「ねえ、蓮子。太陽や空の色を説明する時にあなたならどう言うかしら?」
窓の外に視線を向けていたメリーが、明るい声で尋ねてきた。声はこちらにはっきりと届いたが、顔は私ではなく快晴の空を見つめたままの状態だ。
一段と強くなった日差しが窓を通して私達を照らす。快適に保たれた空間に降り注ぐ、熱量を持った原初の光。自分も座ったまま自然に身体の向きを変え、無意識の内に両手を広げる。
それは、はるか遠くから届く贈り物。数十億年もの間、この惑星に変わらぬ光を与え続けてくれたその存在を包み込むように、広げた腕をわずかに閉じる。
抱え込もうとしているのに、暖かな日光は逆に私を抱きしめてくる。そのまま体を預けてしまいたいと感じるのは、DNAに刻まれた本能からくるものだろうか。
エジプト神話、ギリシア神話、日本神話とあらゆる著名な神話に登場することから、大昔から人々は太陽崇拝、太陽信仰の心があったと読み取れる。作物は太陽が無ければ育たない。陽の光がなければ、仕事をすることすらできない。夜の不気味さ、恐ろしさ、寒さを身に持って経験しているからこそ、人々は絶対的な輝きに縋ったのだろう。
夜、黒一色と対を成す存在。だからこそ、私はこう表現するだろう。
「太陽は燃えるように輝く赤色。空は透き通るように広がる青色、と言うわね」
直視することができずに、目を細めながら質問に答える。一般的に太陽の色は白光色と呼ばれており、世界的には白色が主流である。これには高緯度低緯度の関係や瞳の色、つまりはメラニン色素と密接に関わってくるため、『あくまで白色と答える割合が多い』とも言える。
ちなみに欧米人は明るい色の瞳が多く、太陽光の刺激をより強く受けてしまうためサングラスを着用するものが多い。メリーも私達より光に弱いのかな?と横目を使うが、彼女の双眸はじっと太陽を見つめ続けている。どうやらメリーにとって直射日光はさしたる影響がないようだ。
とはいえ長時間の視認はよろしくない。試しにサングラスを勧めてみようか、との考えが頭に浮かんだがすぐに取り下げた。メリーとサングラスの組み合わせを想像し、そのアンバランスさをまざまざと脳内で認識してしまったためだ。抑えようと思ったが、堪えきれずに微かな笑い声として漏れてしまう。
すぐに左手で口を塞いだが、どうやら空気に乗って向かい側まで届いてしまったみたいだ。窓に向いていたメリーの視線が、こちらに移動する。私の体勢を一瞥し、呆れた眼差しを向けてきた。
どうやらひと目見ただけで私の現状および内情を見抜いたみたいだ。伊達に一年以上パートナーをしてる訳ではないということか。それでこそ我が相棒、とくだらないことをほざけば今度こそメリーが帰ってしまう危険があるので、一つ咳払いをして居住まいを正す。
その変化を見て、メリーも一つため息をついて今度は机に目線を落とす。様々な種類の本を重ねている私側と違い、彼女はとあるキーワードに関連する本のみを抽出して借りてきていた。
その内の一冊に触れながら、彼女は再び口を開く。
「そうね。太陽は赤色、白色、橙色、黄色。空は青色、水色と答える人が多いわ。蓮子に限らず、日本人は無意識の内に国旗を思い浮かべるのか赤と答える割合が高いわね・・・それじゃあ、続けて質問するわ」
私の回答になんでもないような反応を返して、言葉を紡いでいく。素っ気ないとも取れるが、おおむね予想通りだ。彼女が持つ本のタイトルを見れば誰だって分かる。先の質問、私が何色と答えるのかははっきり言って、どうでもいいことなのだ。
パラパラとページを捲る音が部屋に響く。今メリーが無造作に手にしている本も、著名な科学者らが提携して完成した貴重な一冊だ。後半に差し掛かったあたりで、ページを捲る彼女の手が止まる。
「蓮子、今あなたが言った色・・・・・・私が思い浮かべた色と、『同じ』だと思う?」
すっと私を見据えた目は、蒼色に輝いていた。彼女が片手で広げている本の背表紙には一文字一文字全てが違う色で書かれたタイトルが乗ってあった。
『クオリア~主観的体験が伴う質感~』と。
一般的に、数学的に証明された、という事象についてはもはや議論の余地などない。喩え悠久の時が経とうとも反論されることがなければ、未来永劫その存在は正しいことが確定する。科学世紀において、数学的に証明されたことは常に正しいのだ。数学的証明こそ、永久不変の真理と言える。
そこで過去に、数学的証明の積み重ねによってこの世全ての問題を解決しようとするプロジェクトが発足した。時は1900年代前半、数学会の巨匠が旗を掲げたことで始まった「ヒルベルトプログラム」は世界中からの期待と注目を受けながらスタートした。
---数学理論に一切の矛盾はなく、どんな問題でも真偽の判定が可能である。
これが証明されれば、人類は真理の扉の鍵を手に入れたこととなる。時間はかかれど一つ一つ階段を登ることで、いつかは天へたどり着けることが約束されるのだ。数学に携わる者として彼の呼びかけに応じるものも多く、一つの証明に対して破格の人数で挑んだ彼らの心は、部外者の私が想像するだけでも非常にわくわくする。
・・・しかし、結論から言えばそれは叶わなかった。当時若手でヒルベルトプログラムに懐疑的だった数学者の一人、ゲーテルがとんでもないことをしたのだ。
数学理論は不完全であり、決して完全には成り得ないことを『数学的に証明』してしまったのである。
ゲーテルが発表した不完全性定理と呼ばれるこの定理は二つの事象、
・ある矛盾の無い理論体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する
・ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、その理論体系の中で証明できない
を軸としたものである。簡潔に言えば、たとえある定理が正しかったとしてもそれを定理内では絶対に証明できないというものだ。自己言及のパラドックスとも言い換えられる。
一つの定理は、それだけでは己の中に矛盾がないことを証明できない。他の定理を使用すれば証明できるが、今度はその定理の証明のため違う定理を使用して、というエンドレス。どんな理論体系にも、パラドックスは存在する。
ゲーテルショックとまで言われた現象と共に数学界を、引いては世界中を伝わった。真理の扉に繋がる、天まで続く階段を登っていた人々はその道が途中で崩れ落ちていることを証明されてしまったのだ。
反証しようと躍起になった者もいたが、あがけばあがくほど不完全性定理に絡め取られ、
ゲーテルの正しさを示すだけの結果となった。世界の真理を解明するため始まったヒルベルトプログラム。その結末は非常に寂しいものとなってしまった。
「分からないことを知ろうとする。未知という状態を人は、生物は恐れるわ。一瞬の気の緩みが自身の命を脅かす自然界では、周囲の状況を知ることで自身の安全を確保していたの。知恵という叡智を手にし、地球の支配者となった現在でも、人間が進化をやめようとしない理由はそこにあるのかもね」
「生物としての本能、DNAに刻まれたコードということかしら。孵化したばかりのカッコウがいい例ね・・・・・・未知を求めた先に、20世紀、21世紀それぞれで人は限界を目の当たりにしたわ。20世紀は不完全性定理で。そして、21世紀はクオリアで、ね」
メリーが持ってきた本の中から1冊を手に取る。タイトル名は『クオリアに挑戦した科学者達』。メリーが今読んでいる本より大分噛み砕いた、一般層もターゲットとした内容となっている。
素数やフェルマーの最終定理一つに人生を捧げた数学者が多数いるように、1カ国の一つの時代の研究に生涯を費やした歴史研究家がいるように、クオリアという難題に自身の全てを掛けて挑んだ科学者は多い。
この事象は、永遠に続く式というわけではない。問題自体が常人には理解できない複雑怪奇な文章であるというわけでもない。何故なら、私達人間であれば誰もが感じている事柄だからだ。
「蓮子。あなたは空の色を青色と言ったわね。その青という色は一体何故、その色で見えているのかしら。一体どんな仕組みで、どこからやってきた色なのかしら?」
「・・・・・・」
「ある周波数の光が目に入ると見える。たしかにそうね。でもその色は、黄色でも赤色でも良かったはずなの。それなのにあなたは現実として、空を青色としてみている。この色は、この質感(クオリア)は一体どこから表れた色なのかしら?」
本を閉じ、メリーは再び空に目をやる。
青色の空。私達が当たり前のように亭受している色が何故、『この色』で見えるのか。色での例えはあくまで一例であるが、赤い、青い、白いという質感について解明しようとした科学者はその全てが膝をつく結果となった。
物質を追いかけてその動きの規則性を調べるやり方では、私達の意識の中で起きた青い質感、赤い質感という起源を原理的に解明することは不可能なのである。
仮に自分が赤色を見て、その時脳で起きた化学反応を説明することは可能かもしれない。しかしそれは、まさに今、自分が感じている赤い質感の起源を説明したことにはならないのだ。
そして、この質感を他人に対して表す事もできない。
「私もこの空の色は青色というわ。でも、蓮子と私がそれぞれ感じている青い質感が同じだなんて保証はどこにもないの。私が思う赤色で蓮子は青を見ているのかもしれない。青に限りなく近い水色かもしれない」
「あの夕日、真っ赤に燃えているね。そうだね。・・・・・・って会話があって、それが通じているとしても両者が同じものを感じているとは限らない。両者が同じものを見ているとは限らないの・・・ねえ、メリー」
「何かしら?」
「私が言うのも何だけど、クオリアを課題の軸に据えるのはちょっとおすすめしないわ。私なんかより遥かに優秀な科学者が協力しあって、それでも届かなかった問題なのよ」
少なくとも、一学生が挑める代物ではない。そんな意味も込めての忠告だったが、メリーの顔を見て杞憂だと悟った。
分かっている、という笑みを浮かべていたからだ。
「流石に本質的なところまでやろうとは思わないわ。第一、科学に関しては専門外よ。いくら物理学が哲学の分野に突入してきたとはいえ、今からやったら成果を掴む頃にはおばあちゃんになっちゃってるわよ。クオリアの題材は手段であって目的ではないわ」
「手段?」
「ええ。私にも、蓮子にも大いに関係のあることよ」
そう言うとメリーはこちらを向き、おもむろに人差し指を自分の顔に向けた。いや、顔というよりは・・・・・・目?
行動の意味が分からずに困惑したが、そこでメリーが一度ウインクをした。
その瞬間、彼女の言いたいことがはっきりと伝わった。何故、クオリアという問題を選んだのかということも。
「そう、現在、人間という括りでは私達だけに備わっている不思議な異能。何故私達だけに見えるのか?その謎の切り崩しとなる可能性があるの。このクオリアにはね」