一緒に行く必要はないだろう」

 

 幸村が不満そうだ。

 まあ、彼の心中は察せられる。もともとこのグループはアブれた者同士が組んで成り立っているからな。

 そんなグループで行動を共にする道理はない。それは洋介も当然分かっている。

 

「幸村くんの言う通りなんだけどね。僕は一応、このグループのリーダーに選ばれているんだ。だからしっかりと役目を果たさないといけない」

 

 正論を言われたので、幸村は頷くしかなかった。

 

「……分かった。平田をリーダーにしたのはグループの総意だから、ここは従う」

 

「ありがとう。高円寺くんも、指示に従ってくれるかな」

 

「ふふふ、そうだねえ……。普段の私なら断りを入れているが、今の私は気分が良い。平田ボーイ、ここはきみを尊重しよう」

 

 これには流石の洋介も苦笑いだ。幸村は自由人の思わぬ返答に驚く。うん、気持ちは分かるぞ。

 兎にも角にもと、オレたちは揃って部屋を出た。廊下に出ると多くの生徒が渡っていて、集合場所であるデッキを目指している。

 

「まるで(あり)の大行進だな」

 

「うーん、僕はちょっと違う印象を受けるかな。蟻は生活のために働くわけだけど、今の僕たちは違うからね」

 

 雑談を交わしながらデッキに行くと、そこには既に学年の半数程の生徒が待機していた。

 どうやらクラス別に分けられているらしく、客船の階段に近い順から、A、B、C、Dクラスの生徒たちが二列で並んでいる。

 池が最前列に居ることから出席番号順だろう。

 担任、茶柱の元に向かうと、彼女はクリップボード片手に、生徒と同じジャージに着替えていた。まあ、砂浜にスーツは合わないからな。

 

「平田グループ、全員居ます」

 

「うん、ご苦労。見て分かる通りだ、並んでくれ」

 

 オレの姓は綾小路の『あ』なため、池の隣に腰を下ろした。

 全員が集まるまでまだ時間が掛かりそうだ。

 携帯端末を教師の前で弄るのは流石に憚られるが、かといって、他にやることがない。

 おまけに甲板には陽の光を遮るものが何もない。先程までは気にならなかったが、こうして無為な時間を過ごすと否が応でも暑さを感じてしまう。

 

「暑いなー、綾小路」

 

「あ、ああ……そうだな」

 

 言葉を詰まらせてしまったのは許して欲しい。

 再三述べるが、あの一件以降、オレと池の間にはなんとも微妙な空気が流れていたために距離が離れてしまった。

 しかしどうだろうか。今彼は、オレに話し掛けている。

 友人関係が崩壊したオレとは違い、彼なら後ろに座っているクラスメイトと会話をすることなど造作もないことだし、実際オレはそのように考えていたのだが……。

 困惑していると、池がおずおずと口を開いた。

 

「その……これまでは悪かったよ。ごめんな、勝手に気味悪がって」

 

「いや、気にしないでくれ……って言いたいけど、どうして急にまた?」

 

 すると彼はこう言った。

 

「さっき綾小路、俺や京介、桔梗(ききょう)ちゃんを助けてくれただろ? 健から聞いたぜ、指示を出したのはお前だってさ」

 

「指示なんて大仰なものじゃない。ただ健には、睨みを利かせるように頼んだだけだ」

 

「それでもさ、お前が俺たちを助けようとしてくれたことは事実だろ?」

 

 そんなことはない。

 正直なところ、オレはクラスメイトだったら誰でも良かった。

 だが、それを池に告げる必要はないだろう。客観的に見れば彼の言う通りであり、勘違いしてくれた方がオレの利になるのだから。

 

「まあ、な……」

 

「だからさ、謝ろうと思って……。仲直り、してくれるか?」

 

「仲直りも何も、オレたちは喧嘩していたわけじゃないだろう」

 

「そりゃ、そうだけどさ……」

 

 歯切れ悪く語尾を濁らせる。

 平生の池らしくないが、彼なりに誠意を見せているのは伝わってくる。

 

「オレたちは喧嘩はしていなかった。ただ、思い違いが起きていただけだ。それで良いだろ」

 

 言外で、彼の申し出を受けることを告げる。

 コミュニケーション能力に長けている彼は、すぐにオレの意図に気付いた。

 

「……! そっか、そうだな!」

 

 破顔し、無邪気に喜ぶ池。

 こうしてオレと彼の仲は元通りになったわけだが、だからといって、彼の友人である山内や沖谷ともそうするかと聞かれたら否だ。

 そのことを告げると彼は当然とばかりに頷いた。流石、友達付き合いの良さに定評のある男は違うな。

 

「そう言えば、櫛田のことを下の名前で呼ぶようになったんだな」

 

「お、流石綾小路! 良くぞ気付いてくれた! 実はさっきさ──」

 

 嬉嬉として池は語った。

 Dクラスの女神、櫛田エルを崇拝し……愛してやまない池は悩んでいた。入学してから四ヶ月が経とうとしているが、想い人との距離はなかなか縮まらない。ただでさえ彼女は学年を超えた人気者で、このままではいつ交際相手が出来ても不思議ではない。

 星の数程のライバルを出し抜くには、何らかのものを形として残す必要があるだろう。

 珍しくも真剣に考えた彼は、ある一つの結論を出した。

 それこそが名前の下呼びである。

 とはいえ、決心したのは良いが実行に移せるかと聞かれたらそれは否だ。

 同性の友人なら兎も角として、相手は異性、しかも想い人だ。

 もしここで、『ごめんね』などと言われたらショックのあまり自殺を図るかもしれない。

 彼は一歩が踏み出せないでいた。

 しかし先程の一件で、彼は友人を助けるために行動を起こすことが出来た。

 

「──結局のところは気持ちしだいだなって思ったんだよ。そんでAクラスの奴らを追い返した後に言ったんだ……!」

 

 池は櫛田を呼び出し、二人きりで話をした。

 遠巻きに眺めるのは彼の友人たち。エールを送る仲間たちに応えようと、彼は緊張しながらも想い人の名前を呼ぶ。

 これが、彼女を苗字で呼ぶ最後の機会にするために。

 

『く、櫛田ちゃん!』

 

『うん? どうしたの、池くん』

 

『突然だけど、し、下の名前で呼んで良いかな!? ほ、ほら苗字呼びだとよそよそしいって思ってさ! も、もちろん嫌なら嫌って言って──』

 

『うーん、そうだなあ……。なら私は、寛治くんって呼ぶね?』

 

『……へっ?』

 

『あれ、ダメだったかな……?』

 

『桔梗ちゃ────ん!』

 

 こうして池は一歩、男に成長したらしい。

 数十分前のことを思い出しているのか、感涙に(むせ)び泣き始める。

 オレは取り敢えず放置することに決めた。

 今の彼を相手するのは面倒臭いからな。

 

堀北(ほりきた)グループ、全員居ます」

 

「うん、ご苦労」

 

 視線を上げると、そこには堀北を含めた四人の女子生徒が報告をしていた。

 グループのリーダーとして、堀北が茶柱と話している。

 

「しかし堀北……てっきり私は、お前のグループが一番早くここに集まると思っていたんだが」

 

「期待に添えず、申し訳ございません」

 

「あぁいや、責めているわけではない。集合時間には確かに間に合っているからな。それでは並んでくれ」

 

「……それでは失礼します。先生が仰った通りよ、並びましょう」

 

「「「はーい、堀北先生!」」」

 

「だから『先生』はやめてって言っているでしょう……」

 

 珍しくも堀北は愚痴を漏らしていた。

 考え方が少しずつ良い方向に傾いているとはいえ、まだまだ彼女には更生の余地はあるだろう。

 無駄な付き合いを嫌う彼女だが、ここ最近は彼女に絡み始める生徒が出始めていた。池や山内たちが彼女のことを『先生』呼びしているから、すっかり渾名となっている。

 と、ここでオレは堀北に違和感を覚えた。一見いつもと変わらない様子だが……どうにも顔色が悪いというか……。それに、普段は綺麗に纏められている髪が、今日は乱れているような……。

 

「気の所為にするのは早計かもな……」

 

「何がだよ?」

 

「……いや、何でもない」

 

「ではこれより、Aクラスの生徒から順番に降りて貰う。それから島に携帯端末の持ち込みは禁止だ。担任の先生に各自提出し、下船するように」

 

 拡張器を持った男性教師、真嶋(ましま)先生が指示を出す。

 若者の利器が回収されると聞いて、そこかしこで不満の声が上がった。

 無人島にインターネット回線が繋がっているとは思えないとはいえ、今の携帯端末には様々な機能が備わっている。

 中にはカメラモードを使って写真を撮りたいと願う生徒も居るだろう。

 ちらりと後ろを振り返ると、佐藤(さとう)の隣で並んでいる佐倉が目に見えて落ち込んでいた。写真撮りが彼女の趣味だからかなり堪えているようだ。

 彼女をあとで慰めるとして、ようやく、Aクラスから下船が始まる。

 

「こういう時に差別を感じるよなー。いっつもAクラスを優先してさー」

 

「まあ、それは仕方がないことなんだろうな」

 

「相変わらず、綾小路は変に冷静だよなー。お前は理不尽に思わないのかよ?」

 

「多少は思うさ。けど愚痴を零しても学校の対応は変わらないだろ?」

 

「そうだけどさー」と言う池は納得いかないのか、唇を尖らせる。

 座ったまま背を伸ばすと、彼はあからさまに眉を顰める。

 

「どうかしたか?」

 

「いやさ……やけに厳重だと思ったんだよ。見ろよ、生徒の両脇に先生が居て、荷物検査をしてるぜ」

 

 言われて見てみると、確かにそのようだった。

 一人に割り当てられる時間はせいぜいが数秒だが、百数十人の生徒にやるとなると時間が掛かるというもの。

 

「サエちゃん……じゃなかった、茶柱先生! 俺たちの出番はいつなんですか!? このままじゃ熱中症になっちゃいますよ!」

 

「そうだな……見たところ、あと二十分は掛かるだろう。喉が渇いた生徒はすぐ近くの蛇口(じゃぐち)から水分を補給しても構わない。ただし、すぐ戻るようにな」

 

 池を含めた何人かの生徒がぞろぞろと立ち上がり、水分補給をするべく移動を開始した。

 オレも彼らと同じように腰を上げたが、けれど後を追うことはしなかった。その代わりに、先に下船したAクラスの生徒を眺める。

 そこから少し離れた所では先に降りていた教師たちが真剣な面持(おもも)ちで話をしていた。

 分かりきっていたことだが、やはり、何かがあるようだ。

 

「綾小路。用がないなら戻れ」

 

 背後から茶柱の声が投げられる。目が合うと、彼女は若干気まずそうに逸らした。

 

「すみません、早く砂浜を駆けたくて我慢出来ませんでした」

 

 言いながら再度列に並ぶ。

 我らが担任の予見通り、ちょうど二十分後、オレたちDクラスの下船になった。

 出席番号が一番早いオレが、最初に荷物検査をされる。

 

「携帯端末は?」

 

「もちろんここにあります。どうぞ」

 

「うん、ありがとう。それじゃあ、Cクラスの横に並んでくれ」

 

「分かりました」

 

 そこからDクラスの生徒、総勢四十人が無事に荷物検査を終え、オレたち一年生はデッキから砂浜に場所を移して、再び並んだ。

 最後に茶柱がタラップから降りる。そしてクリップボード片手に言った。

 

「それでは点呼を行う。名前を呼ばれたらしっかりと返事をするように」

 

 えー! と驚く生徒たち。

 先程、甲板でやったばかりなのにやる意味があるのかと問いたいのだろう。

 しかしそれも、我らが担任の冷たい目線で鎮圧させられるわけだが。

 

「では始めるとする。綾小路清隆」

 

「はい」

 

「池寛治(かんじ)

 

「はい!」

 

 元気良く答える池に、茶柱は薄いながらも笑みを浮かべる。

 

「相変わらず元気だけはあるな、お前は。次──」

 

 生徒全員が居ることを確認した茶柱は、予め準備されていた白い壇上に登っている真嶋先生に報告をした後、他の教師と同じように自分が受け持つクラスに戻った。

 真嶋先生は生徒を見渡してから挨拶をする。

 

「今日、この場所に無事に着けたことをまずは嬉しく思う。しかしその一方で、一名ではあるが病欠で居ないことは残念でならない」

 

「……そんな奴が居るんだなあ。可哀想に……」

 

 学校行事とはいえ、これは豪華旅行だからな。休んでしまった生徒には同情するが、まあ、仕方がないと割り切って貰う必要があるだろう。

 真嶋先生が挨拶を口にしている最中、ふいに異質な音が響いた。

 何だと生徒が発生源を見ると、そこには作業服を身に纏っている大人が数名居て、何やらテントを設置しているようだった。いや、テントだけじゃない。金属製の長机に、同じ材質の折り畳み椅子。しまいにはノートパソコンまでもがケースから出された。

 

「何だろう、あれ……?」「ねえ、先生たちの表情、ちょっとおかしくない? 上手く言えないけど……こう、険しいような……」「私も思ってた……」「俺たちは今からバカンスを満喫するんだよな、そうだよな?」

 

 困惑はやがて不安に変貌し、それはじっくりと伝播していった。

 隣の池も表情を引き攣らせている。

 あ、綾小路……と池が囁いてくるが、オレは何も答えなかった。その代わりに視線を上げ、茶柱の瞳を覗き込む。

 だがすぐに逸らされてしまった。

 彼女の視線の先には真嶋先生の姿があった。

 なるほど、どうやら彼が開幕宣言をするらしい。

 

 ──始まるか。

 

 不安が頂点に達したのを見計らったかのような、そんな絶妙のタイミングで、真嶋先生は告げる。

 

 

 

「それではこれより──本年度最初の『特別試験』を行う」

 

 

 

 

 

読書の皆さんが思う、一学期の間に最も実力を示したDクラスの生徒は?

  • 綾小路清隆
  • 堀北鈴音
  • 平田洋介
  • 櫛田桔梗
  • 須藤健
  • 松下千秋
  • 王美雨
  • 池寛治
  • 山内春樹
  • 高円寺六助
  • 軽井沢恵
  • 佐倉愛里
  • 上記以外の生徒

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