即売会イベント前に滑り込み投稿。
だんだん第一部の終わりが近づいてきました。
最初に感じたのは、熱だった。
肌にべったりと張り付いてくる、粘度の高い熱気である。続いて湿度が喉を襲った。吸い込んだ空気が明らかに水を含んでいて、生ぬるいタオルを口に押し当てられたような不快感に、私は思わず咳き込んだ。
「ちょ、待って、暑っ……何ここ」
「蓮子、上」
メリーの声に従って顔を上げ、私は間抜けにも口を開けたまま固まった。
緑だった。視界という視界が、全部緑で埋まっていた。
腕ほどの太さの蔓が何十本と絡み合い、傘のように広がった巨大な葉が幾重にも層を成している。その隙間から光が降り注いでいるが、太陽光ではない。妙に均質で、影の落ち方が不自然だ。人工照明特有の、あの平板な明るさである。
足元は腐葉土のような柔らかさで、一歩踏み込むと足首まで沈んだ。どこからか絶えず水の流れる音がしているのに、川らしきものはどこにも見えない。植物の根が縦横無尽に張り巡らされて、水面を完全に覆い隠してしまっているのだろう。
ジャングルだった。どこからどう見てもジャングルである。
これまで私たちが潜り抜けてきた綻びの向こうは、大抵の場合において過去の日本だった。廃寺、旧街道、地下の駅。時代こそ様々だが、いずれも私たちの知る文脈の中にあった。
ここは違う。見渡す限り、この国の風景と呼べるものが一つも無い。
「メリー、私たち南米か東南アジアにでも飛ばされたのかしら」
「違うと思うわ。……蓮子、ちょっと跳んでみて」
「跳ぶ?」
「いいから」
解せないまま、その場で軽く跳ねてみた。
同時に、得体の知れない感覚が身体を巡る。
浮いた。
浮いたのである。通常であれば十数センチも上がれば上等というところだ。それが頭一つ分は軽く超えた。おまけに落ちてくるのが遅い。ふわりと、羽根が舞い戻るような優雅さで地面に足がついた。
「……は?」
「半分も無いんじゃないかしら、重力。降りてきたとき、私も足の感覚が変だったもの」
冷静に分析する彼女の横で、私の心臓は完全に暴走を開始していた。
低重力。人工照明。閉鎖環境。異常な高温多湿。そして密林。この五つの条件を同時に満たす場所を、私は一つしか知らない。
視線を走らせる。あった。蔓の隙間、五メートルほど先。緑に半分呑まれた壁面に、細長い開口部が横一列に並んでいる。
「蓮子? ちょっと、待ちなさいよ!」
メリーの制止を完全に無視して、私は駆け出した。低重力のせいで一歩が異様に伸び、危うく蔓に足を取られて盛大に転倒しかける。それでも構わず走り、半ば体当たりするように取りついた。
透明な窓。そこに顔を寄せ、外の景色を視界に収める。
……息が、止まった。
星だった。視界を埋め尽くす、途方もない量の星がそこにあった。
瞬いていない。一つも瞬いていない。大気の揺らぎによる散乱が完全に排除された、剥き出しの光点。針の先で突いたように鋭く、完全な静止のもとに、それらは輝いていた。
天体観測を趣味とし、超統一物理学などという大層な看板を背負って学んでいる私が、この光景を見誤るはずがない。
視界が勝手に情報を処理し始める。星の配置。時刻。目に宿る異能が、正確な回答を送ってきた。
『今』
時間は今だった。私たちが鳥居をくぐった、その直後。ずれは無い。数分の誤差すら無い。過去にも未来にも運ばれていない。
ならば、場所は。視線を巡らせると、星の海の中にそれはすぐ見つかった。
月。
白い星が、視界をでんと占領している。地上で見上げたときの、ざっと五倍。いや、それ以上だろう。クレーターの一つ一つが肉眼で判別できる。
私の目は、月を見れば場所を知る。位置と形状から自分の座標を割り出す、意識の外側で勝手に行われる作業だ。だが今回に限って、答えが返ってくるまでに数秒を要した。
生まれて初めて、私の異能が計算に手間取っている。そして弾き出された答えは。
「……嘘でしょ」
地上ではなかった。地球ですらなかった。
地球と月を結ぶ直線上、その狭間。両者の重力が釣り合い、そこに置かれた物体が二つの天体に対して同じ位置を保ち続ける特異点。天体力学が導き出した五つの解のうち、最初の一つ。
ラグランジュ点。それも、L1。
「もう、いきなり走り出さないでよ。危ないでしょう?」
追いついてきたメリーが、私の隣で口を尖らせた。
「メリー、時間は今よ。私たちが出発した時刻とぴったり同じ。でも、場所が違うの」
私は窓の外を指差した。
「地球じゃない。ここ、地球と月の間。ラグランジュ点のL1よ。地上から三十二万キロ」
メリーが窓に歩み寄る。外を見た彼女が、小さく息を呑むのが分かった。それから彼女は、背後に広がる緑の海をゆっくりと振り返る。
窓の外側は、有害な太陽風の吹き荒れる無の世界。その内側は、むせ返るような緑の楽園。
「ねえ蓮子。ここ、船なのかしら」
その一言で、頭の中の点と点が一本の線になった。
宇宙空間。ラグランジュ点。人工重力。閉鎖された生態系。そして、地上のどこからも絶対に到達できない場所。
「……待って。待って待って待って」
「な、何?」
「メリー、私たち今日、どこの鳥居をくぐったんだったかしら」
「天鳥船神社だけれど」
「航宙安全の神様よね。その社が二つあるって話、去年したわよね」
メリーの顔から、少しずつ表情が抜けていく。彼女もそこまで辿り着いたらしい。
一つは、地上に。もう一つは。
私は窓枠を両手で掴んだ。指先が白くなるほど強く。
「……トリフネじゃないでしょうね」
「……まさか」
「そう、衛星トリフネ」
頷きながら、自分の声が上ずっているのが分かった。もう止められない。こうなった私を止められる人間はこの世に存在しないし、仮にいたとしても今は聞く気が無い。
好奇心も口も止まらず昨年あれだけ熱弁した説明を再び繰り返してしまう。
「トリフネはね、宇宙の藻屑になったわけじゃないの。制御を離れて行方をくらませたあと、しばらくしてここで見つかったのよ。万一に備えてそういう機構が組み込まれていたらしいわ。制御不能になった際の保険としてね」
「行くべき場所へ、勝手に行って止まった……まるで意志があるみたいね」
「怖いこと言うわね、メリーも」
また始まった、と呆れ顔のメリーを尻目に口からスラスラと言葉が紡ぎ出される。
実際、当時もそういう非科学的な論調は少なからずあった。オカルト雑誌が随分と喜んで書き立てていたのを覚えている。私も面白がって読んだ口だ。まさかその現場に立つことになるとは思わなかったが。
「それでね、あんまり不甲斐ないもんだからどこかの専門家が皮肉を言ったのよ。日本の技術者は多額の金をかけて宇宙に遺跡を作った、って。それが定着して衛生トリフネこと、鳥船遺跡」
「まあ。ひどい言い方」
「ひどいけど的確でしょう」
私は窓の外へ視線を戻した。
どこにあるかは分かっている。座標は公表されているし、望遠鏡を向ければ光点として観測もできる。世界中の誰もが、この鉄の塊の居場所を正確に把握している。ただ、絶対に行けないというだけだ。
三十二万キロ。回収予算は下りず、価値も認められず、ただそこに在り続ける。人類が正確に位置を把握していながら、手の届かない場所。
その内部に、私は今、立っている。
「蓮子。あなた、震えてるわよ」
「怖いんじゃないわよ。……嬉しいの」
私は振り返った。膝は笑っているし、息は上がっているし、心臓は肋骨を内側から蹴り続けている。それでも私の顔は、間違いなく笑っていた。
「メリー、分かる? この中の生き物、全滅したことになってるのよ。人間の手を離れた瞬間にミニ生態系は崩壊して、中身は全部死んだ。だから回収する価値も無い。世界中がそう思ってるの。学者も、政府も、企業も、全員が」
私は緑の海へ向き直り、大きく両手を広げた。巨大な葉が、人工の風にゆっくりと揺れている。
「見なさいよ、これ。全滅ですって」
メリーが噴き出した。
「ふふ、そうね。とんだ大失敗だこと」
彼女は緑を見上げ、目を細める。その横顔に、人工の光がまだらに落ちていた。
「……幻想的ね。隔離された楽園、といったところかしら」
メリーが非現実的な光景を見つつ、楽しげに笑う。
彼女に差し出された手を取る。隔離された楽園の中、二人でどこまで見て回れるだろうか。
……いつまで見て回れるだろうか。
ラグランジュ点やL1最近まで知りませんでした(小声
次は10月下旬頃に投稿予定。