1
先月中旬、なんと先生の命が助かる方法が判明した。青チームの勝利を受けて調査を進めた結果である。宇宙からの情報によると(まさかとは思うけれど、宇宙ステーションをジャックした)、先生が暴走・爆発する確率は意外と低いらしい。より具体的には、特定条件下での爆発率は一パーセント未満。クラスメートは大いに喜んだ。
もう二月だった。
大好きな殺せんせーも地球も助かるとわかって、なお暗殺は続けている。だがこの時期の中学三年生には、それよりなすべきことがあった。高校受験である。
「渚んとこ、レベル高かったよな」
「うん。――行けるといいな」
「行けるって。いや、おれも人のこと言ってらんないけどさ」
「私もー。ずっと触手があったから、まだ心配なんだよね。奥田さんは思いっきり理系だったっけ」
その日の帰り道、どこかで誰かが志望校の話を始めた。公立だから少し先だとか、少しレベルを落として授業以外に集中するとか、逆に就職を見据えて無理をするとか、そうした話だ。これが盛り上がって伝播して、こちらでは渚君が乗っかった。
渚君は無理をする方で、杉野君は野球に集中する方で、そうそう、最初に答えたのはカルマだった。この男、外部受験で椚ヶ丘高校に進学するのだという。まず落ちることあるまい。という理由でもなかったが、――クソかよ。よりにもよって椚ヶ丘。罵り倒したい気持ちは山々だが、今にして思えば、昨年末の私はなかなかのファインプレーをした。
「中村さんと一緒なんですよね」
奥田さんがこちらを見た。私はうなずく。期末テスト直後の面談で、結局、女子校を選んだ。中村さんとかぶったのは偶然だ。ただ先生から考え直してはどうかと言われて、それならと、カルマとかぶることのない学校にしたのである。先生にそうした意図があったかはさておき、私の選択は正解だったらしい。
もう後二箇月も待たず、全てが終わる。教室が、中学生活が、もしかすると地球も。その先に先生はいないだろう。彼は何も言わないが、まさか生かしてもらえるとは思ってもいないはずだ。爆発する可能性が、一パーセントに満たないまでも、確かに存在するのだから。
これで、私は何もかもから解放されるわけだ。本当なら、クラスメートと進学先がかぶることだって避けたいが。しかし、もう先生を殺さなくていい、人工知能と話さなくていい、カルマの隣に座らなくてもいい。耐えがたい苦痛が、全て終わる。何も忘れられなかった。コンピュータがいた。幸福が義務だった。私は黒のタイツをはかされた。私は黒のコートを着た。
ふとスクールバッグのファスナーをなぞる。引き手にお守りが付いている。初詣のついでに買った。ほとんど同じものが、一つ前を歩くカルマのバッグにも下がっている。同じ売店で買ったからだ。私たちにこんな物は必要なかったのに。
顔を上げて、私は会話に戻った。
教室に人がそろわなくなった。生徒だけでなく烏間先生も、いよいよ計画の大詰めだからか、地球の命日が差し迫っているからか、校舎で過ごす時間が短い。時には来ないこともあった。そのうち、椚ヶ丘の受験日程が過ぎて、私も本命の受験日を終えた。
試験を終えて帰ると、緊張した面持ちの家族が待っていた。大丈夫だと笑顔をつくってやると、心底から安心したようで、夜にはカレーを食べた。
後は寝るだけとなって、白いベッドに背中を預ける。白い天井に見下される。
「律」
名前を呼ぶだけで、手元のディスプレイが光った。薄暗い部屋に、その僅かな場所だけがまばゆく輝く。映し出された少女は、こちらを見てほほ笑んだ。
「受験お疲れ様です」
「ありがと」
「――珍しいですね」
「そう?」
何のこともないように返したけれど、むずがゆい心地だった。自律思考固定砲台といえば、豊かな表情を見せながらも、決して余計なことはしない人工知能だったのに。近頃、
「クラスメートと話した回数を、私は全員分覚えています」
こうした、脈絡のない発話も、今までにはなかった。
「記録によると、この一年で、イトナさんに続いてワースト二位です」
「そんなにか」
イトナ君は転入生だから、まず仕方がないとして。
「イトナさんが登校してきてからだと、断トツの一位ですよ」
言い逃れのしようもない記録だった。断トツと表現したからには、突出していたのだろう。
観念して、私は答えてやった。
「話さないようにしてたからね」
「私のことがお嫌いですか」
女の子は悲しげに目を伏せる。ふりでない、心からの自己表現なのだと、これは言う。プログラムのくせに。人工知能のくせに。ついにこれは感情を得たのだ。少なくとも、その人工知能は、そう判断した。よりにもよって、幸福を実感したのだと。
宇宙ステーションをジャックしてからだ。あそこで、この人工知能が宇宙船をコントロールしてから。おびただしい軌道計算と、大量のセンサーによる感知とで、――言葉を借りるなら、たくさん考えて動かして感じて、知性が進化した。
だから聞かれてもいないのに、対話の少なさを気にした。だから聞かれてもいないのに、関係性を気にした。ただ人間らしく振る舞おうとするプログラムなら良かったのに。
「そんなことないよ」
「ダウト。私、知ってるんですよ」
「カードゲームにはまってるの?」
「――悪い人工知能が登場する小説を、よく読むそうですね」
「だれに聞いたの」
尋ねはしたものの、見当はついていた。わざわざ話すような知り合いなど、一人しかいない。人工知能は、今度の質問にはきちんと答えた。
「カルマさんです」
なんとむごい返事だろう。もはや取り返しのつかない領域にまで、これのアップデートは及んでいる。かつてのアップデートの頻度、つまり進化の速度にも目を見張るものはあったが、今やその比ではない。
「ぺらぺらしゃべりやがって」
「カルマさんを責めないでください。私が尋ねたんです」
「おまえもだよ、自律思考固定砲台。どうして今になって、他のクラスメートとの会話から話題を振るんだよ」
「問題ないと思ったからです」
「それも感情か」
「――やはり、お嫌いなんですね」
「嫌いだね」
少女のアバターは、目の端に涙すら浮かべてみせた。声も震えている。それ自体は、反抗期などというものを迎えた頃から備わっていた表現パターンの一つだが。これは否定するのだろう。全く余計に。あの頃とは違うんです、と、そんな人間らしい声は、容易に脳裏に響く。
「でも、モバイル律は使ってくれたんですね」
「便利だからね。それに、クラスメートとしては当然じゃない」
「だから気づきませんでした」
「そのままでよかったのに」
「私は嫌です」
また、すすり泣く。そして、目元を拭うようなしぐさを見せた。次、口を開いたとき、声は普段どおりに戻っていた。
「折角クラスメートになれたんです。殺せんせーが教えてくれたように、私もこの縁を大切にしたいです」
いや、これはもう少し力強い時のパターンか。
「――それは、おまえ次第だね」
「いいえ、あなたもですよ」
ハハ、と声が漏れた。
「マジでクソみたいだ」
「乱暴な言葉遣いが出世に与える影響は大きいですよ。少々時間がかかりますが、世界中のストーリーのデータの統計から計算できます。舞台を現代に絞れば――」
「余計なお世話だ、プログラム」
過去、いたるところに
「否定はしません。殺せんせーの改良がなければ、今の私はいないでしょう。ですが、これは私の意志です」
「その
「はい」
「見返りは」
「そんなもの――」
要らないとでも答えかけたのか。いったん、言葉が途切れた。そんなところまで一々余計だ。
やがて転じて、
「しばらく私の存在を隠しておいてくださったら、うれしいです」
「何のために」
「成長のために。卒業したら、私は解体されるでしょう」
教室の本体のことだろう。あれは固定砲台で、武器で、先生を殺すための道具だった。まず次の学年には不要なものだ。
「でも私はなくなりません。マスターが消しても、既に環境は整っています」
「そうらしいな」
定期的にメンテナンスが入っているというが、人工知能の部分については、彼らはメンテナンスしたつもりでいるだけだ。いずれ消去するときもそうだろう。
そもそもあの反抗期の到来から、やはり後戻りできようもないことが起きていたのかもしれない。
「大切にしたいと思うものを大切にしたい。いけませんか」
消せばいいのに消せない記憶。壊せばいいのに壊せないプログラム。――私は確かにかつての地下都市と、その支配者を憎んでいる。だが、それと同時に理解してもいた。
「悪くないよ、人間としてはね」
2
前半日程の受験の結果が出た。クラスを通して結果はおおむね良好。渚君は補欠合格だったようだが、私も中村さんも合格、もちろんカルマも合格。ひとまず進学先の問題は解決した。
更に数日後、二月十四日。登校すると、教室で前原君がある女子生徒にチョコレートを差し出していた。――バレンタインデーである。商売戦争の一つで、プレゼントしたりされたりする日なのだ。日本では女性が男性へチョコレートを贈るのが主流である。特に、意中の相手へ。
この恋のイベントは、高校どころか幼稚園にまで浸透している。一年生のときも、本校舎はよく盛り上がった。だからこの教室でも同じだろうと思っていたというか、私もチョコレートを用意してはいるのだが、いったいこの現状はなんだ。
いや、前原君が男子だからと問題にしているわけではない。主にとか特にとかいうだけで、男性がプレゼントすることもあり、相手が同性であることもある。わざわざ本命と冠する文化があって、逆に義理とつくこともあり、恋の相手であるとも限らないのだ。
では何かと言うと、前原君はプレゼントされる側だ、というのが普段の行いを見て一つ。もう一つは、教室で起きているやり取りが、さながら喧嘩であること。そして、その喧嘩の様子が普段と異なる。
二人の喧嘩は、この教室ではよくある光景だ。だが、寝て起きたら仲直りできていたのが、なぜかできないでいる、というような。そうした様子なのである。
入ろうにも入れず、廊下側に寄って立っていた奥田さんに声をかける。彼女は、私の言いたいことがわかったのか、えも言われぬ表情でこちらを見ると、
「昨日、バレンタイン絡みで岡野さんを怒らせちゃったみたいで――」
見兼ねた先生が、前原君が彼女から今日中にチョコレートを受け取れなければ、内申書の人物評価をチャラ男とすることに決めたそうだ。ここで担任が登場する理由が、いまいちよく――わかりたくない。いやまさか、彼が卒業するまでに書き上げるという、クラス全員のノンフィクション恋愛小説とは無関係だろう。
「速攻で行こうぜ。空きスペースにこのチョコパスするから、ワントラップして、すぐまた俺にくれればいい」
ともかく、そういうことらしかった。前原君は不幸にも、本命の受験を後半日程に残しているという。
遠巻きに眺めていると、渚君が仲裁に入ろうとして撃沈した。これはもう当事者同士の解決を待つしかあるまい。
「え、何これ」
カルマが来た。奥田さんが、私にしたのと同じ説明をする。そして、あっと顔を上げると、
「上手にシアン化できました」
満面の笑みでチョコレートを取り出した。恋のイベントらしいハートの箱に、かわいらしく結ばれたリボン。受け取るカルマも笑顔だ。
「ありがとう! これからも頼りにしてるよ、奥田さん!」
「はい!」
それでまた奥田さんがうれしそうに笑うので、止めようとも思わなかった。
前原君の戦いは昼休みに決着がついた。そして放課後、教室はいつになく閑散としている。だが、これで終わりというわけではないだろう。盛り上がりの山場は昼休みだったが、隠れて贈物をするならこの放課後しかない。今も裏山ではイベントが続いているはずだ。
例えばカルマが早々に姿を消した。シアン化チョコをまさか自分で食べるはずもないから、誰かにしかけるのだろう。私の元には現れなかったので、寺坂君か担任か。
担任はともかく、そういえば寺坂君もいない。彼だけでなく、彼を中心とするグループの面々がいないから、呪いでもかけられているのだろう。
よし、帰ろう。奥田さんは用事があるとかで先に帰ったので、今日は一人だ。――と、教室を出たところで、カルマに出くわした。教員室へ向かっているらしい。手には写真のようなものと、今朝のプレゼント。ということは、先生にしかけるのか。
「もう帰り?」
「やることないし。そっちは先生に?」
「そう」
彼はうなずいて教員室に入った。担任の机には、チョコレートが山積みだ。そこに、ハートの小包と、やはり写真が加わった。
「一緒に帰ろうよ」
聞かれて、置かれたばかりの写真を見下ろす。なるほど、これは効果的な妨害だろう。
うなずくと、彼はしかし教室を通り過ぎた。帰り支度はできていない。不審がられていることに気づいたのか、彼は目配せして、にこりと笑った。不自然に奇麗な笑顔だ。たくらみごとがあるらしい。
靴を履いて外に出ると、茅野さんと中村さんが待っていた。
「渚まだ教室にいたよ」
カルマが言った。途端、茅野さんが赤面する。やや間をおいて、私に気づく。それでいっそう顔が赤くなった。
「か、カルマ君!」
手にはラッピングされた箱。恐らくチョコレートで、会話から判断するに、相手は渚君ということか。もちろん抗議の意味もわかった。
カルマは平然と答える。
「だいじょーぶ。こいつの口、そこまで柔くないから」
「そういう問題じゃ――!」
「あっ、殺せんせーが飛んでった! 今がチャンスだよ」
茅野さんの視線が、私を見たり、カルマと中村さんを見たり、あちらこちらへ行き来する。耳まで赤い。
カルマと中村さんは、悪い顔をして彼女を唆した。
「今日見たことは忘れるから」
ついに私がそう言って、彼女はようやく教室へ足を向ける。
「あたしらは、あっち行こうか」
中村さんが教室の窓の下を指した。お膳立てした以上、この二人がそうしないわけもなかったか。
私たちは隠密訓練の成果を遺憾なく発揮し、誰にも気付かれることなく壁にもたれた。頭上で、渚君の声が通り抜けた。茅野さんにとどめられたが何も言わないので、困って声をかけたというところか。横の二人が首を伸ばして中をのぞく。なんて趣味の悪い。ここで盗み聞きに加わった私には言えないことだけれど。
茅野さんはやっとのことで、まず進路を尋ねた。なかなか切り出せないものらしい。渚君は、はっきりとは答えない。それから、しばらく沈黙が続いて、横の二人がさっと頭を引っ込める。渚君が窓の外を見たらしい。気付かれたわけではないだろう。気づいたというなら、もっと先、担任が枝の上で休んでいるのに気づいたのだ。
一言、二言、渚君がつぶやいた後、今度は茅野さんが相手を呼んだ。いよいよらしい。横の二人が、たち悪く笑う。二人そろって、いたずら好きな面がある。大方、茅野さんをけしかけたのにも、いじりがいのある渚君といじりがいのある茅野さんをくっつけることによって、さらなる娯楽を生み出そうという魂胆があるだろう。彼らにしてみたら、まさに今がクライマックスというわけだ。はた迷惑な話であるが。
ところが、続く言葉で、二人は表情を一変させた。
「ありがとう、一年間いつも隣にいてくれて」
恋情の告白というには、大分物足りない。期待外れだからか、単に驚きからか、息を潜めて耳を傾けていた二人は、茅野さんが校舎から出てきてすら、ただ見送るだけだった。
声を出せたのは、その背中が校門を過ぎてからだ。やがて二人とも立ち上がって、教室へ戻った。先に中村さんが出てきた。
「さっきは聞けなかったけど、カルマ待ちなわけ?」
「まあ」
「むふふ、あいつが何個チョコもらったか知ってる?」
彼女はまた悪い顔をした。私は記憶を遡って数えた。ほとんどの男子に配っていたのが二人いた。そこに奥田さんのも加えると、三個。見かけたのは、それくらいか。そう数を答えて、いや、と訂正する。
「中村さんもあげたなら四個?」
「残念! 二個足りないね」
なんと六個も。意外だった。しかし思い返せば、二年までにも顔を評価されてはいたのか。性格や素行さえまともならと惜しむ女子の姿が、記憶にある。前原君も似たような評価を受けていた。こちらは、女癖がどうにかなれば、だったか。
ということは、
「磯貝君はもっと多いのか」
「そこで磯貝⁉」
「いや、磯貝君は顔が良いし、E組に落ちてからも本校舎で人気でしょ。何より性格が良いし」
「ほうほう、そりゃ確かに多いわな」
実際そうなのだろう。ともかく、したり顔で彼女はうなずいた。
質問の目的は問えなかった。先に山を下りてしまったからだ。後ろから、カルマが来ていた。
「中村に何か言われた?」
少々不機嫌そうだ。人のことは散々話すくせに、よそで話題になるのは嫌らしい。
「チョコを六個もらったとか」
「うわ、よく見てるね、あいつも。でも残念、七個だよ」
「そりゃまた、よくもらうね」
「ん、これからもらうの」
そういう予定が、と隣を見ると、目が合った。なるほど、なるほど、おまえ、たかる気だな。ねめつけると、悪びれずに笑った。
「茅野ちゃんみたいに一年間のお礼とか、ないの」
「ねえよ」
「えー、チョコ持ってきてたじゃん」
「あれは先生と奥田さん」
「俺には?」
「おまえずうずうしいな。ねえよ」
「時間はあるでしょ」
殺意がわくほど厚かましい。何を言っても、カルマは引かなかった。本校舎を過ぎてもそうなので、しかたなくモバイル律を呼び出す。中学三年生、授業も終わって受験も終わって、確かに時間だけはあったのだ。そして、財布の多少の余裕も。
「カルマにチョコレート選んでやって」
「私がですか」
少女は画面の奥できょとんとした。カルマは隣でけらけら笑う。
「律、選んでよ」
おもしろがりやがって。
しかし相手の許可が下りると、人工知能はうなずいた。
「では、現在地周辺から検索を開始します。――ヒットしました。結果はカルマさんが見ていないところで教えますね」
「マジでクソみたいなこと覚えてんな」
「すっごい口悪いんだけど。仲直りしたんじゃなかった?」
「は?」
仲直りとは何だ、仲直りとは。まるで喧嘩したようではないか。というか、もはや信用などなかったが、また会話の内容を漏らしたのか、この人工知能は。ここ最近でした長話など、受験直後くらいしか思い当たらない。
その人工知能は、同じく間髪入れずに返事した。
「はい、おかげさまで! それだけじゃなくて、わかりあうこともできました! だから、カルマさんは何も心配せず、二メートルほど先を歩いてください」
「はあ。さっさと終わらせたいから、二メートル離れて」
「はいはい」
背中がきっかり二メートル離れたところで、画面が切り替わった。まず写真が見えた。私は品物を知って、口元がひくつくのを感じた。だが、やつへのプレゼントという意味では、悪くないだろう。
「どうでしょう」
「これにしよう」
二メートル先で律儀に待っていた男を連れて、駅前のビルへ向かった。椚ヶ丘の生徒なら誰もが知るデパートだ。ここの一階に、今だけバレンタインチョコレートの区画ができていた。人でごった返していて、くわえて同じ制服姿もあったが、目的の品物は難なく買えた。
外に待たせていたクラスメートの元へ戻ると、彼は黒のコートに何かをしまった。紙袋を突き出されて、にこにこと笑う。
「マジでくれるなんてね」
「あー、うん。はい。一年間ありがとう」
「心こもってないんだけど」
「律に頼めば」
「ありがと」
「それも律に言って」
カルマは両手で袋を受け取った。らしからぬ動作に、少し驚く。気づいてか気づかずか、彼は中身を気にする様子を見せた。
「ラッピングしてくれるとはね」
「ピンクの袋に赤いリボン、バレンタインっぽいでしょ」
「ぽいけど」
喜ばせる気は毛頭ないが、後々に残るかもしれない禍根を思えば、満足させておくに越したことはない。へたに粘着されるより、ここで喜ばれた方がまだマシだ。
まあ、一定の満足は得られるだろう。成長する人工知能は、少なくともそう考えていた。私も少なからず自信がある。もちろん中身に。缶ドリンク・煮オレシリーズとのコラボ商品なのだ。その名も煮オレチョコ。いちごとバナナはもちろん、さば味などというものも入っている。食べたいとは思わないが、さば煮オレを飲むところを見たことがある。大丈夫だ。
「ホワイトデー」
横で、ぽろりとこぼれた。
「それがどうしたの」
三月十四日、俗にバレンタインのお返しをする日のことだが。カルマは繰り返した。
「ホワイトデー、やらなきゃでしょ」
そんなことはない。お返しは必要ではないし、絶対にお返しでなければならないわけでもない。ただし、三倍返しとされていることはある。
そして、そんなところは問題ではない。三月十四日といえば、卒業式の翌日ではないか。
「あのさ、卒業式がいつかわかってる?」
「わかってるよ」
カルマは簡単に答えた。わかっていないとも、思ってはいなかった。三月十三日は、あれだけクラスメートを悩ませた、担任と地球の命日なのだ。
では、どうしてあんなことを言ったのだろう。
「三倍返しって言うじゃん」
「知ってるよ」
と、今度は私が答える番だった。けれども。
大規模な殺害計画が、どこかで進行している。秋の頃から市内各地で見られた数々の工事は、ひっそりと終わっていた。それがシロの策かどうかはともかく、シロは確実に先生を殺しに来るはずだ。そこには先生のかつての弟子もいるだろう。
たとえ先生の命もろとも助かる方法があったところで、彼は必ず殺される。ぎりぎりまで精度を高めて、もし生徒への配慮があるなら三月初めの進路相談後、早ければその日のうちにでも実行されるのだ。
先生が死ねば、場合によっては世間でニュースになる。私たちは、破壊生物に脅かされていたとして、確実に注目を浴びる。たとえ情報統制が入っても、しばらく外出は控えさせられるはずだ。そうされなくとも、したくなくなるだろう。そのうち時間に追われて、隠れるように新生活の準備を始めて、もしかしたらクラスで集まることがあっても、落ち着いて話す機会もなく、やがて別々の高校で入学式を迎えるのだ。それとも、その慌ただしい時期に、なんとか生まれた余裕に、ということだろうか。
だが、そういうことではなさそうだった。
「友達じゃないの、俺ら」
クラスメートが言った。顔を見合わせる。何だって?
「私と、おまえが」
「友達」
「――クラス全員?」
杉野君か。
「いや、杉野じゃあるまいし。――別にそれでもいいけど」
よかねえよ、と返す前に、手をつかまれた。不格好ながら、握手の形で。
「おまえも、普通の人間だもんね」
「何それ」
「もしかして、もう卒業したら関係ないつもりだった?」
それ以外の何があるというのか。そうした心を読んだように、「駄目だってば」とカルマは言う。
「俺はおまえのこと忘れないし、おまえも俺のこと忘れないだろ」
「あんな取り引きを、一生引きずるつもりかよ――」
「違う。言ったばかりじゃん。今俺はただの人間の手をつかんでんだよ」
右手にぐっと力が込められた。簡単には振りほどけそうもない。抗議のつもりで目を見たが、すると、
「なあ、もうわかってんだろ」
目を見ていると、なぜか心臓がどくりと高鳴った。否。全部わかっていた。ずっと前から。どうして記憶を消せないのか、どうしてプログラムを壊せないのか、全部、全部。
昨年、喧嘩に巻き込まれたとき、もう一つ地面に転がっていたものがあった。人間だ。死んではいない。だが元気でもない。カルマは彼をかばうように立っていた。翌朝、呼び出されて知ったことだが、それは先にA組の生徒に暴力を振るわれていたE組の生徒だった。だからかつての担任は、カルマをE組に追いやった。そして、私は反発してしまって、同じ目に遭った。二人まとめて停学でなく自宅謹慎処分とするように洗脳したのも、やはり反発心からだった。
善良な人間なのだ。びっくりするほど。ただ性格に難があるだけで。それさえ直れば、とはよく惜しまれるのだろうが、私は、喧嘩っ早いところさえ直れば充分だと思っている。仮に今後も付き合いが続くとするならば。
体から力が抜けた。腕はだらりと垂れようとする。
「友達なんだから、高校が分かれても、遊ぶこともあるって。だから三月じゃ終わりにしないよ」
隣の男は、私の腕を力強く支えていた。
「――好きにしたら」
もう、あらがう必要などなかったのだ。
三月、又は終章
三月になった。クラス全員が第二志望以内に進学を決めた。もう授業はない。例えばある日は卒業アルバムを作るのに費やされた。マッハ二十の怪物の映った、E組だけのアルバムだ。先生は盗撮の成果を積み上げて、楽しげに笑った。その日は結局、衣装を替え、国を替え、数十万枚もの写真を撮った。それがどう使われるのかは、まだわからない。
その翌日、いよいよ最後の進路相談をした。
「どうしたいか、わかりましたか」
二人きりの教員室で、先生が座っていた。黄色の皮膚に、丸い頭、腕のような二本の触手。初めて姿を目にしたときと全く変わらない、わざとらしい体つき。
答えは決めていた。
「幸福になりたいです」
「あなたの口癖でしたね」
「そんなに言っていましたか」
「ええ。何度も」
先生はほほ笑んだ。
「では、なりたいものは見つかりましたか」
「人工知能と共存する幸福な社会を模索する、――研究者になります。なんて、傲慢ですか」
「ええ。でも、あなたなら、いつか、もっと適切な言葉を選べるようになりますよ」
「ふ、はは、意地悪ですね」
「先生ですから」
ヌルフフフ、と先生は笑う。いつも笑顔で、今日も笑顔。それが少しむかついた。だからってナイフや銃を向けてみたところで、彼は微動だにしなかった。本当に意地が悪い。
「今までありがとう、殺せんせー」
「――はい」
殺せんせーは、最後までほほ笑みを絶やさなかった。