「1、2。1、2——」
オレは一定のリズムで声を出しながら走っていた。とはいえ、ただ一人で走っている訳ではない。
オレの右足は、オレではない人間の左足と赤い紐で結ばれており、普段よりも行動に制限がされている状態だ。
「はあ……はぁ……良い、感じだね……」
すぐ傍で、
横目で見ると、ちょうど、桔梗と目が合った。にこりと可愛らしく微笑むが、騙されてはならない。その目は一切笑っていないのだ。
——危ないから余所見してないで前を向いてくれる? 転んで顔に怪我でもしたら末代まで呪うから。
オレはコクコクと小刻みに頷くと、走る事に集中した。
その甲斐あって、スタート地点から一度も躓く事なく、オレと桔梗のペアはゴール地点に辿り着く事に成功する。
オレたちが何をしているのか。
それは、体育祭の『推薦参加種目』——男女混合二人三脚の練習だ。
日はまだ昇り始めたばかりであり、人気はない。
初秋を感じさせる気持ちの良い風を浴びながら、オレと桔梗の二人はベンチに腰掛けて小休憩を取っていた。
「それで? 一体なんのつもりだ?」
ペットボトルの水を呷った後、オレは率直に尋ねた。
「は? 何のつもりって、何の事?」
周りに誰も居ないという事もあり、普段の明るさはすっかり鳴りを潜め、テンションはとても低い。
とはいえ、表情や雰囲気は普段の可愛らしいクラスのマドンナのそれなのだから、その名演技には感服してしまう。
余計に疲れないのかともオレは思うのだが、もしそれを口にしてしまえばどうなるかは目に見えている為自重する。
好奇心は猫を殺す。オレは日々成長しているのだ——。
「下らない事考えてるでしょ」
「そんな事はない。桔梗は今日もとても可愛いな、そんな可愛い桔梗と朝早くから会えるだなんて幸せだな、前世で徳を積んだに違いない。そう、心から思っていた所だ」
「何それ気持ち悪い。棒読みで言われても全く嬉しくないんだけど」
そう言うと、桔梗は肘でオレの腹を小突いて来た。そして、無遠慮に何度か表面を撫でてくる。
「ふぅーん」と、桔梗が意味ありげに呟く。
「確かに触ってみると、結構筋肉あるね。プールの時は
「ドキマギするからやめて欲しいんだが」
「だから棒読みで言われても嬉しくないって」
桔梗はそう言うと、オレの腹から手を離した。
「純情な男子高校生を弄ばないで欲しい」
「はいはい、分かった分かった。私が悪かったよ。ごめんね。これで満足?」
「お前な……」
思わず呆れた目で見ると、桔梗は観念したように思いを吐露した。
「だってさ、認められないじゃん。私の方が
余程気に入らないのか、桔梗はコンクリートを靴先で強く蹴った。が、すぐに「痛い」と涙目になる。
オレは今が好機だと捉え、本質を突く。
「だから、練習をしようと思ったのか?」
「……っ」
桔梗からの返答があったのは、オレが質問してから数十秒後の事だった。
観念したように溜息を吐く。
「……そうだよ、当たり前じゃん。私はね、清隆くん。私が一番じゃないと気が済まないの。ましてや堀北に負けているだなんて、死んでも認められない」
櫛田桔梗には『表』と『裏』の仮面がある。
『表』では、クラスのマドンナ。明るい性格で男女関係なく仲良くし、クラスを支えている。
しかしその『裏』では、クラスメイトの事を挙げ連ねている。誰も居ない場所で物に当たり、誹謗中傷している。
矛盾している『表』と『裏』。
桔梗がそうなっているのは──誰かに褒められたい。誰かに認められたい。そんな、自己承認欲求が他者よりも高い為であるとオレは考察している。
同時にそれは自分に自信が無い事の裏返しである。
その一面を知っているオレは、桔梗が
「だいたい何? 自分がペアを組みたい訳でもないのに、あんな露骨に私の邪魔をしてきてさ? それとも邪魔をしているって意識もないのかな? 何が、『櫛田さんにとって綾小路くんが最適であっても、綾小路くんにとって櫛田さんは最適ではないわ。松下さんとは、クラスの最上位に位置付けられているわ。次だと、私。あなたは三番目よ』だ! そんな事わざわざ言う必要ある!?」
つい先日の堀北の発言は桔梗に多大なるストレスを与えたようだった。
一言一句完コピしているのだから恐ろしい。
「なぁ、前から思っていたんだが」
「何?」
「桔梗と堀北。お前たちの仲が拗れているのは理解しているつもりだ。だが、そうなったのには理由がある筈だろう?」
「常識的にはそうなんじゃない」
「その理由は何なんだ?」
桔梗は性格がやや歪んでいるが、しかしそれでも、堀北鈴音に対する執着は普通ではない。ある意味それは、恋とでも呼べるようなものだ。
オレが一歩踏み込むと、桔梗はそれまでの荒れようが嘘であったかのように静かになった。
おもむろに、告げてくる。
「それ以上はたとえ清隆くんであっても許さない。詮索しないで」
「そうか。それは残念だ」
「あはっ。君のそういう所、嫌いじゃないよ」
「光栄だな、それは」
「だから棒読みだって」
何かが琴線に触れたのか、桔梗はお腹を押さえて笑った。歳相応の女の子らしい笑い方を見せてくれる。
暫くして、桔梗はぽつりと呟く。
「全部、私が悪いんだよ。前にも言ったじゃん。
オレにはそれが、懺悔のように思えた。
オレはベンチから立ち上がると、桔梗に手を差し出す。
「清隆くん……?」
「練習の続きをしよう。堀北に、勝ちたいんだろう?」
桔梗の目が見開く。そして、オレの手を取った。
「……私を励まそうだなんて、三年早いよっ」
練習の再開をするオレたち。話し合った結果、まずはいきなり走るのではなく、歩く事から始める。
必然的に近い距離で、オレたちは腕を組みながら呼吸を合わせる。
「それで、どうしてオレと一緒に二人三脚をしたいだなんて言い出したんだ?」
「決まってるじゃん。
悪びれもなく、桔梗は邪悪に笑いながら即答した。
「嫌がらせ?」
「そう、嫌がらせ。清隆くん。本当は松下さんと出る予定だったんでしょう?」
「まあな。だが、どうして分かった? もしかして、オレたちの会話を聞いていたのか?」
「まさか。人気者の私は忙しいからね。そんなわざわざ盗み聞きする暇なんかないよ」
「それじゃあ、どうして?」
オレの疑問に、桔梗は得意げに答える。
「まず一つ目。君と松下さんの仲が良くなったのはクラスの皆がある程度察している」
「そうだな」
そのようにオレたちは振舞っている。
「二つ目。私は松下さんが
「そうだな」
直接的に伝えている訳ではないが、桔梗が察しない訳がない。
ここまでは十分理解出来る。
最大の根拠となるのは、次の三つ目だろう。続きを促すと、桔梗は言った。
「三つ目。松下さんは体育の授業で記録を測る時、君との二人三脚の試走の時だけ記録がずば抜けて良かった。他は精々、中の中か中の上程度。そんなあからさまにやってたら流石に分かるよ。『ああ、松下さんは男女混合二人三脚を狙っているんだな』ってね」
事情をある程度知っていたからこその行動だった、という事か。
「まあ、ぶっちゃけさ。私は今忙しいから『推薦参加種目』にそこまで出るつもりはなかったんだよね。他薦されたら出ようとは思ってたけどさ」
「だが結果として、桔梗、お前は自薦している。それもあんな形でだ。クラスメイトの大多数は普段らしからぬお前の言動に違和感を抱いた筈だ。そうなる事が分からないお前じゃないだろう? それなのに、どうして?」
「だから言ったじゃん。松下さんへの嫌がらせ。まあ、あとは強いて言うなら……牽制もあるかも」
牽制?
気になったオレは、目で続きを促す。
「あの時、あの瞬間。本当に君と一緒に戦う覚悟があったのならさ、松下さんは躊躇う事なく挙手すべきだったんだよ。堀北が一番最初に皆に聞いた時にさ」
桔梗の主張は続く。
「結局松下さんは最後まで、『自分が』とは言い出さなかった。私がわざわざ最後通牒で名乗り出る機会を設けたのにも関わらず。それってさぁ、つまり、その程度の覚悟だったって事だよ」
「何が言いたいんだ?」
「清隆くん、悪い事は言わないから松下さんと組むのは止めた方が良いよ。しれっと裏切るから」
「……松下に覚悟があるのかないのか、それを今回の一件だけで判断するのは早計じゃないか」
「ふぅーん。庇うんだ?」
詰まらなさそうに桔梗は唇を尖らせる。
オレは千秋を弁護する。
「お前も知っているだろう。松下はクラスでの立場が不安定だ。それに、オレの事も慮ってくれている。それなら、感謝こそすれ責める事は出来ないだろう」
「なるほどね。でも、私は言うよ。
「そんなの言い訳にならないね」と、桔梗は一刀両断する。
「今回の一件で思った。松下さん——松下の事も、私は嫌いだってね。『実力を出しさえすれば自分は十分に戦える』——そんな思考が見え透いてる。本当は中途半端な実力しかないのに勘違いしているの。その癖、いざって時には動けない。二の足を踏む。清隆くんが私とペアを組むって言ってくれた時、私、笑いを堪えるのに必死だったなぁ」
「……一応聞くが、それは何故だ?」
「自分でその選択をした癖に、被害者ぶった情けない
それから実に楽しそうに、桔梗は千秋に罵詈雑言を飛ばしていた。そのボキャブラリーの多さにオレは感心した。
一通り言い終わった後、桔梗は真面目な顔でオレに忠告してくる。
「もう一度だけ言ってあげる。清隆くん。松下はやめておいた方が良いよ。ああいう女はね、尻軽のビッチなんだから」
「……頭の片隅には入れておこう」
「まっ。もし本当にそうなったら思い切り笑ってあげる」
「その時が楽しみだなぁ」と、誕生日プレゼントを待ち侘びている子供のように言った。
そんな桔梗を、オレはじっと見詰める。
「桔梗は真面目だな」
「は? 突然なに?」
「いや。いくら堀北に勝ちたい、千秋に嫌がらせをしたい。そんな、あまり褒められた動機ではないとはいえ、お前は責任を持って、オレを早朝からの練習に誘って、こうして連れ出している。それはお前にとって苦痛な筈だ。だが結果として、お前はこうして行動に移している。それが真面目だと言ったんだ」
「〜〜っ!?」
おもむろに、雪の肌が赤みを帯びる。
「あ、あんた、何、言って……っ!?」
桔梗は大声を出すと、そのままオレを右肩を強く押して離れようとした。しかしオレたちの足は今、紐で結ばれている。踝に摩擦がり、桔梗の身体はバランスを大きく崩してしまう。
オレは桔梗が倒れないよう、その身体を抱きとめた。
「大丈夫か?」
至近距離で、オレと桔梗の目が絡み合う。
抱きとめ、密着した桔梗の身体から、心臓の激しい鼓動の音が伝わってくる。
「桔梗?」
オレが名前を呼ぶと、桔梗は我を取り戻したようだった。
「〜〜っ、離してっ!」
今度は声だけの主張だった。
オレは言われた通り、ゆっくりと身体を離していく。
「は——っ、は————っ……!」
「大丈夫か?」
「うるさい! 黙って! 静かにして!」
オレから顔を背け、桔梗が怒鳴る。そして蹲ると、ブツブツと呟いた。
「認めない認めない認めない認めない」
何を認めないのだろう。
そう、質問したかったが、何となくそれは避けた方が良い気がした。
桔梗が再起したのはそれから体感で五分後の事だった。その間、オレは暇だったので秋の朝空をカメラでパシャパシャと収めていた。
「あんた、他の子……それこそ、
「……? あんな感じ、とは?」
「いや、良い。聞きたくない。だけどこれだけは言わせて。前々から薄らと思ってたけど、あんた、ホストにはならない方が良いよ」
「……なる気はないが、どうしてだ?」
「背中からナイフで刺されるだろうから」
全くもって意味が分からなかったが、取り敢えず、オレは頷いておいた。
暫く桔梗はオレに疑いの眼差しを送っていたが、それも意味のない事だと判断したのだろう。溜息を吐くと言った。
「それじゃあ、歩くのはそろそろやめようか」
「分かった」
練習を再開する。
今の所ではあるが、桔梗との練習は順調だと言えよう。コミニュケーション能力が高い事が理由の一つなのだろうか。呼吸を合わせるのが上手い。
オレに主導権を渡してくれている為、オレはとても気持ちよく走れている。最初はあった、足と足を結んでいる紐に対する違和感も今はそこまで感じない。
反面、桔梗は並々ならぬストレスを抱えている筈だ。桔梗は女子の中でも平均的な体格だ。一方、オレの体格は平均よりもやや上回っている。
この体格差は歩幅差という形で如実に出るものだ。オレの方でも調整はしているが、それでもここまでスムーズに走る事が出来ているのは本人の献身によるところが大きいだろう。
「体育祭、楽しみ?」
走るのに慣れてきた頃、桔梗が突然尋ねてくる。
オレは考えた末、「どうかな」と答えた。
「……興味はある。当日は一体どんな風に進むのか。どんな風に盛り上がるのか。どんなドラマがあるのかってな」
「何それ。まるで初めてみたいな言い方だね」
桔梗が面白そうに笑った。
それにオレは、曖昧な態度を取る事しか出来ない。
「……本当に初めてなの?」
「まあ」
「ふぅーん。そうなんだ……」
そう呟くと、桔梗は上目遣いでオレを見詰めてきた。
桔梗の中で疑問が生まれただろう。もしオレの発言が真実だとして、小学校や中学校といった時は何をしていたのかと。
しかし、桔梗はそれ以上詮索してこなかった。無言の時間が流れる。
引き際を弁えているのもそうだろうが、先程オレが踏み込もうとした時、桔梗はオレを拒絶した。
オレの感情の僅かな機微を、桔梗は持ち前のコミュニケーション能力で察したのだろう。
互いが互いの過去を必要以上に踏み込まないのは、気が楽だ。
「それなら、当日は私が君を楽しくさせてあげるよ」
「え?」
オレが聞き返すと、桔梗は妖しく笑った。
「きっと、生涯忘れない体育祭にしてあげる」
その言葉の本当の意味を、オレは知っている。
故に、オレは純粋な気持ちで言った。
「それは楽しみだな」