紆余曲折あって、葵先輩はトイレから出てきたが、俺は少し水に濡れた。
その後、デビルンと一緒に二人は帰り、今、生徒会室には俺と会長の二人だけが残っている。
窓から差しこむ夕日は少しずつ弱くなっている。橙色に照らされる室内は暗がりへと落ちかけていた。もう日暮れだ。部屋の電気をつけ、机の上のそれを認識した途端、漂う紅茶の香りが鼻腔をくすぐった。
俺の前には湯気の立つ紙コップが置かれている。一口、口に含むと、緑茶とは違う何とも言えない味が口の中に広がった。元は同じ葉っぱのはずなのに、どうしてこんなに違うのだろう。
会長も自分の席で紅茶を楽しんでいる。微笑みを浮かべ、たまに堪能するように吐息をついた。それが何とも色っぽい。同世代とは思えない色気がある。
その大人びた顔を見ながら、刻一刻と過ぎる時間に焦りを覚えた。俺から聞くべきだろうかと少し考える。
会長が自分から言うのを待っていたのでは日が暮れてしまうかもしれない。
どうせ帰ってる途中で暗くなるだろうが、日のあるうちに帰りたいと思う気持ちがあった。
窓の外を見つめる。太陽はもう地平線の向こうに消えかけていた。
俺の視線を追いかけた会長が囁くように言った。
「暗くなっちゃうわね」
頷く。昼と夜の境目が迫ってきている。黄昏時と言うんだったか。
魑魅魍魎が動き出す時間だ。そうでなくても悪人は暗闇の中で悪事を企んでいる。
俺の心中を察してかは知らないが、「安心して」と会長は続けた。胡乱気に返事をする。
「はあ……?」
「一緒に帰りましょう」
元々、生徒会の仕事がある日は一緒に帰ることが多かった。
家がすぐ近くにあるから自然とそうなった。
これをわざわざ言葉にしたということは、本題に入ったということだ。
会長が紙コップを置く。湯気はもう出ていなかった。
「さて……。
「誰ですか?」
聞き覚えの無い名前だったから聞き返す。
出鼻をくじいた形になった。会長は思わずと言ったふうに微笑んだ。
「北村光。下の名前は知らなかった?」
「初めて聞きました」
実際はどこかで耳にしたことがあるかもしれない。
けど俺にとって北村は北村で、クラスメイトもみんな北村と呼んでいる。
いきなり名前を呼ばれてもすんなり結びつかない。
「知っていると思うけど、病院に行ったわ。大丈夫だって連絡があった」
「そうですか。そりゃあ何よりです」
「あなたが保健室まで運んでくれたんでしょう。ありがとう……って私が言うのも可笑しいわね」
くすくすと笑いながら、その目は笑っていなかった。
その奥にある機微まではわからない。答えるかわりに肩をすくめる。
可笑しいとは言うけど、北村曰く幼馴染らしいから別にいいんじゃないだろうか。
それがどんな関係かはよく分からない。でも家族みたいなものなのだろう。俺は家族に縁がないからなにがどうとは言えないけど。
「北村が昼に何か言ってませんでしたか?」
「ええ。あなたのことを頼むって」
顔を顰める。とことん子ども扱いされてるなと思った。
「一緒に登下校してやってくれって頼まれたわ。急だったから、返事はまだだけど」
「それは気にしないでください。あいつが変な気をきかせたんです。迷惑でしょう。無視してくれていいですよ」
「とは言っても、それで余計体調を崩されでもしたらと思うと気が重いわ」
頼み事一つ断られたからって体調崩さないだろう。どんだけ繊細なんだ。
会長は手元の紙コップを覗きこむ。もう残っていないらしく、物欲しそうに手首を回してコップを傾けた。
「飲みますか?」
俺のはまだ半分ほど残っている。
全部飲み切れるか不安だった。丁度いい。
会長はピタッと動きを止め、視線を上に逸らして黙りこくった。
わずかな沈黙の後上目づかいで尋ねてくる。
「いいの?」
「いいですよ」
紙コップを手渡した。湯気こそ出ていないがまだ暖かい。
しばらくじっとたゆたう水面を眺めていたかと思うと、意を決したように呷った。一気飲みだ。
「ふぅ……」
無造作に口元を拭っている。うっすら赤面しているようだった。
さすがにこうまでされて気づかないほど鈍感じゃない。
たぶん間接キスを意識したのだろうが、そこまでと思うほど過剰な反応だった。
「……ありがとう」
「いえいえ」
何となく沈黙してしまう。
変な空気が流れた。おかしいな。なんでこんなに意識されてるんだろう。
イメージの中の会長は常に泰然としていて、ちょっとやそっとのことじゃ動揺しないし、素直な感情を表に出すこともまれだった。
今日の会長はどういう訳か、怒ったり笑ったり、素直な顔を見せている。こうやって照れる姿を見れるなんて夢にも思わなかった。
葵先輩ならともかく、会長に異性として見られるのは慣れない。背中がこちょばしい。
高嶺に咲いていた花が、突然手のかかるところに花を咲かせてしまったようだ。眺めているだけで満足だったのに、目の前で咲きほこられては困惑するしかない。
「……それで、ね。痴女のこともあるし、あなたと登下校してもいいかなって思ってるの」
「生徒会帰りはともかく、それ以外も意識して合わすんですか? 面倒くさくありません?」
会長は苦笑した。
考える間が空く。ゆっくり口を開いた。探るように慎重な口調になっていた。
「光は、理由は教えてくれなかった。どうしてあなたと一緒に帰る必要があるんだろう? 少し考えてみた。もしかして、私のこと好きなのかなって思ったりした」
暗記していた文を朗読するように、会長の言葉には抑揚がなかった。その目は記憶を振り返るように焦点が合っていない。
自分の中で整理するために、あえて言葉にしているんだと思った。もしかしたら、勇気を振り絞っているのかもしれない。
「――――ごめんなさい」
一拍間が空いた。
「こんなこと。もし違ったら凄く失礼なんだけど……もしかして……」
凄くつらそうな表情で言うものだから、聞いてるこっちが辛くなってくる。
何を聞きたいかは大体分かっていた。むしろこっちからカミングアウトするべきじゃないかと思ったりもした。
「……痴女に、その……」
「はい。今朝がた遭いました」
会長は唇をかんで顔を伏せる。
俺の口調は、そもそもがして当たり前なのだが、別段気にしていない軽いものだったと思う。そうするように意識すらした。重く受け止める必要なんてどこにもない。
しかし俺の気持ちなぞ聞く方には伝わっていなかった。以心伝心ではないのだから、心の内を推し量れというのは無理がある。
「そう……。それで光が……」
「いらん気を回して、なんだか調子崩しちゃったみたいですね。……先輩、あいつもしかして――――」
会長は握った拳を口に当てている。緊張で唇は固く引き結ばれ、視線は俺と床とで行ったり来たりしていた。やがて首を振った。
「ダメね」
何がダメなのか。
「私から言えることといえば、ほんの少ししかないんだけど。そもそも言ってしまっていいのかどうか……」
「まあ、無理に聞こうとは思いません。言えないなら言わんでいいです」
「そう……。いえ、そうね。あなたは光を助けたし、知る権利はあると思う」
権利がどうとか、小難しいことはどうでもいいが教えてくれるらしい。
椅子を引き、脚を組んだ。腕組までしている。鋭い眼光と合わせてまるで戦闘態勢だ。
「光は……むかし、痴女被害に遭ったことがあるの」
「むかし?」
「中学生の頃。たしか、1年生ね」
北村は、中学生になって一人で電車に乗る機会が増えたそうだ。
友達と遊びに行くときや、あるいは一人で買い物をする時など。
小学生の時は許されていなかったことが、中学校に入学して一つの区切りを迎えた。大人になったわけではないが、成長した。それに応じて、親の縛りが少しだけ緩まった。
許されることが増え、それと共にぐっと広がった行動範囲。確かめるように、北村は一人電車に乗り込んだ。
「一人じゃなくて集団で、それも計画的な犯行だったらしいの。ずっと狙ってて、光の行動を逐一観察してた。どこから乗ってどこで降りるのか。家も知ってたし、家族構成まで調べてた。時間をかけて念入りに。悪質でしょう? 強制わいせつで逮捕されたわ。全員、今も刑務所にいるはず」
黙って聞いていた。3年前、集団痴漢。最近のことではなかった。
しかし家まで調べてたって言うのが怖い。それほどの周到さだ。最悪、拉致されて強姦もありえたかもしれない。怖い。気持ち悪くなってくる。怒りで震える。
脳裏に浮かんでしまう、年端のいかない少女が男共に乱暴される光景。その想像は、この世界では逆なわけだ。
ふざけた世界だ。笑えてくる。
「はっ……」と鼻を鳴らした俺を会長は慮るように見てくる。
「あなたも似たような目にあったのでしょう? 私は……私なんかが言えることじゃないけど――――」
「いえ、俺は違います」
思ったよりも強い口調で、言葉の節々に怒りが込められているのが自分で分かった。
落ち着け落ち着け。クールに行け。
「俺は、集団じゃなかったし、一人で、その人も手を叩いたら撃退できました。だから、北村ほどひどい目に遭ってない」
大きく息を吸った。
少し支離滅裂だったが、言いたいことは伝わっただろう。俺のことなんか大したことじゃない。
「北村はそのことがトラウマになってるんですか?」
「そうらしいわ。だいぶよくなったと聞いていたんだけど……」
そこまで言って首を振った。いま、北村は病院にいる。
思い出させてしまった。俺が安易に教えたから。
昔の自分に重ねてしまった。俺のことを。
「知ってることはこれだけ。あまり詳しくないの。その後、光はすぐに引っ越してしまったから」
「いえ。ありがとうございました」
頭を下げる。
もう怒りは冷めた。過ぎたことだ。俺にはどうしようもない。
会長が窓の外を一瞥した。暗い声で呟いた。
「夜ね」
「はい」
いつの間にか窓の外は暗くなっていた。
太陽はどこを探しても見つからない。代わりに街灯が、点々と灯る明かりが小さく見えた。
太陽に比べれば儚い光だった。それでも街を照らす光は暖かい。
「ねえ」
「はい」
窓の外を見つめながら返事をする。
「私は光を守れなかった。今でも後悔してる」
「……」
「昔はもっと笑う子だった。明るくて元気で、活発な子だった。今みたいになったのは、あいつらのせい。あいつらが、あの子の人生を狂わせた」
黙って聞いていた。何も言えなかった。俺に向けられた訳じゃない、犯人に向けられた怒りにたじろいでしまう。そうじゃなくても他人の告白に口を挟む気にはなれなかった。
「今度は守りたい。もう後悔したくない。光の代わりじゃなくて、あなたのことを守りたい。私に、守らせてほしい」
会長が振り返る。綺麗な表情だった。
言葉を包んでいた怒りはどこにも見当たらない。
今や自責の念と、確かな決意が共存している。
「ダメ、かな?」
「……いえ」
少し考えた。
正直、守られる必要はないと思う。
俺はこの世界の男子ほど弱くはない。その通り、生きてきた世界が違う。
例え力が弱くなっていても、やりようはある。何とでも出来るはずだ。
けれど、会長の頼みを袖にすることはできない。
少しでもその苦痛を和らげられるなら、俺に出来ることならなんでもしたい。
俺は頷いた。
「俺の方から頼みます。実はちょっと、また触られるかもって不安だったんです」
「任せて」
冗談めかして嘘を言う。
笑うその顔にほっと胸をなでおろす。
この人には笑顔でいてほしい。花を愛でるような、人を慈しむような、優しい笑顔でいてほしい。
いつでも。どこでも。ずっと。一生。
そんな笑顔でいてくれたら、俺は幸せだ。