1
静かさが売りのエアコンは最善を尽くしていた。室内の空気を最適に維持するのが役目とあって、たとえそれが一月の午前でも、命令されれば実際との著しい差を埋めた。内外の機体は必要なだけしごとをしたが、睡眠や読書を妨げたことはない。今だって、私は部屋着一枚で椅子に腰かけている。ヘッドフォンで音楽を聞いてもいたのだけれど。
読書をすると
転入早々反抗期を迎えたあの人工知能は、本体からモバイル版にいたるまで、大した問題も起こさず適切にクラスメートをサポートしていた。個人的にバックアップをとることを覚えて、端末もますます増えたという。強いて何か挙げるとすれば、懐かしき十月のことだろうか。イェラビッチを助けに行って、そこでモバイル版を無効化されてしまっただけのことではあるが。
だから何かというと、あれは、良くも悪くも決して余計なことをしないのだ。
「カルマさんからです。読み上げますか?」
この通達も設定に従っただけのことだ。ここでうなずくと、人工知能はただちにメッセージの解析を始める。差出人のデータも照合するだろう。音読時、表情や性格を再現するためだ。モバイル版以前から備わっていたこの機能は、ここにきて一段と精度を高めている。特に今回の差出人はクラスメートだから、データは膨大。とあっては、再現も完璧に近いだろう。
想像するだけで鳥肌が立つ。もちろん、私は首を横に振った。すると、画面にはメッセージだけが表示された。直前、少女のアバターは苦笑してみせただろうか。
それはさておき、読むのにさしたる時間はかからなかった。いかに内容が理解しがたかったとしても、である。最低限日本語としての体裁が整っていたのが、すこぶる大きい。さすがといえばさすが、しかしわざわざ単語を抽出して読み解く作業が発生したのでマイナスだ。
いや、そんなことは、どうだっていい。今ここで大切なのは時間だ。ちらと目をずらして、画面上部の現在時刻を確認する。午前九時。朝食を終えて二時間足らず、つまりそれだけで読書を中断する羽目になったらしい。
格好は部屋着、身だしなみは最低限、自宅から駅までは十分強。まったく、今日も今日とて、読了と食事と他最低限の生活のタイミング以外では、椅子を立つつもりもなかったというのに。
「『OK』って返事しといて」
新年最初のコンタクトは、初詣の誘いだった。
午前十時の少し前に、駅に着いた。自宅の最寄りの、である。まるで登校するように改札を過ぎて、だがそれより早くにクラスメートと合流した。ここが、最初のメッセージでわざわざ指定された集合場所だったのだ。
「あけおめー」
黒のコートが、ひらひらと手を振った。まるで通学路で会ったように。しかし当然、のぞくズボンは制服ではない。それに、通学にコートを要するようになって、ここで会うのは初めてだ。
一段丁寧に返してやると、彼は笑った。いや、ずっと笑っていたか。
「おそろいじゃん」
「いつものことでしょ。キモいこと言うなよ」
「ほんと、正直になったよね」
自分が命令したくせに。薄ら寒いことを言った男は、先導するように歩いて、逆の道を行った。
使った階段は、いつもと違うホームへ続いている。つまり番号が違う。そして方向も違う。――行き先は、椚ヶ丘の神社ではないらしい。
問えば、
「あそこ駅から遠いんだよ」
そんな答えが返ってきた。こちらを見もせずに。
確かに、夏祭りの日、かなり歩いた記憶がある。それよりは、最中に歩かされた距離の方が間違いなく大きかったが。
今、くしくも同じ相手に連れ回されようとしている。あの晩は白の浴衣だったが、今日は
何だかな。
毎朝と反対のホームに立つと、妙な心地がした。べつに、初めて利用するわけではない。一人でも家族とでも、何度でも逆方面に乗ったことはある。だが、その観点でいくと、このクラスメートとは初めてなのだった。二箇月も一緒に登校していたのにか、と考えると、また違う気はする。では、テスト後、結局登校を共にしなかったからなのだろうか。
久しぶりにこの駅で電車を待って、以前までのように会話は生まれなかった。次の電車が到着するまで、読書はともかく考える暇は大いにあった。それで、幾つかのことを考えて、ちょうどアナウンスが到着を知らせるころ、今日一番の重要事をようやく思いつく。
「他とは、どこで合流するの」
「――他?」
尋ねられて、彼は首をかしげた。何のことやら、まるで心当たりがない。それどころか、何を問われているかもわからない、と言いたげだ。しかし思い当たったのか、すぐにわざとらしく手を打って、
「二人で行くんだよ」
「は――?」
ちょうど電車が走ってきていた。轟音が、続いた反論をかき消してしまう。何とも言えないうちに、扉が開く。こんなときばかり座席が空いていた。私達は、なるべく入り口から離れた所に、並んで腰かけた。
発車しても、聞いていなかったなどという
本当の理由を避けたとしても、他に何とでも言い訳はできただろうに。本を開いて、最後にそんなことを考える。――駅から遠いだなんて、見え透いたうそだった。
2
最終的に、都の東で電車を降りた。よく初詣の様子がメディアに取り上げられる、大きな神社がある。それほど有名なだけあって、人気で、人混みがひどく、道いっぱいの行列は神社の外にまで続いていた。その最後尾に着くことを考えるとうんざりしたが、引き返すのも気が進まない。なにより、同行者にその気がなかった。
椚ヶ丘から遠く離れてしまった。どれほど通学距離が大きくても、この辺りに住む者はまずいない、と断言できるほど遠い。進学実績は確かに優秀だが、しかし何が何でも望まれるほどの学校でもない。私だって家族だって、遠ければ、簡単に選択肢から外したはずだ。そのことが、――単に人に会いたくなくて、この神社を選んだわけでもないだろうけれど。
列は頻繁に動いた。少しずつの移動を繰り返すので、読書で暇を潰すことができない。それどころか、少しでも目を離せば、もしかするとはぐれる恐れもあった。
「めんどくせー」
わざわざ選んだくせに、たった一人の同行者は、そんなことを言った。まったく、文句を声に出すくらいなら、メッセージなど寄越さなければよかったのだ。それとも、いや、椚ヶ丘の神社に行くという選択肢はなかったにしても、もっと小さな神社を選ぶとか。
「ここ選んだの、おまえなんだけど」
「せっかくだから、でかいとこに行っとこうと思って」
「まあ、学業の御利益はすごそうだな」
「あんたには関係ないだろうけどね」
「呼び出しといて、よく言う」
列が進んだ。
「――何で来たの」
まるで応じてほしくなかったような物言いにも、不愉快さは感じなかった。
「呼び出されたから」
彼は歩みを止めた。
「そうじゃなくてさ。急な呼び出しだ、正月だ、そもそも受験生だ――って、ほら、三つも」
誘っておいて、本当に来てほしくはなかったらしい。
「冬休み引きこもってたら、クソほど心配されたんだよ」
今朝の食卓でも家族に予定を聞かれた。首を横に振ったとき、どんな顔をされたことか。それこそ彼の挙げたうち二つを理由に挙げてみたけれど、明日もまた聞かれるだろうことは想像にかたくなかった。
思い返せば、今年いや昨年は、何かにつけて学校に通っていた。模試があろうがなかろうが、土日だろうが夏休みだろうが。半分は勉強で、半分は暗殺だ。それでなくとも、クラスメートと休日を過ごすこともあった。もちろん他言無用の国家機密なので、暗殺の部分は勉強と遊びとの半々でごまかしたのだが。
比較すると、あまりの落差だ。冬休み前に何かあったのではないかと、余計なことを考えてしまうのも無理からぬ事態か。実際
「あっそ」
返事はそんなものだった。隣でどこか納得したような顔をする。だが奇妙に、落胆したようでもあった。――理由はすぐ知れた。
「まさか来てくれるなんて、思ってなかったんだよね」
また列が進む。
「誘っといてそれかよ」
乗っかったのは私だが。だが、私も納得した。
「――急な用件だったのは、そういうわけか」
「三十分後なんて、まず無理だと思ってたんだけど」
「そりゃ、当てが外れて残念だったね」
「ほんと」
失礼なやつめ。教室から離れたかったなんてことは、言う気もないくせに。
「てことは、渚君やら寺坂君やらには、声をかけてもないわけだ」
「――わざわざ言わなくてもよくない?」
「うるせえ。おまえなら言うだろ」
列が進んで、鳥居を通った。
先生は「死神」と呼ばれた殺し屋だった。直接聞かれてもはぐらかした答えを、冬休み直前、終業式の夜に自ら明かした。生徒も教師もひっくるめて、クラス全員の前で。二年弱の人体実験から弟子の裏切り、そして生い立ちにまで話は及ぶ。どうして怪物になったのか、どうしてこの教室に来たのか。
話させたのは茅野さんだった。なんと、彼女も改造人間だったのだ。などとは、またも白々しいか。ともかく、彼女にも様々な事情があって、それがE組と無関係でなかったがために、元死神は話さざるを得なくなったというのが実際だ。
先生の過去を知ると、クラスメートは一様に呆然として、そして、それから静まり返っている。事務的なやりとり以外、音沙汰なし。直前に企画されていた、冬の暗殺旅行も当然立ち消えだ。ここにきてようやく、あの先生を殺すことの意味を考えてしまったらしかった。
鳥居を過ぎると、道が分かれた。細く脇道にそれていく流れは、手水舎へ向かうものだろう。全員が清めているわけではない。私も、冷たいからしたくない。家族で来たらやるけれど。
「え、やらないの」
「え、やるの」
彼は僅かに眉を上げた。さも意外そうに。
「こういうのめんどくさがる人だったんだ」
「こっちの台詞なんだけど」
おまえこそ面倒臭がるだろうと思ったよ、私は。――同じ顔をしていただろうか。鏡がないので確認ができない。けれど次、カルマは笑った。
「いいじゃん、最後かもしれないんだし。やらね?」
このところ、よく笑顔を見る。否。カルマはいつも笑顔だ。というのも語弊があるか。よく笑顔を作っていて、だからといって笑顔が似合うなどと紹介されるようなことはなくて、仮にその表情が言及されるとしたら、気味の悪い笑みを浮かべている、とか。処世術の一つなのだと、私は見切りをつけている。だから、笑顔だからと、というより笑顔のときこそ疑ってかからねばならない。
しかしこの笑顔は本物なのではないかと思う。多分。確信でないのは、――こうしたことは渚君の得意分野なのだ。まあ、ミュータントパワーを使えば、その限りでもないが。今は使う気も起きない。
「オーケー、やるよ」
最後の初詣など、余計に私以外の人間と来ればよかったものを。暗殺しないにしても、それが友人でないにしても、家族と新年を過ごす選択肢だってあったはずだ。両親は年中旅行をしていると聞くが、だとしても正月くらい家にいるだろう。もったいないことをしたな、こいつは。断られたくて、これが最期になるなんて。
地球の命日は、もう決まっている。今年の三月十三日。くしくも椚ヶ丘中学の卒業式と日を同じくしたわけだが、その日のうちに、マッハ二十の先生は反物質蔵として死を迎えることになっていた。月の爆発で判明したことだ。月では細胞の老化の影響を調べるための実験が行われていて、それが最悪の形で結果を出したのが、昨年の事件の真相だという。
彼に着いて、冷たい水に手をぬらした。左手、右手、左手を口に、そして左手を再び清めて、柄を洗って。かじかむ手をもみながら、また細長い列から流れに従った。列はゆっくりと進む。にぎわいの中で、賽銭箱が近付いた。もう数十人の先で、絶えず小銭の落ちる音がする。
「五円玉ある?」
「ある」
「最後になんかしない」
隣でカルマがつぶやいた。
「殺せんせーは、俺が殺す」
私たちを先頭にするところで、烏帽子の男が道を阻んだ。やや道を空けた所で、箱に向かって、人間が腕を振り上げ、頭を下げ、手を合わせ、そして少しずつ左右に分かれていなくなる。そこに誰もいなくなると、今度は私たちの番だった。
握りしめた五円玉を、適当に放った。ちょうど隣人のものと合わせて、奇麗に箱の中へ落ちていく。示し合わせたわけでもないのに、二人でそろって姿勢を正して、会釈をした。まるで月の全校集会のようだった。教室では朝に几帳面な礼などしない。日直の合図に合わせて、それなりの作戦に沿って、皆ナイフと銃を構えるのだ。渚君はどこからでも姿を現すし、床や天井をラジコンが走るし、固定砲台は体内で武器をこさえて、カルマはやっぱりよくわからない所を狙う。さすがに奥田さんは薬物を投げないけれど、爆薬も飛び交わないけれど、煙幕は張られる。点呼が終わるまで続く。殺せないから。
先生が死ねばいいと思っている。地球が一緒に破壊されるのでも、それならそれで構わない。私は二度とあの地下都市で目を覚ましたくない。死の直前までの記憶を御丁寧に移植されて、それでも以前の自分とは別人だと言わなくてはならなくて、思想も何もかもほとんど変わってはいなくて、また蒸発する。たったそれだけの命。クローンが尽きるまで続く。それだけだった。
頭を二度下げた。両手を胸の高さで二度打った。そのまま目を閉じて、両手を下ろした。最後に頭を上げると、右隣にカルマが見下ろしている。教室と同じだ。ここは学校でもないのに。
会釈をして、そこを離れた。
「ありがとう」
口にすると、少しだけすっきりした。隣人が足を緩めた。
「どーしたの、急に」
「誘ってくれなくても初詣は行ったけど、おかげで面倒が一つ減ったから」
顔を合わせて、カルマは目蓋をぱちくり動かした。にたりとした笑みが浮かぶ。これは無条件に信用できないやつ。
「あっれー、なに? テストんときのこと忘れた?」
「忘れるかよ。クソほどむかつくけど、それはそれ」
これはこれ。
「へえ。そうだ、お守り買ってこーぜ」
「受験生だしな」
――いつまでも記憶を消せずにいることも。
3
お守りとか言いながら、店の出ているあらゆるものを眺めて回った。それぞれ適当に目当てを買って、ついでにおみくじも引いた。二人共大吉だった。そうして気づけば、もう鳥居をくぐって、また砂利を踏みつけている。
時刻は昼過ぎ。
「狭間がさ、この間呪えたらしいんだよね」
「それマジなんだ。いや、狭間さんが呪術を好むのはわかるんだけど――。あー、プラシーボ効果みたいな? あの体、かなり感情に左右されるんだったか」
「らしいよ。でさー、破魔矢効くかな」
破魔矢。この男、破魔矢には並々ならぬ執着があるようだ。修学旅行のときは先生に買わせようとしていなかったか。というか買わせていた。先生も結局、自分で土産のアドバイスをしながら、木刀も買っていた。
さておき、矢自体は武器だから(破魔矢がどうかはともかく)、矢尻を対触手物質に変えれば先生にも通用するだろう。あとは、先にそれらしく『魔』と断じてみれば、魔よけの分までダメージを与えられるかもしれない。
などと話すと、カルマはからからと笑った。かと思うと難しい顔をして、そして無表情にかばんから何かを取り出した。神社の売店の袋だ。大きさからして、中身はお守りだろうか。
「これ、やるよ」
「自分のは買ったよ」
「おまえが買ってないやつ」
というと、学業成就以外のお守りだろうか。それともお守り以外の物だろうか。意図がわからないので、開けてみようと思う。
尋ねてみたら許可が下りたので、遠慮なく開ける。口からのぞいた分には、やはりお守りらしかった。白色の。それを慎重に手のひらに転がして、金色の刺繍を見つける。
「何これ」
思わず口走った。
「見たまんま」
悪びれず、カルマは答えた。
「
「今三十でしょ。でも中三だから、結婚できるころには四十じゃん。相手を探すの難しそうだと思って」
うそみたいな思いやりだ。うそ。クソみたいなお節介だ。
「余計なお世話だわ。結婚なんかしねえよ」
結婚せずとも子はなさぬ。ミュータントの子孫など残してなるものか。かつての惨状からうかがい知るに、ミュータントパワーは確実に遺伝するのだ。
「じゃ、そういうことで」
「いや、いらないって」
「飯食わない?」
「聞いてねえな」