キリングミュータント   作:糸冬いずく

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キリングミュータント
五月、又は修学旅行


 月が爆発した。比喩ではない。事実、この一箇月、夜空を満月が飾ることはなかったのだ。替わりに三日月が、昼夜を問わず、気まぐれに姿を見せた。

 メディアは飽きもせず、形を変えた衛星にまつわる妄想を垂れ流している。

 最初に気づいたのは誰だったか。この大事件は二十四時間を待たずに世間を駆け巡った。朝一番と言わず深夜から、ウェブではテキストが飛び交った。日本語も英語も、中国語もドイツ語も。陰謀論からSFじみた侵略説まで。だが今でも、それぞれを裏付ける証拠は出ない。公には、まるで災害時のように国際的な対策本部が立ち上げられたのみだ。現在、侵略説は鳴りを潜めてきていて、一方、陰謀論を唱える声が徐々に大きくなっている。

 大衆は真相を知らなかった。

「これは月を破壊した怪物です」

 私は思いもよらない場所で真実を知った。思いもよらない未来と共に。

「一年後の三月には地球をも破壊します」

 学校の応接室で、防衛省の女が背筋を伸ばした。扉を背にする彼女との間のローテーブルに、一枚の写真がある。いっそCGを疑ってしまいたいほどだが、黒のスーツを着込んだ大人は、いたって真剣だ。

 彼女は、私に機密事項を明かすまでの経緯を説明した。すなわち、怪物がいかに学校の先生に収まったかである。その珍妙な話は、まず怪物が「椚ヶ丘中学校三年E組の担任ならしてもいい」と言い出したところから始まり、「殺せんせー」とのあだ名で親しまれるようになったところで終わった。

「我々は、あなたに、この怪物の暗殺を依頼します」

 私はナイフとエアガンと、弾薬としてBB弾を支給された。典型的な六ミリと、あわせてナイフと、どちらも怪物もとい殺せんせーにのみ致命的なダメージを与えるという。ふと懐かしさを覚えて、そっとトリガーに指を掛けてみる。けれど、忌まわしい思い出に捕らわれそうになったので、すぐに手放した。

 

  1

 

 前の席の奥田愛美は、なかなか本題に入らなかった。ウンとかアーとかエートとか、そうした音を漏らしながら、弁当箱を開けもしない。置いてみたり抱えてみたり、後ろを向いたり前を向いたり、せわしなく三つ編みのおさげを揺らしている。

「奥田さん、どうしたの」

 声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。口を開こうとしたり閉じようとしたり、注視してみると顔が青ざめていた。

 良くも悪くも控えめな女子生徒だと記憶している。ある一点、得意の理科については、常の様子から想像もつかないほど大胆になることも。だから今回は理科以外の用事があったのだろう。彼女に昼食に誘われて、かれこれ五分がたつ。

 私はもう一度、彼女を呼んだ。それが理科でない以上、用件については想像するだけ無駄だ。私たちの間には、そうできるだけの関係性はなかった。

「大丈夫?」

「――あっ、はい」

 ただのクラスメートはついに返事をした。慌てたように、大丈夫だと言葉が続く。

「二人でごはん食べるの、初めてだね」

「そうですね」

 それで、奥田さんは持ち上げていた弁当箱を机に下ろした。ようやく話が進みそうだと、こちらは蓋を開ける。箸を握ってみたところで、向かいのクラスメートもつられるように箸に触れた。

 用件を切り出してもらうまでには、さらなる時間を要した。えびフライって、おいしいですよね。タコさんウインナーもね。そうして軽いやりとりをできるようになったころ、奥田さんは落ち着いてきて、

「あの、同じ班になりませんか」

 やっとのことだった。

 一方、なるほどと、私は来週末の予定を思い出した。修学旅行である。二泊三日の京都旅行。真っ赤な顔で言った「班」とは、その際に行動を共にする六人から七人のことで、――そういえば、午後の授業では修学旅行の計画を立てるのだったか。

「えっと、茅野さんに誘われて」

 と続くので、私は四つの顔を思い浮かべた。

「渚君の班かな」

 一つ挙げてみると、肯定と同時に驚きが返った。だが単純な連想だ。茅野カエデという女子生徒は、教室では潮田渚という男子生徒の隣の席だった。行動を共にするところもよく見られた。仲が悪いことはないだろう。

 さて、後三人。できれば全ては当たらないでほしいが、この流れなら、次は杉野友人(ともひと)だろうか。渚君の友人だ。

 果たして、答え合わせのつもりはなかっただろうけれど、奥田さんは彼の名を出した。

「それで、まだ四人なので、杉野君と一人ずつ誘おうって話になって」

 奥田さんはうかがうように私を見た。要らぬ心配でもしたのだろうか。いや、しただろう。断られる可能性を、彼女なら考える。

「もう決めてましたか」

 尋ねられて、私は否定した。まだだ。誘いも誘われもしていない。だから断るという選択肢がない。

「誘ってくれてありがとう。修学旅行よろしくね」

 こう答えるしかなかったのだ。

 問題はたった一つ。渚君が他に誰を誘うのか、あるいは誘わないのか。そして、予想が上から二つ的中した時点で、あらゆる思考は無駄だった。

 

  2

 

 来る週末、新幹線で京都へ行った。旅館の前に、クラスごとに文化財を見学した。寝室の大部屋に荷物を置く頃には、夕方を過ぎていた。

「日程表を見てない?」

 何の問題もないありきたりな修学旅行の、一日めの終わり。彼女は同じ班になった神崎有希子。談話室への廊下で続けて言うことには、A6ほどのリングノートをなくしたらしい。表紙には題名と名前と、幾つかの特徴をおさえた似顔絵があるので、さすがにクラスメートが見ればわかるということだった。

「明日の暗殺の計画もまとめていたの。さっき確認しようと思ったんだけど、見つからなくて。ポケットに入れたはずなんだけどな」

 どの言葉にも、うそはないだろう。日頃から誠実だというのもあるが、――しおりの存在が大きい。よそは知らないが、この学校では長期休暇と校外学習の前に必ず配布された。私たち三年E組も同じだ。担任がわざわざ自作した、一三四四ページにも及ぶ、ハードカバーの、という違いはあるのだけれど。非常に有用だが、大きさも重さも尋常ではなく、多くのクラスメートが必要箇所のみを別にまとめていた。もちろん私も、今ポケットを探れば、容易に取り出せる。

 さて、神崎さんなら当然バッグも調べただろう。残念ながら私には心当たりがない。そうすると、どこでなくしたかが問題だった。

「最後に見たのは?」

「新幹線に乗ってすぐ」

「新幹線とかバスとか食堂とか、そういう所で置き忘れはなかったよね」

「ええ、そうなの」

 これは担任が念入りに調べたから確実である。「でも」と、神崎さんは不安げに言った。

「取り出した覚えもなくって。ハンカチなんかは反対側だし」

「じゃあ落としちゃったとか」

「そう、なのかな」

 がやがやと、耳ににぎわいが届いた。談話室に着くようだ。彼女はその中心に担任の姿を認めると、表情を和らげた。

「見落としがないか、もう少し探してみるね。ありがとう」

「手伝うよ」

 そうは言ったが、見つかることはないだろう。十中八九、どこかで落としたのだ。あるいは盗まれた。

 奥田さんと茅野さんが手招きをしていた。神崎さんと一緒に、担任の前を通り過ぎる。彼はひどく顔色が悪かった。中央のソファにぐったりと体を預けている。まだ乗り物酔いが覚めないらしい。

 神崎さんは肩のバッグを下ろして、必死に荷物を改めた。――あの男子高校生も、今頃は同じ府内の宿泊施設で過ごしているだろうか。

 確信したくはないが、思い出されることがある。つい数時間前、新幹線で飲物を買った。別の車両を通らなければならず、うち一つを、どうも修学旅行生らしい一団が使っていた。恐らく都内の男子校だ。偏差値が低そうで、実際に頭も悪そうで、不良らしい年上が目について、そこで、一人と神崎さんがぶつかった。だからといって、――それとも、完璧で幸福だから私は後尾を歩いていて、その完璧で幸福な行いが、醜い犯罪から私自身を遠ざけてくれたのだろうか。

 

  3

 

 二日め、この四班は、主に班長を先頭に町を歩いた。神崎さんのノートは見つからなかったが、活動に支障はない。どこへ行くにも、渚君が一三四四ページを片手に案内してくれたのだ。まさかのまさか、なんと彼はしおりを持ってきていた。あらかじめ言い訳しておくが、決して押し付けたわけではない。彼が自主的に自発的に自ら望んで、その役目を買って出たのである。

「それ全部読んだの」

 気になって尋ねると、前を歩く小柄なナビゲーターは、強い否定の言葉を返した。

「目次も途中で諦めたよ。観光地まわりを調べるのに使っただけ」

 確かに、目次を追うだけで大変だった。文化財こそ各二ページで紹介されたが、一ページに大見出しが複数という部分もまま見られる。くわえて四百ページを過ぎた辺りから、いつ使うとも知れない想定に基づいた「困ったときの対処法」のコーナーだ。このしおりだけを頼りに、京都専門旅行代理店を成功させられそうだった。

「お役立ち情報が満載だったよね」

「あ、読んだんだ」

「必要なところだけね。重いから置いてきたし」

「ほんと、よく持ってきたよな」

 と、杉野君。本当に、しおりを持ち歩くことを選ぶなんて、圧倒的少数派といえよう。クラス委員の二人の荷物にも入っているかどうか。神崎さんすら持ってきていなかった。

「重たくないですか」

「なんとか。訓練で筋肉がついてきたかな」

「――あっはは、奥田さん、無理して答えることないよ」

「ちょっ、カルマ君、それどういう意味⁉」

 こうして一行は、予定のとおり、先生と回るコースの下見に移った。ついにこの時が来てしまった。八坂神社を出て、祇園の道を奥へ奥へと進む。古き良き町並みが、次第に人気を失って、ばらばらと七人分の足音が響くだけになる。

「一見さんお断りの店ばかりだから、目的もなくふらっと来る人もいないし、見通しが良い必要もない」

 神崎さんがほほ笑んだ。数日前と同じように、ここは満場一致で決定となるだろう。彼女の挙げたメリットはかなりに大きい。先生と別れた班の一つから、「人混みに紛れられて何もできなかった」と報告を受けたばかりなのだ。

 本当に条件がそろいすぎている。

 うん、今の今まで旅行は順調だ。だから私たちは、一時間もすれば担任と合流する。最後の班だから、一緒に旅館に戻って、一緒に夕飯に舌鼓を打つ。あんな所でも、食事はかなりうまかった。今夜も翌朝も、もちろん期待できるだろう。そして明日は美しい朝日にでも心を奪われて、行きと同じメンバーで京都を惜しみ、いずれ吸い慣れた空気で肺を満たしてしまうのだ。

 どれだけ条件をそろえたところで、あの担任は多少のデメリットはものともしない。そのことを、たったの一月あまりで何度も思い知らされてきた。

「さすが神崎さん、下調べ完璧!」

 人気がない、目撃者がいない、見通しが悪い、視界が狭い。おだてたのは杉野君だが、妥当な評価だ。完璧にメリットだ。暗殺にとっても、そして曲道で息を潜めている三人にとっても。あまりに優しい。

「じゃ、ここで決行ね」

 さんせーい。ぱらぱらと盛り上がる。そうしたところで、ようやく三人が足音を立てた。確かに三人分。

「どうしたの」

「人が――」

「――ひと?」

 ずっと、すぐそこの角にいたのだ、私たちは待ち伏せされていたのだ。などとは口が裂けても言えない。

 だが、僅かに身長で上回る男が、横でぐるりと頭を動かした。

「カルマ君?」

 渚君が、口にしてから身構える。

「なあに、お兄さんら」

 途端に緊張が辺りを支配した。どこかで見たような男子高校生、どこかで見たような不良。その三人組。彼らの姿は、聞かされていたスナイパーとはあまりに様子が違う。

「観光が目的っぽくないんだけど」

 進んで矢面に立った相手に対して、

「男に用はねえ。女置いて、おうち帰んな」

 この態度。厄介事が始まるのだ。そうでないとするなら、いったい何がトラブルだろう。そう面倒がるうちに、男子高校生の一人が、電柱へ打ち付けられた。言わずもがな、好戦的な班員のしわざで、すっかり目の色が変わっている。――あの冬の日と同じだ。

 はあ。この私は、そんなため息はこぼさない。だが。もう二度と、この男の喧嘩になど関わりたくはなかったのだ。

 小路はにわかにざわめいた。頭をぶつけた男と、二人の仲間。状況を生み出したクラスメートは得意げだ。彼は渚君に笑いかけて、

「前!」

 一足早く崩れ落ちた。頭から倒れ込んだクラスメートのそばに、四人めの男が立っていた。背中には閉じていた扉がある。迂闊だった。私こそ油断していた。

 なんと不幸なことだろう。

 思考の端に乗せただけなのに、脳裏に、かつて死ぬほど聞かされた言葉がよみがえる。

 

 市民、幸福ではないのですか。

 

  4

 

 ただの厄介事、あるいはただのトラブルでしかなかった事態が、厄介なトラブルに()()した。誰かと誰かとが()()()()()だったなら、などと考えても、後の祭りだ。

 四班きっての戦闘員、赤羽カルマ。渚君に誘われて、最後の、七人めとして班に加わった。班長の彼とは三年間同じクラスで、友人という間柄だ。どうでもいいことだが、教室では私の隣の席に座っている。ああ、今は地面に転がっているのだったか。人のことは言えないけれど。

「神崎さんも、ああいう時期あったんだね」

 遠くはない廃墟に転がされてしばらく、茅野さんがこぼした。すぐ近くで、神崎さんは目を伏せてうなずいた。

 犯人たちはここにはいない。事態が好転したわけではない。少し距離をとっただけで、壁もない同じ室内にいるのだし、まだ何もされていないのも彼らが友人を待っているからというだけのこと。むしろ悪転といえる。

 一連の手際が、いやに良かった。犯罪慣れ間違いなし。獲物が鉄パイプである。それも躊躇などなかった。今から増えるだろうお友達も同様とみるべきだろう。

 神崎さんは、そうした人間に目をつけられていたという。修学旅行のはるか昔、彼女自身の告白によれば、昨年のことであるようだった。

 さて、見渡すかぎり、薄暗く汚く、遮蔽は少ない。バーとして使われていたのか、カウンター席だったらしいところに、酒瓶が残っている。面倒だ。そこに、今でこそ四人だが、あちらの言葉を信じるなら、十ほど増える。ますます面倒だ。――だから、やるなら今しかないだろう。絶好の機会とは言いがたいけれど。

 神崎さんは泣き出しそうに、後悔を吐露する。茅野さんはそれに耳を傾けている。四人の不良は、あのカウンター席で下卑た笑いに興じている。外の見張りは、役目を考えれば今は無視でいい。

 共に縛られている二人はまだ中学生で、()()()()()()()()風に言えばジュニアのくくりに入るようなもので、私は厄介なトラブルなど御免なのだ。

 

 体のどこかで、ミュータントパワーがくすぶっている。

 

 死んだことがある。一度や二度ではない。この表現は文明の未発達な現代では奇妙だろうが、六度も死んだ。それとも、もしかすると現代の常識のとおり、一度しか死んでいないのかもしれない。

()()()()は全く別の世界を生きていた。たった一つの地下都市を持つ巨大なシェルターに()()()()()()。ただ色で区別される身分制度に()()()()()()()()()()。名をアルファコンプレックス。

 この世界との最大の違いは、()()()()()()()()()()が当地の頂点に君臨なさっていたことだろう。彼、彼女は、()()()()()()()で、常に市民を幸福に導いた。いや、()()()()()()()()

 そんな風に完璧なものだから、コンピュータ様には多くの敵がいた。都市の()()()()()()()を妬み覆そうとする共産主義者(コミー)と、そもそもの()()()()()を自分勝手な超能力で乱すミュータントだ。

 極めてクリーンな社会、完璧に統治された都市、完璧で幸福な市民。完璧な統治者・コンピュータ様のために、喜んで全てを尽くし、喜んで反逆者を摘発する。それが、私が六度の死を経験した世界の全て。

 ――()()、私は幸福です。

 久しく経験のなかった感覚が全身を駆け巡った。血流が速くなるような、神経が焼けるような、心臓が締め付けられるような、なじみのない、違和感そのものの体内活動。大丈夫、いつものことだ。今はせめてこの今までに使ったことのない能力(テレパシー)を意図したように使えるらしいことに幸福を見いだそう。つべこべ考えずに、そして早く終わらせよう。

 大きな手が、力強く私の肩を押した。

「俺らと同類(なかま)になればいいんだよ」

 少女の悲鳴のような音が、鋭く通り抜ける。

 女性として生まれていてよかった。かつては性差すらなくして平等を維持するために、性ホルモン抑制剤を()()()()()()()()()()けれど、この未発達の文明は違う。こうしてソファなどに()()()()()()と、私にはなすすべもなくなる。相手の高校生はただでさえ一回り大きく成長しているから。だが、ここで私が女性だったから、二人の女性に向けられたかもしれない欲を、()()()()()()()()()()()()()()()わけで。――女子ばかりが連れ込まれた時点で、目的は読めていた。グ、とうめき声が漏れる。さすがに、当然に苦しい。

「何して――!」

 声も上げられない私の代わりに、茅野さんが叫んだ。

「心配すんなって。俺らもよ、肩書きとか死ねって主義でさ!」

 男の言葉に、神崎さんが息を飲んだ。つい今しがた、厳しい父親に良い肩書きを求められ続けた不満と、その反動について話したばかりなのだ。良い肩書きが人生を良くすることは疑いようもないのに。良い人生、完璧な人生、幸福な人生。それの何が悪いだろう。

 彼により良い考えがあるわけではないようだった。ヒヒ、と笑って、獲物を前にしてよくしゃべること。莫迦で良かった。そもそも正気でもなかったか。まともに頭が回れば、この不衛生な性行為など考えもしないはずだから。

 さて、この男がべらべらと語って、周囲の不良もにやにやと表情を緩めるだけとなった時点で、私の勝ち筋はほぼ確定した。勢いよく胸元からボタンを引きちぎられても問題ない。まだ()()()()()()()()()()()。時間稼ぎはうまくいっている。――ああ、私の顔色はどうなっているかな、と表情筋を気にしてみたとき、ぬるいものがほおを伝った。ならよし。慣れない能力の副作用だけれども。構うものか。あちらには五体満足の奥田さんがいるのだから。

 奥田さんだけでも無事に残せてよかった。どれだけ慌てても、重症でない程度の男子三人がいる。おまけに渚君がしおりを持っていたはずだ。私も持ってくればよかった。今持っていても意味はないのだけれど。しかし、彼は持っている。彼はここにはいない。彼は読まなかったかもしれないけれど、――ええと、あれの一二四三ページには「困ったときの対処法」の一つ「班員が何者かに拉致られたときの対処法」が載っている。果たして気づいてくれるだろうか。

 たとえ気づかずとも、きっと、――先生に連絡をとることくらいできよう。そうしてくれるだろう。そうしたら、

 だって、

 あー、

 何だか良いことが、

「お、来た来た」

 足音が聞こえた。見張りではない。あいつらだ。うちの優秀な撮影スタッフ。そう口にしてやると、ここで涙目の女も、後ろでおびえる女たちも、いっそう顔色を悪くした。

 ようやくお楽しみの時間だった。今回は中学生だが、かなりイケている。回しても、少しはもつのではないか。

 扉が開いた。だが、出てきたのは、みっともなくやられた見張り(あいつ)だった。おいおい、どうしてそこで、おまえが地面に崩れるんだ! 襟首をつかんでいたのは、さっき散々痛めつけてやったはずの三人組だと⁉

 一番ひ弱だったやつが、口を開いた。片手に辞書を持っている。それを読んだのだろう、とは思うが、

「修学旅行のしおり一二四三ページ、――はんいんがなにものかにらちられたときの、たいしょほう」

 なんだよ、それ。

「はんにんのてがかりが、ないばあい」

「まず、かいわのないようや、なまりなどから」

「じもとのものか、そうでないかを、はんだんしましょう」

 地元民ではなく、更に学生服を着ていた場合。これは一二四四ページに続く。

 ア、と声が出た。渚君がいる。上には何も乗っていない。体が自由だ。制服を壊してくれた男は、ソファの手前で呆然と立ち尽くしていた。入り口には渚君の他に二人、いや三人。奥田さんはきちんと無傷で、三人にも深刻なけがはなさそうだ。

 最良のパターンだ。私の意識も、もうはっきりとしている。

「すごいな、この修学旅行のしおり! 完璧な拉致対策だ‼」

「いやー、やっぱ修学旅行のしおりは持っとくべきだわ」

 何より、渚君たちが到着したくらいだから、あの担任(かいぶつ)の到着も、そう遠くない未来のことだろう。

 そう判断して、二つのミュータントパワーを解除したとき、再び足音が廃墟を揺らした。今度は三人とも五人とも言わぬ大きさで、不良共が今度こそと脳を期待で固めたのは一目瞭然だ。テレパスするまでもない。だが同時に、班員の顔にも期待が浮かぶのだった。

「不良などいませんねえ。先生が全員手入れしてしまったので」

 黄色の皮膚に、丸い頭、腕のような二本の触手。更に触手、また触手。たこにしては多すぎるが、数えきれないこともなさそうな、しかし数えたくないほどの触手。最高速度はマッハ二十。などという、この世に知られる生物とは一線を画す特徴を、余すことなく操る三メートル弱の巨体。世界中が躍起になって殺そうとしている、国際機密の賞金首だ。その額、実に百億円。今は世にも奇妙な経緯で、一中学校の三年E組で教師をやっていて、三十人弱の生徒は暗殺者になってしまった。

 この怪物(たんにん)は期待に応えて、トラブルを解決した。立ち場が逆転したときには、相手はもの言わぬなんとやらになり果てていて(生きてはいる)、生徒は身も心も自由だった。

 ボタンを壊されたブレザーも、瞬く間に先生が直してくれた。

「ありがとうございます」

「ええ、先生は家庭科も得意ですから」

「いつも助かっています」

 家庭科のみならず、この担任は全教科が得意で、教師としても体育以外は上手に教えてくれる。過去二年間のどの教師より授業がうまいとは、このクラスでの評判だ。

「大丈夫ですか」

「はい、頭痛も吐き気もありません」

「よかった。さっきも言いましたが、具合が悪くなったら先生の所か病院へ行くように。しばらくは気をつけておいてください」

「はい、先生」

 問題が起きてもこの先生なら助けてくれる、解決してくれる。そうした安心を、私も彼から確かに得てしまっていた。たったの一箇月で。だから気が緩んだ、だから油断した。そうと理解していて、抵抗する気を失っている。

 そんなことまで考えて、けれども、――これを信頼と呼ぶのではないだろう。

 

  5

 

 一悶着を経て、班別行動は無事に終わった。あいにくと、()()()()()()()()()()()()()()はトラブル及び辞退のために中止となったが、担任と京都を楽しむことはできた。旅館ではごくあたりまえに食事をとって、風呂に入って、暗殺大会に興じる。ナイフと銃は、どちらも頼りない軽いおもちゃだが、すっかり手になじんでいた。

 ふと窓際に離れる。はめ込まれた窓の向こうに、星空が見えた。月は向きが違うのだろう。ちょうど握っていたモデルガンを構えてみる。トリガーを引いたところで、飛び出すものはBB弾だ。担任を狙えたとしても、蒸発もしない。これはレーザーガンではない。ここはアルファコンプレックスではない。だが、考えることはある。もし、ここがアルファコンプレックスだったなら、私は何色だろうか、と。

 私は銃を下ろした。もう一人、誰かが輪を離れたのに気づいてのことだ。そのクラスメートは、わざわざこちらへ向かっていて、やがて隣に立った。

「何してるの」

 窓に、見たくもない顔が映り込んでいた。らしからぬ無表情だ、と思ってしまう。それというのも、彼の捉えどころのない姿を二年も見てきたせいだった。

「空を見てたんだ」

 私は何でもない風に答えようとした。これは確実にうまくいっている。同じように映り込んだ私の顔は、私らしい表情をしている。

「銃を向けて?」

「持ってたから。構えでも確認しようと思ってね」

「様になってたよ」

 彼は視線を落とした。何か用事でもあるのだろうか、この無益な会話を続けるつもりでいるらしい。

「一箇月も訓練を受ければね」

 私は平然とうそをついた。まさか()()()()()()の積み重ねがあるとも言えない。かつて完璧なコンピュータ様の手配なさった完璧な教育ボットから、完璧で幸福な将来のための完璧な教育を施されたのだ、などとは言いたくもない。

 赤羽カルマはなかなか本題に入らなかった。ほとんど初めての世間話をしながら、機会を得ようとして、なぜか失敗している。手遊びはすれど、体は直立していて、視線もまっすぐにこちらを見ているようだが。

 用がなければ会話もないのが、この隣のクラスメートとの二年間だった。私もまた、渚君とクラスが同じだった一人だ。だが、特別な関係はない。今年に入って席が隣同士になったとしても、何も変わりはしなかった。

 共通の話題を見いだすことは難しかった。だから自然と、昨日と今日のできごとが中心となる。例えば、今日のトラブルの後、

「おみくじ引いたじゃん、どうだった?」

「人に話すと運が落ちるって、聞いたことあるけど」

「あー、気にするタイプなんだ。俺は大吉」

「小吉だったよ」

「殺せんせーもだよね」

 と、持ち出された担任は、誰より気にしそうなものを、

「大吉じゃないって落ち込んでたの覚えてる? あのとき見た」

 それを勝手に言いふらすらしい。驚きはしない。二年間、そして今年も、このクラスメートには愉快犯めいた性質がある。相手は選んでいるようだが、選ばれてしまった担任は、財布の中身を募金されたり、海外の土産を食べられたり、心中穏やかではないだろう。――こうして話したところで、私の運勢までクラスに知れ渡るかどうかはわからない。

 今日の神社といえば、折角だからと、全員で同じおまもりを買った。学業成就の神頼みは、今はスクールバッグに入っている。絵馬は書かなかった。

「明日は破魔矢に挑戦しよっかな」

「挑戦って――。木刀並に帰ってから困りそう。っていうか、しおりに先生が書いてたよ」

「マジ? あのたこに買わそうと思ってたんだけど、自分で書いてたか」

「お土産まわりのアドバイスは、体験談みたいで参考になってる」

 というか、体験談だろう。良かった物も困った物も、どれにもいたく感情的な一言がつけられていた。――のだが、自分で書いたことを覆すような買物も、今日だけで幾つか見ている。だから、

「明日はうちが朝だったのにな。残念」

 このえげつない男のえげつないたくらみも、諦めなければ目があるのではないだろうか。

 赤羽カルマと話しながら、窓に映る顔は静かだった。お互いに。他の誰かと話すように、口角を上げたり、眉を寄せたり。

 本題に移るまでには、さらなる時間を要した。土産について話して、食事について話して、明日の目玉について話して、

「俺に言いたいことないの」

 やっとのことだった。

 一方、なるほどと、私は数箇月前の事故を思い出した。暴力沙汰による自宅謹慎処分及び転級。元凶の元クラスメートは、目の前で白い顔をしていた。

 瞬時に二十を数えて、

「まあ、一つくらいは」

 でも口では控えめに。――赤羽カルマさえいなければ、私は三年E組にはいなかったのだ。

 

 昨年冬、私は無実の罪のために罰を受けた。主張して事態が良くなるなら何度だって口にしただろうが、巻き込まれただけなのである。下校中、少し寄り道をしたところで、クラスメートの赤羽カルマが喧嘩に勝っていた。

 二年どころか一年のうちから、彼は悪名高い不良だった。遅刻・相対は当たりまえ、気まぐれに欠席もすれば、喧嘩だってしょっちゅうだ。それでも定期テストは受けるし、なまじ成績が頭一つ抜けているものだから、かつての担任はあの手この手で優秀な不良をかばっていた。彼は受け持ちの生徒の成績が評価につながると信じていたのだ。この学校の根幹には実力主義がある。

 それがうまくいっていたのが、二年の冬までのこと。それまでは相手が良く、そのときは相手が悪かった。

 そのとき赤羽カルマが勝ちを得た相手は、同じ中学の三年生だった。後に姿を見せた敗者は、ギプスを着けたり、つえをついたり、包帯を巻いたりと、重症だった。現場でも一目瞭然だ。もはや立ち上がる気力もなさそうで、しかし意識はあった。そしてA組で、季節は受験シーズンと呼ぶにこのうえなくふさわしい冬。

 この学校の実力主義は、中学三年になると、形をとって表れる。例えば成績優秀者はA組に集まった。いわゆる特別進学クラスだ。というとありきたりだが、通称・エースのA組といえば、ここでは何者にも優遇される頂点の肩書きだった。

 くだんの三年生は、その中でも上の上。椚ヶ丘学園は中高一貫校で、もちろん内部進学の道があるが、外部進学を選ぶ者も、実績づくりの受験を試みる者もいる。はたまた高校生になれば、まずほとんどが大学進学を目指す。そうした輝かしい道のあることが、そこでは重要だったのだ。

 翌朝、担任はホームルームに現れず、替わりに教員室で私を待っていた。一時間めのただ中のことだ。廊下で昨日の勝者とすれ違い、訪ねた部屋は荒れていて、待ち構えていた男は自分の椅子だけを辛うじて整えていた。隣でつえをつく男子生徒には当然、見覚えがある。

「こいつです」

 彼が言った。その瞬間、全てが決定付けられた。

「こいつが見てたんです。なのに、止めも、助けもしなかったんです。同罪です」

「この――おまえの先輩は、A組のトップの、しかも三年だぞ。どうして見て見ぬふりをした。彼の実績に傷がついたら、俺の評価まで差挙がるんだぞ」

 尋ねる体をとりながら、担任は答えを待たなかった。きっと同じ言葉を一つ前にも口にしただろう。憤る彼の次の言葉はわかっていた。

「おまえは来年からE組だ! 停学だ! 二度と俺の前に姿を見せるな‼」

 この実力主義の中学校で、例えば劣等生は、三年生になると、BからDまでの無差別を過ぎてE組に集められる。特別強化クラスというのはほとんど建前で、実態は、エースのA組に対して、何者にも冷遇されるエンドのE組だ。

 

「ごめん、あんたまでE組になることはなかった」

 浴衣の男が頭を下げていた。

「いいよ」

 対する返事は心底からの言葉だ。眼前のクラスメートが僅かに身じろぐ。

 確かに絶対に、この男さえいなければ、私は本校舎のA組にいただろう。新幹線もグリーン席で、宿泊施設はリゾートホテル。まさか毎朝のように山を登って旧校舎へ通うことも、普通車両を使わされることも、いかにも寂れた旅館に二泊することもない。帰ればまた本校舎に通って、いずれ内部進学で高等部に入ったのだ。――だが、怪物を知ることもなかっただろう。

「先生に会えて良かったと思ってる」

 ごくありきたりに濁して伝えると、彼は顔を上げた。

「そのことについては、ありがとう、赤羽君」

「はあ――」

 あきれたような声に、続けて、

「――そっか」

 感情の言語化を試みて、失敗しているような。その様子は、何だか見ていて愉快だった。珍しいと思ったのかもしれない。

 めったにない振る舞いがいくら続いただろうか。窓の外に月は見えない。だから物語のように時間の経過を見てとることはできないけれど、その頃、ちょうど暗殺大会が終わりを迎えた。

「おやすみ、また明日ね」

 彼が先に言って、私は同じ言葉を繰り返した。先に背中を向けたのも彼だった。私はとどまって、再び窓を見た。そこに背中が透けていた。腕を上げる。照準を定める。指をトリガーに掛ける。背中を撃ち抜く。

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