土曜日の授業は平日の授業より10分長い代わりに授業数は一つ少ない。
おかげで少しばかり早く帰れるのだが、内容は教科書に載っている問題から一歩踏み込んだものが多く濃密だ。数学で言えば発展、応用、偶に発展の発展って感じ。
テストに出てくる問題にそんなもの出してくるなと言いたいが、この授業を受けなくてもきちんと勉強すれば平均点は取れるようになっているらしい。
鬼畜の癖に絶妙な手加減が上手いものだ。もうちょっと別のところを手加減してほしいが。
土曜日の授業は体感早めに過ぎていく。
集中しているから時間が過ぎるのが早い。気がついたら11時を過ぎていて授業終わりのチャイムが鳴った。腹の虫も鳴きそうになる。
頭を使った後は糖分を取ると良いらしい。コンビニでイチゴ大福でも買っていくかと席を立つ。
廊下から見えるグラウンドではサッカー部がボールを蹴っていた。
他に陸上部がバーを跳んでいる。葵先輩は今ごろ体育館か、もしくはロードワークだろうか。
様子を見に行こうかと思ったが、部外者が行っても邪魔でしかないから遠慮する。大会が近いのだ。一秒一秒が貴重だろう。
頑張ってくださいと心の中で応援した。今度直接伝えよう。
玄関で靴を履き替え、校門に向かいながら携帯の電源を入れる。
いくつかメッセージが届いていた。
それは全部送り主会長で、一番新しいのは『校門で待ってる』だった。
校門に目を向ける。
遠くの方、帰る生徒たちに混じって私服姿の女子がいる。あれがそうなのか。
クラスメイトと思しき人と話をしているようだった。
まだこっちには気づいていない。
知らんぷりしてこっそり横を通ろうと思えば通れそうだ。
後が怖いから絶対しないけど。
友人と喋っている会長にゆっくり近づく。
邪魔するのも何だから少し待とうかと携帯を開いた。丁度その時俺に気づいたらしく、友人に手を振ってこちらへ向かっててくる。
いつもより歩幅が大きく、真っ直ぐ俺を見据えていた。止まる気配がない。ぶつかるんじゃないかと思い、無性に道を譲りたくなった。
「こんにちは」
「こんにちは」
俺の目の前で立ち止まった会長は声に抑揚がなく表情は全く動かなかった。
会長の私服は初めて見る。ジーンズに白いシャツ。カーディガンを羽織っていた。手には紙袋を提げている。似合ってます、会長。
「どうかしたんですか?」
「携帯持ってないの?」
「いや、今電源入れたところなんです。ああ、いくつか届いてますね」
確認しようと目を落す俺を会長は「いいわ」と遮った。
「あなたこの後予定はある?」
「家帰って飯食うぐらいしかありません。デートですか? 喜んで」
「違うけど」
少しばかり冷たく否定された。
機嫌が悪いようだ。軽口には付き合ってくれそうにない。
「光から連絡があったのよ。今家にいるって。週明けから学校に来られるそうなんだけど、一度顔を見ておこうと思って。もし暇なら、あなたも一緒に行かない?」
「行きます」
北村関連だとは予想だにしていなかったが、考える間などなく即答した。
会長は頷いて「じゃあ行きましょう」と先に歩き始める。
早足で追いついて隣に並んだ。
会長の私服を堪能している内に、自分の身なりが気になった。これから友達の家に見舞うわけで、俺は制服だ。着替えた方がいいだろうか。
「俺制服なんで一回帰ってもいいですか?」
「そのままでいいわ。駅、逆方向なの。行ったり来たりは面倒でしょう?」
「まあそうですね。じゃあ何か買っていったほうがいいですよね」
「あるから」
会長は紙袋を持ちあげた。
中身を覗くとクッキーのようだ。用意が良い。
「いくらでした? 半分払います」
「これぐらい別にいいわ」
「そういうわけにも」
「ねえ、七瀬君」
食い下がろうとしたら名前を呼ばれ、会長は足を止めた。
「私は年上ね」
「はい」
「女ね」
「そうですね」
「君は男の子よ」
「はあ」
何が言いたいのか今一ピンと来ない。
困惑しながら、取りあえず財布を取り出した腕をがしっと掴まれ、そのままポケットに誘導される。
「私の顔を立てなさい」
年上の矜持だとか面子だとか。
そういうので顔を立てることはやぶさかではない。
ただ、先ほどから会長の言動がどことなく俺を責めているような気がして、易々従うのは抵抗感があった。
「じゃあ男の顔も立ててください」
「なによ、それ」
払う払わないで半ば睨みあい、しのぎを削り始めた俺たちを通りがかる生徒たちが好奇の目で見てくる。
中には当然俺たちの顔を知っている人もいて、「生徒会長と副会長が見つめあってる」と噂していた。
よく見ればそんな甘酸っぱい状況じゃないのは分かるだろうに。
「いくらしました? 4000円ですか? 5000円ですか?」
「あなたねえ」
「なにを怒ってるんですか、会長」
会長が言葉に詰まった。
この隙をついて財布を逆の手に持ち返る。
掴まれてる腕で逆に会長の腕を掴む。
「で、いくらですか?」
「……」
会長は掴まれた腕を目つき悪く見ていた。
それを気にしつつ財布の中を覗くと1000円札が4、5枚ある。
小銭はどれだけあるだろうかと、片手が使えないので振ってみた。
音からしてそんなにない。
「会長?」
「……どうして今日、勝手に行ったの?」
「連絡はしましたよ」
「そうね。履歴残ってた」
何か口を衝いて出そうな物を必死に耐えているようだった。唇を噛みしめて自虐的な顔をしている。自嘲すら浮かんだ。
「油断したわ。土曜日も授業があったのね。忘れてた」
「俺も忘れてました」
「二人とも落ち度あり、か……」
ため息を吐いた。諦め顔になる。
なおも湧き上がってくる感情を何とか抑えようと必死らしかった。
「なら私が君に怒るのはただの八つ当たりね」
「ですね」
「……分かっていても、そうやって開き直られるのは癪に障る」
忌々しそうに睨まれる。
なるほど。知らず知らず逆撫でしてたか。言動には気を付けよう。
「じゃあ八つ当たりしてみますか。俺は別にいいですよ」
「八つ当たりはしないけど、辛く当たるかもしれない」
「それを八つ当たりって言うんじゃなかったでしたっけ」
「そうね。その通りだわ」
会長は一方的に会話を打ち切って歩き始めた。
周囲でこそこそ噂していた野次馬たちも、俺たちの距離が開くと途端に興味を失っていく。
会長の背中に着いて行き、その内交差点の信号に差し掛かって立ち止まった。俺たちの間には少しの距離があったが、背中越しに声が届いた。
「4500円を割り勘で2250円よ。払える?」
小銭を見る。なかった。
「250円ありません」
「それぐらいはまけるわ。女の顔よ」
「では喜んで立てさせていただきます」
「安い顔だけどね」
自嘲するような声色だった。
そんなに自分のことを卑下しなくても、全然安くなんかないんだと伝えたくなった。
「会長の顔は俺の手が届かないぐらい高いですよ」
「いま随分値引かれたけれど、それでもまだ高いかしら?」
「すっごい高いです。背伸びしても届かないぐらい。俺が富士山なら会長はエベレストですよ。もっと行くかもしれない。自信もってください」
「ありがとう。でもそういう自信はいらないかな」
社交辞令でも何でもなく本心だったが、上手く伝わった気はしなかった。
とりあえずさっきまでの刺々しい雰囲気は和らいでいたので、2000円を手渡す。
「土曜日授業受けてないんですね。意外です」
「ええ。まあ」
「それでテスト満点とれるもんなんですか? コツとかあるなら教えてくださいよ」
「コツなんてないわ。毎日勉強しなさい。それだけよ」
学校の先生と一言一句同じことを言われた。
やっぱり地道に学力を上げるのが一番なんだろうか。
このまま地道に行っても満点を取れるとは思わないけど。
「私、あなたにテストの点数教えたことあったかしら」
「人に聞きました。ほとんど満点とってるらしいって」
「誰から? 瑠音?」
「石田先輩。あくまで噂って言ってましたけど」
「噂ねぇ……」
会長は自分のテストの点数が知れ渡っていることへの嫌悪感でしかめ面をしていた。
「土曜日の授業を受けるよりも、瑠音と勉強した方が捗るわ。あの子凄く頭が良いから」
「でも会長の方が点数高いって聞きましたよ」
「それも噂?」
「はい」
「じゃあそれは間違いね」
それまでと一転して、なぜか勝ち誇ったような声音だった。
「実は私より瑠音の方が頭いいのよ。テストの点数もあの子は満点ばかりだけど、私はたまにしか満点は取れない。天と地ほどの差があるわけね」
自信たっぷりに、それが当たり前だと言うように。
瑠音先輩の話をしていたと言うのに、会長は勘違いして誰か別の人のことを言っているのだと思った。
けれどそれが勘違いじゃないと理解して、何とか絞り出した声は我ながら疑念に満ち満ちていた。
「えー……?」
「あなた信じてないでしょう」
「普段の瑠音先輩を見て頭いいとは思いませんよ」
ことあるごとにプロレス技で痛めつけてくるあの人が、会長より頭が良いとはとてもじゃないが思えない。
「会長が地なら俺はどこになるんですか。地底ですか」
「頑張って這い上がってきなさい」
モグラじゃないんだから、そんな所から這い上がってこれるものか。
仮に這い上がれても頭上で瑠音先輩が爛々と輝いているならげんなりする。
「普段の言動があれだから誤解されやすいのよね。噂なんてそれぞれのイメージで勝手に作られるものだし」
「勝手に馬鹿だと思ってました」
「それは否定しないけど」
馬鹿とクレバーのハイブリットか。新種というよりは珍種だろうか。
学名はデビルンで決まりだ。
「石田君が聞いた噂も、私と瑠音が引っくり返ってるんじゃないかしら」
「そうなんですかねえ」
「きっとそうよ」
瑠音先輩が頭いいねえ……。
会長がそう言うなら本当なのだろうが、やっぱり信じられない。
だってあのデビルンだぜ?
その新事実をどう受け止めればいいか少し悩む。
このままでは俺の中に確とあった柏木瑠音という存在が根底から引っくり返りそうだった。直前まで易々浮かんでいた瑠音先輩のイメージが霞んでいく。
これはいけないと散々悩んで、やっとのこと収まりの良い答えが見つかる。
それはただの現実逃避だった。
「聞かなかったことにします」
「まあ……そうしたいなら別に止めないけど……」
余計な情報を頭の中から綺麗さっぱり消去したおかげで、柏木瑠音の顔が鮮明に思い出せるようになる。
小憎たらしい笑顔だ。今にも殴りかかってきそう。やっぱり瑠音先輩はこうでなきゃいけない。
「無駄話が過ぎましたね。早く行きましょう」
「無駄……」
不服そうな会長の手を取って走り始める。
「ちょっと!?」と会長が声を上げたが無視した。
今しがた聞いたことを振り切るためにもひたすら走りたかった。
風を切って人の群れをくぐり駅に向かう。聞える足音は二つ。
途中で会長を呼ぶ声があった。けれど立ち止まらなかった。振り向くことすらしなかった。
振り向けばインテリ風味な瑠音先輩が追いかけてきている気がして、駅に着くまでずっと走り続けた。