ようこそ事なかれ主義者の教室へ   作:Sakiru

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幕間 ─夏休み後編─
椎名ひよりの願望


 

 見慣れた光景、というものがあると思います。

 それは何度も何度も繰り返され、脳に記銘された情報。

 人は回数を重ねるごとにそれに徐々に慣れて、尊ぶようになっていくのでしょう。そして、受け入れ、それが自分にとって当然のように思えてくるのです。

 

 ──なら。

 

 私の目の前に起こっていることも、今はもう、『見慣れた光景』という言葉で表現出来るのでしょうか。

 ふと、そう思った私は身動ぎしてしまいます。視線を外し、揺れるカーテンの隙間から覗く、何処までも蒼い夏空を見ました。

 

「──どうかしたか」

 

 ぼんやりとそうしていると──私の行動を訝しんだのでしょう──声が一つ、下から掛けられました。

 私はハッとすぐに意識を戻すと、「何でもありません」と薄く微笑みながら言います。すると声主は軽く頷き、今までそうしていたように瞼を閉ざしました。

 

「いつまでそうしていられますか」

 

 彼が夢の世界へ旅立たないうちに、私は囁くようにして話しかけました。

 私の質問に、彼──綾小路(あやのこうじ)くんはゆっくりと瞼を開けて、私を下から覗き込んできました。すると彼は申し訳なさそうに。

 

「すまない、痛かったか」

 

「いいえ、まだ全然大丈夫ですよ。責められていると感じてしまったのなら、ごめんなさい」

 

 そう、私が謝罪すると。

 綾小路くんは「いや」と言葉少なめに首を横に振った。

 彼を支えている太腿(ふともも)が揺れます。私は彼の頭が固い床──絨毯(じゅうたん)は敷かれていますが──にずり落ちないよう、上から優しく固定しました。しかし何処か、この行為に気恥しさを覚えてしまいます。

 

「今、何時だ?」

 

「……十五時少し前ですよ」

 

「そうか……そろそろ起きるとするか……」

 

 テーブルの上に置かれているデジタル時計を見て私が答えると、綾小路くんは呟くように言いました。

 

「先程も申しましたが、まだ寝てて構いませんよ?」

 

 しまった、と思った時には時既に遅く。

 気付けば私は、そのような言葉を思わず投げかけていました。

 綾小路くんは私の提案を意外だと思ったのでしょう。一瞬だけ驚いた表情を見せると、考え込むように瞳を伏せました。

 その様子を窺いながら、私は反省していました。再度に渡っての提案を、彼は面倒に感じているかもしれません。

 しかしながら、前言撤回することは出来ないでしょう。自分の言葉には責任を持たなければなりませんし、それこそ、彼を混乱させてしまうでしょうから。

 

「そうだな──」

 

 数十秒──私にとっては数十分のようにも感じられましたが──が経った頃、綾小路くんはおもむろに瞼を開けました。

 どのような返答が来るのかと身構える私に、彼は言います。

 

「なら、あと少しだけ頼めるか。居心地の良いここを離れるのは惜しい」

 

「……っ! はい、喜んでお貸しします」

 

 自分でも声が弾んでいるのが分かります。

 綾小路くんは微かに笑うと、瞳を閉ざしました。そして、身体全体を私に預けてきます。程なくして寝息を立て始めました。浅い呼吸と共に胸が膨らんでは萎み、彼が今この瞬間生きている事を教えてくれます。

 それはきっと、彼なりの『信頼』を表しているのでしょう。

 四六時中一緒、という訳には流石にいきませんが、私たちは沢山の時間を過ごしてきました。

 だから、綾小路くんがいつも何かに警戒しているのは自ずと伝わってきましたし、その矛先は私にも向けられていたように感じます。

 それが悪い事だとは思いません。生物である以上、自分の周りの存在が敵だと認識する……認識してしまう事は本能であり、逆に言えば、生存本能が正しく作用された行動だと言えるでしょう。あるいは、そのような厳しい環境下で過ごしてきた者にとっては、それが当然になると思います。

 しかし最近は、最初の頃と比べれば遥かに無くなったと感じます。それを強く意識するようになったのは、豪華客船上での出来事でしょうか。星々が見守る船上で彼と過ごした一夜。あの夜から、私達の関係は少し、けれど確実に変わったと思います。

 どのように、と尋ねられると答えには窮しますが。ただこの変化が良い方向に傾けば最良なのは間違いないでしょう。その為に私はあの月夜を受け入れたのですから。

 

「……」

 

 ミーン、ミーンと鳴く(せみ)の声。夏の風物詩。

 冷房の風をずっと浴びていては身体に悪いので、窓は開けて網戸にしています。何処からか運ばれてくる風は夏特有の熱が多量に含まれていて、四季を感じ取れます。

 綾小路くんが寝苦しくならないよう、何もしないよりはマシだと下敷きをパタパタと扇いで風を送ります。そうすると額に薄らと浮かんでいた汗は消え去りました。

 ずっとそうしていられたら良かったのですが、手を使うのは大変で、体力が壊滅的にない私は──体育の成績が絶望的なのは忘れたいくらいの苦い記憶です──限界を感じた所で別の手に切り替えます。そうして小休憩を挟んでいても疲れるものは疲れるもので、私はついにやめてしまいました。

 

「…………」

 

 綾小路くんの頭に手を添えながら。

 このままずっと、この時間が続けば良いのに──それが無理である事を分かっていながら、私は、そう思わずにはいられません。

 そう、今の時間は仮初のもの。仮初の平和。

 長期休暇であるこの夏休みが終われば、私たちはクラス闘争という、熾烈で苛烈な戦いに身を投じる事となるでしょう。

 それが生徒である私たちの義務である以上、他者と競い合い、時には蹴落とし合うのは必然であり、変えられようのない運命なのです。

 私は、戦うのが嫌いです。誰とも争う事なく皆が平和で過ごせれば、それが良いと心から思います。

 しかし同時に、必要であれば戦わなければならないとも思っています。それは自分を守る為であったり、あるいは、自分の大切な人や物を守る為であったり──何か理由があるのなら戦わなければならないと、そう、思うのです。

 だから私は、戦う事を決意しました。

 

 ──豪華客船上で行われた、特別試験。

 

 その内容は、各グループの中に一人居る『優待者』を見付けるというもの。それが如何に至難なのかは、誰の目から見ても明らかでした。『優待者』が誰か分かった次の瞬間には『裏切り者』が現れ、『裏切り者』が属するクラスが勝ちとなります。反対に『優待者』が暴かれたクラスは負けとなります。

『攻撃』か、あるいは『防御』か。

 私の所属するCクラスは『攻撃』を選びました。Cクラスを支配している『王』──龍園翔(りゅうえんかける)くんはまず初めに、自分のクラスの『優待者』を明らかにしました。

 これは、選ばれた『優待者』に何らかの法則性があると睨んでいた為です。とはいえ、一クラス分──たった三人の『優待者』を明らかにした所で『根幹』には辿り着けません。

 私は自分の『目的』を果たす為にこの特別試験に参戦し、Cクラスを勝たせる為に龍園くんに微力ながら協力しました。

 とはいえ、最初は上手くいきませんでした。Cクラスが誇る知将、金田悟(かねださとる)くんもその場には居たのですが、得ている情報が少な過ぎます。しかしこれは龍園くんも想定していた事のようで、彼は衝撃的な行動に打って出ます。

 

 それこそが、他クラスの生徒から『優待者』を教えて貰うという作戦でした。

 

 無論、通常ならこの作戦は上手くいきません。大前提として、自分のクラスの『優待者』を他のクラスに教えるという事は、裏切り行為なのですから。

 次に、それがたとえ自分のクラスであろうとも、『優待者』を知るのは限りなく難しいからです。口は災いの元と言います。いつ情報が漏れるか分からない状況で、迂闊な行動は出来ません。Cクラスは『王』の命令が出されたので話は別ですが、A・B・Dクラスは定石通りその辺りは徹底していました。各チームのリーダーでさえ、自分のクラスの『優待者』が誰だったのかは恐らく知らないでしょう。

 つまり、Cクラスを除く三クラスは必然的に『攻撃』ではなく『防御』を選ぶしかなかったのです。

 先に述べた通り、龍園くんの作戦は通常なら上手くいきません。しかし彼は、この無謀な作戦を成功させました。そして彼は、とあるクラスの『本当の裏切り者』から、そのクラスの『優待者』の情報を貰いました。

『本当の裏切り者』が誰なのかは、Cクラスでは龍園くんだけが知っています。しかし私や金田くんを含めた、『王』に協力した生徒は『何処のクラスから裏切り者が出たのかを知っている』為、完全に推測出来ない訳ではありません。

 

 そして私は、その人物に心当たりがあります。

 

 とはいえ、誰かに話すつもりは一切ありません。その人物にも事情はきっとあるのですし、何よりも、敵に回したくないのが本音です。

 もし『本当の裏切り者』が暴かれた時、その時はそのクラスどころか学年がその人物の狂気に巻き込まれる事となるでしょう。

 

 話を戻しましょう。

 

『本当の裏切り者』から『優待者』が誰なのかを教えて貰った私達は、『根幹』へと挑みました。

 そして私達は、この特別試験を完全攻略するのに至りました。

 

 その後はとても簡単です。

 

 龍園くん率いるCクラスはすぐに行動に移り、運営にメールを一斉送信します。そして大量のクラスポイント及びプライベートポイントを獲得しました。

 

 無論、他クラスも黙ってやられている訳ではありませんでした。Dクラスの堀北鈴音さんがA、Bクラスに協力を持ち掛け、彼等はCクラスの二歩後になってようやく『根幹』へ挑みます。

 あまりにも遅い行動。とはいえ、これはクラス闘争。寧ろ、他クラスを説得してみせた堀北鈴音(ほりきたすずね)さんは『偉業』を成し遂げたと言えるでしょう。龍園くんもこれには驚いたようで──彼の見立てでは、Bクラスの一之瀬帆波(いちのせほなみ)さんかDクラスの平田洋介(ひらたようすけ)くんだったようです──面白そうに笑っていました。

 

 二回目の特別試験はCクラスの勝利に終わりました。

 

 クラスの序列は変わり、二学期からCクラスはBクラスになり、BクラスはCクラスになります。

 とはいえ、クラスポイントの差は本当に少しなので、すぐに再変動することも充分にあるでしょうが。

 

 そして私は、二学期からはクラス闘争から身を引きます。たった一度の参戦で何を言っているのかと指摘されれば答えに窮するところですが、これは決定事項です。

 夏休みの間に行われるであろう出来事──特別試験の存在を、各クラスのリーダーは予感していました。

 龍園くんは事前にある提案をしてきました。『王』が認める程の成果を私が出した際は、それを置き土産として私の行動には一切の口出しをしないという内容です。

 私はこの提案を呑みました。

 それはきっと、いえ、間違いなく──どこまでも最低で自己中心的な考え、そして実に愚かな行動なのでしょう。

 クラス闘争から身を引くという事は、傍観者になるという事。クラスメイトが栄光を摑んでいる時も、あるいは失墜している時も、ただ眺めているだけ。

 侮蔑の視線を送られても文句は言えませんし、言いません。暴力を振るわれるのは嫌ですが、それだけで話が済むのなら、私は喜んで殴られ、蹴られましょう。

 私は、それだけの事をした自覚があります。そして私は、自身の選択に一片の悔いがありません。救いようのない愚か者ですね。

 開き直っている、と指摘されればそうなのですが。

 それでも私は、この選択を後悔しません。たとえどのような末路を迎えようとも、私は、自分の決断を恥じる事はしないでしょう。

 

 けれど。

 

 どれだけ私が──私たちがそれをどれだけ望んでも、私たちは必ず戦線に戻るのでしょう。

 だから、願わくば。

 どうか、今だけは。

 この時間だけは、誰にも侵されないように──。

 

読書の皆さんが思う、一学期の間に最も実力を示したDクラスの生徒は?

  • 綾小路清隆
  • 堀北鈴音
  • 平田洋介
  • 櫛田桔梗
  • 須藤健
  • 松下千秋
  • 王美雨
  • 池寛治
  • 山内春樹
  • 高円寺六助
  • 軽井沢恵
  • 佐倉愛里
  • 上記以外の生徒

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