「ちわーっす」
挨拶もそこそこに生徒会室に入った。雑多感あふれる小部屋。もはや汚部屋と言ってもいい。そんな場所。
室内にはあちこちにダンボールが積んであって、よくよく目を凝らすと何に使うんだか分からない小物がたくさんある。
ダンボールの中にはいつのだか分からん紙類や、演劇にでも使ったのか衣装が入っていた。
何でこんなもんがあるんだと思いつつ、ストレスがピークに達した時にコスプレして遊んでいる。男も女も関係なく役員皆でだ。壊れかけで頭がおかしくなっているから抵抗なんてない。一種の自己防衛機能が働いているのだろう。
そんな感じで案外役に立っている衣装は置いておいて、紙類はよくよく見ると何気に重要なことが書いてあったりするので下手に手を付けられない。手を付けるならまず捨てて良い資料とそれ以外を分別しなければいけないのだが、そんな時間は役員の誰にもない。
片付けようにも何を片付けたらいいのか分からないのは、歴代の役員の悩みの種だと言う。
部屋の真ん中に長机と全員分の椅子がある。唯一会長の席だけは個別に置いてあるが、この特別扱いは会長だからこそだろう。文句なんて出るはずもない。
いつもなら飲み物や会議の資料が置いてる長机には、今はスポーツバッグがでんと置いてあって、その前に短髪の女の子が座っていた。その人は生徒会室だと言うのに教科書に噛り付いている。珍しいこともあるもんだと目を丸くした。受験が近いとはいえ、飄々としていたこの人が、いつの間に勉強に目覚めたのだろうか。これも引っくり返った弊害だろうか。
「ちわっす」
「……ちわ」
驚いた。これほど弱っている姿はまだ一度しか見ていない。
いつもはもっと声が大きいのに、そのらしからぬ声音には病気じゃないかと一瞬勘ぐってしまう。
しかしマスクをつけてないのでその可能性は低そうだ。
では、果たしてどういうことなのか。確かめるためにじっと見つめる。
「……」
「……」
見つめている内に、段々とその人の頬に赤みが差した。
教科書の影に顔を隠す。いつだか見たことのある行動にちょっと安心して、それでわかってしまった。
「テスト勉強ですか」
「……そう」
「熱心ですねえ。ちなみに科目は?」
「……英語」
「ふーん。で、本当のところは?」
「…………0点取ったよ! 悪いかよ!!」
げろった。
「八つ当たりはかっこ悪いですよ」
「うっ……」
「そもそも赤点とか、仮にも選挙で選ばれる生徒会役員としてどうなんです?」
「うぅ……」
「どうなんですか?」
「……面目ない」
しゅんとしてしまった。
苛めるつもりはなかったのだが、正論をまくしたてるといじめに近くなる。自重しなければ。
しかし変わってない。
逆境に弱いところとか打たれ弱いところとか。案外泣き虫なところとか。
世界が引っくり返ってもこの人はほとんど変わってない。うちの母親と言い、個性豊かな奴は変わらないのか?
いや、それだと北村が変わってるのはおかしい。あいつほど個性的な奴はいない。北村……。
「……」
「……なんだよ?」
「いえ、変わらないなと思って」
「人のこと馬鹿だと思って馬鹿にしてんのか!? どうせあたしは馬鹿だよ、バーカ!!」
言うだけ言って、机にガバッと伏せる。不貞寝だ。拗ねてしまった。
言動が逐一可愛いこの人は土屋葵と言って、こんなんでも立派な生徒会の役員だ。役職は副会長。
運動が出来て、格好良くて、面倒見が良くて頼りになる。そんでもって生徒会の副会長。
その代償に勉強が壊滅的被害を被っているけれど、それを補って余りある運動神経でカバーしている。
俺は役職が同じということで、普段から手とり足取り面倒を見てもらっている。体育会系なだけあってボディタッチが多いのだ。おかげで距離が近い近い。
この距離の近さに密かにときめいているのは内緒だ。
「まあ、元気出してください。いじめるつもりはなかったんです」
「うるさいばーかばーか。男に言い負かされるなんて屈辱だ」
くぐもった声でそんなことを言っている。
「男とか女とか、そんなちっぽけなこと気にしてるから0点なんかとるんですよ。もっと視野を広くもってください。じゃないと0点から抜け出せませんよ」
「つぎ0点って言ったら――――」
「0点」
「うがあああああぁぁぁぁぁ!!!?!??」
叫んで起き上がったと思ったら掴みかかろうとしてくる。
俺は慌ててバックステップを踏んで回避しようとした。
しかし数歩下がるだけで棚にぶつかる。生徒会室は狭い。それもいつものことだが。
これはやられると、きたる未来に胸が高鳴った。カモン、ボディタッチ!
めくるめく夢見る未来。
しかし、夢にまで見た未来は訪れない。
いつもなら何の躊躇の無い葵先輩は今日に限って躊躇していた。
俺の胸元に手を伸ばした姿勢でピタッと硬直している。
いつもなら散々揺さぶられるのだが、今日はそれ以上してこなかった。
なんだ? と疑問に思っていると、葵先輩はプルプルと震えながら椅子に座ってしまう。
「どうしたんすか?」
「うるせえ。…………男に掴みかかりそうになった。あぶねえ」
ぼそっと呟いた言葉は聞こえていた。
元の世界で言うと、男が女に掴みかかるのはどんな理由があってもアウトだ。法律がどうこうではなくモラルとか道徳的に。
例え親しい間柄であっても、なんなら同意を得られたとしても、中々そんなこと出来る奴はいないだろう。
引っくり返ったこの世界では、女が男に掴みかかるのがそういうことになる。
ということは、俺と先輩が散々友好を深めたじゃれあいが今後は不可能ということだ。がっかりする。死ぬほどがっかりする。北村がああなった以上にがっかりした。
その本心を押し隠して軽愚痴を言おうとした。もう少し煽れば行ける気がしたからその期待もあった。
けれど、俺が何か言うより早く声がした。入口の方から。
「こら、副会長コンビ。なにやっているの」
腰より長い髪が揺れている。
凛と透き通った声は、たとえここが体育館であったとしても、どれだけ離れていても、何不自由なく聞こえることだろう。
なんの根拠もない確信だが、あの目を見るとそう思ってしまう。
扉の前に立つ怜悧な目が俺たちを見ている。
「あたしは何もやってねえよ。こいつが――――」
「こらこら葵。下級生の、しかも男の子にむきにならないの。あなた三年生でしょう? 見本にならなきゃね」
まるで土屋葵とはこう扱うのだと、見本のように諭した。
葵先輩は何も言えない。悔しそうに教科書に噛り付いた。
それを横目に見て挨拶した。
「こんにちは」
その人はニコッと笑う。
その人――――生徒会長・金折早織は、俺の知ってる笑顔と全く同じ表情で俺に問いかけてくる。
「身体はもういいの?」
「ええ。大丈夫です。ご心配おかけしました。……会長、北村のことですけど――――」
手で制された。目が言っている。『その話は後で』
ならば何も言うまい。俺は口をつぐむ。会長は葵先輩に背を向けて俺と向かい合った。
「あまり葵をからかわないでね。0点取って落ち込んでるのよ」
愉快そうな口調で、普段から知的に光る目には、少しだけ悪戯っ気が含まれている。
「うぐっ」と唸った葵先輩を見て、その笑みは深まった。
「多少の点数なら部活動の成績で大目に見られているけど、さすがに0点を取っては先生方も擁護できないのよ。いくら小テストとは言えね。だって0点なのだから。分かるでしょう? 0点。私は0点は取ったことがないから想像できないのだけど、きっととても屈辱だと思うの。それに恥ずかしいと思うわ。だって0点ですもの。0点は選ばれし者しかとれない点数なんだから、むしろ誇るべきって友達が言っていたんだけど、私は理解できないわ。だって名前書かなければ0点になるでしょう? だから0点を取るのはあまり難しくないと思うのだけど、あなたはどう思う?」
俺は頷いた。
会長の言うことも、お友達の言うことも理解できる。
その上で俺は自分の考えを述べた。
「名前を書いて、真剣に問題を解いて、その上で0点ならむしろ選ばれし者しか取れない点数だと思います」
「そうね。その通りだわ。というわけだから葵、あなたは選ばれし者よ。誇っていいわ」
言い切った会長は背を向けたまま葵先輩の言葉を待った。
しかし何も聞こえては来ない。不審に思って振り返る。葵先輩は机に突っ伏して小刻みに震えていた。
俺と話すためにわざわざ背を向けた会長は気づかなかったが、俺にはずっと分かっていた。
今になって気づいた会長は慌ててフォローに走る。
両手を合わせて拝むように謝っているけれど、葵先輩は一向に顔を上げない。
ついに矛先は俺に向き、「どうして教えてくれなかったの!?」なんて聞こえてきた。
いやいや、会長が長々話している時にはもうこうでしたよと教えてあげる。
「葵~ごめんねえ~」と会長の方こそ泣きそうになりながら必死に謝っていた。
この光景もいつか見た。この人も変わってないなあと思って、俺は笑った。